1999.07.11〜2004.05
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「おや」
縁側で眠るもう一人の弟子を見て、一言は竹刀を下ろし穏やかに笑った。
「私と一言様の稽古を見て学ぶのだと意気込んでいたと思ったら」
首元に汗を滲ませながら、紫は柱に寄りかかり春の陽だまりに晒され眠りこけている依子の白い頬を突く。
「今日はこんなにも暖かいから、日向にいれば眠くなってしまうのは当然かもしれないね」
「この子は猫ですか」
「あはは、確かに茶色くてふわふわしていて身軽だし、猫みたいだよね」
「たまに屋根の上にいますしね」
「そのうち、登らなくなるさ」
竹刀を置き、眠る依子を一言は抱き上げる。
この家に来た時に比べ、随分と重くなったものだ。
それでも同じ年頃の普通の子供に比べたら、彼女は軽いのだ。あの日からたった数週間でこの腕の中の少女の環境と肉体は、何もかもが変わってしまった。
点滴の刺された血管ばかりが目立つ腕。
色素の抜けた髪は短く刈り上げられ、落ち窪んだ色の違う瞳は眠ることを許されない。
自分がいなければ、あの後彼女はどうなっていた?
そんなことは予言の力を使わずとも簡単にわかることだった。
あの夏の悲劇で命以外の全てを失い王になり損なった彼女は、一言に救われなければ白い病室から出ることも出来なかった。
だから、一言はこの手を取ったのだ。
あの日見た幸せな
一言はようやく重くなったその体を確かめるように、腕の力を静かに強める。
すると腕の中で身動ぐ感触を感じて一言は視線を下ろした。
ゆるゆると瞼が上下し、極僅かに色の異なる瞳が一言を認識する。
周りを視線だけできょろきょろと見回し、自分が寝ていたことにやっと気付いたようだ。
「あれ、え、一言様?」
「やあ、おはよう依子」
「お、おはようございます…って稽古は」
「もう終わったわよお寝坊さん」
こつりと紫は依子の額に拳を軽くぶつける、脇にはふた振りの竹刀を抱えていた。
「じゃあ次は私が」
「残念、もう夕食の準備の時間よ。今日は二人分の時間一言様にお相手してもらったから私は幸運だったわね」
「えー!」
「で、依子ちゃんはいつまでそうしてもらっているの?」
「へ?」
間の抜けた顔で依子は目の前の兄弟子と頭上の一言の顔を数回見て、ようやく自分の置かれている状況を察したのか、顔を赤くし急に手足をもたつかせた。
「お、降りますっ!」
「もうちょっとこうしててもいいんだよ?」
「ちょっと一言様、あまり依子ちゃんを甘やかさないでくださる?甘えぐせがつきますよ?」
「いや、依子は普段中々甘えてくれないのだしたまにはーーー」
いいじゃないか紫くん。
そう一言が言おうとした矢先、パシュンと乾いた音が響いて淡い紫色の光が一言の腕の中で瞬いて腕の中の重みが嘘のように消えた。
「きゃっ!?」
「うわぁっ!?」
と同時に弟子二人の妙な声と、何か重い物が地面に落ちた鈍い音が聞こえた。前者が紫であるのは言うまでもないことだろう。
腰を押さえる紫の膝の上に、横抱きにされたままの体勢の依子が突然のーーといっても珍しくはないことだがーーことに目を見開いたまま呆然としている。
ぎこちなく首を上げ恐る恐る依子は口を開いた。
「えっと、紫ちゃん」
「依子ちゃん、貴女、稽古がしたいのよね」
一節ずつはっきりと、背筋を冷たいものが走るような低く艶麗とも言える声が、一言には地の底から響いたように聞こえた。
「……はい」
その迫力に圧倒され、依子は小さく肯定する。
聞くや否や紫は衝撃で散らばった竹刀を拾っていた一言に、その涼やかな美貌の上に研ぎ澄まされた鋒を思わせる凄艶な笑みを浮かべ、しかし優雅に師に問い掛けた。
「一言様、しばらく妹弟子と自主的に稽古に励みたいのですが、宜しいですね?」
依子は捨てられた子猫のように目を潤わせて、己が師に救いを求めた。
一言はふむ、と顎に手を添え二人の弟子を見比べる。
一言本人としては、依子の力の暴発はままある事として受容していた。以前よりも頻度が減ったことは事実だし、暴発したとしても一言の側であれば対処のしようがあるので大して問題ではない。
目の前に跳んでしまう程度なら大した問題ではない。
無論人を巻き込まなければ、の話だが。
今回のパターンは無意識のうちの暴走ではなく、依子の感情が高ぶって力のコントロールが一時的に効かなくなったことに原因なのだろう。
ーーまあ、今回は仕方ないかな?
「ああ、いいよ。今日の夕食は私が作ろう」
「そんな!」
見捨てられた!とでも言いたげな依子の絶望した顔をクイと指で持ち上げ、紫は美しく笑う。
「さあ依子ちゃん、お兄様と鬼ごっこをしましょうか」
「ご、ごめんなさああああい!!」
依子は謝りながら、一目散に駆け出した。獣のような俊敏さで紫は追いかける。
「謝るくらいなら私の上に跳ぶんじゃないわよ!」
「だって起きたら一言様に抱っこされてたからびっくりして!」
「あなたが猫みたいにグースカ日向ぼっこしてたからよ!見稽古するって言ってたじゃないの!」
「もしかして抱っこが羨ましかったの?」
「……無駄口叩く元気があるようね、眠っていたのなら当然と言えば当然かしら」
「えっ図星だったの!?ってうわぁーっ!紫ちゃん、兄さん、ごめんなさい!」
「問答は無用よ、依子ちゃん!」
バタバタと、それこそ幼い猫が戯れ合うように庭中を駆け回る二人。
十代半ばの少年の頃を過ぎたばかりの紫の足でまだ十を越して間もない依子に追いつけないのは、捕まるすんでのところで依子が跳んで紫との距離を離しているからだ。それを紫もまたしなやかに身を翻し、最短ルートで妹弟子を捕まえようとする。
ーーだいぶ力の制御はできて来たようだ。
ぎゃあぎゃあと賑やかに騒ぎながら、鬼ごっこという名の捕物を続ける二人を眺め一言は目を細めた。
力の暴発は要は依子自身の心の問題だ。後は彼女次第、それもきっと上手くいくだろう。
「そんなに跳べるならどうしてさっきしなかったのよっ」
「吃驚したら跳んじゃうのは仕方ないじゃない!」
「何よその鼻がむずついたらくしゃみするみたいな言いようは!」
「実際そんな感じなんだもの!」
「それで下敷きにされたらたまったもんじゃないわよ!」
「だからごめんってばー!」
まだまだ終わる気配のない鬼ごっこに一言は苦笑して竹刀を仕舞いに向かう。
さて、鬼ごっこが終わったら疲れきっているだろう可愛い弟子二人と今日は何を食べようか。
兄妹弟子の喧騒を背に、一言は冷蔵庫の中身を思い返した。