比目の魚
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「ようやく付知殿から借りることが出来たのです」
さぞ大事そうに両の手で書物を抱えた雪が、彼女にしては珍しく弾むような声で士遠にそう伝えたのが数日前のことである。
曰く、その書物は西洋の様々な医師が記した治療論を訳した医学書であり、数度の出版不許可を経て漸く刊行されたという代物であるらしい。
刊行されたという知らせから数ヶ月経った後、付知が職務の合間に方々を探し、知り合いの医師から借してもらい漸く雪の手に回ってきたというわけである。
更にこの後雪の師に貸さねばならないため、早いこと目を通さねばならない。そういうわけで、雪はこの数日医師業や家事の合間に熱心にその医学書を読み進めている。
朝は士遠より早くに起きて、夜は士遠よりも遅くに寝る。普段の雪は士遠よりも先に眠ることが多いので、「士遠殿、おやすみなさい」と柔らかな声を聞きながら眠りにつくことに士遠も少しずつ慣れていった。
だが、慣れたとしても士遠の内には得体の知れぬ飢えのような欲求が一向に募っていく一方である。なにせ彼女が書物を読み始めて数日、士遠は雪に触れていないのだ。目指すものに夢中になる雪を「見」守ることは嫌いではない、妻となる前もなった後も彼女のそのようなところが好ましいと想うことは変わりない。
けれども士遠は己が妻へと伸ばす手を止めることが、そろそろ出来なくなっていた。
「士遠殿、お帰りなさいませ」
夜も更けて漸く山田家から戻ってきた士遠に、口やかましく文句を言うでもなく雪はいつもの調子で声をかけた。油の燃える匂いとちりちりと灯心の燃える微かな音、今の今までやはりここ数日と同じように日が沈んでも燭をつけて続きを読み進めていたのだろう。
用意されていた寝巻に袖を通しながら、士遠は雪の様子を確認する。そのなよやかな後ろ姿は士遠が声を掛ける前と同じように、凜と背を伸ばし書を読んでいる。
頭は僅かに俯き、白いうなじが夜の薄暗い闇の中に映えていた。士遠は彼女の姿を「波」で感じ取り、紙を捲る掠れた音に耳を傾ける。規則的なその音が時折止まるのは、彼女が何か気に留めたことを帳面に手控(メモ)を書いているのだろう。
己が剣を振るう事が背負った役割であり生きる為の術であるように、彼女にとっても医術を学び人を救うことが背負う役割であり生きる術であり互いが戦う場所は異なる。
士遠も雪もそのことを理解した上で夫婦となろうとしている。けれども、だからこそ積もり続けた澱がふとした瞬間にこぼれ落ちるのを士遠は必死に留めている。
「間もなく区切りのいいところになるのでもう少しだけ、待っていて下さい」
尤も、雪はその抑制が些細なひと言で容易に溢れ出る事など微塵も分かってはいない。
士遠はおもむろに雪の後ろに近付き、雪が振り向く間もなくしゃがみ込んだ。
「士遠殿、もう少しで――っあ!」
士遠は胡座を掻いて雪の正座する足を崩し、そのまま己の膝の上に抱え込んだ。
止めて欲しいと懇願する雪の声を余所に、自分の上から乗り出そうとする雪の腰を左腕でしっかりと抱えこむ。士遠は右手を自分よりも小さな雪が持っていた筆を奪う。
「急にすまない、だがこれ以上は何もしないから」
「でも、そんな」
「続きを読んでくれて構わない、だが……少しだけこのままでいさせてくれ」
コトリと筆と硯の触れる音が響くと、雪は抵抗を諦めたのか身体の力を抜いた。薄い肩に顎を乗せれば、は、と浅い吐息が雪の口元から漏れた。触れた肌から細い首の脈が少しずつ早くなるのを感じ取れる。
雪の右手の上に士遠は自分の手を重ねる、小さく震える手は士遠のそれより一回りも小さい。
士遠は細い指の輪郭を辿るようにゆっくりと這わせ本へとその手を促そうとする、手仕事に慣れた女の手は剣を振るい続ける士遠のそれよりも随分と柔らかくしっとりとしていた。
かつての士遠はちょっとした拍子にその手に触れられる度、胸の内にあたたかなものを感じていた。それなのに今の自分は雪の手に触れる度、熱く不快ですらあるどろりとした何かが胸の内に芽生えてくる事実を必死に知らぬ振りをしている。
熱を秘めていた女の細い指先は、士遠の内に情欲という名を持ったおぞましい何かを育んでいた。そんなものを知らぬまま、ただ優しく彼女を包んでいればそれだけでよかったのに。
士遠が腰に回した左手を僅かに動かしゆっくりと繰り返し下腹をさすれば、雪の肩が小さく跳ね雪の左手がおもむろに士遠の左手の上に重ねた。
抵抗とも懇願とも取れるその素振りに士遠は左手を下腹から移動させ寝巻越しに雪の太腿へと触れる、けれどもそれ以上のことはせずただ布越しに触れて夜にのみ暴く彼女の肌の柔らかさを思い出す。
いつだって彼女は過ぎたる刺激に身体を震わせ未知の感覚に恐怖しても、それを与える士遠のことを拒まもうとはしない。
「ふあっ……! んっ……」
雪の肩に合わせ屈めていた背を伸ばせば、士遠の乾いた唇が彼女の耳を掠めこらえるように雪は声を漏らす。雪の右手は士遠の手に包まれながらぴくぴくと僅かに動くばかりで、書物に伸ばされることはない。拒絶していないが戸惑っているのだろうか、戸惑っているのは士遠も同じだ。
これでいい、これだけでいい、そう言い聞かせなければ彼女を傷つけてしまいそうになるから。
「すまない」
ぐるぐると渦巻く感情を下腹で抑え込み、士遠は呻くようにして再度謝罪の言葉を吐いた。唇を動かせば薄くまろい耳たぶに触れる、今の士遠にはその僅かな接触でさえ理性を崩す一押しとなる。もう隠しきれないほど淵から溢れ始めたじりじりと焼けるような士遠の焦燥を知ってか知らずか、雪は首を横に振った。
「っは……士遠、どの。そんなに……謝らないでください」
「雪、だが私は」
雪は深く呼吸をし、息を整える。
「驚きはしました、けれども……嫌ではありませんから」
雪は少し俯けば、重ねられた左手で士遠の指を恐る恐る触れる、その手つきが少しだけ先程の自分と似ていたので士遠は思わず口元を緩めた。結局の所、自分と彼女は似ているのだろう。特に――好ましく想う相手に伝えることに恐ろしさを感じてしまうところが。
重ねていた右手が不意に離れ、書物を閉じる音が聞こえた。
「もういいのか?」
「夜も遅いですし、それに……」
雪は小さく笑って、ぴんと伸びていた背が士遠の胸にもたれる。擦り寄った頬が仄かに熱かった。
「貴方がそうねだってくるなんて珍しいことですから」
士遠はばつが悪くなって、雪を両の腕で抱きしめれば「きゃっ」と小さな声が漏れる。
「随分とお預けをされていたんだ……私だって好い『目』にあいたいさ……」
ゆっくりと柔らかな身体の輪郭をなぞっていく、その手にはもう躊躇いはない。返答のように寄せられるなめらかな頬に、士遠はそっと唇を落とした。
†
ちょっとしたおまけ
「そういえば聞きたいことがあるんだが……」
「……っはい、なんで、しょうか」
「まだ無理に起き上がらなくてもいい。たいしたことではないのだが、君が先程する前に私が抱きしめて腹を撫でたら殊の外体を硬らせていたようだが」
「!?」
「痛かったら悪かったが、だが今の交わりでも同じように腹を撫でたら体を震わせていただろう?」
「そう、でしたか……そうでしたね……ええ、だいぶ飛ばされていた記憶が戻りました」
「あれはその……悦かったのか?」
「っ…………士遠殿の好き者!」
その日一日士遠の頬に立派な紅葉が出来ていたことについて、門人たちはちょっかいを出すのを憚った。
さぞ大事そうに両の手で書物を抱えた雪が、彼女にしては珍しく弾むような声で士遠にそう伝えたのが数日前のことである。
曰く、その書物は西洋の様々な医師が記した治療論を訳した医学書であり、数度の出版不許可を経て漸く刊行されたという代物であるらしい。
刊行されたという知らせから数ヶ月経った後、付知が職務の合間に方々を探し、知り合いの医師から借してもらい漸く雪の手に回ってきたというわけである。
更にこの後雪の師に貸さねばならないため、早いこと目を通さねばならない。そういうわけで、雪はこの数日医師業や家事の合間に熱心にその医学書を読み進めている。
朝は士遠より早くに起きて、夜は士遠よりも遅くに寝る。普段の雪は士遠よりも先に眠ることが多いので、「士遠殿、おやすみなさい」と柔らかな声を聞きながら眠りにつくことに士遠も少しずつ慣れていった。
だが、慣れたとしても士遠の内には得体の知れぬ飢えのような欲求が一向に募っていく一方である。なにせ彼女が書物を読み始めて数日、士遠は雪に触れていないのだ。目指すものに夢中になる雪を「見」守ることは嫌いではない、妻となる前もなった後も彼女のそのようなところが好ましいと想うことは変わりない。
けれども士遠は己が妻へと伸ばす手を止めることが、そろそろ出来なくなっていた。
「士遠殿、お帰りなさいませ」
夜も更けて漸く山田家から戻ってきた士遠に、口やかましく文句を言うでもなく雪はいつもの調子で声をかけた。油の燃える匂いとちりちりと灯心の燃える微かな音、今の今までやはりここ数日と同じように日が沈んでも燭をつけて続きを読み進めていたのだろう。
用意されていた寝巻に袖を通しながら、士遠は雪の様子を確認する。そのなよやかな後ろ姿は士遠が声を掛ける前と同じように、凜と背を伸ばし書を読んでいる。
頭は僅かに俯き、白いうなじが夜の薄暗い闇の中に映えていた。士遠は彼女の姿を「波」で感じ取り、紙を捲る掠れた音に耳を傾ける。規則的なその音が時折止まるのは、彼女が何か気に留めたことを帳面に手控(メモ)を書いているのだろう。
己が剣を振るう事が背負った役割であり生きる為の術であるように、彼女にとっても医術を学び人を救うことが背負う役割であり生きる術であり互いが戦う場所は異なる。
士遠も雪もそのことを理解した上で夫婦となろうとしている。けれども、だからこそ積もり続けた澱がふとした瞬間にこぼれ落ちるのを士遠は必死に留めている。
「間もなく区切りのいいところになるのでもう少しだけ、待っていて下さい」
尤も、雪はその抑制が些細なひと言で容易に溢れ出る事など微塵も分かってはいない。
士遠はおもむろに雪の後ろに近付き、雪が振り向く間もなくしゃがみ込んだ。
「士遠殿、もう少しで――っあ!」
士遠は胡座を掻いて雪の正座する足を崩し、そのまま己の膝の上に抱え込んだ。
止めて欲しいと懇願する雪の声を余所に、自分の上から乗り出そうとする雪の腰を左腕でしっかりと抱えこむ。士遠は右手を自分よりも小さな雪が持っていた筆を奪う。
「急にすまない、だがこれ以上は何もしないから」
「でも、そんな」
「続きを読んでくれて構わない、だが……少しだけこのままでいさせてくれ」
コトリと筆と硯の触れる音が響くと、雪は抵抗を諦めたのか身体の力を抜いた。薄い肩に顎を乗せれば、は、と浅い吐息が雪の口元から漏れた。触れた肌から細い首の脈が少しずつ早くなるのを感じ取れる。
雪の右手の上に士遠は自分の手を重ねる、小さく震える手は士遠のそれより一回りも小さい。
士遠は細い指の輪郭を辿るようにゆっくりと這わせ本へとその手を促そうとする、手仕事に慣れた女の手は剣を振るい続ける士遠のそれよりも随分と柔らかくしっとりとしていた。
かつての士遠はちょっとした拍子にその手に触れられる度、胸の内にあたたかなものを感じていた。それなのに今の自分は雪の手に触れる度、熱く不快ですらあるどろりとした何かが胸の内に芽生えてくる事実を必死に知らぬ振りをしている。
熱を秘めていた女の細い指先は、士遠の内に情欲という名を持ったおぞましい何かを育んでいた。そんなものを知らぬまま、ただ優しく彼女を包んでいればそれだけでよかったのに。
士遠が腰に回した左手を僅かに動かしゆっくりと繰り返し下腹をさすれば、雪の肩が小さく跳ね雪の左手がおもむろに士遠の左手の上に重ねた。
抵抗とも懇願とも取れるその素振りに士遠は左手を下腹から移動させ寝巻越しに雪の太腿へと触れる、けれどもそれ以上のことはせずただ布越しに触れて夜にのみ暴く彼女の肌の柔らかさを思い出す。
いつだって彼女は過ぎたる刺激に身体を震わせ未知の感覚に恐怖しても、それを与える士遠のことを拒まもうとはしない。
「ふあっ……! んっ……」
雪の肩に合わせ屈めていた背を伸ばせば、士遠の乾いた唇が彼女の耳を掠めこらえるように雪は声を漏らす。雪の右手は士遠の手に包まれながらぴくぴくと僅かに動くばかりで、書物に伸ばされることはない。拒絶していないが戸惑っているのだろうか、戸惑っているのは士遠も同じだ。
これでいい、これだけでいい、そう言い聞かせなければ彼女を傷つけてしまいそうになるから。
「すまない」
ぐるぐると渦巻く感情を下腹で抑え込み、士遠は呻くようにして再度謝罪の言葉を吐いた。唇を動かせば薄くまろい耳たぶに触れる、今の士遠にはその僅かな接触でさえ理性を崩す一押しとなる。もう隠しきれないほど淵から溢れ始めたじりじりと焼けるような士遠の焦燥を知ってか知らずか、雪は首を横に振った。
「っは……士遠、どの。そんなに……謝らないでください」
「雪、だが私は」
雪は深く呼吸をし、息を整える。
「驚きはしました、けれども……嫌ではありませんから」
雪は少し俯けば、重ねられた左手で士遠の指を恐る恐る触れる、その手つきが少しだけ先程の自分と似ていたので士遠は思わず口元を緩めた。結局の所、自分と彼女は似ているのだろう。特に――好ましく想う相手に伝えることに恐ろしさを感じてしまうところが。
重ねていた右手が不意に離れ、書物を閉じる音が聞こえた。
「もういいのか?」
「夜も遅いですし、それに……」
雪は小さく笑って、ぴんと伸びていた背が士遠の胸にもたれる。擦り寄った頬が仄かに熱かった。
「貴方がそうねだってくるなんて珍しいことですから」
士遠はばつが悪くなって、雪を両の腕で抱きしめれば「きゃっ」と小さな声が漏れる。
「随分とお預けをされていたんだ……私だって好い『目』にあいたいさ……」
ゆっくりと柔らかな身体の輪郭をなぞっていく、その手にはもう躊躇いはない。返答のように寄せられるなめらかな頬に、士遠はそっと唇を落とした。
†
ちょっとしたおまけ
「そういえば聞きたいことがあるんだが……」
「……っはい、なんで、しょうか」
「まだ無理に起き上がらなくてもいい。たいしたことではないのだが、君が先程する前に私が抱きしめて腹を撫でたら殊の外体を硬らせていたようだが」
「!?」
「痛かったら悪かったが、だが今の交わりでも同じように腹を撫でたら体を震わせていただろう?」
「そう、でしたか……そうでしたね……ええ、だいぶ飛ばされていた記憶が戻りました」
「あれはその……悦かったのか?」
「っ…………士遠殿の好き者!」
その日一日士遠の頬に立派な紅葉が出来ていたことについて、門人たちはちょっかいを出すのを憚った。
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