しのぶれど
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幕府の首斬り執行人を務める山田家では本家内の道場では抱えきれぬ門下生を、分道場で指南している。
指南役には毎日のように教えに通う殊現の他、幾人かの段位持ちが携わっており、時折佐切も指南に勤めている。
そんな分道場からの指南の帰り、佐切は見慣れないひとを道端の向こうで見かけた。
否、佐切にとってはよく知っている人物ではあったが、その身に纏う衣には見覚えが無かったのだ。
「士遠殿」
少し距離がある佐切の声にその男は耳聡く振り返る。短く切られた淡い色の髪の下には、柔らかな風貌に凄みを利かせる傷が目を縦に横に裂くように三本。
「佐切か、稽古の帰りか?」
佐切と同じく山田浅ェ門の屋号を冠する山田浅ェ門士遠は、三本の傷以外の彼の見た目を裏切る事なき穏やかな声で佐切の呼びかけに応えた。
見慣れぬのはその衣である。
淡い柳色の絣は、今風の意匠で士遠にしっくりと馴染んでいた。真新しく塗られた白い漆喰の塀に、柔らかな黄緑の色が良く映えた。
「はい、士遠殿は……」
「私は信野染光寺の開帳に雪の付き添いで行ってきたんだ」
女人救済を謳う信野の大寺、染光寺が本尊のご開帳と言えば、参詣客目当ての出店や屋台が並ぶことで有名だ。
雪が開帳が行われる時には度々詣でていることを佐切もよく知っていた。
山田家に引き取られ人の体と医学について学ぶ雪は、手に触れたもの、そこにある確かなもののみを信じる人だ。けれどもそんな神仏よりも実際の現象や目の前にあるものだけを信じるような彼女が、形だけとはいえ自ら参詣するのが染光寺の開帳であった。
『雪は必ずその寺の開帳に参るんだな』
『はい、女人を救済するというそのお寺を母は深く信仰していたと父から聴いていまして』
『君も母上の信仰を受け継いでいるのだな』
『受け継いでいる、というよりも、母との縁を思い出す為、とも言えますね。私は母のことをよく覚えていませんから』
『そうか……。ああ、そういえば私はまだ詣でた事がないから、よかったら今度連れて行ってもらえないだろうか』
そう、士遠が雪に問い、
『へっ!? えっ、ええ! 参りましょう!』
雪が素っ頓狂な声で応じ、士遠がわざわざ衛善にその日の暇を求めたのがつい数日前の話であった。
それから雪の部屋は夜更まで灯が燈され続けた。
その前日、どこか落ち着きのない雪が朝一で何か風呂敷包みを渡してから、家中のあらゆる仕事を尽く済ませて、夜更けに倒れるように眠りについた。彼女にしては珍しい早足で身支度を整えて山田家を出たのが今朝の出来事である。
士遠の方から急に暇を求める事自体珍しい。入門してこの方、剣の道に明け暮れていた士遠にとって参詣とそれに伴う行楽が物珍しいのか。それとも、理知の人であるはずの雪の意外な一面に興味が湧いたのか。
『帰りに先生が茶屋に連れ込むのに今日の酒代』
『センセイは無理だろ、雪さんの方が誘うのに今日の酒と肴代』
『いやいや雪ちゃんがいつもみたく突っぱねて、何事もなく帰ってくるに三日分の酒代を俺は賭けるね』
……二人を見送る後ろでアレな会話が聞こえたような気もしたが。
そうだ、佐切は確かに二人を見送ったはずだ。だというのに、
「雪はどうしたんですか?」
士遠の隣には誰もいなかった。
佐切の問いに士遠は眉を顰める。どうやら一番聞かれたくない問いであったらしい。
「帰りに大月の御内儀と出会してしまってな」
「志寿さんでしたか」
「ああ」
出てきた名前に佐切は合点がいった。
「大月の御内儀」というのは雪の医術の師である大月某の奥方である。早くに二親を亡くし山田家の世話になる雪の母代わりとも言える女性で、雪が世話役を務めた佐切とも多少面識がある。
夫と同業といえども武家の出でもある彼女は、大雑把な所のある夫を補うように細やかな礼儀作法や立ち回り、そしてーー見た目に厳しい。
「どうにも彼女の髪が御目に適わなかったようでな、女髪結屋に連れて行かれてしまってね……」
「ああ……それは、仕方がありませんね……」
困ったような士遠の声に雪はその時の情景が容易に想像出来た。
雪はお洒落を好む。だがその情熱は佐切はもとより同じように山田家に引き取られ育った殊現や他の門下生、つまり基本的には他者を着飾ることに注がれている。
当の本人は、清潔さが大事だと語り、質素倹約を常としているが要するに自分が着飾るのが苦手なのだ。特に髪結だけは苦手で、佐切は時折「いっそ尼になろうか……」と上手く結えない髪と睨み合いながら途方にくれている雪を見かけることがあった。
「彼女は人のことはよく気にかけるのに、自分のことはそこまで気にかけないからな」
「そこが、雪らしいところと言いますか……」
「だが、それでこうして御内儀に捕まってしまうのもたまったものではないだろう」
「それは確かに」
そんな雪を目敏く躾けようと試みているのが志寿であった。
人は見た目で判断する。小汚くみすぼらしい医者に診てもらいたい患者はいない。それが志寿にとっての謳い文句で、雪は師弟共々志寿によって時折見た目を整えられる羽目になっている。最も雪の場合は、いつも地味ななりをしている年頃の娘を見目よくしてやりたいお節介もあるのだろうが。
「待たせてしまうから、先に帰れと言われたんだ」
「それは災難でしたね……」
「私より雪の方が災難だろうな」
そう言って士遠は顎に手を添えて苦笑した。手元の袖がふわりと風に揺れて、佐切はある事を思い出した。
見慣れない着物を士遠が着ている。
「ところで士遠殿、今日の服は?」
士遠ははたと気付いて、佐切に袖を見えやすいように持ち上げる。
「気になるのか?」
「初めて見る着物だったので」
「ああ、これは雪が誂えてくれたんだ」
士遠は傷で潰れた目尻を下げ、もう片方の腕の部分をそっと布の感触を楽しむように優しげに撫でた。
着物は士遠の一つ一つの動作にぴったり沿うように丁寧に仕立てられている。
「よくお似合いです、いい絣ですね」
「おや、佐切は『目』が効くな」
「士遠殿」
「はは」
士遠の言葉遊びに弱い佐切は案の定引っかかってしまったが、往来の場であると思い出しどうにか吹き出すのをとどめた。佐切の反応に満足した士遠は、雪から受けたのであろう説明を、あれこれと佐切に語りだす。
「南の方の反物らしい、気候で人の衣服も変わるというし、夏にはぴったりだと言ってね更衣の為に一式用意してくれたんだよ」
そう言って士遠は嬉しそうに子供のようにはにかむ。
「きっと、雪に感想を言ったら喜ぶと思いますよ」
「そうだろうか、だったら嬉しいな」
佐切は「士遠の着物」には見覚えがなかった。
だが、よくよく観察してみると「その元となった反物」には見覚えがあった。その反物は雪が家中の更衣の際、他のものとは別に仕入れていたものだ。
そして昨日まで毎夜毎夜夜更けまで明かりが灯されていた雪の部屋。士遠は仕立てを店で頼んだと思っているが、恐らく少なくとも士遠の衣だけは彼女自身が縫ったのだ。
(彼女は、どうして士遠殿に何も言わなかったのだろうか)
佐切には雪にとって、その理由を秘めることこそがいっとう大切なことであるかのように思えて仕方がない。
佐切の思案にも、雪の真意にも、士遠は気付くことなく、柔らかく破顔する。
「そうだ、今度君も雪に着物を誂えてもらうといい。何せ彼女は『見』立てがいいからな」
「士遠殿」
「なんだ?」
「雪が戻ってきたら、うんと見た目を褒めてやってください」
「ああ、いつもより『見』目よくなっているだろうからそのつもりだが」
「いえ、その三倍くらい大袈裟にお願いします」
「それはまたどうして」
「雪が志寿さんに説教をされる回数が格段に減りますから」
「なるほどそれは、責任重大だな。いつもより『目』を留めておくことにするよ」
真剣な様子の士遠から放たれるいつもの言葉遊びと、気付いてしまった幼い頃から知る人の秘めた真意に挟まれて、佐切は苦笑するしかなかった。
帰り道の向こう側で士遠の着物と同じ色をした葉が風に吹かれてゆらりと棚引いた。