2008〜2012.09.25
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微睡みから覚めた自分の隣で、穏やかに寝息を立てる男の顔が普段見ているものよりもずっと幼く見えて、依子は笑みをこぼした。
顔が綺麗なのよね、この人。
狗朗(おとうと)や紫ちゃん(あに)みたいな子ばかり集めて、美的感覚がよく麻痺しなかったものだと素直に感心する。
起き上がろうにも、自分の腕よりも一回りも二回りも逞しい——一言の体格が立派過ぎるのではなく過酷な稽古の結果、必要最低限しか筋肉がつかなかった依子の四肢がやたらと細いのもあるが——腕が依子の腰に抱き寄せるようにして覆い被さり、起き上がることができないので依子は一言の美しい顔を見るしかないのである。
こうして顔をジロジロ眺めていることも気配で簡単にばれてしまいそうな予感と、三輪一言という男がもしかしたら己の前で安心して眠ることか出来るのかもしれない、という事実への充足感のどちらを取ればいいのか。
一言がよくするように顎に指を添えてすこし逡巡して依子は後者を取る。
多くの願望と、僅かな確信と、それから長年の経験が依子に後者を選択させた。
まつ毛の長い男の顔に触れずにじっと眺める。
ずっと続いて欲しいこの時間が、普通の恋人や夫婦よりずっと短く限りあるものであると依子は知っている。
それも最期はただの離別ではなく、死による永遠の訣別として。
寝る時間も惜しいと言えば、大袈裟かもしれない。
けれど、一秒でも長くこの時間が続くようにと依子は心の中で小さく祈る。
『祈りは力になる』
まだ紫がいて、クロも自分よりずっと背丈が小さかった頃に一言がそう語っていたことを思い出す。
あれは何をしていた時だっただろうか、一番鼻で笑いそうな兄弟子がその時だけは一言の言葉を否定しなかった。
今日のように寒い冬の、今とは違う昼下がり、雪の積もる縁側での語らいだった。
弟弟子はキラキラと今と変わらず目を輝かせて、兄弟子も決して否定することなく、あの人の輝きをじっと見ていた。
疑っていたのは、きっと私だけ。
一言の言葉の煌めきに盲信したくなる衝動にかられながら、「本当に?」と言葉の確かさを見極めようとしていた。
祈りが力になるのなら、どうしてあの時私の祈りは、私だけじゃない人たちの祈りは届かなかったのだろう。
師に無条件に目を輝かせられない疑り深い理性と、王権者の力に魅入られてしまう抑えきれない浅ましい性分に葛藤する幼い依子に一言は困ったように笑って頭を撫でて言った。
『君の理性も衝動も君自身のものだから、好きな方を選んでご覧。きっとどちらでも間違ってはいないのだから』
なんてずるいひと!
子供心にそう心の中で叫んでしまったし、今でも心底そう思う。
依子がどちらも大切で必要で捨てることなんて出来ないと知っているのに、その二つを抱えたまま今の今まで歩き続けていることだって、あの時の一言にはお見通しだったのに一言は敢えて選ばせたのだ。
ほんとうに、なんてずるいひとなのか。
安心して眠っている男の、年の割にはきめの整った頰をつねってやりたい。
かつての兄弟子のように念入りに手入れをしているというわけでもないのに、その肌はつるりと滑らかで、時折その整った横顔に皺や老いも見えることはあるのに不思議と綺麗なままでいる。
ちょっと羨ましい。
俗世から離れた生活をしていると、人は体に付いた人間らしい汚れを失っていくのだろうか。
同じ暮らしを幼い頃から数年続けていたのに、手入れが必要になる依子とクロの違いはなんなのだろうか。
(多分執着ね)
それだけは理解できる。
一言が未練なく脱ぎ捨てている、病によって朽ちていく体に依子はみっともなくしがみついている。
偉大なる師でもなく、慈悲に満ちた父親でもなく、ましてや底知れぬ混沌を内に孕む王権者としての三輪一言でもない。
変な俳句を思案して、凡人の持つ当たり前の感情にどうしてか少し疎くて、それでいて柔らかな優しさを持つただの男としての三輪一言がまだどこかにほんのちょっぴり残っているのならば、みっともなくしがみついていたい。
そんな彼が、好きになってしまったのだから。
穏やかな寝息と薄く脈打つ鼓動に、そっと耳を傾ける。
きっとこの人はご存じないのでしょうね。
依子の王への疑念と盲信に板挟みになる性分を一言はよく知っている。
その二つの間で綯い交ぜになった淡い思慕と敬愛と畏怖が「恋」という名前を何者かに与えられて彼女自身も訳の分からぬまま自らに差し出されたのだと、恐らく一言はそう考えている。
そうして長い躊躇いと覚悟の上で、どうしようもないほど痛ましく一途な想いを受け入れようと決めたのだろう。
けど、一言はひとつ思い違いをしている。依子は一言が見出した王に惹かれながら疑うその性分によって己の王へ向ける感情を恋と定義したのではない。
ただ、目の前の安心して眠るこの男が好きになっただけなのだ。
そうして側にいることを幸せだと思うだけ。ただ好きなのだ。寄り添っていたいのだ。
ほっとけないし。
王に惹かれる忌まわしい性分の副産物としてではなく、きっとこの人を好きになることが決まっていたから。だから私はこんな気質も得てしまったのかも知れない。
時に呪わしくもある自分の性(さが)だって、そんな風にさえ思えてしまう。
依子は己の身を愛しい男の懐に寄せる。
この人の拠り所になれていたらいい。
そんなことを夢見ながら、依子は目を伏せ再び眠った。