しのぶれど
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雪という
首がすっぱり落とされた死体を見ても、並の女のように叫んだり気絶することなく眉一つ動かさず仕事を続けるし、頼まれれば門弟達と同様に死体を扱い、時には付知が解剖する際助手として動くこともある。
考えてみれば
けれど彼女が常に冷静であっても、けして冷徹ではないことは典坐にも最近わかるようになってきた。
例えば彼女が直接仕えている佐切に向ける視線の優しさ、とか。
門下生や自分たちの傷の手当てをするときの手の温かさ、とか。(聴けば彼女は山田家と懇意の医者の下で医学を学んでいるらしい)
けして心の無い人ではないと分かっているけれど。けれどもやっぱり典坐からしてみれば、なんとなく怖い人のように見えてしまう。
誰に言っても信じてもらえないのだろうが、時折彼女が自分を見て、一瞬だけものすごく恐ろしい顔をするのだ。当然典坐には心当たりはあるはずもなく、そんな表情を見せるのに彼女の態度はいつもと変わらない。だから尚更不思議になる。
「先生、雪さんってなんつーか、おっかない人ですよね」
ふと典坐は自身の師であるーー正確に言えば同門同格の人間であるのだがーー士遠にそう言ってみた。
西陽の眩しい帰路の道中である。
士遠は典坐の言葉に不思議そうにして、「彼女はお前が思うような人ではないよ」と笑った。
「そうっすか? なんというか、時々迫力ありませんかあの人」
「そうだろうか……拗ねたりするときは少し厄介だが、可愛いところもあるんだが……」
拗ねる? 可愛い? 予想だにしない言葉が飛んできて、典坐は少しだけ思考が止まった。
「だけどどうして拗ねるのか、分からない時もあってな」
「例えば、どんな時っすか?」
「最近だとそうだな……先日衛善さんと茶を飲みに行って彼女の土産に団子を買ったんだが、何故かいらないと断られてな」
彼女は甘味が好きだったはずなんだが。と士遠は腕を組む。
「典坐にやればいいと気を回されてしまったんだ」
そういえばついこの間、士遠からどう見ても一人分ではない量の団子をもらったことがあるのを典坐は思い出す。あれは、そんな経緯があったのか。
「あそこのは気立てのいい娘さんが看板娘でな、団子も美味しいんだが」
「気立てのいい?」
なんだか嫌な予感がして、典坐の背には冷汗が流れる。
「先生だけは特別だと言って何かとおまけをしてくれるんだ、商売の上手な娘さんなものだからついこちらも余計に買ってしまう」
「その、おまけをしてくれた事も……雪さんに話したんすか?」
「ああ、ちょっと量が多かったから訝しまれてな」
絶対それだ。
士遠の少し照れ臭そうな声を他所に、典坐は天を仰いだ。
そして一つの答えにたどり着いた。
(ひょっとして俺に対してたまにおっかない目で見てくるのって、やきもち妬いてるだけだったんすかあの人!?)
心外も甚だしい。どうして言ってやらないのかとも不思議に思ったが、茶屋の話を聴いてみれば察するというものだ。
どうにもこの人は自分の惚れた腫れたになると妙に鈍いところがあるのは典坐も分かっていたが、身近な人間まで被害に遭っているとは思わなかった。
そんな事を考えながら頭を抱える典坐の事情など露知らず、士遠は典坐の方に顔を向けて破顔した。
「彼女がお前が思うほど恐ろしい
「?」
「昔の話を言ってしまえば
夕陽に照らされた士遠は悪戯っ子のように笑って典坐の耳元で囁いた。
それから数日の後。
「佐切さまと一緒に歌舞伎を見たのですが、あれはとても面白うございました」
「雪は初めてだったのだね」
「ええ、舞台というのも良うございますね」
典坐は縁側でお茶を飲みながら二人が歓談しているところに運悪く鉢合わせてしまった。
柱の影にいる典坐に気付く事なく、士遠と雪は和やかに会話をしている。そういえばこの前雪は佐切の供をして歌舞伎を観に行っていたのだっけ。
「君も楽しめてよかった」
「ええ、それで思ったのですが、寄席なら士遠殿も楽しめるのでは、ないでしょうか」
「寄席か……久しぶりに良いかもしれないな」
「あの! それで、もし良ければ今度ご一緒できませんか……?」
「そうだな、提案したのは君なのだし一緒に聴きに行こうか」
「……はい!」
その時、ふわりと花が咲くような、雪の爛漫とした笑顔を典坐は初めてその目で見た。
好きで好きでたまらない人と一緒にいられて幸せだと、その笑顔を見るだけで事情を詳しく知らない典坐にさえ伝わってしまうような、花めいた微笑み。
(こんなの気付かない方がおかしいじゃないっすか)
いつだって凛として沈着で気丈な人が士遠の前でだけそんな風に嬉しそうに笑うのなら、ばれない方がおかしいのだ。
だが、
「そうだ、雪」
「はい」
「よかったら典坐も一緒に連れて行っても構わないか?」
士遠だけは、その笑顔の意味に気付かない。
その瞬間、雪の花綻ぶような気配は一瞬にして萎れてしまった。
口元を笑顔のまま引きつらせる。
「ええ、いいと、思います」
「ああ、それは良かった」
(いやいやいや、良くねえっすよ!)
ほっとした様子の士遠に典坐は内心突っ込みを入れる。
「典坐!」
士遠は軽く後ろを振り返り典坐の名を呼びかけた。
「は、はいっ!」
「そういうことになったから、今度三人で寄席に行くとしよう」
「了解っす……先生……」
いつから自分がいた事に気付いていたのだろう。わたわたと返事をする典坐をよそに、笑顔を引きつらせたまま明らかに不機嫌な気配を醸し出している雪は、盆を抱えて隙の無い所作で立ち上がった。
「では、吉次師範にも二人が非番の日付をお聞きしてから寄席の手配をしておきますね」
「ありがとう、雪」
その一言に、雪の不機嫌な気配と引きつった笑みが僅かに和らいだ。本当にこの人は士遠に弱いのだ。
雪の足音が遠のいてから士遠は再び口を開いた。
「せんせ「すまんな典坐」はい……?」
士遠は少し困ったように笑った。
「嫁入り前の娘が、私のような男と二人で寄席に行くとしたら、あまり良くない噂が立ってしまいそうだから。お前まで巻き込んでしまった」
「ああ、いや、俺のことはいいんですよ! 寄席だって確かに見たことねえし」
「言葉」
「ありませんし! けど、雪さんは」
「彼女は佐切の側仕え、ということになっているが、元を正せば山田家で預かっている娘だ」
「え……」
それは典坐が初めて知る雪の身の上話だった。
「当家と縁深い医者の一人娘で事情があって預かっているが、いずれは然るべき婿を取らねばならない
「佐切さんと似てるんすね」
「そうだな、だから彼女は私のような男との噂が立ってしまえば困ってしまうだろう?」
「……」
「彼女の父上には昔、世話をしてもらった恩もある、出来ることならこのような家と関係のない、良い人と幸せになってほしいんだ」
そう語る士遠は慈しむような、懐かしむような優しげな表情を浮かべていた。
「先生……」
「だからすまないな典坐、私のわがままに付き合わせてしまって」
「いえ、いいんです。でも……」
雪さんの気持ちはどうすればいいんですか?
その一言を典坐は飲み込むしかなかった。
『ここに来たばかりの彼女は、時折人目を避けてこっそり私の所で泣いていたんだ』
そっと士遠に打ち明けられた秘密がどんな意味を持っているのか、典坐には知る由もなかった。