しのぶれど
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
いつも怖々と自分の手に触れる温かな彼女の手が、今日に限ってひやりと冷たいのは自分の所為であると士遠が気付いたのは、手当てが一区切りしてからのことであった。
「骨には異常がないようです、このまま冷やしておけば痛みも引くと思いますが一日二日は大事をとって安静にしていてください」
門下生にはお馴染みの淡々とした口調で、雪は士遠にそう宣告した。
常に冷静さを失わないその声音の中に、幾ばくかの安堵が混ざっているように思えるのは、長年の付き合いに由来する贔屓「目」と言うべきなのかもしれない。これがもしも万が一にも恋仲の間柄での会話であったのなら、惚れた欲「目」とも言えたのだろうか。
(いやいや、それはありえないな)
「士遠殿? まだ何かありますか?」
ふと魔が刺したような思いつきを否定しながら、いつもの癖であれやこれやと上手いことを言おうと黙考する士遠に雪は軽く首を傾げ、怪訝そうに様子を伺った。
「いや、もう大丈夫だよ」
「それはよかった」
雪は淡く微笑み、再び水で濡らした手拭いを士遠の手に当てる。
ひたすらに研鑽を重ねすっかり皮が硬くなってしまった己の骨張った手とは違い、柔らかさを残した手仕事をしている女の華奢な手だ。
人の命を奪うのではなく、人の命をすくい上げようとする手をしている。およそ自分とはほど遠いところにあるべき人の手でもある。
「私はもう大丈夫だから、典坐の方を見てやってくれないか?」
士遠はそう言って、稽古場の方に見えぬはずの視線を向ける。
稽古場からは絶えず、典坐や他の門下生たちの賑やかな喧噪と竹刀が打ち合う音が聞こえていた。
先程までは士遠も彼らと同じように稽古を続けていたのだが、仕事を一休みして稽古場を覗きに来た雪が士遠の少し赤く腫れた手を「目」敏く見つけて慌てた様子で士遠の腕を引き、有無を言わさず手当をされた。医術を学ぶ彼女はこと人の怪我に関してはどうにも押しが強い。
「後ほど何処か異常があるのだと言われましたら、そうします」
「私も大丈夫だったんだが」
苦笑する士遠の手に念の為とあれこれ様子を見ていた雪の手が止まる。
「ご迷惑でしたか」
「いや、心配してもらうのはありがたい」
「士遠殿は御役目もありますし、差し障りがあったらよろしくないと思いまして」
「君に『目』をかけてもらうのはなんだか少し照れ臭いな」
「士遠殿」
「いや、君もしっかりしてきたなと成長に『目』を見張っているだけだよ」
「もう」
雪は唇を尖らせる。
自分の冗談をどう反応すればいいのか分からなくて、困りながらもそれでも律儀に聞いてくれるところは昔から変わっていない。
士遠が己の研鑽に夢中になっている間に、少女から妙齢の娘へとすっかり大人びてしまった雪について扱いあぐねる事が多くなってしまっていたが、それでも変わらぬ部分に何処か安心する自分がいた。
「それで、結局典坐殿はこちらに留まることになったのですね」
「ああ、そういうことになったよ」
話題を切り替えた雪に、士遠はそう応えて庭の桜のある方へと顔を向けた。
一本だけ咲かなかった桜が、すっかり蕾を綻ばせて咲き誇っている。
典坐が士遠に一本取ったら、辞める事を認めるという話は雪も聞き及んでいた。けれど典坐は士遠からついに一本取った末に、士遠へと頭を下げた。
「本当に、ようございました」
短く偽りのない雪の言葉に、士遠は口を緩ませる。
「君も心配していたのか」
「まあそういうことになりますね……」
少し歯切れ悪くもごもごと言葉を続けながら、雪は手際よく道具を片付ける。
ひらりと舞う桜の花びらが、雪の髪につく前に士遠はそっと摘まんだ。そんな士遠の指先を目で追いながら、雪は少しだけ寂しそうに眉を歪める。
彼女は泣きそうな顔をしているのではないかと、士遠は咄嗟に思った。
「時折、典坐殿や門弟の皆様が羨ましくなります」
「何が羨ましいんだい?」
雪の言葉に士遠は首を傾げる。
山田家は御様御用の家、ある種の秩序の担い手と言えば聞こえはいいがとどのつまり死罪人の命を奪う役目を担う人斬りの家だ。『羨ましい』と言われる立場からはほど遠いものである事も士遠には分かっている。けれども彼女は羨ましい、と憧れるように口にするのだ。
「私も佐切さまや威鈴さまのように剣を振るえる女であったなら、あなたと同じ景色を見ることが出来たのに」
あなたの苦しみを如何ばかりか知る事が出来たのに。
雪は自嘲気味な声で笑った。
雪は士遠とかつての弟子の顛末を知っている。
だからこそ典坐が出て行くことを内心では恐れていたのだろう。恐らく、自分以外の山田家の人間の中では誰よりも。
浮かべられている無理をしているような歪んだ笑みは彼女には似合わない。時折ふっと桜のように綻ぶ彼女の微笑みは今のそれよりずっと綺麗なものだと士遠は知っていたが、その意味を士遠は測りかねていた。けれども彼女がいつもそんな風に笑っていられたらいいと願わずにはいられない。
「雪、君の手は人を助けるための手だ」
士遠はおもむろに雪の手を取る。先程から手拭いを冷やすのに何度も桶に張った水に手を浸けていたから、士遠よりもずっと冷たい手をしていた。
「君の手はいつも温かいのに、こんなに冷たくしてしまってすまなかったね」
突然手を取られ固まる雪は士遠の言葉に首を横に振った。
「いいえ、いいえ、必要な事をしたまでのことです!だからそう気に病まないでください」
「その君が『必要なこと』だと言う行いは、きっと正しくて、いつだって優しい」
士遠は己の行いが正しくあろうといつだって考えて己を顧みる。生まれの所為か、生業の所為か、そんなものは見当もつかなかった。けれど彼女はそんな意識もないのだろう。どんなに冷静であろうとしながら、その手を迷わず誰かの為に使おうとする。士遠にはなしえない、典坐とは異なる眩しさが士遠の盲いた目を照らす。
月明かりというものを盲の士遠は言葉でしか知らないが、暗闇の中歩く人を照らす光というものはきっとこういうものなのだろうと雪のことを見ているとそう思える自分がいた。
だからこそ、彼女の輝きが自分の所為で翳ってしまうことが士遠は恐ろしい。
「だから同じになろうだなんて思わなくてもいいんだ」
「士遠殿」
穏やかに繕った笑みを浮かべて士遠はそう雪に諭した。表情こそ繕っているが、言葉だけは士遠の紛れもない本心だ。
戦う術がないことを彼女は嘆いているが、戦えなくて良かったと安堵する自分が浅ましくて堪らない。突き放されたと思ってもらって構わないのに、それでも彼女は自分の側で変わることなく笑っているのだろう、そんな妙な予感がした。
雪は、ぐっと言いたいことを堪えるかのように拳を握る。
優しく諭すことそのものが彼女の毒になっていると分かっていながら、士遠は言わねばならなかった。
「ならば、私は皆様が万が一の時に傷を手当てすることに専念せねばなりませんね」
「そうしてくれたら、きっと皆が助かるよ」
「じゃあ士遠殿は?」
先程の寂しそうな笑みとは一転して、拗ねた子供のように雪は士遠に上目遣いで問いかけた。
「士遠殿は、私がそうしたら助かりますか」
「ああ、とてもね」
士遠のその一言に、雪は顔を綻ばせる。
「なら、そうしますね」
そんなことがないことは雪も士遠も分かってはいるのだが、嘘みたいな約束事をすることがいつの間にか当たり前のようになっていた。二人してささやかな戯れに笑い合う、そのことに安息を得ていることを士遠が気付いたのはいつのことであったのだろうか。
雪の桜が綻んだような笑みを眺めながら士遠はふと口を開いた。
「あとそれから」
「はい?」
「君はいつも真面目な顔をしているが、笑っていた方がずっと似合う」
「え……」
こういうときは少し照れを交えながら「ありがとうございます」と雪は口にしている筈なのに、この時に限ってどういうわけか雪はぽかんと口を開き呆気にとられていた。
「雪?」
どうしたのかと戸惑い雪の手を握る力を強めるが、急に温かくなった指先は急いで士遠の手を撥ね除けた。
「わ、たし、典坐殿の様子を見てきます!」
上擦った声で雪は士遠にそう言い残し、止める間もなく足早に駆けていった。
どうして彼女は時折こんな風に士遠の言動に慌てふためくのだろうか。
(典坐や他の若い奴らが見たら驚くだろうな)
だが士遠も木石ではない。彼女の振る舞いにほんの少しだけ思い当たる節がある。
けれども、
(私はきっと、彼女に相応しくない)
そして彼女もまた、きっと衛善同様に──十禾も彼女を古くから知っているが、扱い方があからさまに違っていた──士遠を兄とも憧れの存在とも捉えているだけなのだろう。
そう首を振り、自分に言い聞かせて、一つの可能性を否定する。
ふと彼女の座っていた跡に桜の花びらが一枚落ちているのを見つけ、士遠はそれを崩さぬようにそっと掴み、僅かに触れた彼女の手の温もりを思い返した。
「骨には異常がないようです、このまま冷やしておけば痛みも引くと思いますが一日二日は大事をとって安静にしていてください」
門下生にはお馴染みの淡々とした口調で、雪は士遠にそう宣告した。
常に冷静さを失わないその声音の中に、幾ばくかの安堵が混ざっているように思えるのは、長年の付き合いに由来する贔屓「目」と言うべきなのかもしれない。これがもしも万が一にも恋仲の間柄での会話であったのなら、惚れた欲「目」とも言えたのだろうか。
(いやいや、それはありえないな)
「士遠殿? まだ何かありますか?」
ふと魔が刺したような思いつきを否定しながら、いつもの癖であれやこれやと上手いことを言おうと黙考する士遠に雪は軽く首を傾げ、怪訝そうに様子を伺った。
「いや、もう大丈夫だよ」
「それはよかった」
雪は淡く微笑み、再び水で濡らした手拭いを士遠の手に当てる。
ひたすらに研鑽を重ねすっかり皮が硬くなってしまった己の骨張った手とは違い、柔らかさを残した手仕事をしている女の華奢な手だ。
人の命を奪うのではなく、人の命をすくい上げようとする手をしている。およそ自分とはほど遠いところにあるべき人の手でもある。
「私はもう大丈夫だから、典坐の方を見てやってくれないか?」
士遠はそう言って、稽古場の方に見えぬはずの視線を向ける。
稽古場からは絶えず、典坐や他の門下生たちの賑やかな喧噪と竹刀が打ち合う音が聞こえていた。
先程までは士遠も彼らと同じように稽古を続けていたのだが、仕事を一休みして稽古場を覗きに来た雪が士遠の少し赤く腫れた手を「目」敏く見つけて慌てた様子で士遠の腕を引き、有無を言わさず手当をされた。医術を学ぶ彼女はこと人の怪我に関してはどうにも押しが強い。
「後ほど何処か異常があるのだと言われましたら、そうします」
「私も大丈夫だったんだが」
苦笑する士遠の手に念の為とあれこれ様子を見ていた雪の手が止まる。
「ご迷惑でしたか」
「いや、心配してもらうのはありがたい」
「士遠殿は御役目もありますし、差し障りがあったらよろしくないと思いまして」
「君に『目』をかけてもらうのはなんだか少し照れ臭いな」
「士遠殿」
「いや、君もしっかりしてきたなと成長に『目』を見張っているだけだよ」
「もう」
雪は唇を尖らせる。
自分の冗談をどう反応すればいいのか分からなくて、困りながらもそれでも律儀に聞いてくれるところは昔から変わっていない。
士遠が己の研鑽に夢中になっている間に、少女から妙齢の娘へとすっかり大人びてしまった雪について扱いあぐねる事が多くなってしまっていたが、それでも変わらぬ部分に何処か安心する自分がいた。
「それで、結局典坐殿はこちらに留まることになったのですね」
「ああ、そういうことになったよ」
話題を切り替えた雪に、士遠はそう応えて庭の桜のある方へと顔を向けた。
一本だけ咲かなかった桜が、すっかり蕾を綻ばせて咲き誇っている。
典坐が士遠に一本取ったら、辞める事を認めるという話は雪も聞き及んでいた。けれど典坐は士遠からついに一本取った末に、士遠へと頭を下げた。
「本当に、ようございました」
短く偽りのない雪の言葉に、士遠は口を緩ませる。
「君も心配していたのか」
「まあそういうことになりますね……」
少し歯切れ悪くもごもごと言葉を続けながら、雪は手際よく道具を片付ける。
ひらりと舞う桜の花びらが、雪の髪につく前に士遠はそっと摘まんだ。そんな士遠の指先を目で追いながら、雪は少しだけ寂しそうに眉を歪める。
彼女は泣きそうな顔をしているのではないかと、士遠は咄嗟に思った。
「時折、典坐殿や門弟の皆様が羨ましくなります」
「何が羨ましいんだい?」
雪の言葉に士遠は首を傾げる。
山田家は御様御用の家、ある種の秩序の担い手と言えば聞こえはいいがとどのつまり死罪人の命を奪う役目を担う人斬りの家だ。『羨ましい』と言われる立場からはほど遠いものである事も士遠には分かっている。けれども彼女は羨ましい、と憧れるように口にするのだ。
「私も佐切さまや威鈴さまのように剣を振るえる女であったなら、あなたと同じ景色を見ることが出来たのに」
あなたの苦しみを如何ばかりか知る事が出来たのに。
雪は自嘲気味な声で笑った。
雪は士遠とかつての弟子の顛末を知っている。
だからこそ典坐が出て行くことを内心では恐れていたのだろう。恐らく、自分以外の山田家の人間の中では誰よりも。
浮かべられている無理をしているような歪んだ笑みは彼女には似合わない。時折ふっと桜のように綻ぶ彼女の微笑みは今のそれよりずっと綺麗なものだと士遠は知っていたが、その意味を士遠は測りかねていた。けれども彼女がいつもそんな風に笑っていられたらいいと願わずにはいられない。
「雪、君の手は人を助けるための手だ」
士遠はおもむろに雪の手を取る。先程から手拭いを冷やすのに何度も桶に張った水に手を浸けていたから、士遠よりもずっと冷たい手をしていた。
「君の手はいつも温かいのに、こんなに冷たくしてしまってすまなかったね」
突然手を取られ固まる雪は士遠の言葉に首を横に振った。
「いいえ、いいえ、必要な事をしたまでのことです!だからそう気に病まないでください」
「その君が『必要なこと』だと言う行いは、きっと正しくて、いつだって優しい」
士遠は己の行いが正しくあろうといつだって考えて己を顧みる。生まれの所為か、生業の所為か、そんなものは見当もつかなかった。けれど彼女はそんな意識もないのだろう。どんなに冷静であろうとしながら、その手を迷わず誰かの為に使おうとする。士遠にはなしえない、典坐とは異なる眩しさが士遠の盲いた目を照らす。
月明かりというものを盲の士遠は言葉でしか知らないが、暗闇の中歩く人を照らす光というものはきっとこういうものなのだろうと雪のことを見ているとそう思える自分がいた。
だからこそ、彼女の輝きが自分の所為で翳ってしまうことが士遠は恐ろしい。
「だから同じになろうだなんて思わなくてもいいんだ」
「士遠殿」
穏やかに繕った笑みを浮かべて士遠はそう雪に諭した。表情こそ繕っているが、言葉だけは士遠の紛れもない本心だ。
戦う術がないことを彼女は嘆いているが、戦えなくて良かったと安堵する自分が浅ましくて堪らない。突き放されたと思ってもらって構わないのに、それでも彼女は自分の側で変わることなく笑っているのだろう、そんな妙な予感がした。
雪は、ぐっと言いたいことを堪えるかのように拳を握る。
優しく諭すことそのものが彼女の毒になっていると分かっていながら、士遠は言わねばならなかった。
「ならば、私は皆様が万が一の時に傷を手当てすることに専念せねばなりませんね」
「そうしてくれたら、きっと皆が助かるよ」
「じゃあ士遠殿は?」
先程の寂しそうな笑みとは一転して、拗ねた子供のように雪は士遠に上目遣いで問いかけた。
「士遠殿は、私がそうしたら助かりますか」
「ああ、とてもね」
士遠のその一言に、雪は顔を綻ばせる。
「なら、そうしますね」
そんなことがないことは雪も士遠も分かってはいるのだが、嘘みたいな約束事をすることがいつの間にか当たり前のようになっていた。二人してささやかな戯れに笑い合う、そのことに安息を得ていることを士遠が気付いたのはいつのことであったのだろうか。
雪の桜が綻んだような笑みを眺めながら士遠はふと口を開いた。
「あとそれから」
「はい?」
「君はいつも真面目な顔をしているが、笑っていた方がずっと似合う」
「え……」
こういうときは少し照れを交えながら「ありがとうございます」と雪は口にしている筈なのに、この時に限ってどういうわけか雪はぽかんと口を開き呆気にとられていた。
「雪?」
どうしたのかと戸惑い雪の手を握る力を強めるが、急に温かくなった指先は急いで士遠の手を撥ね除けた。
「わ、たし、典坐殿の様子を見てきます!」
上擦った声で雪は士遠にそう言い残し、止める間もなく足早に駆けていった。
どうして彼女は時折こんな風に士遠の言動に慌てふためくのだろうか。
(典坐や他の若い奴らが見たら驚くだろうな)
だが士遠も木石ではない。彼女の振る舞いにほんの少しだけ思い当たる節がある。
けれども、
(私はきっと、彼女に相応しくない)
そして彼女もまた、きっと衛善同様に──十禾も彼女を古くから知っているが、扱い方があからさまに違っていた──士遠を兄とも憧れの存在とも捉えているだけなのだろう。
そう首を振り、自分に言い聞かせて、一つの可能性を否定する。
ふと彼女の座っていた跡に桜の花びらが一枚落ちているのを見つけ、士遠はそれを崩さぬようにそっと掴み、僅かに触れた彼女の手の温もりを思い返した。