残り火と公孫樹
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寮の風呂から帰ってきた加茂憲紀が自室の扉を開けると、自分のベッドに嶋田りんが寝ていた。
加茂は小さく長く溜息をついた後、大して気にするでもなく平然と自室の扉を閉めた。
最初に同じ光景を目の当たりにしたときは、眠る彼女の頭を確認した瞬間勢いよく――けれども彼女を驚かせぬようなるべく静かに――扉を閉めて目の前の光景を疑ったが、それが数回も繰り返されれば慣れたって仕方が無い。きっと人や関係性によっては所謂「据え膳」とも取れる状況だというのに、「またいつものか」と淡々と受け入れられるようになってしまったのが少しだけもの悲しい。
ローテーブルの上には彼女が持ってきたのであろうホットミルクが二つ並んでいたが、とうに湯気も出ていなかった。隣にはノートと数枚のプリントが並んでいる。恐らく今日の講義で気になったところを加茂に聞きに来たのだろう。
生憎と加茂は夕方から任務に赴いており、終わらせた後に報告をしてそのまま寮の風呂に足を運んでいた。任務の最中に切っていたスマホの電源をつけてみれば「任務が終わったあと疲れてなかったら聞きたいことがあるんだけど、加茂くんの部屋で待ってるね!」と彼女からの連絡を確認し、彼女らしい文面にほんの少し胸の内が温かくなる。加茂は送信された時間とスマホに映る時間を確認し、「随分待たせてしまったな」と溜息交じりに小さく呟いて、ベッドの側に座り込む。
嶋田りんは非術師の家出身で、呪術や呪霊という存在を全く知らずに育ったという。しかし中三の冬、突然呪霊が見えるようになり更に術式まで発現した。
大抵の呪術師は幼児の頃に術式が発現するものだから随分と珍しいことだ。その後ある呪術師に保護され京都高専に入ったのだが、当然ながら彼女は術式も呪霊も何一つ知らなかった。
いずれ御三家の呪術師として呪術界を背負う己が、何一つ知らないまま呪術の世界に足を踏み入れた者にこの世界について教え説くのも一つの役目なのだろう。
加茂家の嫡男としてだけでなく、人を助ける呪術師として。
加茂はそう己の中で結論づけてからというものの、加茂は彼女にあれこれと呪術界基本的な事から実戦について、一から事細かく教えたのだ。
後から「あれは流石に執拗すぎる」と西宮に苦言を言われたりもしたが、嶋田本人はそこまで思っていないようだったので問題はなかったのだろう。
運の良いことに彼女の術式も加茂と同じように遠・近双方に対応できるバランスのよい術式であったので、戦術についても助言がしやすかった。加茂たちが二年に進級し彼女も呪術界にも慣れ、準二級術師となった今でも何かにつけて都合の良い時にあれこれ相談や話を聞く習慣は「勉強会」と称して互いの部屋を行き来する程になった。
寧ろ加茂の方が何にも囚われぬ彼女の発想に学ぶことも多く、向学心と好奇心に富んだ彼女との語らいは加茂にとって心から楽しめる大切な一時であった。
一つ誤算があるとすれば、加茂の中に今まで抱いたことのない執着心のようなものが首を擡げつつあることだ。
彼女と目が合う回数が増え、笑顔を見る度に自然と心が安らいだ、けれども誰かと語らう彼女の姿に暗く重い澱が腹の底に沈んでいく。それが加茂家嫡男としての「加茂憲紀」がただの娘に持つべきではない感情であると気が付くまでに、そう時間はかからなかった。
加茂憲紀の肉体は、その血は加茂憲紀自身だけのものではない、その人生の通過点は加茂家のために捧げられるべきものだ。それは一族から押しつけられただけでなく自分自身で選び決めた道でもある。
このところ加茂は彼女と相対する度、自分にそう言い聞かせる。それなのに彼女と共にあるとふとした弾みで「何もかも投げ出してしまえたら」、そんな夢想に頭がぐらりと傾いてしまう。今だってそうだ。
部屋の主が戻ってきたというのに、ベッドで眠る彼女は未だに起きる気配がない。一見飄然としている一方で何かとあれこれ気を回す性分の彼女が、ここまで気を抜いている姿というのは珍しいから、これが自分の前だから出来るのだと自惚れてしまいたくもなる。
(馬鹿なことを)
自分のあらぬ思考に頭を抱えて、加茂はもう一度ベッドを見やる。部屋着から伸びる白い足が時折もぞりと動く度に、加茂は毒に当てられたような心地になる。
あまりにも無防備ではないか、見ているこちらは堪ったものではないが当の彼女は安心して深く眠っているのだろうか寝息も規則的だ。
彼女が安心している事実は悪い気はしないが、加茂家嫡男といえど青二才と呼べるほどに自分はまだ未熟だ。少なからず慕わしいと想う相手の、それも普段見ることのない白い肌というのはその、些か刺激が強い。
このままでは体もきっと冷えてしまうだろう、何か布団でも掛けた方がいいのだろうか。
「のりとし……」
逡巡しながらもベッドに手を伸ばす加茂の耳に聞き慣れた声の、聞き覚えのない呼び声が聞こえてきて加茂は思わず伸ばした手を止めた。
驚く加茂とは裏腹に、りんは蕩けるような笑みを浮かべてなおも夢の中にいる己に語りかけているのだろうか、言葉にならない寝言を再びむにゃむにゃと口にする。
加茂は彼女に名前で呼ばれたことなどないのに、彼女は夢の中で己の名を呼んでいる。夢の中にいる自分は彼女と何をしているのだろうか。彼女の夢にいる自分にすら嫉妬してしまう、それほどまでに自分は──嶋田りんに恋をしてしまったのか。なすべきことだと助けただけの相手に、こんなにも自分がのめり込んでしまうなんて。
「どうしたものだろうな」
恋というものは、人を呪うに十分な感情だ。けれどもそれは時に相手ではなく己さえ呪ってしまう。
伸ばした手は迷いをそのまま受けて、慕わしい人のどこに触れるでもなくただ僅かにその髪を掠めるだけ。けれどもそれが十分な刺激になったのか、今までずっと閉じられていた彼女の瞼はゆるゆると開かれた。パチパチと数回瞬きをして、ようやく今の状況を把握したりんは寝台から起き上がる。
「え、あれ? 加茂くん」
「ようやく起きたか」
りんは目を擦り、寝癖のついた髪を軽く梳かしながら自分の状況と目の前の加茂を交互に確認する。
「えーっと、おかえりなさい? それからお疲れ様」
「君の部屋ではないが、今帰った」
照れ笑い混じりにとぼけた口調で今更挨拶をするりんに、加茂はそのまま平然と返す。
この空間、一見してボケしかいないように見えるが実際ボケしかいないのである。
「隣どうぞ」
「ああ」
りんは姿勢を変えるベッドの端に座り直し、加茂に空いたスペースに座るよう促すので加茂は僅かに遠慮して距離をとって座る。りんもそれで十分なようで、マグカップを手に取り口をつけ「冷めちゃった」と独り言を呟いた。
「ところでどうして私のところで寝たりしていたんだ」
加茂の問いにりんは僅かに視線を逸らし、少し考えてから口を開いた。
「この前の任務で見た呪霊の話とか、後今度京都(こっち)でやる交流戦の話がしたくて、それで任務が終わるまで待っていようと思ったらそのまま……」
「君らしいといえばらしいが、あまり人の部屋で無防備に寝るものではないだろう」
「加茂くんのところなら大丈夫だと思って」
彼女から与えられる無条件の信頼は、加茂の胸の内をこそばゆくくすぐる。けれども、だからこそ。
「万が一ということもある」
「その万が一が加茂くんだったら、ということ?」
「……一般論だが、それもあるかもしれないだろう」
「そうだったら、私はあんまり嫌じゃないかな」
加茂はハッとして、りんの側を向く。柔らかな笑みを浮かべるりんの眼差しは、その柔和な口元とは裏腹に真摯な光を宿していた。
「嶋田」
「なんてね、なるべく気をつけるよ」
だがその真摯な眼差しは不意に消え、いつもの彼女の陽気な調子に戻っていく。
「ホットミルク、温め直してくるね」
「嶋田、一つ聞きたいのだが」
二人分のマグカップを手にそそくさと去っていくりんに、加茂は引き止めるように問いを投げる。りんは振り返りきょとんと目を軽く見開いて加茂の様子を伺う。
「なあに?」
「君は何やら夢を見ていたようだが、何の夢を見ていたんだ?」
軽く見開かれていたりんの目はさらに大きく見開かれ、右目をわずに開けた加茂とほんの数秒互いの目が合う。
「……なんだったんだろ、忘れちゃった!」
りんはくしゃりと笑ってそのままそそくさと加茂の部屋を後にした。
バタンとドアが閉められ、加茂の部屋の中に再び沈黙が戻ってくる。加茂はふうと息をついて腰を下ろしていたベッドに背中から倒れ込んだ。
加茂が引き止めようとした瞬間、扉のむこうへと消える前の彼女の後ろ姿を思い出す。
(耳が、赤くなっていたな)
加茂は自分の恋(呪い)を押し殺す代わりに、彼女を甘やかせる立場にいるようにしている。だから彼女の距離の近さは親愛やら信頼から来るものだとそう自分に言い聞かせていた。事実彼女は同輩の西宮や東堂にも距離がそれなりに近いのだし。けれども、
『そうだったら、私はあんまり嫌じゃないかな』
彼女が自らに向けるものが、親愛という名前でないのだとしたら。
(自惚れても、いいのだろうか)
決して伝えるつもりもないが、互いに同じ気持ちであると期待してもいいのだろうか。加茂が僅かに身じろぐと、シーツから嗅ぎ慣れない甘い匂いが漂う。恐らく彼女の石鹸やシャンプーの香りなのだろう。その事実に気付いた加茂は静かに起き上がり、再び長いため息をついた。
その日二人は勉強会を早々に済ませたのだが、加茂は布団に残された僅かな残り香が気になって一晩眠ることが出来なかった。
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