2008〜2012.09.25
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夏の暑さのいい所と言えば、朝に干した洗濯物が太陽が昇りきった頃には乾いてしまう事だろう。
首筋が日差しに焼かれジワリと汗がにじみ出る。せっかく朝の稽古の後に行水をしたのに、これを終えたらもう一度しようかしら。
庭の木々を通り抜けた風が、物干し竿にかかる洗濯物をはためかせ、シャラシャラと百日紅の紫色の花を鳴らした。
乾いたばかりの熱を残す洗濯物を藤製の籠に入れて、第二弾の洗濯物ーー主に依子のものが中心だ、あまり量はない。大抵の服は東京の部屋に置いてあるからだ。ーーを干し終えると、依子は暑さに耐えきれず籠を抱えて一目散に庭から『跳んで』縁側へ逃げ込んだ。
狗朗は今日は一日滝行に打ち込むのだと言って、出て行ったきりだ。
早朝の稽古の後、朝食の他に余分におかずを作っていたがあれは弁当だったのか。おかずが傷んでいなければいいけど、保冷剤でも入れておけばいいのだけど狗朗のことだから何らかの対処をしているだろうし大丈夫だろう。
普段は今の依子よりも熱心に家事や家で出来る修行に専念しているのだが、たまには一日中一つの稽古に専念してみたいのだと弟弟子に語られて、家の事を手伝ってくれとは言えない。
珍しい弟弟子の頼みを姉弟子として引き受けない訳にはいかない、基本的に依子は狗朗に甘いが肝心の狗朗が甘えてくることは殆どないのだ。
(昔は「姉上、兄上」って仔犬みたいに可愛かったのになあ)
それほど狗朗が大きくなったということでもあるのだろう、幼い頃から知っている弟弟子の成長は嬉しくもあり寂しくもある。
つっかけていた新しい水色のサンダルを脱いで家の中に上がる。クロのいない家の中は、静かだ。
だが人の気配が無いわけではない。
依子は洗濯物を畳む為に居間へと足を伸ばす。
「依子かい」
「一言様」
硝子障子の向こうから声がして、内側から開かれた。
薄鼠色の涼しげな着流しを着た一言が、座りながら襖を開き依子を手招いた。一言を待たせるわけにはいかないから、依子はぱたぱたと手早く居間へ入る。
障子の反対側にある襖のそばにプラスチック製のレトロな白い保冷剤カバーを嵌めた、これまた昭和の風情残る扇風機が目立つ駆動音と共に室内の空気を循環させている。
昨夜の夕食の時にも、そろそろ空調を新調させようかという話を三人でしていたのだ。
山奥とはいえ、決していつも快適な気候という訳ではない。必要最低限の空調は備えておいて悪いことはないだろう。
依子を招き入れた一言の癖っ毛は、片方だけ更に癖が付いていた。静かな家の中で自分が足音を結構立てていた事を思い出し、あれで起こしてしまったのだと自省する。
「起こしてしまって申し訳ありません」
「いや、丁度これから昼寝をしようと思っていたところだよ。それよりも洗濯物を取ってくれてありがとう」
「帰って家にいる日はできる事がしたくて」
「でも暑かったでしょう」
一言に座るようと手招きされて同じく座布団に座った依子の籠から一言は、布巾を取り出し手際よく畳んでいく。
「ええ、でも東京に比べたら、こちらはずっと涼しいです」
依子も洗濯物を籠から取り出し、畳みながら一言に言葉を返す。
「都会とこちらは空気が違うからね」
「心なしか、此方の空も広く思えますね」
「『東京には空がない』と君も感じるのかい?」
「そうですね」
依子は狗朗のシャツを畳む手を止め、少し思案する。
「さしずめ私のほんとうの空は、この山の上に広がる空なのかもしれませんね」
『あどけない話』のようだね、一言はそう言って苦笑する傍で依子は空の向こうに青空のような人の面影を垣間見る。
『依子』
『君はいつかーーになるかもしれない。だがそれは俺ではない誰かのーーなのだろう。だがもしかしたら』
或いは、霞んだ記憶の断片で垣間見る、眩しいほどの青空とその下に立つ太陽のような目をした誰かこそ、依子にとって原初の「青空」なのかもしれない。
記憶に残る言葉は所々曖昧で、ノイズがかかったように思い出せない。
『君はその人のーーだけではない何か違う存在になるのかも、しれない』
『俺としては珍しく、君のこれからのことについてはどうにも予測がつかない。或いは、ーーさんならば見えるのだろうか』
あの夏の日に、赤い炎に焼かれて多くの記憶を失っても、青天のような人の記憶だけは所々を焦がしながらも鮮明に残っている。
『だから、君がどんな未来を歩むのか俺は楽しみでならない』
幼い頃の「依子」はその青年のことが大好きだった。
憧れと尊敬、名前も顔もどんな立場にいた人だったのかも覚えていないけど、もしかしたら子供の頃の依子にとって「淡い初恋」と呼べるものだったのかもしれない人。
『俺が言っていることが難しいか。だがいずれ分かる、きっと』
リフレインする軽やかな笑い声は、目の前の一言よりも若く少しだけ高い澄み渡るような青年のもの。近頃幼い日に「彼」と交わした会話をよく思い出す。それなのに彼が何者であったかを依子はさっぱり覚えていない。
一つだけわかるのは、青空の似合う太陽みたいな目をしていた人ということだけ。
あれは誰だったのか、依子は記憶の中の青年の正体を知る術を持たない。
己の王はもしかしたら知っているのかもしれない。だがどうしてか、依子は記憶の中の『青空の人』について一言に聞くことが出来なかった。
依子は思案に耽りながら、真白く糊の効いたシャツを狗朗の洗濯物の上に乗せる。二人で畳んだ分、随分と早く終わってしまった。
乾いた洗濯物をそれぞれの衣服や風呂場で使うものに分けて、個人個人で自室の衣装棚にしまうことにしている。
ここにあるのは一言と狗朗の衣服とバスタオルや布巾くらいで、依子のは先ほど干したばかりだから夕方になったら回収する。
狗朗に自分の下着を干させるのは健康的な青少年の精神衛生に悪いような気がして、数年程前からなんとなく分けるようになっていた。
「さて」
空になった籠を居間の隅に置いて、一言はいつのまにか確保していた大判のタオルケットを広げて自分の体の上にかけてごろりと横になった。
一言は夏の一番暑い時間にはよく転寝をする、彼の午睡の邪魔になってはよろしくないだろう。
麦茶の替えを淹れて、部屋に戻って汗を拭って服も着替えよう、それから食事の支度まで読みかけの本の続きを読むのも悪くない。
依子はこれからの予定を頭に浮かべ、部屋に戻るついでにしまおうと、何枚か布巾を片手に立ち上がる。
「それでは私は部屋に戻りますね」
「ねえ、依子」
日の明るい時間に聞くことのない、甘やかな低い声が依子の動きを止めた。肘を枕にして頭を上げて横になる一言が、タオルケットをめくり邪気のない顔で笑う。
しかしその眼の奥に一瞬湛えられた暗い光を依子は見逃さなかった。
「君もたまには一緒に横にならないかい?」
どきりと鼓動が高鳴る音が耳の奥で響いた。
依子は一言のことばにどうしても逆らえない。たとえ拒絶したとしても、彼は寂しげに笑い依子の意志を認め手放すのだろう。
それでも、依子は囚われてしまっている。
三輪一言の言葉は数多くの自由について教えながら、澱のように静かに依子の心に沈み、捉えて離さない。
囚われてしまうことが依子の幸せなのだから、結局のところそれで構わないのだけど。
「では、お言葉に甘えて」
「うん、さあ入って入って」
一言の隣に依子は遠慮がちに横になる、固い畳の上に体を沈めれば藺草と乾いたばかりの洗濯物、それからすぐ近くにいる一言の匂いが混ざって依子の鼻腔を刺激する。
同じ洗剤を使っているのにクロのそれとは違う。弟弟子や友人達とも違う、自分よりもずっと離れた年回りの男の人の匂いだ。
本来ならばこんなに明るい昼間から嗅ぐものではなく、薄暗い明かりの中、布団の中で肌を重ねる時に、どちらから出た液体なのか分からないものが汗と共に布団を滲ませ、自分と
頭では分かっている、けれども体は従順だ。
徐々に熱を帯びているような気がするのは、きっと暑さのせいだけではない。
「そんなに顔を畳に付けていると、顔に跡がついてしまうよ」
くすくすと笑いながら一言は、自分の頭を支えていた片腕を依子の頭の下に滑らせて、自分は座布団を二つ折りにしてその上に頭を乗せた。
「でも痺れてしまいますよ」
「ちょっとくらいだから大丈夫だよ」
剣術の達人である一言の腕は、細身ながらも筋肉でしまっていて硬い。
涼しげな部屋で一言と依子が重なるこの場所だけが、外と同じ気温のようで暑くないのかと不安になる。胸の内で騒ついているこの感情は不安だけではないと依子は知っていた。
けれど一言はそんなことを気にする様子もなく、もう片方の自由な腕で依子を抱き寄せ己の腕と胸の間に依子を納めた。
ホットパンツを履いた依子の剥き出しの脚が、荒い織りをした布の質感越しに一言の鍛えられた脚と触れて、不意に心拍が高まる。
二人だけの夜のように絡めることはなく、ただ触れ合う温もりが夏のじれったい暑さとは違って不快ではない。
明るい部屋、太陽の匂い、布越しの温もり。
繋がらないものが一つになる。
一言は自身の胸に沈めた依子の薄い色をした髪を撫で、すんと匂いを嗅ぎくぐもった声で笑う。顔が見えなくても、今一言は目を細めて笑っているのだろうと依子には分かった。
「君と、お日様の匂いがするね」
その言葉に依子の体温は更に上がってしまう。赤くなった顔を冷ましたくて依子は頭上にある一言の顔を見上げる。
深く澄んだ一言の目は悪戯っ子のように笑っていて、先ほどの暗い光は見当たらない。
依子に触れる手も、夜のように理性をすんでのところで押し留めながら快楽という毒を依子に与えるものではない、ただただ暖かな温もりだけを伝えるものだった。
(あれは錯覚だったのかしら)
「たまには二人でのんびりと、昼寝をするのも悪くはないでしょう?」
楽しそうに微笑む一言の腕の中で、依子は届かない唇の代わりに彼の懐に顔を寄せた。