2008〜2012.09.25
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質の良い石鹸と穏やかで上質な木の匂い、足の裏に広がる感触は慣れたタイル張りのそれとは違うぬくもりを伝える。
シャワーの金具にすら、高級感を感じさせる普段ならば気後れしそうな上質な空間。
そう、普段ならば。
だが今日の自分は頑張ったのだ、それも生死に関わるレベルで。これくらいの贅沢をしたところで、ばちは当たるまい。
「生き返る……」
依子は疲弊しきった体を、静かに広い浴槽に浮かべた。
和洋折衷のインテリアデザインをコンセプトにしているのだという、國常路エージェンシー系列のホテルの最上階スイートは、湯船だけでなく壁や床にも檜をふんだんに用いており、湯気と共に檜の匂いが浴室に立ち籠める。
じわじわとお湯の温かさが、肌を通して体中に染み渡り依子はふるりと体を振るわせる。ほんのりと檜だけでは無いほのかな香りが湯船から漂う、体を洗っている最中に湯船に入れておいた入浴剤の香りだ。さっぱりとした柑橘系の芳香は依子は勿論、一言も好きなものだ。
『匂いというものは、最初に季節を教えてくれるものだね』
在りし日に、庭に初めて咲いた柚子の花を見て顔を綻ばせていた一言の事を思い出す。
平穏な一瞬を思い出せるのは、今日という一日がどうにか無事に過ぎ去ったという何よりの証明だ。
何も思い浮かばないまま、平穏のまま焼き尽くされてしまった人々に比べたら、今がどれだけ平和な状況なのかよく分かる。
第三王権者《赤の王》周防尊と第四王権者《青の王》宗像礼司の衝突から始まる一連の騒動は、第七王権者《無色の王》三輪一言の調停によって幕を閉じた。
戦いの舞台となった鎮目町の大通りは、黄金のクラン《非時院》の手で急ピッチで修復作業が行われている最中だ。騒動を間近で見てしまった住人の記憶処理も同時に行われている。翌朝の情報操作が行われたニュースでは『鎮目町でガスの爆発事故が発生』と流れ一般民衆に認識されるのだろうし、そのように表向きには記録される。そういう風になっているのだ。
先年恩師に起きたことを思い出し、依子の薄い胸の内に苦いものがにじみ出る。
依子も三輪一言のクランズマンとして、先程まで事後処理に一言と共に奔走していた。
王同士の争いというものはこんな風に後始末が大変なものなのか。これからも繰り返されるのであろうこの乱痴気騒ぎの尻拭いに奔走される我が身を憂いて、依子が吐いた溜息が湯気の中に霧散した。
いつの間にか萎縮していた引き締まった手足をぐっと伸ばす。湯船はずいぶんと大きなもので、日本人女性の平均を僅かに超える程度の身長を持つ依子が手足を悠々と伸ばしても、反対側の縁に届くことはない。たとえもう一人入ったとしても、湯船一杯になることはないだろう。
(もう一人)
今、自分と共に入る可能性がある『もう一人』のほんわかとした微笑みを思い浮かべて、依子は赤面し子供のように口まで水面に沈めぶくぶくと泡を立てる。
三輪一言と百井依子の関係を、ひとことで言い表すことは難しい。
三輪名神流(みわめいじんりゅう)という古流剣術を学ぶ師弟であり、かつて両親を失った依子の保護者――といっても成人した現在はもう一つの理由もあって、その関係は解消したが――でもあった。
そして何よりも、一言と依子はドレスデン石盤に選定されし《王》と《王》によって選ばれたクランズマンとして魂レベルで結ばれた、特異で異質な形をした「絆」を持っている。
これだけでもややこしい、だがその三つの関係性よりも新しく、またきわめて重要な関係性を一言と依子は共有している。
師であり保護者であり王である三輪一言と、弟子であり養い子であり臣下でもある百井依子の二人は、同時に恋人でもあるのだ。
いくつもの絆で絡み合いながらも、依子はこの関係になることを選び、そして一言もまた依子の想いに応えた。
(それはきっと、つまり、あの人も私のことを悪しからず想ってくれているわけで)
だから、一線を越えられたのだ。愛がなくとも人は体を重ねられるがあの人はそのような関係を望むような人ではない事も、依子も知っている。
そもそもそんなことが出来る人では無いと知っているからこそ――依子が一言を愛しているのと同じように、一言もまた依子を愛しているという事実が――天にも舞い上がれそうなほど幸せで、また気後れし、いくら体を重ねて胸の内に幸福感を募らせても、それに伴う現実味をいつまでたっても依子に与えてはくれない。
(でも、私の気持ちとは裏腹に、時間は過ぎていく)
依子は戸惑いから湧き出る溜息を一つ吐いて、湯船から上がり栓を抜く。一足先に用意された客室に一言が先に風呂に入っていたので、次に入る人のために湯を張る必要もない。洗面台に並べられたアメニティもデパートで見かけるブランドで、こんな事で来ていなければ、帰り際にフロントでこれが一般に販売されているのか質問がしたかった。
一言と依子が男女の関係になってから、一年と少しが経つ。
当然のことながら、心が通じ合った時間はそれよりも長い。新しい関係が一つ増えても、二人の間はそこまで大きな変化はなかった。
以前よりも晩酌を共にする回数が増えたり、二人きりでいるときにだけ少しだけ距離が近くなったり、時折一言が見せる表情の種類が増えたこと。肌を重ねる以外の変化はそれくらいが精々だ。
依子自身の変化も、対したものではないはずなのだ。
何より一言も、あまり色恋沙汰をおおっぴらに公言する質ではない。
だというのにここ最近どういうわけか周囲の反応が変わっている、ような気がする。
きっかけは、村の女性陣の変化だ。
特に渡辺さんには一発でばれた。少女時代からの隣人には何もかもお見通しであったようだ。村の女性たちの視線も、特に一言と二人で見かけられるとなにやら微笑ましそうに――たとえるならば新婚夫婦を見るような目で――眺めているのだ。怪訝に思った依子が渡辺さんに聞いたところ、自分は言っていないが二人の雰囲気の変化を女性陣はなんとなく感じ取っていたらしい。
(女性の勘ってすごい)
それ以降、以前は度々一言の下に届いていた依子宛に来た村人やその知人を仲介してやってきたお見合いの話も、ぱったり来なくなった。つまりはそういうことであると、村の女性陣に認識されてしまっているらしい。
そして決定的だったのは、今年の正月に訪れた國常路家別邸での出来事だ。
兄弟子に代わって依子が随伴するようになってから、依子はいつも一言の泊まる客間の隣室を用意されていたのに、今年は何故か一部屋に布団が二つ並べてあったのだ。
一言曰く、元々二人に用意されていたのは、襖を外すことで一つの部屋としても使えるタイプの客間であったらしく、兄弟子の紫が随伴していた頃から同じ部屋を使っていた、とのことだった。
幸い几帳もあったので、着替えの際にはそれを仕切りとして利用し、夜も几帳を二人の布団の間に即席の敷居として置いた。だが結局、依子は一言に流されて、共に夜を過ごしてしまい、夜空が白み出すまで寝付くことも出来なかった。朴念仁だなんだと村の人々に言われているが、一言とて木石ではなかったのだ。
翌朝、恐らく一晩中無色の王の近辺を守護していたであろう《ウサギ》の一人から、仮面越しに呆れたような、生暖かい視線を受けたような気がする。
彼らは個人の感情を表に出すことを是としないので依子の思い込みかもしれない、むしろそうであってほしい。
だが非時院経由で依子と一言の関係は筒抜けになってしまっているのだろう。それを思うと気が遠くなる。今度御前に謁見を拝す時、どんな顔をすれば良いのか。
依子は憂鬱を吹き飛ばそうと風呂から上がり、スキンケアもなおざりに、洗面所のドライヤーを一番強くする。濡れそぼった髪に当たるドライヤーの熱は、今日肌に感じた熱よりもずっと涼しく思えた
†
風呂場から戻ると一言は和室の寝所ではなく、続き部屋となっている洋室の一面ガラス張りになっている窓の前に置いてあるソファに座り、じっと夜景を眺めていた。
日本家屋の中にいる一言ばかり見慣れていたものだから、このような空間にいる一言というのは依子の目には新鮮なものに見えた。
「一言さ……」
宿に泊まった際は大抵風呂から上がったら依子は一言に声をかけるのだが、一言の横顔を見てどうしてかいつものように一言の名を呼ぶことに躊躇いを感じた。
(また、あの顔をしている)
三輪一言の眼は、水晶体が深いからか瞳孔が深く沈んだ恐ろしいほどに澄み切った黒い色をしている。その中に悲しみを湛えているような、何かあふれてしまいそうな感情を抑えているような、ひどく苦しそうな顔。
依子と目が合った瞬間には、もういつものようににこりと穏やかに笑うものだから、滅多に見かけることはない。
依子と二人きりの時に見ることのできる、一言の貴重な表情だ。
(でも、あまりずっと見ていたいものではないわね)
三輪一言が王として石盤より与えられた予言の力は、決して万能な力ではない。
ましてや王権者としての尋常ならざる力を、この人は他の王権者ほど有している訳でもない。剣の腕は依子の知る他の誰よりも強いが、その身には死病を抱えている。
この人は、決して強い人ではない。
災禍を微笑みと共に受け止めてしまえるような柔らかい強さを持つけれど、それは女(自分)が全て身を委ねてしまえるほどの安心感を与えてはくれない。だというのに、この人はいつもいつも悲しい未来をたった一人で受け止めようとする。
王とは孤独なもの、故に彼らは王同士で惹かれ合う。
誰がそう言ったのかは知らないが、その言葉は真実を突いている。
そして一言は、『調停者』という役目を自らに課している故にさらに孤独であるように依子は感じてしまう。
(周防くんが一人ではないのは、彼が赤の王だから)
対と言える青の王――眼鏡をかけた得体の知れない影があるような男――に、たった一人であることを共有できるただ一人の存在に出会えたのだから。
二人の友人に恵まれても、寄り添い合える少女と出会っても、それでも周防は「ひとり」だったのだ。
己の王が見た未来で、いつか訪れる彼ら二人の「決着」は周防にとって幸せなものであるのだろうか。「友達」としての依子はそうであれと希う。
赤の王である周防尊の臣下でも、対等である王でもない依子には願うことしか許されない。その終わりが、せめて悲劇だけで終わることのないようにと、幾ばくかの救いがあるようにと。
願うのは友の為だが、何より依子は再び赤い剣が落ちるのを見たくない。
幼い日の自分から全てを奪い、愛する人に絶望と無力感を与えた悲劇をもう一度体験したくない。
(どうしようもないエゴイズムね)
心の中で自嘲する。
依子は人にはよく弟弟子と振る舞いや気質が似ていると言われるが、根本では兄弟子に似ていると自覚している。
狗朗(おとうと)のように誰かのために尽くしきることなど出来ないし、かといって紫(あに)のようにどこまでもただ己の力一つで歩むほどの強さも持ち合わせていない。
(わたしは、弱い)
弱い自分を一言は秘中の懐刀として、表に出そうとはしない。依子の剣の腕は狗朗より――今の時点では、まだ――強く、有する異能も三輪一言のクランズマンとしての能力のみならず、ストレインとして持つ力は文字通り「王になり損なった者」であるため非常に強力な代物だ。
だがその偶然と努力によって身につけた力も、王を守るための力たり得ない。だから依子は護られてしまう。
握る手の力を、依子は静かに強める。
兄のように王の命を左右する存在にも、弟のように王の意志に全てを委ねられる存在にもなれない自分は、けして一言と同じ場所に立つことが出来ないとどこかで分かっていた。
それでも、
「一言様」
(今はただ、この人の側にいたい)
ただそれだけの願いを込めて、依子は自分の全てにしたい男の名前を呼んだ。
†
「一言様」
「ああ、依子」
自分の名を呼ぶ静かな声を聞いて、一言は嫋やかな笑みを女に向けた。
ただ名前を同じように呼び返しただけで、依子はほっとした笑みを浮かべる。今日はひどく神経をすり減らしたことだろう、元から色白だからか、風呂上がりだというのに顔色はあまり良くない。
こちらにおいでと一言は手招きをして、依子は一言の座るソファの向かい側にある椅子に腰を下ろそうとする。
「そっちじゃなくて、こっち」
くすりと一言は笑い、ぽんぽんとソファのあいているスペースのクッションを軽く叩く。依子は少し逡巡した後、「よろしいのですか?」と躊躇いがちに口にした。
「勿論だよ、ほらおいで依子」
「……はい」
依子ははにかみながら応え、恐る恐ると言った体で一言の座る反対側へと腰を下ろす。
二人は密着することも無く、二人の間には僅かながら隙間が生じている。
一言はこの僅かな隙間が、遠慮では無く依子からの一言の好意が有り余っている故に生じてしまう事をよく知っていた。
(そういえば、彼女はよくこうやって立ったままでいる)
先に誰かが部屋に入っているとき一言や他の誰かに言われないと、依子は自分からどこかに腰掛けようとしない。彼女は受け身が過ぎると、かつての一番弟子が苦言を漏らしていた事を思い出す。
確かに彼女は「彼」からしてみれば受動的な気質なのだろう。それに加えて、彼女はよく見すぎているのだ。
自分がどこにいるべきか、いつも見極めているのだとも言える。
(けれども、二人きりでいるときくらいはあまり気にしなくても良いのにね)
手持ち無沙汰になったのか、再び立ち上がり据え置かれたポットでお茶を淹れ始めた依子を眺めて一言は苦笑する。
依子のこの性分は自分といるときだけのもの、なのだろうか。
自分や弟子たち以外に向ける依子の表情を、一言は知らない。
(或いは)
今日一言がその戦いを収めた王の片割れは、あの揺らめく炎の如き赤い髪を持つ青年は、一言の知らない依子を知っているのだろうか。
三輪一言は今日初めて彼ら二人の若き王と邂逅を果たしたが、一言の臣下である依子は違う。
彼女はかつて、赤の王の同級生であったのだ。
依子が東京の高校で何人かの友人を作ったことも、特に仲のよいそのうちの数人は男友達であることも、一言は依子自身の話から知っていた。
だがその友人の一人が、一言と同じ石盤に選ばれてしまった。それが偶然であると一言には断言が出来ない。
彼女の持つ縁は、どこまでも石盤から逃れ得ぬ因果を持っているとでもいうのだろうか。
「どうぞ、一言様」
思索の迷宮を歩く一言を、依子の呼びかける声が現実へと引き戻す
二人分のカップを乗せたお盆から、一つを依子が差し出した。洋風のカップ&ソーサーに注がれた薄茶色の液体の匂いに一言は「おや」と声を漏らす。
「ほうじ茶だね」
「包みを見てみたら結構良いところのものだそうで、夜も遅いですしコーヒーや緑茶よりはこちらが良いと思って」
「それはありがたい、では頂くとしようか」
「はい……それにしても、今日は本当に大変でしたね」
カップの縁に珊瑚色の柔らかな唇をつけ、一口飲み安堵の溜息を交えながら依子は言った。
一言もまた焙じ茶で喉を潤す、季節にそぐわない温かで香ばしい風味が、少し乾燥するこの客室で飲むのに丁度よかった。
「君にも色々と苦労をかけたね」
赤の王と青の王の直接戦闘の際、一言は依子に命じ彼らの戦いの模様を逐一監視させていたのだ。
七王の調停人である自分の出るべき時があるのか、また必要ならばそれがいつなのかを見定める『目』として。
一言が依子に《王》として命じるのは大抵その類いの王命だ。
露払いとして眼前の敵を切り払う『刃』ではなく、本当ならば自分という枷を気にすること無くどこにだって跳んでいける彼女は、一言に代わり事象を見定めるための『目』だ。それが《臣下》としての依子の代え難い資質である。
「苦労だなんて、そんな。一言様の方がずっと大変だったというのに」
一言の労いの言葉に、依子はカップの茶色い水面に視線を落としたまま首を横に振り、少し声を強めた。
「でも、君に辛い事を思い出させてしまったかもしれないから」
「それは、一言様だって同じ、いいえ、もっとお辛いはず」
色の違う二つの目が苦しそうに一言を見つめる。一言の痛みを担おうとするように、彼女はいつも苦しみを抱いている。しなくてもいいと言ったところで、彼女は勝手に一言の苦しみを自分のものにしてしまうのだろう。まるで《王》のように、なり損なった彼女は己の意思で為したいことを為そうとする。
憂う依子の横顔に、淡い色の髪が一束垂れ落ちる。一言は手にしていたカップを置き、空いた手で水分を僅かに含んだ柔らかい髪を掬い薄い耳にかける。
彼女が髪を伸ばし始めたのは紫が一言のもとを去ってからのことだ。一言と紫の間に余人には計り知れぬ絆があるように、彼女と紫の間にも一言の与り知らない絆があることを、一言は知っている。
(そして)
その事実に言いようのない自分自身も抱き慣れていない不透明な感情を、一言は持て余している。それは、彼女の友人が王になったという話を聞いたときにも抱いたものと同質の感情だった。
「大丈夫だよ」
髪を掬った手をそのまま依子の頬に当て目を合わせる。わずかに胸の内にこみ上げる何色をしているのかも見当の付かないそれを振り払いながら、一言は依子にさらに応えた。
「何より私が向かうまで、その場にいたのは依子でしょう? 私に連絡をするときとても驚いた様子だったから、少し気になってしまってね」
一言の言葉に依子は頬を一言の手に委ねながら、視線を泳がせた。
「少し、驚きました。赤の王の能力は知っていましたが、まさかビルが溶けたり青の王がああも派手に飛んで行くだなんて」
しどろもどろに応える依子に一言はクスクスと笑って依子の頬を撫でる、主従でも師弟でもない今の距離感に慣れていない依子の反応を見るのが最近どうにも楽しくて仕方がない。意地悪をしているつもりではないのだが、くるくると見たことの無い表情を見せる依子というのは新鮮なものであった。
「怪獣映画、みたいだった? 」
「そうでしたね、それも一匹の怪獣が現れるのではなくて、複数の怪獣たちによる大乱闘のような」
「さしずめ私や大覚さんは防衛隊かな? 」
「御前はもっと偉い方ではないでしょうか?」
「ああ、司令官役とか似合いそうだね」
「昔は前線で戦っていたけど、今は若者を見守る立場にいるようなタイプですね」
「そうそう、似合いそうだよね。みんながピンチになったときに久しぶりに戦ったり」
他愛も無い話にころころとはにかんでいた依子は急にまじめな顔になって一言に問いかけた。
「昔の、先代の赤の王と青の王もこんな感じだったのですか? 」
周りをあんなに破壊していながら、彼らも楽しそうにしていたのですか?
依子の問いかけに、一言は目を伏せる。
「その時は私もまだ若かったし、今とは状況も異なるから」
口から出たのは肯定も、否定もしないことばであった。
王同士の因縁、というものは確かにあるのだろう。
だが迦具都玄示と周防尊は、また羽張迅と宗像礼司は同一人物では無い。 同じ色を冠した二人が一言の知る「彼ら」と同じ結末を迎えるとは限らない。
そして、
(恐らくその決着を私は見ることが出来ない)
三輪一言に残された時間は、少ない。
「その時」がくるまで王として、師として、親として今まで出来る限りのことをしてきたし、これからも命ある限り己に課した使命を全うしていくつもりだ。けれども、
「一言様?」
頬に触れていた手をおもむろに背に回し傍らの女を抱きしめる。
(僕は、彼女に何が出来る? )
「王」でも「師」でも「親」でもない、その「役割」という今の自分に馴染みきった仮面からこぼれ落ちてしまった「ただの三輪一言」として、目の前のいとしい女に自分は何を残せるのだろう。
抱いた恐れを隠すように一言は腕の力を強めた。
シャワーの金具にすら、高級感を感じさせる普段ならば気後れしそうな上質な空間。
そう、普段ならば。
だが今日の自分は頑張ったのだ、それも生死に関わるレベルで。これくらいの贅沢をしたところで、ばちは当たるまい。
「生き返る……」
依子は疲弊しきった体を、静かに広い浴槽に浮かべた。
和洋折衷のインテリアデザインをコンセプトにしているのだという、國常路エージェンシー系列のホテルの最上階スイートは、湯船だけでなく壁や床にも檜をふんだんに用いており、湯気と共に檜の匂いが浴室に立ち籠める。
じわじわとお湯の温かさが、肌を通して体中に染み渡り依子はふるりと体を振るわせる。ほんのりと檜だけでは無いほのかな香りが湯船から漂う、体を洗っている最中に湯船に入れておいた入浴剤の香りだ。さっぱりとした柑橘系の芳香は依子は勿論、一言も好きなものだ。
『匂いというものは、最初に季節を教えてくれるものだね』
在りし日に、庭に初めて咲いた柚子の花を見て顔を綻ばせていた一言の事を思い出す。
平穏な一瞬を思い出せるのは、今日という一日がどうにか無事に過ぎ去ったという何よりの証明だ。
何も思い浮かばないまま、平穏のまま焼き尽くされてしまった人々に比べたら、今がどれだけ平和な状況なのかよく分かる。
第三王権者《赤の王》周防尊と第四王権者《青の王》宗像礼司の衝突から始まる一連の騒動は、第七王権者《無色の王》三輪一言の調停によって幕を閉じた。
戦いの舞台となった鎮目町の大通りは、黄金のクラン《非時院》の手で急ピッチで修復作業が行われている最中だ。騒動を間近で見てしまった住人の記憶処理も同時に行われている。翌朝の情報操作が行われたニュースでは『鎮目町でガスの爆発事故が発生』と流れ一般民衆に認識されるのだろうし、そのように表向きには記録される。そういう風になっているのだ。
先年恩師に起きたことを思い出し、依子の薄い胸の内に苦いものがにじみ出る。
依子も三輪一言のクランズマンとして、先程まで事後処理に一言と共に奔走していた。
王同士の争いというものはこんな風に後始末が大変なものなのか。これからも繰り返されるのであろうこの乱痴気騒ぎの尻拭いに奔走される我が身を憂いて、依子が吐いた溜息が湯気の中に霧散した。
いつの間にか萎縮していた引き締まった手足をぐっと伸ばす。湯船はずいぶんと大きなもので、日本人女性の平均を僅かに超える程度の身長を持つ依子が手足を悠々と伸ばしても、反対側の縁に届くことはない。たとえもう一人入ったとしても、湯船一杯になることはないだろう。
(もう一人)
今、自分と共に入る可能性がある『もう一人』のほんわかとした微笑みを思い浮かべて、依子は赤面し子供のように口まで水面に沈めぶくぶくと泡を立てる。
三輪一言と百井依子の関係を、ひとことで言い表すことは難しい。
三輪名神流(みわめいじんりゅう)という古流剣術を学ぶ師弟であり、かつて両親を失った依子の保護者――といっても成人した現在はもう一つの理由もあって、その関係は解消したが――でもあった。
そして何よりも、一言と依子はドレスデン石盤に選定されし《王》と《王》によって選ばれたクランズマンとして魂レベルで結ばれた、特異で異質な形をした「絆」を持っている。
これだけでもややこしい、だがその三つの関係性よりも新しく、またきわめて重要な関係性を一言と依子は共有している。
師であり保護者であり王である三輪一言と、弟子であり養い子であり臣下でもある百井依子の二人は、同時に恋人でもあるのだ。
いくつもの絆で絡み合いながらも、依子はこの関係になることを選び、そして一言もまた依子の想いに応えた。
(それはきっと、つまり、あの人も私のことを悪しからず想ってくれているわけで)
だから、一線を越えられたのだ。愛がなくとも人は体を重ねられるがあの人はそのような関係を望むような人ではない事も、依子も知っている。
そもそもそんなことが出来る人では無いと知っているからこそ――依子が一言を愛しているのと同じように、一言もまた依子を愛しているという事実が――天にも舞い上がれそうなほど幸せで、また気後れし、いくら体を重ねて胸の内に幸福感を募らせても、それに伴う現実味をいつまでたっても依子に与えてはくれない。
(でも、私の気持ちとは裏腹に、時間は過ぎていく)
依子は戸惑いから湧き出る溜息を一つ吐いて、湯船から上がり栓を抜く。一足先に用意された客室に一言が先に風呂に入っていたので、次に入る人のために湯を張る必要もない。洗面台に並べられたアメニティもデパートで見かけるブランドで、こんな事で来ていなければ、帰り際にフロントでこれが一般に販売されているのか質問がしたかった。
一言と依子が男女の関係になってから、一年と少しが経つ。
当然のことながら、心が通じ合った時間はそれよりも長い。新しい関係が一つ増えても、二人の間はそこまで大きな変化はなかった。
以前よりも晩酌を共にする回数が増えたり、二人きりでいるときにだけ少しだけ距離が近くなったり、時折一言が見せる表情の種類が増えたこと。肌を重ねる以外の変化はそれくらいが精々だ。
依子自身の変化も、対したものではないはずなのだ。
何より一言も、あまり色恋沙汰をおおっぴらに公言する質ではない。
だというのにここ最近どういうわけか周囲の反応が変わっている、ような気がする。
きっかけは、村の女性陣の変化だ。
特に渡辺さんには一発でばれた。少女時代からの隣人には何もかもお見通しであったようだ。村の女性たちの視線も、特に一言と二人で見かけられるとなにやら微笑ましそうに――たとえるならば新婚夫婦を見るような目で――眺めているのだ。怪訝に思った依子が渡辺さんに聞いたところ、自分は言っていないが二人の雰囲気の変化を女性陣はなんとなく感じ取っていたらしい。
(女性の勘ってすごい)
それ以降、以前は度々一言の下に届いていた依子宛に来た村人やその知人を仲介してやってきたお見合いの話も、ぱったり来なくなった。つまりはそういうことであると、村の女性陣に認識されてしまっているらしい。
そして決定的だったのは、今年の正月に訪れた國常路家別邸での出来事だ。
兄弟子に代わって依子が随伴するようになってから、依子はいつも一言の泊まる客間の隣室を用意されていたのに、今年は何故か一部屋に布団が二つ並べてあったのだ。
一言曰く、元々二人に用意されていたのは、襖を外すことで一つの部屋としても使えるタイプの客間であったらしく、兄弟子の紫が随伴していた頃から同じ部屋を使っていた、とのことだった。
幸い几帳もあったので、着替えの際にはそれを仕切りとして利用し、夜も几帳を二人の布団の間に即席の敷居として置いた。だが結局、依子は一言に流されて、共に夜を過ごしてしまい、夜空が白み出すまで寝付くことも出来なかった。朴念仁だなんだと村の人々に言われているが、一言とて木石ではなかったのだ。
翌朝、恐らく一晩中無色の王の近辺を守護していたであろう《ウサギ》の一人から、仮面越しに呆れたような、生暖かい視線を受けたような気がする。
彼らは個人の感情を表に出すことを是としないので依子の思い込みかもしれない、むしろそうであってほしい。
だが非時院経由で依子と一言の関係は筒抜けになってしまっているのだろう。それを思うと気が遠くなる。今度御前に謁見を拝す時、どんな顔をすれば良いのか。
依子は憂鬱を吹き飛ばそうと風呂から上がり、スキンケアもなおざりに、洗面所のドライヤーを一番強くする。濡れそぼった髪に当たるドライヤーの熱は、今日肌に感じた熱よりもずっと涼しく思えた
†
風呂場から戻ると一言は和室の寝所ではなく、続き部屋となっている洋室の一面ガラス張りになっている窓の前に置いてあるソファに座り、じっと夜景を眺めていた。
日本家屋の中にいる一言ばかり見慣れていたものだから、このような空間にいる一言というのは依子の目には新鮮なものに見えた。
「一言さ……」
宿に泊まった際は大抵風呂から上がったら依子は一言に声をかけるのだが、一言の横顔を見てどうしてかいつものように一言の名を呼ぶことに躊躇いを感じた。
(また、あの顔をしている)
三輪一言の眼は、水晶体が深いからか瞳孔が深く沈んだ恐ろしいほどに澄み切った黒い色をしている。その中に悲しみを湛えているような、何かあふれてしまいそうな感情を抑えているような、ひどく苦しそうな顔。
依子と目が合った瞬間には、もういつものようににこりと穏やかに笑うものだから、滅多に見かけることはない。
依子と二人きりの時に見ることのできる、一言の貴重な表情だ。
(でも、あまりずっと見ていたいものではないわね)
三輪一言が王として石盤より与えられた予言の力は、決して万能な力ではない。
ましてや王権者としての尋常ならざる力を、この人は他の王権者ほど有している訳でもない。剣の腕は依子の知る他の誰よりも強いが、その身には死病を抱えている。
この人は、決して強い人ではない。
災禍を微笑みと共に受け止めてしまえるような柔らかい強さを持つけれど、それは女(自分)が全て身を委ねてしまえるほどの安心感を与えてはくれない。だというのに、この人はいつもいつも悲しい未来をたった一人で受け止めようとする。
王とは孤独なもの、故に彼らは王同士で惹かれ合う。
誰がそう言ったのかは知らないが、その言葉は真実を突いている。
そして一言は、『調停者』という役目を自らに課している故にさらに孤独であるように依子は感じてしまう。
(周防くんが一人ではないのは、彼が赤の王だから)
対と言える青の王――眼鏡をかけた得体の知れない影があるような男――に、たった一人であることを共有できるただ一人の存在に出会えたのだから。
二人の友人に恵まれても、寄り添い合える少女と出会っても、それでも周防は「ひとり」だったのだ。
己の王が見た未来で、いつか訪れる彼ら二人の「決着」は周防にとって幸せなものであるのだろうか。「友達」としての依子はそうであれと希う。
赤の王である周防尊の臣下でも、対等である王でもない依子には願うことしか許されない。その終わりが、せめて悲劇だけで終わることのないようにと、幾ばくかの救いがあるようにと。
願うのは友の為だが、何より依子は再び赤い剣が落ちるのを見たくない。
幼い日の自分から全てを奪い、愛する人に絶望と無力感を与えた悲劇をもう一度体験したくない。
(どうしようもないエゴイズムね)
心の中で自嘲する。
依子は人にはよく弟弟子と振る舞いや気質が似ていると言われるが、根本では兄弟子に似ていると自覚している。
狗朗(おとうと)のように誰かのために尽くしきることなど出来ないし、かといって紫(あに)のようにどこまでもただ己の力一つで歩むほどの強さも持ち合わせていない。
(わたしは、弱い)
弱い自分を一言は秘中の懐刀として、表に出そうとはしない。依子の剣の腕は狗朗より――今の時点では、まだ――強く、有する異能も三輪一言のクランズマンとしての能力のみならず、ストレインとして持つ力は文字通り「王になり損なった者」であるため非常に強力な代物だ。
だがその偶然と努力によって身につけた力も、王を守るための力たり得ない。だから依子は護られてしまう。
握る手の力を、依子は静かに強める。
兄のように王の命を左右する存在にも、弟のように王の意志に全てを委ねられる存在にもなれない自分は、けして一言と同じ場所に立つことが出来ないとどこかで分かっていた。
それでも、
「一言様」
(今はただ、この人の側にいたい)
ただそれだけの願いを込めて、依子は自分の全てにしたい男の名前を呼んだ。
†
「一言様」
「ああ、依子」
自分の名を呼ぶ静かな声を聞いて、一言は嫋やかな笑みを女に向けた。
ただ名前を同じように呼び返しただけで、依子はほっとした笑みを浮かべる。今日はひどく神経をすり減らしたことだろう、元から色白だからか、風呂上がりだというのに顔色はあまり良くない。
こちらにおいでと一言は手招きをして、依子は一言の座るソファの向かい側にある椅子に腰を下ろそうとする。
「そっちじゃなくて、こっち」
くすりと一言は笑い、ぽんぽんとソファのあいているスペースのクッションを軽く叩く。依子は少し逡巡した後、「よろしいのですか?」と躊躇いがちに口にした。
「勿論だよ、ほらおいで依子」
「……はい」
依子ははにかみながら応え、恐る恐ると言った体で一言の座る反対側へと腰を下ろす。
二人は密着することも無く、二人の間には僅かながら隙間が生じている。
一言はこの僅かな隙間が、遠慮では無く依子からの一言の好意が有り余っている故に生じてしまう事をよく知っていた。
(そういえば、彼女はよくこうやって立ったままでいる)
先に誰かが部屋に入っているとき一言や他の誰かに言われないと、依子は自分からどこかに腰掛けようとしない。彼女は受け身が過ぎると、かつての一番弟子が苦言を漏らしていた事を思い出す。
確かに彼女は「彼」からしてみれば受動的な気質なのだろう。それに加えて、彼女はよく見すぎているのだ。
自分がどこにいるべきか、いつも見極めているのだとも言える。
(けれども、二人きりでいるときくらいはあまり気にしなくても良いのにね)
手持ち無沙汰になったのか、再び立ち上がり据え置かれたポットでお茶を淹れ始めた依子を眺めて一言は苦笑する。
依子のこの性分は自分といるときだけのもの、なのだろうか。
自分や弟子たち以外に向ける依子の表情を、一言は知らない。
(或いは)
今日一言がその戦いを収めた王の片割れは、あの揺らめく炎の如き赤い髪を持つ青年は、一言の知らない依子を知っているのだろうか。
三輪一言は今日初めて彼ら二人の若き王と邂逅を果たしたが、一言の臣下である依子は違う。
彼女はかつて、赤の王の同級生であったのだ。
依子が東京の高校で何人かの友人を作ったことも、特に仲のよいそのうちの数人は男友達であることも、一言は依子自身の話から知っていた。
だがその友人の一人が、一言と同じ石盤に選ばれてしまった。それが偶然であると一言には断言が出来ない。
彼女の持つ縁は、どこまでも石盤から逃れ得ぬ因果を持っているとでもいうのだろうか。
「どうぞ、一言様」
思索の迷宮を歩く一言を、依子の呼びかける声が現実へと引き戻す
二人分のカップを乗せたお盆から、一つを依子が差し出した。洋風のカップ&ソーサーに注がれた薄茶色の液体の匂いに一言は「おや」と声を漏らす。
「ほうじ茶だね」
「包みを見てみたら結構良いところのものだそうで、夜も遅いですしコーヒーや緑茶よりはこちらが良いと思って」
「それはありがたい、では頂くとしようか」
「はい……それにしても、今日は本当に大変でしたね」
カップの縁に珊瑚色の柔らかな唇をつけ、一口飲み安堵の溜息を交えながら依子は言った。
一言もまた焙じ茶で喉を潤す、季節にそぐわない温かで香ばしい風味が、少し乾燥するこの客室で飲むのに丁度よかった。
「君にも色々と苦労をかけたね」
赤の王と青の王の直接戦闘の際、一言は依子に命じ彼らの戦いの模様を逐一監視させていたのだ。
七王の調停人である自分の出るべき時があるのか、また必要ならばそれがいつなのかを見定める『目』として。
一言が依子に《王》として命じるのは大抵その類いの王命だ。
露払いとして眼前の敵を切り払う『刃』ではなく、本当ならば自分という枷を気にすること無くどこにだって跳んでいける彼女は、一言に代わり事象を見定めるための『目』だ。それが《臣下》としての依子の代え難い資質である。
「苦労だなんて、そんな。一言様の方がずっと大変だったというのに」
一言の労いの言葉に、依子はカップの茶色い水面に視線を落としたまま首を横に振り、少し声を強めた。
「でも、君に辛い事を思い出させてしまったかもしれないから」
「それは、一言様だって同じ、いいえ、もっとお辛いはず」
色の違う二つの目が苦しそうに一言を見つめる。一言の痛みを担おうとするように、彼女はいつも苦しみを抱いている。しなくてもいいと言ったところで、彼女は勝手に一言の苦しみを自分のものにしてしまうのだろう。まるで《王》のように、なり損なった彼女は己の意思で為したいことを為そうとする。
憂う依子の横顔に、淡い色の髪が一束垂れ落ちる。一言は手にしていたカップを置き、空いた手で水分を僅かに含んだ柔らかい髪を掬い薄い耳にかける。
彼女が髪を伸ばし始めたのは紫が一言のもとを去ってからのことだ。一言と紫の間に余人には計り知れぬ絆があるように、彼女と紫の間にも一言の与り知らない絆があることを、一言は知っている。
(そして)
その事実に言いようのない自分自身も抱き慣れていない不透明な感情を、一言は持て余している。それは、彼女の友人が王になったという話を聞いたときにも抱いたものと同質の感情だった。
「大丈夫だよ」
髪を掬った手をそのまま依子の頬に当て目を合わせる。わずかに胸の内にこみ上げる何色をしているのかも見当の付かないそれを振り払いながら、一言は依子にさらに応えた。
「何より私が向かうまで、その場にいたのは依子でしょう? 私に連絡をするときとても驚いた様子だったから、少し気になってしまってね」
一言の言葉に依子は頬を一言の手に委ねながら、視線を泳がせた。
「少し、驚きました。赤の王の能力は知っていましたが、まさかビルが溶けたり青の王がああも派手に飛んで行くだなんて」
しどろもどろに応える依子に一言はクスクスと笑って依子の頬を撫でる、主従でも師弟でもない今の距離感に慣れていない依子の反応を見るのが最近どうにも楽しくて仕方がない。意地悪をしているつもりではないのだが、くるくると見たことの無い表情を見せる依子というのは新鮮なものであった。
「怪獣映画、みたいだった? 」
「そうでしたね、それも一匹の怪獣が現れるのではなくて、複数の怪獣たちによる大乱闘のような」
「さしずめ私や大覚さんは防衛隊かな? 」
「御前はもっと偉い方ではないでしょうか?」
「ああ、司令官役とか似合いそうだね」
「昔は前線で戦っていたけど、今は若者を見守る立場にいるようなタイプですね」
「そうそう、似合いそうだよね。みんながピンチになったときに久しぶりに戦ったり」
他愛も無い話にころころとはにかんでいた依子は急にまじめな顔になって一言に問いかけた。
「昔の、先代の赤の王と青の王もこんな感じだったのですか? 」
周りをあんなに破壊していながら、彼らも楽しそうにしていたのですか?
依子の問いかけに、一言は目を伏せる。
「その時は私もまだ若かったし、今とは状況も異なるから」
口から出たのは肯定も、否定もしないことばであった。
王同士の因縁、というものは確かにあるのだろう。
だが迦具都玄示と周防尊は、また羽張迅と宗像礼司は同一人物では無い。 同じ色を冠した二人が一言の知る「彼ら」と同じ結末を迎えるとは限らない。
そして、
(恐らくその決着を私は見ることが出来ない)
三輪一言に残された時間は、少ない。
「その時」がくるまで王として、師として、親として今まで出来る限りのことをしてきたし、これからも命ある限り己に課した使命を全うしていくつもりだ。けれども、
「一言様?」
頬に触れていた手をおもむろに背に回し傍らの女を抱きしめる。
(僕は、彼女に何が出来る? )
「王」でも「師」でも「親」でもない、その「役割」という今の自分に馴染みきった仮面からこぼれ落ちてしまった「ただの三輪一言」として、目の前のいとしい女に自分は何を残せるのだろう。
抱いた恐れを隠すように一言は腕の力を強めた。