比目の魚
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自分の体にかかる重みを感じながら、雪は目を覚ました。
障子の向こうは未だ仄暗く、夜明けにはもう少し時間がかかる。
とろとろとした心地良い微睡みからゆっくりと意識が這い上がり、寝ぼけた頭で自分の身に起きていることを確認する。
重さを感じる腰に手をやれば二本の腕が、自分の腰に絡んでいるのがわかる。隣で眠っている士遠のものだ。
剣を振るうことのない非力な雪の力では、鍛えられた士遠の硬い腕から抜けることは難しい。まして意識のない人間の体というものは想像以上に重いのだ。
(せめて士遠殿が目を覚ます前に、身なりを整えておきたかったのだけど)
そもそも士遠と肌を重ねた翌朝に、そんなことが出来た試しはほとんどない。
大抵雪が士遠の後にようやく起きるか、雪が先に起きたとしても今のように士遠が離してくれないか、二人して遅く起きるかのどれかだ。自分で抜け出せる時もあるにはあるが、滅多にないのだ。
山田家は浪人と言うことになっているが一応武士の妻なのだから、雪としてはもっとちゃんとしたいのだがどうにも士遠に甘えている気がする。
(このままではいけないとわかっているのだけど、今日は仕方が無いか)
雪は溜息を一つ吐いて、士遠が目覚めるまで待つことにした。
顔に当たる空気がこの季節にしては薄ら寒いものの、体全体に寒さを感じないのは腰に回された士遠の腕と背中を包むような士遠の温もりのおかげだった。
雪はどうにか身を捩り、士遠と向かい合うように体勢を変える。
雪が腕の中で体勢を変えても、士遠は相変わらず穏やかな寝息を立てていた。士遠の眠りは深いらしい、珍しいことだ。
寝ぼけ眼を瞬かせながら、士遠の顔を見やる。
両目が傷で潰されてもなお、士遠の顔立ちが美しいことに変わりはない。常に伏せられた睫がぴくりとも動かない事を確認してから、雪は士遠の少し乱れた胸元に恐る恐る頬を寄せた。
雪は未だに、自分が士遠と夫婦になってしまったことに実感が持てないでいる。
本当ならば雪は今頃、山田家から出て亡父の跡を継ぐように一介の町医者となっていたはずだった。胸の内に秘めていた士遠への思慕を振り切って、過去の思い出にしてこれからを生きていく、そのはずだった。
それでよかったのに、自分の意図の働かない場所で雪が士遠の妻となる事が決められて、医者にはなったが山田浅ェ門のお抱えという肩書きが前に付けられてしまった。
捨てる覚悟が出来ていた念願が、自分の意志に関係なく他人によって叶えられた。
その事実に雪は居心地の悪さを覚えていた。
祝言の前日、当主吉次と衛善によって告げられた自分と士遠の婚姻の意味を──雪が山田家の下に留まらねばならない理由でもある──雪は理解も納得も出来た。
けれども、
(この人はどうだったの?)
無意識のうちに雪は士遠の襟元を掴む。
俯いたままでいると布団や士遠の胸元から雪の香と汗と士遠自身の──男の匂い、それから微かに残る自分たちの精の匂いが混ざったような匂いで頭がくらくらしてしまいそうになる。
そのなんとも言えぬ匂いをきっかけに昨夜の──といってもほんの少し前の出来事だが──営みを思い出し、士遠によって教えられた己の体の最奥に熱が灯るような心地がして、雪は小さく体を震わせる。
己に触れる士遠の手はいつだって優しい。それは閨の中でも同じだった。
夫婦になってから士遠は体を重ねる度に、ゆっくりと時間をかけて行為に不慣れな雪の体を拓いていった。盲いた目の代わりにその無骨な手を使って雪の肉体を確かめるように、或いは雪自身に己を刻みつけるように優しく触れて、解して、蕩かしていく。
泣いてしまうほどに優しい士遠の手によって雪は上り詰めることが未知の恐怖ではなくなったけれど、その優しさがじれったくて自分でねだるようにさえなってしまった。
気付けば雪は士遠に対する感情の整理が出来ないまま、体だけは士遠を受け入れる事に悦びを覚えていた。
雪はふと士遠の顔を見上げる、相変わらず士遠は眠ったままだ。
上から見上げると、夜の闇に士遠の色の薄い睫毛が透き通るようにきらめいた。
士遠自身が自分と同じように、この未来を受け入れることが出来たのか雪は知らない。真実を知ることも恐ろしく思えた。
こうして肌を触れあえている今がその答えであると思えたら良いのだが、他ならぬ士遠の事だからこそ雪はあれこれと考えてしまう。
「士遠殿……どうして、あなたは」
「私がどうかしたかい?」
伏せられた両の瞼はそのままに、士遠は雪に呼びかけた。
ただの独り言のつもりで言ったつもりだったので、返事が返ってくることを予想しておらず、雪は士遠の腕の中で「ひゃあ!?」と素っ頓狂な声を上げ、生きた魚のようにびくりと跳ねた。
「士遠殿!?いつから起きていたのですか?」
「君が私の腕に触ったあたりかな」
「私と殆ど同時に起きていたんですね……」
呆れたような雪の声に、士遠は愉快げに喉の奥で笑う。
意地悪、とまでは言わずとも、雪の調子が狂ってしまったときの反応を士遠があれこれと面白がるようになったのは夫婦になってからのことであった。
曰く、「そんな君を見ることが出来るのは私だけだと思うと、どうにも浮かれてしまってね」とのことらしい。
雪も雪でそんな風に士遠に思われることは満更でもないので、何も返せないでいた。
「そんなにまじまじと見つめられると、どうにも気恥ずかしくなってしまってね。見ていて飽きないのかい?」
「まさか」
不思議そうに問いかける士遠に対し雪は即座に首を横に振った。
好きな人の顔なんて幾ら眺めても飽きることはない。
それは紛れもない雪の本心だった。
士遠は雪の即答を聞いて何か納得したように頷く。
「そうか……美人は三日で飽きると言うが、君は私のことは飽きないんだったな」
「待ってください、その話十禾殿から聞いたんですか!?」
士遠の言葉に雪は先程の自信溢れる様子から一転して、慌てた様子で士遠に問い詰めた。
士遠も士遠で雪の慌て方に怪訝そうな顔をしながら「ああ」と頷く。
夫婦になる前に、酒の席でそんなくだを十禾相手に巻いたことを雪は朧気に思い出して心の臓を掴まれた心地がするのと同時に、十禾に対する今となってはしょうもない恨みを覚えた。
(やはり独り身である内に、色々ともぐなり切り取るなりしておいた方が良かったのでは?)
雪は自分の過去の醜態を夫にばらされたことへの怒りと羞恥に気が向いて、士遠の顔から笑みが消えたことに気付けずにいた。
「雪」
「なんですかしお──」
士遠は雪の返事を聞く前に、雪の腰を抱く腕の力を強めた。
冷まそうとした熱が急に煽られてしまう。ただでさえ寝巻越しにぴたりと体が密着しているのに、士遠は更に互いを近付けようとしている。肌を重ねる時特有の、布を取り払ったときの互いの肌の温もりを不意に思い出し雪は頭を上げた。
「ぷはっ! いきなりどうしたんですか!?」
「すまない、ただちょっと……私たちと親しい人であっても閨で他の男の名前は聞きたくてね」
歯切れの悪い士遠の言葉に雪は目を瞬かせた。
片方の手が雪の後頭部を再び固定したせいで、雪は士遠の表情を伺うことが出来ない。けれども耳元で囁かれた声は低く、雪だけが知る熱を宿している。
息が少し苦しくなるくらい強く抱きしめられて、士遠の匂いだけで肺腑が満たされそうになりながら雪は一つの推測にたどり着いた。
(いやまさか、そんな、士遠(この人)に限って……)
脳裏に浮かんだ考えを雪は否定しようとして、出来なかった。
士遠は嫉妬しているのかもしれない。
「妬いて、おられるのですか」
「わからないんだ、君がここにいると確かめたくなってしまって」
士遠は僅かに雪の後頭部を固定する手を緩めて、雪と顔を合わせる。
涙を流せない士遠が、泣きそうな顔をしていた。
「けれども君が言うのなら、そうかもしれない」
「士遠殿」
(迷い子のような顔をしている)
雪はそう思いながらおもむろに士遠の頬に触れる。士遠の頬の傷跡から目元までを恐る恐る指先で撫でるその動きは、涙を拭う様にも似ていた。士遠もまた雪の手を拒まずに受け入れる。
いいのだろうか、期待しても。
彼もまた自分のことを幾ばくかは憎からず思っているのだと、そう捉えてもいいのだろうか。
士遠の肩に頭を預けて雪は口を開く。
「私はここに、あなたの側にいます」
「うん」
「他の人に『目』移りなんてしませんよ」
「これは一本取られた」
二人して笑い合う。士遠がいつもの調子に戻った事に、雪は安堵して目を細めた。
「どうぞ、朝餉の準備をする時間になったら、離してくださいね」
だからそれまではこうしていて下さい。と甘やかすような甘えるような雪の言葉に士遠は苦笑しながら両腕を雪の体に回して頷いた。
「ああ」
「でもするのは駄目です」
雪がそう釘を刺すと、雪の背中から腰をなぞるようにしていた士遠の手が止まる。
このまま士遠の手を止めずにいたらどうなっていたのか、雪には容易に想像できた。
「駄目かい?」
「駄目ですよもうすぐ朝なんですから」
軽く首を傾げてねだる士遠がおかしくて、雪はくすくすと笑いながら頬を胸元にすり寄せる。
「そうか……それなら、夜は?」
低められた声で問いかけられ、雪は耳を赤くさせ少しの逡巡の後小さく頷いた。
士遠は「楽しみにしているよ」と雪しか知らない熱を宿した声で告げて、雪の解かれた髪を撫でて雪の額に唇を落とした。
目覚めた直後、肌寒さを感じていた頬が今となっては熱くて仕方が無い。自分の些細な迷いさえ、士遠に与えられた熱で溶けてしまいそうになる。
もう一度微睡もうにも目だけはやたらと冴えてしまって、雪は己の戸惑いを誤魔化すように士遠の胸元に顔を埋めた。
高鳴る鼓動の音がどちらのものなのか二人は分からないまま、互いの温もりに浸る。薄暗い寝所が少しずつ白み始めたが、夜明けはまだ先のことであった。