1999.07.11〜2004.05
名前変換
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一振りの刀を挟んで、私は静かに一言様の座りに座る。
黒い漆が塗られた鞘から、刀身が抜き出された。
すらりとしたその刀身は陽の光を受けながら、薄青と灰色の間の色彩を行ったり来たりしている。
刀というものは皆銀色をしているのだと思っていたのだけど、光に当たると淡い青や緑、紫といった色彩に変わるのだと知ったのは最近の事だ。
一言様が持っている
深い樋がすうっと通っていて、そのふた振りよりも少し分厚くて、ほんの少しだけ短い。
大脇差、とか小太刀とかそう呼ばれる刀であるらしい。
普通の刀よりも短いせいか無骨でがっしりとした骨太そうな刀だ。なのにその刃紋は水面のようにきらきらと揺蕩いながら、光を受けて美しく輝いている。
(人を殺すものなのに、刀というものはどうして宝石のように綺麗なのかしら)
一言様が手にされているのは私がただ一つ一言様に救われる前から持っていた、父の形見だ。
今は一言様の手元に置かれ、時折他の刀と同じように手入れをしてくださる。
私の刀なのだから自分で手入れをしたいが、もう少ししてからだと言われているので我慢だ。
手入れの間、その行程を眺めることは許されているから、私は一言様の手や目の動きをじっと観察する。
いつか自分でちゃんと、己の刀を磨けるように。
キラリと刀身が光を反射して、鏡のように一言様の真剣な眼差しを映す。
よく切れる刀のように、硬質的な凛とした眼をしているときの一言様が好きだ。
いつもは見ることのできない表情を見れるのは刀の手入れをするときのこの時間だけ、これは私の特権的な楽しみだ。
私がじいっと見つめているのが刀を反射して見えたのだろう。刀身が映す一言様の眼差しは、先ほどよりも柔らかいものに変わる。
私も悪戯がバレた子供のように笑って返した。
一通りの作業が終わるまで、私も一言様も喋らない。
張り詰めた、でも暖かな空気の中、鳥の声がよく聞こえる。
庭先には白く柔らかな木蓮の花が恥じらいながら咲いている。
そよ風が吹けば、木蓮の隣に植えられた沈丁花から瑞々しい透き通った匂いを漂わせる。
沈丁花の匂いは早春の匂いだ。
もう直ぐ桜も咲くだろう、一言様は山にお花見をしにいこうと言うに違いない。そうしたら紫ちゃんと狗朗とお弁当を作るのだ。
おにぎりならまだ小さな狗朗と一緒に握れる。
具はおかかと梅干しと、それから鮭は瓶詰めのものがまだあったはず。
田中のお爺さんと採りに行く約束をした春の山菜で、一言様が煮しめを作られると言っていた。
ふんわりとした卵焼きは私の担当、ネギとしらすを入れて出汁巻きにする。
去年好評だった桜海老と大葉の小さなかき揚げは再び紫ちゃんが作るはずだ。
ウインナーをタコみたいにしたら狗朗は喜ぶかしら。
唐揚げも作らなきゃ。
沢山みんなで作っても、花見の帰りには重箱は空になっているだろう。食べ盛りが三人もいるのだから。
「終わったよ」
その一言に、私はハッと現実に戻される。
そうだ言わなくては。
私は一言様に頼みたいことがあって縁側に来たというのに、お弁当について考えていたらすっかり忘れてしまった。
「一言様!」
「どうかしたのかい依子」
一言様は小首を傾げる。
「ね、一言様。この刀に名前をつけてくださいませんか」
「私がかい?」
一言様は黒い綺麗な目を見開いて私に答えた。
「はい」
「いいのかな、これは君のお父様のものでしょう?」
少しだけ申し訳なさそうに一言様は言った。
この刀は私がストレインとして保護されたとき、唯一手にしていたものだった。
たしか祖父が帰り際に父に渡してくれと私と母に頼んだのだ。でも、結局私は父に渡すことが出来なかった。
擦り切れた写真のように掠れた思い出の中わずかに覚えている父は、名無しにされることの方が嫌がりそうだと思うのだ。
自分が仕事で使うサーベルにも銘をつけたいとよく言っていた人だったから。
「こういうものに名前というのはあるべきなんです。でも私、その刀の名前を覚えていなくて。いつか私のものになるのに、名無しのままなんてなんだか可哀想」
「君ではなく、私でいいのかな」
「私は一言様につけていただきたいんです」
ここで自分の意思をちゃんと伝える。
この人は穏やかに透徹に人の意思を見る人だから、私がそう決めたのだとなればきっと断られはしないだろう。
一言様は顎に手を添える。
悩ましげに眉間にしわを寄せ、難しい顔をし少し思考なさってから口を開いた。
「ふーむ、わかった。私が銘をつけよう、ところで何か希望はあるかな?」
「希望、ですか」
「ほら、花とか鳥とか何か可愛らしい名前がいいとか、入れてほしい漢字があるとか、どんな名前が君はいいかな?範囲が広いと私も悩んでしまうからね」
はて、そう言われても私はこの刀に似合う名前のその断片すら伺えなかった。今は本当に私のものではないからだろう。
私と同じで、一言様の預かりもの。
だから、だから名前をつけてもらいたいのだ。他ならぬ一言様に。
『一言様に』その言葉が出て来た途端私の頭に名案が浮かんだ。
「……じゃあ。一言様の刀みたいな名前にしてください!『ことわり』とか『あやまち』みたいに漢字一文字で訓読みの!」
同じがいい。
お揃いがいい。
きっとあの二振りは、兄と弟二人の弟子に託されるものだから。
どちらがどちらかなんてわからないけど、私にはこの名無しの刀があるから。
そうでなくとも一言様が持つ兄弟刀は私ではなく二人の手に渡るのだろう。
私には奇妙な確信があった。
ならせめて名前くらいはお揃いがいい。
血の、鉄の繋がりがなくても何か繋がりがこの刀にも与えられるのならばそうしたいのだ。
私たち三人のように。
「……本当にそれでいいのかい?」
「はい!」
「うん、少し考えさせてくれないかい。良い銘をつけてあげるから」
「もちろんです!」
うららかな春の日差しの中私たちは約束をした。
†
それから一言様に呼ばれたのは、桜が三分咲きになった頃だった。
ちゃぶ台に置かれたのは一振りの刀。
私の、名無しだった刀。
「
穏やかに一言様は告げた。
「うつつ、ですか」
「うん」
「………」
言葉に詰まる。
「嫌だったかな」
「いえ!とんでもありません………でもうつつを抜かすとか言うじゃないですか。あまりいいイメージが無くって」
少し眉を下げる一言様に私は慌てて返答をした。現、うつつか、なんだかふわふわとした感じだ。
まだ私が呼び慣れていないだけでこの刀の銘はもう『
私の言葉に一言様は頷き口を開いた。
「うん、そう言う意味もあるね。でも『
「そうなんですか」
「夢とも現実ともつかないことを表すこともあるけれど……後は
今度調べねば、私は内心決意してはたとあることに気付いた。
珍しく一言様の説明が丁寧だ。
もしかして辞書を開いて調べてくれただろうか、そういえば最近何回か一言様の部屋の明かりが夜中まで灯っていた気がする。
あれは、この刀に良い名前をつける為に。
「『昼は夢、夜ぞ現』って本で読んだことがあります」
確か、蔵の本棚にあった古い探偵と怪盗の小説だった筈。
「そう、その『現』だよ。現れるとも使うし、君の力にもぴったりだと思ってね」
「私の、この力」
「君が、ご両親から受け継いだ過去と、これから切り開く未来。それらを繋ぐのは今の君自身の力と意志だ。過去を背負えというわけではない、君が過去に愛されたことを忘れずに、そして未来を歩むために今を大切に生きてほしい。そんな願いを込めてみた」
「……」
「どうだろう?」
一言様は言葉が出てこない私の顔を覗き込む。
こんなにも想われて銘をつけられたのだと思うと胸が一杯になる。
俯いていた頭を上げ、不安げな顔をした一言様と目を合わせる。
嬉しくてたまらなくて、涙で視界が滲んでしまう。
「すごく……すごく嬉しいです!ありがとうございます一言様!私、この『現』を大事にします!」
「この刀はかつて君を守った、きっとこれからも君を守る力になるだろう。そして、」
一言様は言葉を続けようと口を開くが、何故か目をそらして、口をつぐむ。
「?」
「いや、なんでもないよ。……依子」
「はい、なんでしょうか?」
首を傾げる私の頭をいつもと同じ穏やかな笑みで撫でる。でもその目はいつもとは違う、まるで何かを私越しに見ているようだ。
つまり彼は次に私に授けるのだ。
この人にしか託されない大切な言葉を。
「君は、君たちは幸せでありなさい」
「……はい!」
一言様の予言は、神様の託宣のようでよく分からないことがある。
でもこの人の芯にあるのは確かな暖かさと優しさだ。
それだけはわかる。
私は知っている。
だからこの人の言葉を、私は信じてみようと思う。