しのぶれど
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山田浅ェ門士遠がその娘と出会ったのは、免許皆伝(おくゆるし)を得て屋号を名乗ることを許された年の、キンと冷えた冬の日のことであった。
すっかり慣れてしまったはずの顔に走る三本の傷跡が、その日は朝からつきつきとひきつれるような痛みを訴えていた。
そもそも士遠は生まれついての盲目であるし、古傷のせいで見えるものも見えないという話にはならない。けれどももう一つの知覚といってもいい自分にしか感じ取れない何か他の感覚が――その感覚を「波」と同門の青年に名付けられるのは数年も後のことであるーー、傷の痛みの所為で不意にぼやけて掴めなくなってしまうのは、士遠としては些か困った事態であった。
普段の道場での稽古なら然程不具合はないが、何せ士遠ら山田家の役目は公儀より任せられた御様御用。皮一枚残して他をさぱっと切り落とすような精密さが求められるこの役目を果たすためには、万が一のことがあってはならない。ようやく一人で役目を任せてもらえるようになったというのに、支障が生じてしまえば今まで自身が積み上げてきた研鑽と吐き続けた嘘があっけなく崩れ落ちる可能性もある。それほどまでに自分の立場というものは脆いものだ。
悩みながらも至って普段と同じように過ごしていた筈の士遠の不調を真っ先に見抜いたのは、兄弟子の衛善であった。
「傷が痛むのか」
必要以上に語らない兄弟子は、士遠に多くを問わなかった。
事情を話すと衛善は少し考えて、それから山田家からある場所への道順を伝えた。山田家の屋敷から然程距離のない屋敷地の一角にある診療所であった。
曰くそこの医者は元は吉次師範の兄弟弟子であったが、何を思ったか医者に転身したという変わり種の男であるらしい。
「そこの先生に診てもらうといい、吉次師範の弟子だと告げればすぐに診てくれる。そこらの藪より腕も立つ人だ」
まけてはもらえんがな。珍しい冗談を零しながら苦笑する兄弟子に一礼し、士遠は稽古帰りにその医者に傷を診てもらうことにした。
さて、診察に行くのは良いが、士遠が住まう家とは違う方面に件の診療所はあるという。
幾ら士遠がいつものあの感覚で日常生活に支障がないとはいえ、初めての土地では些か不安になるのも仕方が無い。道を聞こうにも自分の顔に走る三本の傷によって潰れた両の眼と自分の生業が、帯刀をしていない町人達を怖がらせてしまう事もある──余談ではあるが、この山田浅ェ門士遠という男は己の傷があってもなお端整な自分の風貌に気付いていない──。
「さてどうするか……」
兄弟子より聞いた道順だとこの辺りで間違いはない、士遠がきょろきょろと辺りを「見」回しているととてとて子供の足音が自分に近づいているのが聞こえた。
「お兄さん、どうしたの?」
声や背丈から、十を越したばかりの少女であると分かる。士遠は少女と目が合うように軽く屈んで口を開いた。
「すまないが道をお尋ねしたい、野中という医者に用があるのだが」
少女は大きな目をぱちくりと瞬かせ、それから得意げに笑った。
「医者の野中先生はあたしの父上よ!」
それから少女は士遠の身なりを見て気付いたのか「ごあんないいたします!」と慣れぬ敬語で答えながら士遠の手を取った。
少女の手は自分の剣だこや豆が出来ては潰れてしまう手よりも一回りも二回りも小さく、温かい手をしていた。
そんな頼りない手が、士遠にとっては少しだけ心強いもののように思えた。
淡雪が降り始めた町で出会った温かく小さな手の記憶。
それが士遠と雪の出会いだった。
†
「今朝は懐かしい夢を見たよ」
士遠は味噌汁が入った鍋をかき混ぜながら、隣で配膳の準備をする雪に言った。
山田家では料理当番は各自門人の持ち回りだが、料理に不慣れなものであったり、盲である士遠が当番の時は雪が手伝いをすることになっていた。雪の料理の腕前は結構なものだが、本人は「魚は種類によって捌き方も異なりますし、ひょっとしたら魚を捌くのは、人体を解剖するよりも難しいかもしれませんね」と冗談なのか本気なのか分からない事を述べていた。
(誰かと夫婦になったときに同じ説明をして婿殿を怖がらせなければ良いんだが)
そんな心配事をついしてしまう。
雪自身、市井の娘であれば行き遅れを心配される年頃なのだが当の本人は「佐切さまの祝言を見届けてからにします」の一点張りであるらしい。
存外、彼女は頑固者だ。
「それはどのような夢でしたか?」
親馬鹿ならぬ兄馬鹿めいた──血のつながりはないが、長い付き合いの彼女が妹のように可愛いのだから大体合っているだろう──士遠の憂いなど露知らず雪は慣れた様子で手を動かしたまま、士遠に問うた。
「ああ、君と初めて会ったときの事を夢に見た」
「まあ、それは随分と昔の事を」
「確か冬の初め頃だったな」
「よく覚えておりますね」
「この傷で怖がられることが増えていたときに全然君は怖がらずに近づいてきたから、印象的だったんだよ」
雪は淡く笑みを浮かべて、士遠から椀を受け取る。
「……あの時はただ『困っている人がいる』と思ってあまり気になりませんでしたから。近づいたら目のことに気付いて、道に迷われたのかと」
「君の人を助けるときの押しの強さは知っていたが、そういう時に周りをあまり顧みないのも今と同じだったんだな」
「昔よりは分別がつきましたよ……多分」
だんだん声が小さくなっていく雪に、士遠は小さく笑った。
「君のそういうところは悪いことではないよ、たまに心配になるがね」
「子供ではないんですから、心配されずともいいでしょうに」
つんとした口調で返されるも、それが照れ隠しであると士遠はよく知っている。
「子供ではないと思ってるさ、だから心配なんだ。君のその優しさにつけ込む輩が現れたらと思うと気が気ではないからね」
士遠の何気ない言葉を聞いた雪の手から、不意に椀が滑り落ちる。
士遠は雪のその反応に少し面食らいながらも、片手で椀を受け止め雪に手渡した。
雪は少し戸惑った様子で礼を言い、それから改まった様子で口を開いた。
「私が他の男に騙されたら困りますか」
士遠は問いの真意が掴めないまま、こくりと頷く。
「そうだな、困る」
聡い彼女のことだからそう容易く人に騙されることはないだろうが、その美徳故に悪人に誑かされたと聞けば家中の人間は悲しむだろう。勿論自分もだ。単純にそう思ったからだった。
「……左様ですか」
納得したように雪はそう返した。その声音はいつもと同じだが士遠にはどことなく嬉しそうに聞こえた。
そんな些細なやりとりをしながら、士遠は雪といつも通り夕餉を作った。
その日の夕餉はやけに盛りが良く、門下生達は首を傾げていたが理由は誰も知ることはなかった。