2008〜2012.09.25
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『ついたもちよりこころもち』
一の重には黒豆に田作り、それから二晩かけて仕込んだ数の子はいい具合に味が滲みている。
紅白蒲鉾は一言、根菜の煮しめの人参は弟弟子の狗朗がそれぞれ飾り切りをした。
どちらも丁寧な仕事であるのは同じだが、人参で出来た花はどこか直線的で肩肘張っており、蒲鉾の方が切り方に遊びがあって軽やかだ。
「こんな所に性格って出るものなのね」
依子は台所のテーブルに綺麗に並べられたお節を眺めて、独りごちる。
二の重には紅白なますに伊達巻、味の染みた昆布締め。それから秋に作った栗の甘露煮をシロップごと使い切って栗きんとんを初めて作ってみたが、中々上手く出来たと依子は内心自賛した。
栗の甘露煮だけではない。
梅干しに庭や裏山の果樹で作るジャムや砂糖漬け、それに村の人々がくれる野菜を使った漬物エトセトラエトセトラ。
詰まる所依子は、旬の食材を使った保存食を作る事が好きだ。
それも下手の横好きではなく、恐らくこればかりは家一番の料理上手である――初めてのことでも覚えてしまえば、すぐになんでも出来てしまう天才型の人間である一言と競うというのも馬鹿らしいことではあると、依子は分かっているが――一言にも匹敵すると自負している。
『依子ちゃんは、今の美味しさをを未来に伝えるような料理が得意よね』
かつて兄弟子だった紫が幼い頃の依子が作った夏みかんのマーマレードを一匙掬い、くすりと婉麗に笑って依子の腕前を珍しく賞賛したのを思い出す。
今あるものをこよなく愛し、未来に残す。
兄弟子の言葉が今ならば分かる。
恐らくそれが、依子自身の持つ本質なのだと、紫は見抜いていたのだ。
一言が依子の持つ刀に「現(うつつ)」という銘を名付けたのは、恐らく一言自身も弟子である依子の本質を何処かで理解していたからなのだろう。
三の重には海老や鯛の煮付け、それから甘辛い醤油ベースのタレを絡めた鳥肉の照り焼き。
四の重には甘く煮た茸や山菜類、それから一言と狗朗が大好きなだし巻き卵、甘い味付けの料理が多いからしょっぱい味にしている。
仕切りには葉物は家の庭に植えてある南天や譲葉、それから隣家の渡辺さんから頂いた菊の葉を使った。
明日ご挨拶に行かないと。依子は自分の脳内のタスクリストに書き留めた。
今日は一日中台所に立っていた気がする。
三輪家の年末年始は忙しい。
大掃除にお節料理、それに村の人々との餅つき大会。
その上家主の一言は挨拶に来る村の人々への応対は勿論、一言自身も寺の住職や村長など名士の人々に挨拶周りに行かねばならない。
それに年が明けても、三が日最後の日には関東近郊の國常路家私邸へ赴き年始の挨拶に出向くのだ。
こうも忙しい年明けを何年もしていれば、依子も寝正月に少しだけ憧れを抱く。
お節を狗朗と挨拶回りを終えた一言と完成させたのは大晦日の日が暮れてからのことだった。それから夕食に年越しそばを食べて、漸く一段落つき再び台所に戻り今に至る。
少し離れた場所にある居間から、年末の歌番組の賑やかな音が聞こえてくる。男女二人組のロックバンドが今年のヒット曲を歌っている。
テーブルに並べられた粗熱のとれたお節の蓋を締め、冷蔵庫にしまう。
これは年が明けてからのお楽しみだ。
四の重まで作ったが、三が日が終わる前に食べきってしまうのだろう。
一言は病弱であるが健啖家だし、狗朗も食べ盛りの少年だ。かく言う依子も痩せの大食いで、ここにはいないかつての兄弟子も含め三輪家の人々は総じて誰かと共に美味しいご飯を食べる事を好む。
依子は冷蔵庫の奥に隠すように置いていた小さな小鉢をそっと取り出した。
梅模様の掌ほどの大きさの小鉢の中には、二の重に入り切らなかった栗きんとんが保存してある。
ひやりとした小鉢の蓋を開け依子はにんまりと相好を崩した。
一匙掬って口の中に入れれば、ふわりと栗の優しい甘さが広がる。
昨日今日と年末の準備に忙しかったのだ、これくらい自分を労ってもいいだろう。
「おや、つまみ食いかい?」
突然聞こえてきた声に、依子は二口目を掬っていた匙を止めた。
「一言様っ!?」
依子のひっくり返った声に台所に入ってきた一言はくすくすと笑った。
深い紺色の半纏の下は同系色の冬用の寝間着を着ていて、湿った癖っ毛と共に彼が風呂から上がってきた事を依子に伝えた。
「クロが丁度今お風呂に入ったから、次は君の番だと思ってね。年が明ける前に入っておきなさい」
「はい、準備をしておきます」
「そうだ、それを私にも一口くれるかい?」
「ええ、どうぞ」
戸惑いながら新しい匙を出すため栗きんとんの乗った匙を置こうとする依子の手を、「それで構わないよ」と一言はたおやかな手と共に制止する。
依子は困惑し、自分の持つ黄金色の栗きんとんの乗った銀色の匙と一言を交互に凝視した。一言はそんな彼女の様子をにこにこと、いつもの様に穏やかに笑って眺めている。
それも何かを楽しみにしているように。
(これは、つまり、そういうことでいいのかしら)
依子は一言の意図が掴めなかった。
否、一言の意図が何であるかは察したが、それをこの眼前の主君にして恋人でもある男が自分に望んでいるという事実を、事実として受け止めるのには少しだけ時間が必要だった。
恐る恐るといった体で、依子は手に持ったままの匙を持ち上げ差し出した。
一言の、口元に。
俗に言う「あーん」である。
戸惑いがちに差し出された匙を、一言は何の躊躇いもなくぱくりと加えた。
思わず依子は硬直し匙を持つ手が緩めたが、一言は手を重ねてそれとなく匙を依子から奪った。
「あっ」
「美味しいよ。上手くいったね」
一言は匙を口から取り出し依子が作った栗きんとんを一頻り味わってから朗らかに笑った。
手にしている銀色の匙の先が、金属の光沢だけではない透明な光で艶めいていて、依子は咄嗟に目を逸らす。
「ありがとう、ございます」
「うん、こちらこそありがとう」
ストーブを入れていない冷たい空気に満ちた台所で、頬がやけに熱くなる。
場違いな感想を抱いてしまった事を隠すように、淡い色の目を伏せ平常心を装って依子は一言に感謝を伝えた。
一言は依子の戸惑いを知ってか知らずか頷いてから、食器棚から徳利と金箔で吉祥文様の施された黒漆の盃を二口取り出した。
それを見た依子は手早く冷蔵庫を再び開け、中から瑠璃色をした瓢箪型の小瓶を引っ張り出す。
三輪家に帰る前に、贔屓の鎮目町の酒屋で勧められたものだ。
同じ銘柄を古馴染みのバーで飲んだ時に、大層気に入ってつい一瓶丸ごと飲み干して高校時代の先輩でもあるバーのマスターに驚かれたのだった。
その時呑みきったのは今持っている小瓶ではなく一升瓶であったのだから、当然といえば当然なのだろう。
「おや良いものを買ってきたね」
一言は子供の様に目を輝かせ、依子はその反応に少し得意気に口元を緩めた。
「日本海の方のお酒なんだそうです、二人で飲もうと思って。瓶も綺麗でしょう?」
「本当だ。実は私も君が帰ってくるから、用意しておいたんだ」
「まあ」
そう言って一言は酒器をテーブルに置いて、戸棚から酒瓶を取り出す様に持ち上げて酒器の隣に置いた。
二人して悪戯がバレた子供のように顔を見合わせ笑った。
「クロに叱られてしまいますね、お二人は飲み過ぎですって」
「その時は一緒に叱られようか」
「共犯ですね私たち」
「一緒につまみ食いもしてしまったしね」
「内緒ですよ?」
「でもね、依子」
一言は依子の耳元に口を近づけ囁いた。
「私たちは既に共犯だと思っていたのだけれど」
「そう、でしょうか」
いちげんさま。
目の前の男を呼ぶか細い声は唇によって塞がれた。
カタリと匙が置かれる硬質的な音が冷たい空気の中に響き、依子は一言の腕の中に包まれる。
何秒、何分過ぎたのか依子には判断できない僅かとも長いとも思える間が過ぎた後、舌も入れず重ね合うだけの口付けが終わり、二人の間を銀色の糸が繋がり、ぷつりと切れた。
「確かに、こんなことは共犯じゃないと出来ませんね」
「でしょう?」
息を切らせながら依子がそう言うと柔らかく一言は微笑んで、何の躊躇いもなく依子を腕の中から解放した。
その笑みは普段依子に向けるものと変わらない、だが、その澄んだ黒い瞳は熾火のような光が揺れていた。
依子はその熱に灼かれながら、名残惜しげに一言の腕に触れる。
「続きは年が明けてからの楽しみにしておこうよ」
諌めるように、一言は言うので依子は少し不服げに口を尖らせる。
「でも、村での宴会や、それに三日には御前の元に行かねばなりませんし」
地元の名士である一言は元旦に行われる村の行事を始め、方々から宴会の誘いも来ている、それに挨拶回りもせねばならない。
何より三日には国常路家私邸への訪問という大事な予定がある。
一言にそんな余暇を過ごす余裕が正月の間にあるとは思えなかった。
「君との時間だって作れるさ」
「でも」
「依子は嫌なの?」
「一言様の意地悪……嫌なわけ、ないじゃないですか」
「それは良かった」
一言はほっとしたように言って、テーブルに置かれた酒器を盆の上に載せる。
「でも無理はなさらないで下さいね?」
依子は横から盆を奪うように手にした。盆の上に置かれた瑠璃色の小瓶が衝撃で少しだけぐらつく。
「大丈夫だよ」
男としては細身な、それでも女の依子からしたら充分に男らしいところのあるしなやかな手が、盆の上から小瓶をひょいと持ち上げた。
取り返す暇もなく、一言は居間へと向かった。そのもう片方の腕の中には先程一言が用意した酒瓶が抱えられている。
ずるいひとだ、依子は内心呟いて一言の後を追った。
磨り硝子の窓の外では雪がちらつき始めている。雪見酒をしながら年を越すのも良いかもしれない。
窓の向こうから、除夜の鐘の音が鳴り始めた。