1999.07.11〜2004.05
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『ある冬の日の情景』
「おや」
後方でボスッと何か重いものが落ちたような音がして一言が振り返れば、依子が雪に沈んでいた。
うつぶせに倒れる依子の後ろに、主人をなくした雪靴が片方だけぽつんと取り残されている。なるほど、雪に足を取られてつんのめってしまったようだ。
腕を伸ばそうとしたが、少し考えて一言は手を止めた。
彼女が起き上がらねば意味がないからだ、それは依子自身も思っているのだろう。
依子は事もなく起き上がり、雪靴を履き直して一言の元に駆け寄った。
今度は転ばなかったことに二人して安堵する。
少し照れ臭そうにはにかむ依子の短い髪についた雪を、一言は微苦笑しながら払い落とした。
……………
『ご冗談もほどほどに』
「彼女はいつか実を結ぶ美しい花になるのだろう」
「あの子が花ですか」
狗朗と手合わせをする依子を見ながら一言は紫に言った。
まだ芽も出ていないような少女を「花」に例えるとは、師匠馬鹿にも程があると他の人々なら呆れ微笑ましさすら覚えるのだろう。
だが一言の力を知る紫は違う。
彼がそう言うのならば彼女はいずれそうなるのだ。
本人の意志が何であれ、そうなってしまうのだ。
いつかの未来に咲き誇った彼女はどんな美しさを見せるのか、紫は少しだけ未来が待ち遠しく思った。
…………
『お静かに』
「一言様?」
依子は縁側に座る一言のもとに歩み寄ると、足音に気づいた一言が依子の方へ振り返り人差し指を口に当てた。
こちらにおいでと手振りで誘いかける一言に従い、足音を消し隣に座れば、一言の膝を枕に狗朗がすやすやと寝息を立てていた。
「このまま寝かせてあげようよ」
小声で囁く一言と二人で目を合わせ笑い合った。
(ある日の昼下がりの話)
…………
『大人になりたくない』
三輪家での寄り合いの日、私は大人達の間を縫って、くるくるとコマネズミのように働く。
「依子ちゃんはきっといいお嫁さんになれるねぇ」
大人たちの他愛のない言葉。
「まだ子供ですから」
そう言って一言様は私の方へ視線を向けて父親のように微笑む。
いつか大人になったら私はここを出て行かねばならないのだ。
その事実を改めて思い知り、心のどこかでそんな日が来ないことを願っていた。
……………
『先着順』
「紫ちゃんが羨ましい」
カランと水滴のついたグラスが音を立てる。
「何故そう思うのかしら」
「だって一言様の最初の弟子もクランズマンもどちらも紫ちゃんなんだもの」
あの人の一番になれないってなんだか悔しい。
そう言ってグラスに入った麦茶を飲み終えた生意気な『妹』の額を紫は指で弾いてやった。
……………
『雨も、悪くない』
磨り硝子の向こうは暗灰色をしている。
雨が屋根を叩く音に混じり、くしゅりと一つ小さなくしゃみが居間の中に響いた。
一言が新聞から顔を上げると鼻を押さえた依子が咄嗟に顔を背ける。
「急に寒くなってしまったものね」
「まだ10月なのにこんなに寒いなんて」
「今年は早めに炬燵を出そうか」
「いいですね」
早口で返す依子に、一言は緩めた口元を新聞で隠した。
……………
『駄目にならない程度でお願いします。』
肩車される狗朗のことが羨ましくはない、と言えば嘘になる。
さりとて自分から一言にねだれるほど依子は厚かましくなれなかった。
一言は興奮冷めやらぬ狗朗を降ろし、自分を招くように腕を広げる。
「ほら、狗朗や紫にしたことがあるけど君にはなかったでしょう?」
優しい声でおいでと言われて、断れる筈がなかった。
「ところで一言様、この体勢はもしかしなくても」
「お姫様抱っこがお似合いよ、依子ちゃん」
「姉上のお顔が真っ赤に!」
「重くないから大丈夫だよ、ひょっとして狗朗よりも軽いんじゃないかな?」
(今なら恥ずかしさで死ねる…)
……………
『足して割って、ちょうど』
「紫ちゃんと狗朗って足して割ると丁度良さそう」
兄弟弟子の稽古を眺めながら依子は呟いた。彼らは真ん中の弟子である自分から見ても、何もかもが正反対だと思えた。
「全く違うから、見えてくるものもあるんだよ」
そう一言は語っていたが、なら自分がいる意味は?
竹刀を手に二人に駆け寄りながら依子は一人考えた。
……………
『君とならできる』
「頼むよ、依子」
「私も経験がないんですよ」
「ほら、こういうのはセンスが問われるから」
「一言様がやってもよろしいのではないでしょうか?」
「これは君と二人で行うことが大切だと思うんだ」
「一言様……!」
「二人共、ケーキのデコレーション一つで騒いでないで手を動かしてくださる?」
「「はい」」
(1月5日の夕餉の支度)
……………
『8月25日の夕暮れ時』
三年前はラベンダー色の瓶が美しいネイルオイル、一昨年はベタつかない天然素材のハンドクリーム、それから去年はシックなデザインの小瓶に詰められたピオニーの香りがするバスソルト。
下の階から料理のいい匂いと、師匠と弟弟子の賑やかな話し声がBGMの様に流れてくる。兄弟子へ送る誕生日プレゼントがそろそろネタが尽きてきたことを悩みながら、依子は紫色のリボンを巻いた小さな包みを抱えて自分の部屋を出た。
………
『頬に爪を立てる』
「貴女もあの方の臣下なんだから、もう少し装いに気を使わないとダメよ?」と言われ美しい兄弟子の鏡台に座らされる。
兄弟子は女の自分よりもずっと綺麗で、強くて少しだけ引け目があった。
彼が口紅を滑らせれば、私の唇が淡い珊瑚色に染まる。
「私みたいにあの方の隣に立ちたいと望むなら強く美しくなくてはね」
………
『箝口令』
記憶を失った私のリハビリとして、日記を書くのはどうだろうか。
そう一言様に提案されてから、私はその日あったことや食べたもの印象に残った事を書きとめる癖がついて数年が過ぎた。
日々の修行も代わり映えのないもので、それはそれで良いのだろうけど、継続は力なりと言うし。
特に私の印象に日々残るものと言えば。
「狗朗の録音癖もすごいと思ったけど、紫ちゃんがあの方の句を全部覚えているのも大概よね」
「日頃からあの方の句を書き記して、自分がいなかった時の句を狗朗ちゃんと一緒に聴き入って、書き留めておくのも大概だと思うわよ。それ何冊目?」
私の部屋で美容グッズを顔に転がしてくつろぐ紫ちゃんは、棚に並ぶ揃いのブックカバーを被せた数冊の書籍―――を模したノート―――を指差して呆れたように言った。
「これは日記だから日々あった事を記しておくのは当然の事でしょう?」
「殆ど一言様の句集じゃない」
「日記だから。って紫ちゃん見たの!」
「もう少しうまく隠しておきなさい、一言様に見つかるわよ」
これからは押し入れの奥底にでもしまっておこうと、私は固く心に誓った。
………
『こっち見てよ』
久し振りに手合わせをする兄弟弟子を見つめる一言様の眼差しは、穏やかな導師のそれだった。
彼らの剣捌きを一合一合静穏な目で見極めながら、同時に彼らのその先まで見据えているように、冷たく透徹な眼差しを己が臣下に向けている。
その眼差しをほんのひと時自分だけのものにしたくて、依子はわざと彼に呼び掛けた。
「一言様、茄子の支度が出来ました」
「ありがとう依子」
「後で私にも手合わせをして頂けますか」
「姉上ずるいです」
「狗朗ちゃん、よそ見してちゃダメよ」
……………
『救うのは僕じゃない』
「いつか君も本当に素敵な恋をして本当に幸せになりなさい」
うつらうつらと肩にもたれる私の頭を撫でながら、何気なく一言様はそんな事を口にする。
こんなにも優しくてあたたかな手のひらに抱かれている私は、幸せではないと言うのですか?
そう問いかけたい私の意識を、あの人の手は優しく眠りへと導いた。
(私はあなたに救われたのに、どうして含まれていないの?)
……………
『冬の夜の安眠法について』
「ねえ、紫ちゃん」
「なあに?依子ちゃん」
「狗朗を子犬みたいに抱きしめて寝たら温かくなると思わない?」
「名案、いえ、迷案だけれど相変わらず寒がりね貴女は」
「冷えは美の大敵だって紫ちゃんも言ったじゃない」
「それで狗朗ちゃんを?」
「そういう事」
「狗朗ちゃんをうまいこと丸め込めばいけるんじゃない?」
「一言様が言ってたって言えば大体言うこと聞いてくれると思うの」
「その通りだけれど、あの人を悪用するんじゃないわよ」
「あいた」
(そもそもおれは犬や湯たんぽではありません!)
……………
『すごもりむしとをひらく』
「おはよう紫ちゃん、狗朗」
依子が寝ぼけ眼を擦りつつ台所に入るや否や、
「あら、おはよう依子ちゃん。突然で悪いけどあなたはあっちに行ってなさいな、ほら狗朗ちゃん」
「はい兄上!」
そんなやりとりの後に兄弟子には首根っこを摘み出された上に、弟弟子に背中を押されて居間へと誘導された。こんな時だけ二人はやたらと息が合う。
解せないまま視線を卓袱台の向こうに向ければ、一言が声を立てずに目を細めくっくっと笑っていた。
何がそんなにおかしいのだろうか。
訝しげに首を傾げながら一言に挨拶をし、覚醒しきっていない頭で考える。
いつもは依子と狗朗、紫のいる時は三人で朝食を作っているというのに今日に限って追い出されるなんて、一体どういう事だろう。
ぼんやりと突っ立ったままの依子を誘導するように一言は手招きした。
冷え切った足を炬燵に入れれば、じんわりと外から熱が伝わってくる。
炬燵のままになっている卓袱台もそろそろ仕舞わなくてはならない。
冬の長いこの山奥では春がまだ遠い、雛人形をしまった日もまだ雪が庭に残っていた。
雛人形、そうだ。雛祭りはとうに過ぎた。
はたと何かに目を見開いた依子を見て、一言はいたずらっ子のような眼差しで口を開いた。
「ようやく思い出したかい?」
「はい」
兄弟弟子たちが、特に狗朗がやけに張り切っていた理由に依子は漸く思い至った。
一言の表情は先程のような子供らしいそれから、柔らかな笑みに変わる。
「誕生日おめでとう、依子」
「ありがとうございます、一言様」
己が師の温かな言葉と、兄弟弟子二人が用意しているだろう食卓に、依子の心は朝から優しいもので満ち足りた。
……………
『花のひらくように』
ぽろぽろと眠りながら涙を流し、娘は幼い日の悪夢を見る。
きれいだとおもってごめんなさい。
魘される依子の桜色の唇から漏れるのはそんな懺悔のような呟き。
幼い日の彼女は魅入られてしまったのだ、全てを奪った赤色の輝きに。
奪われてしまった大切なものたちに、彼女は今も謝り続けている。
滅多に出さぬ己のダモクレスの剣を見上げる彼女の瞳は恍惚と恐怖、その両方を孕む。
今も尚、見る度に思い出すのだろう、愛する人々を殺したものに魅入られてしまった自分の罪深さを。
今はゆっくり眠るといい、彼女が少しでも良い夢を見れますように。
一言は祝福するように、涙に濡れた彼女の瞼を優しく撫でた。
……………
『憎ませてもくれない』
「君は、石盤が憎いと思った事はあるかい」
一言様に石盤について問われたのは早春の頃だった。
石盤が無ければ王は存在せず、私はあの事件で多くを失う事はなかった。
家族は犠牲とならずに済んだのかもしれない。
でも、
「石盤が無ければ、私は一言様や紫ちゃんや狗朗とも出会えず今の私はいませんでした」
だから憎いと思えない、そう答えれば彼は「君はそう思うんだね」と曖昧な笑みを浮かべた。
(私の知らない誰かは、彼の前で何を言ったのだろう)
…………
『きっと彼らは幸せだった』
「はーい、今の勝負紫ちゃんの勝ち!」
「当然よ」
「兄上!もう一合お願いします」
「次は依子ちゃんにやってもらいなさい」「えー!」
「あら?私と手合わせする?手加減なしで」
「ちょっとそれも惹かれる……」
「アザ作るだけだからやめときなさい」
「じゃあ狗朗、私と手合わせしようか」
「はい!姉上」
この光景を、彼らは未来で「幸せな記憶」として覚えているだろうか。
少し複雑な顔で、真意のわからぬ笑みで、或いは苦笑しながらも、今この時の記憶を彼らが三人なりに思い起こす未来が一言にはぼんやりと見えた。
(三輪一言夢小説へのお題は『きっと彼らは幸せだった』です。https://shindanmaker.com/392860)
…………
『失礼なのはどちらなのかという話』
寒風吹く縁側で一言が良い声で呟いた発句に、隣で聞きながらぴしりと固まった。
自分は多分まだ、まだいいのだ。
まだ平気、多分大丈夫。
それよりも、そういう話に耳聡くなっている兄弟子の方が目くじらを立てそうで怖い。
性分の違いではなく、俳句性の違いで道を違える師弟とか勘弁してほしい。
「一言様、それ紫ちゃんの前で言わない方がいいですよ」
「えっ」
案の定分かっていなさそうに小首を可愛らしく傾げる一言に、ため息をついて冬の青空を見上げた。
…………
『最近可愛くなりまして』
「最近依子ちゃんも随分と可愛くなりましたねえ」
そう村の人々から言われることが増え、はて、と一言は首を捻る。
彼女の顔立ちが整っているのはーー無論、疚しい意味ではなくーー昔から変わらないし、狗朗や紫と同様に弟子として可愛いと思っている。
そんなに以前より可愛くなっているのだろうか。自分は常日頃共に暮らしているから、他者より彼女の変化に気付いていないのかもしれない。
「依子」
ふと自分が名前を呼んだ時、一も二もなく振り返り花が綻ぶように明るく笑う彼女は確かに可愛らしい。
だが彼女がどうしてただ一言に呼ばれただけでそんなに嬉しそうにするのか、その理由に一言が気付くことはなかった。