しのぶれど

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 彼女はあんな風に笑っていたのだと、衛善は久方ぶりに思い出した。

 衛善にとってという娘は、同じ家中の一人であるだけでなく恩人の忘れ形見である。若き日に衛善の病んだ目を診療し片目ばかりでなく両の目を失うことを防いでくれた医師は、不幸な出来事でこの世を去った。その医師が衛善のみならず山田の家とも縁のあったことから、は当主吉次の預かりとなり佐切の世話役としての立場を得た。
 恐らく家中の者の中で彼女と付き合いが一番長いのは自分である、と衛善はそう認識していた。
 けれども、だからこそ、誰よりも先に気付いてはならぬことに気付くこともあるわけで。


 秋の空は良い。澄んだ空に浮かぶ雲は風に流れて悠々と飛んでいく。暑さも薄らぎ然程肌寒くもない今の季節はこうしてゆっくりと空や花を愛でるのに丁度良い。

「心地の良い日和ですね」
「ああ、外で花を眺めつつ茶を飲むのには丁度良い」

 あれこれと家中に関わる相談事が一段落し二人はようやく息をつく。衛善の横では、が茶を一口飲んでほう、と肩の力を抜いていた。
 ここ最近、奉行所に江戸の医師方から刑死体を解剖させて欲しいとの要望が届いている。彼らの言い分も山田家の人間として理解できるが、何分山田家は死体によって生計を立てる家である。食い扶持を掠め取られては堪ったものではない。
 そこで当主吉次は直接衝突する前に、医師方の懐柔を試みた。そして折衝の窓口として選んだのがの師である大月であり、言うなればは山田家と大月の間を行き来する伝令役であった。
 年若い彼女に政治の片棒を担がせるのは些か気が引けるが、は進んでその役目を買って出てくれた。そうして衛善はその報告と、ある意味で罪滅ぼしも兼ねてここ最近と茶を飲む回数が増えたのだった。
 佐切よりも五つか六つほど年長であるがこの屋敷を訪れた幼い子供の頃より成長を見守ってきたからか、衛善としては殊現と同じくらいには思い入れのある娘だ。
 秋の空も花も美しいが今を盛りと咲く花も美しい。ようやく開いた花を無残に手折る無粋者がいれば首を斬ってやりたいが、けれども「これならば」と認めることができ彼女を任せられる者が現れないものかと思うこともある。の後見人である当主吉次のもとには、いくつか彼女の縁談の相談が来ているのだが、吉次の御眼鏡に叶う相手はまだいない。

(どうしたものか)

 衛善はを横目に茶を啜る。何せこの娘、自分や佐切などごく僅かな相手にしか懐かないから門人にさえ誤解を受けやすい。

(なるようにしかならないか)

 衛善は年頃の娘を持つ者の気持ちがなんとはなしに理解できるようになってしまった。
 そんな憂い事をしていたからか、枝を折る足音に先に気付いたのはの方だった。

「士遠殿」
「おや、衛善殿だけかと思ったらもいたのか」
 
 稽古着に身を包んだ士遠が庭の物影から姿を表す。

「秋の花を愛でていたところだ」
「それはいいですな」
「お前も一杯どうだ、と言ってもこれは茶だが」

 軽口をたたき合う二人の間をは用心深く眺めている。

「いや、私はもう少し『見』てやらねばならない者がいますので」

 ここ最近、士遠はある門弟に直接剣を教えるようになった。些か態度は不真面目だが士遠の言では「才能がある」とのことらしい。
 士遠は自分自身の腕を磨くことに熱心であったから衛善としては僅かながら不安はあるが、不安を理由に何も出来なくなっては元も子もない。

「士遠殿、あの、もしよかったらこれをお二方で」

 は四つあった饅頭の内二つを手早く懐紙で包んで士遠に差し出した。近くの茶屋の名物で栗を甘く煮詰めたものが入っており秋にしか食べられないのだと、買ってきた自身がそう言っていたものを、だ。

「だが君のものだろう」
「また買えますから。それに、甘味には疲れが取れる作用があると、師匠(せんせい)も仰っていましたし」

 の言葉には真剣そのものであった。こころなしか横顔には僅かに熱が籠もっている。
 逡巡する士遠に小さく頷いて「貰ってやれ」とひと言助け船を出す。

「君と衛善殿と、それに君の先生に言われては仕方が無いな」

 士遠は小さく笑って差し出された包みを受け取る。二人の手が僅かに重なった瞬間、の肩が強張ったように見えた。

「ではまた」

 士遠は二人に向けて良い姿勢で軽く礼をしてから再び縁側を後にした。規則的な足音を聞き逃すまいとするように、は士遠が去って行った先から視線を外さない。その角度だと横顔からの表情は窺えない。しかし、ほんの一瞬だけ、衛善は自分の知るがいなくなってしまったような心地を覚えた。

?」

 ぱちんと弾けたようには衛善の方へと振り返る。僅かに目を見開きながら落ち着いているその表情は、彼女がとても驚いている顔だと衛善はよく知っていた。

「申し訳ありません、勝手にあのようなことをしてしまって」

 恥じいるように俯くに、衛善は口元を緩める。
 という娘は誤解されやすいものの世話焼きな娘だ、けれども仏頂面のまま人の世話を焼くので大層恐れられるし場合によっては気味悪がられる。
 人に不快に思われるとすぐに手を引っ込めてしまうような娘が、随分思い切ったことをする。それに、士遠に向けてあんな顔をするなんて。

「構わんさ、お前が買ってきたものだ。それに……」

 懐かしいものが見れた、とは衛善は敢えて口にはしなかった。口にしたら壊れてしまうものを、態々言葉にするほど衛善は不躾ではない。
 が士遠に向けていた表情はあの後ろ姿は子供の頃の、彼女が何もかもを一度失う前の彼女によく似ていて、けれども何かが決定的に異なるように見えた。
 小首を傾げるに衛善は自分の分であろう饅頭を一つ、手にとって差し出した。

「お前が食べる分がなくなってしまっては困るだろう?」

 は小さくはにかんで、衛善が差し出した饅頭を両の手で受け取った。
 そのささやかな笑みは衛善のよく知るものであったので、衛善は彼女にばれぬように安堵した。
 雲が早く移り変わり木々が赤く染まり始める季節に、衛善は何かが変わってしまう予感を抱いた。
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