2004〜2009
名前変換
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いつもの「依頼」で、田舎に来ることはよくある事だ。
「依頼」が思いの外手間取り、帰りの電車も無くなってしまったのも、まあ仕方がない。
御前にこんな時間にヘリを頼むというのもよくないだろう。この判断もわかる、本当に一言様は優しい方だ。
どこか宿泊施設で夜が明けるのを待つ、これもまた合理的な判断だ。
「ええ、分かっています、一言様がこういう判断に至るまでの過程はわかっています」
だけど、
「なんでそれがよりによってラブホテルなんですかーー!!」
私と一言様は今、田舎のラブホテルにいる。
清潔ではあるがどこか派手なラブホテルの一室に佇む一言様。うわあ、凄く似合わない。
「一番最寄りの宿がここだったからね」
何気なしに言いながら、一言様は手際よく備え付けのポットのお湯を沸かして段取り良くお茶を淹れる。その向こうには、華美な装飾が施されたクイーンサイズのベッドが鎮座していた。
無論、ベッドは一つだけ。何を意味するのか、私には勿論分かっている。わからぬ子供ではないのだ。
一言様は未だに入り口にぽつねんと突っ立っている私を見ながら眉を下げ、申し訳なさそうに言った。
「こういう所は本当は好きな人と来るものだけれど、でも今回はここしか近い宿がなかった。背に腹は変えられないけれど、君には悪いことをしてしまったね」
「いえ、その……」
別にここが汚らわしいなどと思っていない。恋人たちのそういうことは当たり前のことだし、其処まで潔癖がるような気質でもない。
嫌でないから困るのだ、好きな人と来ていることが問題なのだ。
肯定も否定も出来ず、私は棒立ちしたまま口をパクパクさせる。どうしよう、そう思っていると隣の部屋からギシギシと規則的な振動が伝わってくる。防音はされていても振動は防げないのだ。
何をしているかって言えばそれは、ナニだろう。
「わ、たし、お風呂入って来ます!」
一言様の返事も待たず、私は逃げるように洗面所に駆け込んだ。
自分の能力を使いたくなるけど、初めての場所だから使うことはできなかった。
バタンと勢いよくドアを閉めた瞬間、私ははたと気づいた。
(あれ、これって漫画とか小説でよくある展開だよね?)
そしてこの後起きる展開といえば、
「うわぁぁ……」
想像して扉に背を貼り付け、ずるずると座り込み顔を覆う。顔がやたらと熱い。
(こういう時どうすればいいの、先に一言様に風呂を譲ればよかったんじゃ。でも待つ間耐えられない。まだ私達そういう関係じゃないし、なんで一言様慣れているの、そりゃそうよねずっと年上なんだもの行ったことある…よね。あ、ダメ、想像できない)
ぐるぐると思考が巡る。兎に角お風呂に入って頭を冷やそう。
几帳面に服と下着を畳み、浴室に入り浴槽にお湯が溜まるのを待ちながら、髪と体を洗う。いつもより体を念入りに洗っているのは、気のせいに違いない。
普段と違うボディソープのバニラとムスクの甘ったるい匂いに、頭がクラクラする。冷やすはずの頭が、ますます熱くなっていく。洗い終えるとタイミングよく浴槽にお湯が溜まっていた。
給湯を止めようとして間違えてあらぬボタンを押すと、パッと浴室の一方の壁を覆う曇りガラスが切り替わり、部屋が映し出される。
違う、こちらが室内から見えるようになったのだ。
切り替わった物音に気付いて、部屋のソファに座っている一言様がこちらを振り返る。
勿論、私は何も着てなくて、
「依子?」
「ご、ごめんなさああああい!」
きょとんとした顔でこちらを見やる一言様に裏返った声で思わず謝った。
なんで謝っているの私。
言語化できない悲鳴をあげ、スイッチをやたらめったらに押す。浴室の照明が切り替わり、突然ジャグジーが吹き出し、もうしっちゃかめっちゃかだ。
ようやく曇りガラスに切り替えて、隠れるように湯船に浸かる。
「いいよ、ゆっくり入っておいで」
笑い声混じりでそんな言葉が、部屋から聞こえてきた。
ああ、もう恥ずかしい。慌てふためいている私を見て、面白がっていませんか一言様。ずるい、大人の余裕ってずるい。
温かな湯船に浸かれば、水面越しに自分の痩せっぽっちな体がゆらゆらと光に屈折して歪んで浮かび上がる。
同じ年頃の女の子たちに比べると胸もお尻も大きくなくて、子供がそのまま大きくなったよう。
引き締まっているといえばそれだけだが、女の子らしいふわふわとした柔らかさに欠けた体。
普段は目立たないけれど、体のあちこちに薄く残るあの時に負った傷跡。それに修行で出来た痣も絶えない。
あまり、綺麗ではない体。こんな体をあの方に見せたくなかった。
自分の体を抱きしめながらしばらくぐるぐると暗い思考が回る。
ついでに言えば世界も回る。
これはまずいなと思って湯船から上がり、ぺたりと冷たいタイルに足をつけたはずだった。
立ち上がろうとしても足に力が入らず、ぐらりと体が傾く。
「あれ?」
ふつり、と私の意識はそこで途切れた。
その寸前、浴室のドアが勢いよく開かれる音と、慌てて私の名前を呼ぶ聞き慣れた低い声が聞こえた気がした。
†
目が覚めたらそこは見知らぬベッドの中だった。
生乾きの髪によく知っている暖かな手が触れる。
「…………いちげん、さま?」
「気がついたかい?」
まだ、ラブホテルの一室にいた。
ベッドの横に置いた椅子に座り一言様は、心配そうな顔で私の頭を撫でている。癖のある黒髪は水分を含んでいて、いつものふわりとした柔らかさを失った状態でバスローブに張り付いている。
私が気絶している間この人も入浴していたのだろう。
「湯あたりしてしまったんだね、どこか痛いところや違和感を感じるところはないかい?」
「大丈夫、です」
乾いた声で答えながらベッドから起き上がると、少しぬるくなったお茶の入ったカップが渡された。
それを飲もうと目線を下げれば、自分も彼と同じバスローブを着ていることに気づいた。帯がやたらしっかりと締められている。
差し出された手から私と同じ匂いがした。家でもない場所で、いつもと違う同じ甘ったるくて胸焼けしそうな匂いがするという事実に背筋がゾクゾクする。
サイドテーブルにカップを置く音が、やけに室内に響いた。
「うん、大丈夫そうでよかったよ」
一言様は安堵の表情を浮かべた後いつもと同じ、穏やかな笑みを湛えている。
どうしてだろう。私はそれが、たまらなく嫌になった。
こんな非日常の場所に二人きりだというのに、考えすぎた私の自業自得だけどハプニングだって起きて、私はこんなにも心をぐちゃぐちゃにされているのに。
この人は何も思わないのか。
何もかも、その力で分かっているのに、どうしてそんな風に平然と穏やかな顔をしていられるのか。
(私はどうしたら、この人の心を揺さぶることが出来るの?)
兄弟子のように、私も自分の魂をぶつけねばならないのだろうか。
だとしたら、それは今しかない。このいつもと違う世界で、
「一言様」
「うん」
言うのを躊躇ってしまう。
私がすることは今までの関係全てを壊す行いだ。越えてはいけない線を越える。怖くないと言えば、嘘になる。
でも言わなければ。
ずっと隠すなんて、私には出来ない。
名前を呼んでから続かない私の次の言葉を、一言様は待ってくださる。
本当に優しくて、ちょっと鈍くて、どうしようもなく残酷で、でもそんなあなたが私は
「好きです」
一つの線を、私は跳び越える。
目の前の深い知性を湛えた黒瞳が見開かれる。
これは視えていなかったみたいだ。
「クランズマンとか、師弟とかそういうのではなくて私は」
「依子」
続けたかった言葉は、彼の人差し指で口を抑えられた。
「今はまだ、その時ではないよ」
「どうして、ですか」
「私は、今君に返せる言葉が何もないんだ」
一言様は柳眉を歪め、苦い顔をする。私は言葉が出せなくなる。
「え……」
「君はまだ子供で、私は大人だ。それも君を守るべき、ね」
「でも、結婚だって出来る年齢なんですよ」
「それでもだ、聞き分けなさい依子。君は今、自分の感情に振り回されている、そうでしょう?」
一言様は厳しい顔をしている。それが怒りではなく諌めるための顔だということを、私はよく知っている。
初めての恋だ、でも相手がまずかった。
それは恋をしてしまった私が一番よく知っている。彼は育ての親でその上私の主君なのだ。抱いている感情があまりにも大きすぎて、私はそのないまぜになった自分自身の感情にずっと翻弄されている。今だってそうだ。
「……っ、はい」
「私は君に誠実でありたい、だから今ここで答えることは出来ないんだ。君はまだ子供でそして君の世界にはまだ私達しかいない」
ニッコリと優しく、でも残酷に彼は笑う。
「依子、君はもっと世界を見ておいで、そうして大人になってまだ私への気持ちが変わっていないのなら、私は君に答えをあげるから」
「……ずるい」
「そうだね……とてもずるい事をしていると自分でも思うよ」
「でもダメだとは言わないんですね」
「君の想いを否定する権利は私にはないからね」
「……やっぱり一言様はずるい」
子供のように拗ねる。もう出来ないと分かっているから。
「ふふ、でも忘れないでくれ、どんな形だったとしても私は君が大好きなことは変わらないよ」
本当に優しい人だ。
「さあ、もう寝なさい」
「また子供扱い……」
唇を尖らせ横になる私に一言様は布団を被せる。その手つきは子供の頃と変わらない。
「私からしたら子供だからね」
「いつになったら大人として見てくれますか?」
「そんな事を言いださなくなったら考えてあげるよ」
「ずるい」
思わず頭まで布団を被る、本当に子供みたいだ。こんなこと狗朗や他の人がいたらしないのに。この人の前で、私は子供に戻ってしまう。
「私はそっちのソファで休むから、君はそのまま寝なさい」
「さすがにそんなことはできません!」
ガバリと勢いよく起き上がろうとする私の肩を抑え、一言様は茶目っ気に笑って静止させる。
「いいんだ、クロもそうだけど君も甘えないだろう?私にたまには君を甘やかさせてくれないかい?しかし君たちはほんとうにそっくりだね」
「貴方が育てたんでしょう?特に狗朗は」
「うーん、原因は私かな」
「かもしれませんよ」
くすくすと二人で笑い合う。無意識の行動なのだろうか、私の頭に手を伸ばす一言様のその手が止まり自分の膝に置かれる。
その夜は当然眠ることは出来なかった。