しのぶれど
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野中雪という女性(ひと)は、己に厳しいひとである。もしかしたら、この山田家の人間の中で一番自分自身に厳しいのはこの人なのかもしれない。
そう、山田浅ェ門殊現は幼い時分より感じている。
雪という人は、男手一つで育ててくれた父親を失い、かつて父親が入門していた縁で山田家の世話になっていた。その少し後、山田家に引き取られた殊現と境遇が似通っているためか、雪は何かと気にかけてることが暫しあった。
殊現は門下生として剣を握る事を選んだが、雪はそれを選ばず当主吉次とその懇意の医師の下で製薬と医学について学ぶ道を選んだ。
「何故、剣を学ぼうとしなかったのですか?」
殊現は一度だけ、そう聞いたことがある。
あの時の殊現は無茶な稽古が祟り、珍しく風邪をひいて熱にうなされていた。この会話も熱が冷めぬ中、夢現のどちらともつかない記憶だ。けれども殊現は雪が看病をしてくれたことは数年経った現在でもよく覚えている。
病床の殊現から投げかけられた問いに水で冷やした手拭いを絞りながら、雪は少し考え込んでから口を開いた。
「父は自分に人を斬る才が無かったから、こちらの門下を辞めたのだと言っていました」
雪は普段は堅く結ばれている唇の端をほんの僅かに緩める。些細な表情の変化だがあの時の雪は苦笑していたのだと、今の殊現には理解できる。
「ですので私にも、きっと剣の才は無いのだろうと思いまして」
「でも、やってみなければわからないではありませんか」
殊現の言葉に雪は目を伏せ、小さく頭を横に振る。
「実は一度、衛善殿に見てもらったのですが。『こればかりは、仕方がない』と慰められて。それきりで」
「そ、それは……」
さほど表情を変えずーー彼女は昔からいつもそうだったーー淡々と告げられる話に殊現は返す言葉が出てこなかった。
あの優しいが稽古の時には主家の一人娘である佐切にさえ厳しく指導する衛善が、呆れや怒りを通り越し慰めるほどであるということは、彼女の剣の才というものは悪い意味で父親を超えていたのだろう。
「なので私はここで人の身体と人を生かす知識や術を学び身に付けたもので人を救い、そしてこのお家に恩を返そうと、そう決めたのです」
夕日の射す部屋で、彼女の目は静かに燃えていた。決して容易には揺るがない理知の火が彼女の内には灯っているのだ。
まだ幼かった殊現には力を持たない事を選んだ彼女の、剣に依らない静かな強さが酷く眩しいものに思えた。
「ですのでまずは、殊現殿には元気になって頂かなくてはいけません」
額に乗る手拭いを取り替えながら、ほんの少しだけ柔らかな口調で雪は幼い日の殊現に諭す。
雪は他の者が言うような頑なな娘ではなく、揺らがない決意を静かに秘めた人だった。揺るがず常に冷静な彼女は雰囲気によく合うとても冷たい手をしていた。けれどもその冷たい手が、殊現の額に伝う汗を拭う優しさを持つ手でもあったことを、殊現は今も覚えている。
◇
野中雪という人は、衛善や自分とは異なる形の強さを持つひとだと、そう思っていた、そのはずだった。
けれどもその殊現の認識はほんの少しだけ違うと気付いたのは、己が試一刀流の位階を二位に進めてからのことであった。
「やあ今年も、菊が咲きましたね」
「おや、士遠にも分かるか」
「ええ、菊の匂いがしたものですから」
「菊を見ながら茶を飲むのも悪くない」
「私はみよし屋の栗まんじゅうが食べたいですな」
「ああ、それも乙だな」
山田家の庭に咲いた菊の花を眺めながら、和やかに語らう二人。赤みがかった髪を無造作に靡かせるのは、長く試一刀流の一位の座にあり続ける衛善。透き通るような銀糸を惜しげもなくさっぱりと短く刈り整えているのは、盲目なれど試一刀流第四位に坐す士遠だ。
いずれも劣らぬ山田家の達人二人が何をしているかというと、好々爺の如く庭で花を愛でているのである。
気配を潜め、二人の何気ない会話を少し離れたところで眺めていると背後に物音が一つ。
「っ!」
「殊現殿」
勢いよく振り返ると、自分より背の低い人影。ついに睨みそうになってしまった殊現を雪は眉一つ動かさずに見据えていた。
「雪さん」
「殊現殿もこちらにいたのですね」
小声で名を呼んだ殊現に合わせて、小さな声で雪はそう言った。雪は何故殊現がここにいるのか問わぬまま、その向こう側にいる二人を見て、何か合点がいったように小さく頷く。
あまり人に気付かれたくない場面を見られて慌ててしまった己が恥ずかしくなっていると、雪は紅を指していない唇を僅かに緩めた。
「殊現殿は昔から、衛善殿の後を追いかけておりますね」
からかうような色は一切ない、ただ淡々と事実を言うだけの彼女の平静な言葉に不思議と嫌な心地はしなかった。
「ところで雪さんはどうしてこちらに」
けれども己には精進が足りず恥ずかしいものはやはり恥ずかしいので、改めて声を潜めて問い直す。
「士遠殿に奉行所から文が届いておりましたので、目を通してもらおうと」
士遠のように洒落ではなく、言葉の通りの意味合いだろう。士遠は盲であるため、文書の代筆や代読を誰かに頼まねばならない。最近では専らそれも雪の役目であった。
「ならば、呼んで参りましょうか」
「いえ」
二人に向かって足を進めようとする殊現を雪は引き止める。言葉は殊現に向いているが、そのまなざしはただ二人に向けられていた。
灯火の火が急な風に吹かれたような一瞬の揺らぎ。殊現には何故か二人を眺める雪の表情が、欲しい玩具を我慢する子供のように見えて仕方が無かった。
小さな揺らぎは瞬きと共に消え、雪は殊現に目を細める。
「火急のものではないようですし、二人が戻られたら伝えることにします」
「左様、ですか」
足早に去っていく雪に、殊現は相槌の他に何も言い出せなかった。
決して揺るがぬと思っていたひとの、衛善や自分とはまた違う強さを持っていると信じていたひとが垣間見せたささやかな弱さに不意に揺さぶられたような気がした。
殊現の足元に、まだ赤く染まりきっていない木の葉が一枚、はたりと落ちた。