しのぶれど
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典坐がその声を聞いたのは、全くの偶然であった。
山田家に預けられた際、雪に用意された部屋は世話をする佐切の部屋と然程遠くない場所に用意されたものであるが典坐はその事情を知らない。
門下生達は道場と中座敷を行き来する時に必ず雪部屋の近くを通る事になるのだが、典坐は偶然にも――或いは不運にも――いつもの如く休憩中であるはずの師を探して廊下を歩いている最中に部屋の中から発せられるその声を聞いてしまった。
「あっ……」
痛みとそれだけではない何かを耐えるような、女の色っぽい吐息混じりの声。
こんな白昼に場違いな艶めいた声に典坐はつい足を止めてしまったが、その声を気の所為ということにして再び師を探そうとした。したのだが。
「すまない、痛かっただろうか」
典坐は動くことができなかった。
典坐は部屋から聞こえるもう一人の声の主を知っている。典坐が探していたはずの士遠その人の声だ。
典坐は気配を消し、柱の陰にしゃがみ込み身を潜める。そこまでする必要があるのかと一瞬疑問が生じるが、こうして盗み聞いているのがなんだか後ろめたくなってしまった。
それに士遠は盲目であるからか、人の気配というものに何かと聡い人でもある。気付かれるのも何かと気まずい。
特にこんな状況では。
「いいえ、痛くはないのですが……っあ!」
「ああ、声は我慢しなくていい」
「ですけど……んんっ! 私も、恥ずかしくて」
「自然と出るものだから気にしなくて構わない、それに声に出した方が、こういうものは気持ちが良くなる」
穏やかな士遠の声と何かを耐える様な熱っぽい声、間違いないこれは。
(雪さんの声だ)
普段の沈着な声音とは随分とかけ離れているが、もう一人の声の主が雪であることは間違いない。
襖の向こう側で何が起きているのか、典坐には見当がつかない。否、思い当たる節はあるにはあるのだが……。
(いやあの二人がまさか、いつの間に、そんな、しかもこんな真っ昼間から!?)
典坐が困惑している間にも、吐息混じりの嬌声に似た雪の声は響く。
「あの、いつまで、んっ、こうされていれば」
「もう少し解してからだな、随分と強張っていたから」
「もう十分してくださいましたし、大丈夫かと」
「こういうのはある程度解しておかないと、後から辛くなるぞ」
「でも、私、こんなにされたらもう……!」
息も絶え絶えとした雪の制止も聞かず、士遠は何らかの行為を続けている。
その内雪の声は言葉らしいものが出てこなくなり、何かを耐えるようなくぐもった悲鳴しか聞こえなくなった。
これ以上ここにいたらまずい。本能でその予感を感じ取った典坐はこの場を立ち去ろうとして立ち上がった矢先、肩に襖が当たってしまった。
部屋の中の声がぴたりと止まり、誰かがこちらに歩いてくる音がして、逃げようにも足が動かない典坐の前で襖が開かれる。
「典坐じゃないか、どうしたんだ一体」
何食わぬ顔で襖を開けた士遠は、典坐に呼びかけた。
どうしたもこうしたも士遠の所為であるが、典坐はなるべく平静を装った。
「いやあ、ちょっとセンセイを探してたんすよ」
そう言いながら典坐は自然な笑みを貼り付けながら、士遠の肩越しに部屋の様子を窺う。
部屋の中では雪が膝を崩し肩で息をしながら座り込んでいた。襟元に乱れは見られないが胸に手を当て荒い息を整えている。
典坐はなんだか気まずくなって、士遠に視線を戻し困惑を誤魔化すように問いかける。
「センセイはそのう……ここで一体何を」
士遠は一瞬きょとんとした顔でこちらを『見』やり、それから穏やかに微笑んだ。
「肩が凝っていたらしいから、彼女に按摩をしていたんだ」
「按摩」
「ああ、昔取った杵柄でな。それなりに覚えがあるから」
日頃世話になっているから、今日は私が彼女に返したくて。
そう見知らぬ淡い笑みを浮かべて告げる士遠をよそに、典坐は大きく溜息をついた。
二人がしていたのが想像していたことでなくてよかったような、そうでないような。少なくともこの場にいたのが自分だけでよかった、それだけは間違いなかった。
「そ、そうっすか……」
「探させてしまって済まなかったな」
「いえ、大丈夫っ……」
呆れと安心が混ざったような声で典坐が言葉を返そうとすると、背筋に寒気が走る。
ふと視線を部屋の中に戻すと、雪が体勢を変えないままこちらを見上げていた。
否、睨んでいた。
士遠の按摩が効きすぎて泣いていたのか、目元が赤く、潤んでいていつもの沈静な面持ちが嘘のように色っぽい。けれども典坐を睨み付ける潤んだ目は冷ややかで、典坐は芯から冷える様な心地がした。
「大丈夫なんで先に剣道場に行ってますね!」
典坐はきょとんとした様子の士遠を余所にそそくさとその場を後にした。その場にいるのがどうにもいたたまれなくて、それにあの目で睨まれるのは正直かなり堪えた。
それからしばらくの間、典坐は雪の顔がまともに見れなくなり、士遠が雪と共にいるのを見かけると即座にその場から去る癖がついてしまい、士遠を大いに困惑させることとなった。
山田家に預けられた際、雪に用意された部屋は世話をする佐切の部屋と然程遠くない場所に用意されたものであるが典坐はその事情を知らない。
門下生達は道場と中座敷を行き来する時に必ず雪部屋の近くを通る事になるのだが、典坐は偶然にも――或いは不運にも――いつもの如く休憩中であるはずの師を探して廊下を歩いている最中に部屋の中から発せられるその声を聞いてしまった。
「あっ……」
痛みとそれだけではない何かを耐えるような、女の色っぽい吐息混じりの声。
こんな白昼に場違いな艶めいた声に典坐はつい足を止めてしまったが、その声を気の所為ということにして再び師を探そうとした。したのだが。
「すまない、痛かっただろうか」
典坐は動くことができなかった。
典坐は部屋から聞こえるもう一人の声の主を知っている。典坐が探していたはずの士遠その人の声だ。
典坐は気配を消し、柱の陰にしゃがみ込み身を潜める。そこまでする必要があるのかと一瞬疑問が生じるが、こうして盗み聞いているのがなんだか後ろめたくなってしまった。
それに士遠は盲目であるからか、人の気配というものに何かと聡い人でもある。気付かれるのも何かと気まずい。
特にこんな状況では。
「いいえ、痛くはないのですが……っあ!」
「ああ、声は我慢しなくていい」
「ですけど……んんっ! 私も、恥ずかしくて」
「自然と出るものだから気にしなくて構わない、それに声に出した方が、こういうものは気持ちが良くなる」
穏やかな士遠の声と何かを耐える様な熱っぽい声、間違いないこれは。
(雪さんの声だ)
普段の沈着な声音とは随分とかけ離れているが、もう一人の声の主が雪であることは間違いない。
襖の向こう側で何が起きているのか、典坐には見当がつかない。否、思い当たる節はあるにはあるのだが……。
(いやあの二人がまさか、いつの間に、そんな、しかもこんな真っ昼間から!?)
典坐が困惑している間にも、吐息混じりの嬌声に似た雪の声は響く。
「あの、いつまで、んっ、こうされていれば」
「もう少し解してからだな、随分と強張っていたから」
「もう十分してくださいましたし、大丈夫かと」
「こういうのはある程度解しておかないと、後から辛くなるぞ」
「でも、私、こんなにされたらもう……!」
息も絶え絶えとした雪の制止も聞かず、士遠は何らかの行為を続けている。
その内雪の声は言葉らしいものが出てこなくなり、何かを耐えるようなくぐもった悲鳴しか聞こえなくなった。
これ以上ここにいたらまずい。本能でその予感を感じ取った典坐はこの場を立ち去ろうとして立ち上がった矢先、肩に襖が当たってしまった。
部屋の中の声がぴたりと止まり、誰かがこちらに歩いてくる音がして、逃げようにも足が動かない典坐の前で襖が開かれる。
「典坐じゃないか、どうしたんだ一体」
何食わぬ顔で襖を開けた士遠は、典坐に呼びかけた。
どうしたもこうしたも士遠の所為であるが、典坐はなるべく平静を装った。
「いやあ、ちょっとセンセイを探してたんすよ」
そう言いながら典坐は自然な笑みを貼り付けながら、士遠の肩越しに部屋の様子を窺う。
部屋の中では雪が膝を崩し肩で息をしながら座り込んでいた。襟元に乱れは見られないが胸に手を当て荒い息を整えている。
典坐はなんだか気まずくなって、士遠に視線を戻し困惑を誤魔化すように問いかける。
「センセイはそのう……ここで一体何を」
士遠は一瞬きょとんとした顔でこちらを『見』やり、それから穏やかに微笑んだ。
「肩が凝っていたらしいから、彼女に按摩をしていたんだ」
「按摩」
「ああ、昔取った杵柄でな。それなりに覚えがあるから」
日頃世話になっているから、今日は私が彼女に返したくて。
そう見知らぬ淡い笑みを浮かべて告げる士遠をよそに、典坐は大きく溜息をついた。
二人がしていたのが想像していたことでなくてよかったような、そうでないような。少なくともこの場にいたのが自分だけでよかった、それだけは間違いなかった。
「そ、そうっすか……」
「探させてしまって済まなかったな」
「いえ、大丈夫っ……」
呆れと安心が混ざったような声で典坐が言葉を返そうとすると、背筋に寒気が走る。
ふと視線を部屋の中に戻すと、雪が体勢を変えないままこちらを見上げていた。
否、睨んでいた。
士遠の按摩が効きすぎて泣いていたのか、目元が赤く、潤んでいていつもの沈静な面持ちが嘘のように色っぽい。けれども典坐を睨み付ける潤んだ目は冷ややかで、典坐は芯から冷える様な心地がした。
「大丈夫なんで先に剣道場に行ってますね!」
典坐はきょとんとした様子の士遠を余所にそそくさとその場を後にした。その場にいるのがどうにもいたたまれなくて、それにあの目で睨まれるのは正直かなり堪えた。
それからしばらくの間、典坐は雪の顔がまともに見れなくなり、士遠が雪と共にいるのを見かけると即座にその場から去る癖がついてしまい、士遠を大いに困惑させることとなった。
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