1999.07.11〜2004.05
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(おや)
自身が吊られている糸を軽く手繰り寄せられているような、髪の毛をほんの一本痛くない程度に引っ張られているような、奇妙な、けれどもけして心地の悪いものではない、やはり奇妙な違和感。
次第に慣れつつあるその感覚を、一言の五感ならざる感覚は仔細に捉え、書物の頁を捲る手を止めさせた。
色味の濃くなった初夏の空は、朝よりも些か雲が増えて、もうすぐ梅雨が近いのだと一言はふと思う。庭に咲く紫陽花の一部が去年とは色が違うのは、あの子が自由研究だと言って肥料をあれこれやっていた結果なのだろう。
色とりどりの紫陽花の向こうに浮かぶ小さな人影を確認して目を細めてから、一言はその人影の動きを観察する。
小さな人影は木刀を手に、同じ年頃の子どもに比べて長い手足が伸びやかな動作で一連の動きを繰り返す。少女とも少年とも未だに言い切れない中性的な体躯が繰り出す動作は、些かぎこちなさが残るがそこに澱みは見られない。
自分は最初、彼女には剣を教えるつもりなどなかったのに、いつの間にか教えることが楽しくなっていることを一言は否定できない。
紫とは異なり、所謂「剣道」と呼ばれる類いの道場でのみ振るわれる剣しか知らない彼女が、少しずつ一言の剣を覚えていく様を見守り喜びを知る度に、彼女に剣を取らせる事への躊躇いが薄れていく。
(けれども、忘れてはいけない)
未来が見定まらぬこの少女に剣を教えることが、彼女を死地へと向かわせる可能性をより強くすることを。
一度何もかも失わせた少女に再び、喪失の悲しみを与えるかも知れないことを一言だけは忘れてはいけない。
己が与えたものは、多くの縁から断ち切られた彼女を再び様々な縁と繋がる一助となるだけでいい。そうでなくともどこにでも行ける意志と異能(ちから)が彼女には既にあるのだから――。
「一言様!」
拗ねたような彼女の声音が、一言を現実へと引き戻す。
「依子、どうしたんだい」
「それはこっちの台詞ですよ、折角紫ちゃんがいないから一対一で稽古をして貰おうと思ったのに一言様ったら手を振っても近づいても上の空ですし」
木刀を手にしたままの少女は背伸びをした口調で、年相応に不満げな様子で唇を尖らせる。
また自分の悪い癖が出てしまったらしい。
「うん、すまなかったね」
「上の空なのは別にいいんです」
幼い弟子の謎かけのような言葉に、一言は首を傾げる。
「上の空な一言様って何かを真剣に……一生懸命考えている一言様ですし、あんまり邪魔するのもよくないかなって」
でもあんまり気付かれないと少し寂しいかも。
段々と声の小さくなる新たな愛弟子に、一言は苦笑する。
そういえばあの先程の違和感は、彼女が異能を使ったときに良く感じるものだ。
クランズマンは《王》を介して異能を行使する。
元がストレインであるとはいえ、彼女も一言と主従の制約を結んでいるから異能やそれに追随する能力を使えば一言の方で察知できるのは当然のことだ。
けれどもどういうわけか、依子の声は異能よりもずっと一言に良く届く。
「幾らでも呼んでくれて構わないんだよ」
今を懸命に生きようとする依子の声は未来を見ることしか出来ない己を「今」に引き戻す、まるでそれが彼女の役割なのだと言わんばかりに。
(けれど、それだけではいけない)
いつか彼女自身の望む幸せのために、いずれはその手を離すと決めているのに留めてしまっては何にもならないというのに。
かつてすくい上げた少女は一言の胸に過ぎる僅かな憂いなど知らないまま、一言だけを見て笑いかけた。