しのぶれど
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「首斬り浅ェ門」として市井の人々に畏怖される山田浅ェ門と屋号を冠する一党は、様々な出自の面々によって形成されている。
大抵はどこぞの藩士か旗本の子息で、代々家の男子が門下生となる者もいるが、中には無宿人が門弟に拾われる形で入門した者もいる。先代当主の代には、小身旗本の末子であった者が厄介払いと言うように山田家の門を叩いたこともあった。
多くの門下生達は自家から山田家へと通うのが殆どで、山田家の屋敷に住み込むことはあまりない。
当主吉次の一人娘で所謂「家付き娘」の佐切にとって山田家は自身の家であるのでこれは比べる材料とはならない。先日自分の補佐として師範代を務めるようになった殊現は、両親を早くに亡くし山田家に引き取られたため彼については例外と言えよう。
御様御用を生業とする山田家において、試一刀流一位の座にある山田浅ェ門衛善もまた、他の門下生と同様に自身の邸宅から山田家の屋敷に通っている。
衛善自身は直参の生まれと言っても、家を継ぐような立場にはいない。
御様御用を任されるようになると早々に家を出て、山田家屋敷からそう遠くない屋敷地に居を構えた。
試一刀流の筆頭として幕府に召し出されたり、刑の執行のために各地の藩へ出向く事が多いので、家のことは通いの下男に任せている。
故に衛善は自分の家と言っても、殆ど休息を取るためにしか使わない。客人も山田家で応接することが多く、自身の屋敷で客を迎えるということをあまりしてこなかった。
「今日は随分とお早いお帰りだったのですね」
随分長い付き合いになってしまった、妹分のような娘を除いては。
野中雪という女は、本来家中の人間ではない。
けれどもその父親が若い頃、当主吉次と兄弟弟子であった縁で二親を亡くし──母親は彼女を生んで間も無く儚くなった──故あって引き取り手のなかった彼女は、山田家に引き取られた。初めは童女であった佐切の世話役として、佐切が成長してからは奥向きの仕事を担う女衆として。更にここ数年は医術や薬学を学び、その面から山田家を支えている。
召使とも客分ともつかぬ立場でありながらも、彼女はこの家に溶け込こんでいた。
ゆくゆくは婿を取り家を夫婦で家を継ぐことになる佐切の支えとなってくれたら、衛善としてはありがたいのだが。
(どうにも私の期待は一筋縄では叶えられないらしい)
目の前で勝手知ったる庭の手入れをする雪に、衛善はため息をついた。
「用はなんだ」
「今日は隼町の
呆れた口調の衛善にツンと眉を吊り上げて、雪は石の上に置いた包みを掲げる。
カランと陶器同士の擦れる音をさせる包みを、衛善は雪の手から受け取った。
衛善は山田家に入門して間もない頃、眼病で左目を失った。
丁度その頃、折りよく長崎から江戸へ帰郷し町医者として生計を立て始めた彼女の父親から治療を受けなければ、衛善は右眼の視力まで失っていただろう。
雪の父が死んだ後は、彼の仕事仲間であり雪の医術の師である医者に薬を調合してもらっていたが、ここ最近は雪自身に調合を頼んでいた。
「薬を他の者に届けさせてもよかっただろう」
「何せ容器が割れ物ですから、他の方には任せられなくて」
「いずれにせよ、いつも助かる」
「異常は特にありませんか」
「おかげさまでな」
「私でなくても
それは「面倒だから」という理由ではなく、「自分より優れた医師に診てもらった方が良いのではないか」という気持ちの表れだと衛善はよく知っていた。
「お前のいい練習になると思ってな」
「それは……私としてもありがたいです」
常に頑なさの残る硬い蕾さながらの彼女の
この素直さをもう少し周りに、特にあの男に見せれば少しは事態が好転するものを。
そう思いながらも、彼女が自分を頼りにしてくれる事が嬉しく思えてしまうのもまた事実であった。
「それでまた士遠のことか」
衛善の言葉に雪は掃除を再開しようと箒を取ろうとした手を止めおもむろに振り返る。
「正直もう日も落ちるのだから早々に帰ってほしい」というのが本心であったので、掃除を再開されなくて衛善は内心少しばかり安堵した。
「何故すぐ決めつけるのです」
「ここ最近、お前がいじけた顔で私のところに来る原因は大抵それだろう」
図星だったのか、雪は顔をしかめて衛善から目を逸らした。
「彼女は何を考えているのか分かりにくい」と新参の門弟から話を聞く事があるが、雪という娘の本心はなかなかどうしてわかりやすい。最も、それは極一部の事に限られているのだが。
「私だってたまには、違う用事で参りますよ」
「だが用事のついでに士遠の話をするだろう、この前は買い物に行ったら山田家の人間かと問われて士遠によろしく言って欲しいと商家の娘に言われた話だったな」
「細かいことを覚えておりますね」
「人の顔と名前と、印象的な話を覚えておくことは渡世に役立つからな」
「
「違うが苦労は似ているだろうな」
衛善は包みを縁側に置いてから、落ち葉が掃かれた庭先を歩く。大した広さはないがよく手入れがされている。
今の季節はくちなしが甘やかな香りを漂わせていた。軽く屈み、咲き始めた白く柔らかい花弁に指をそっと触れながら口を開く。
「お前が士遠を慕うのは、父の仇を斬った男だからか」
衛善の背後から僅かに砂利が擦れる音がした。
雪がたじろいだのだろう、振り返る事なく衛善は言葉を続ける。
雪の父親は、彼女が幼い頃に殺された。
下手人には余罪があったため、死罪にされたのだった。
そして彼女の仇である男を斬ったのは、
「確かにお前の仇が死罪になったあの日、俺と士遠は吉次師範と共にその刑場へ赴いた。それに十禾は地方に出向いていた」
「存じております」
雪の声音はいつもと変わらないが、僅かに震えていた。
「その日誰がお前の仇を討ったのか、私たちは教えるつもりはない」
「それも、わかっております! けれどもそれはこの気持ちとは関わりがありません」
「ならば何故、士遠に執着する」
「……少なくとも、仇を斬ってくださったからではないのは確かです。それだけは本当です」
「真実か」
「私の父と神明に誓います」
神明の前に父親を置くのは彼女らしい、真剣な雪の声に衛善は立ち上がり振り返って雪と目を合わせる。
雪は頑なでだからこそ脆い。立ち竦む彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。
「ならば理由は」
「理由なんて、ただ、いつのまにか彼の方を目で追うようになっていて……それから」
雪は目を伏せて、それから衛善よりずっと遠くを眺める。
二人の間に、初夏の爽涼とした風が吹いて、それが止んでから雪は言葉を続けた。
「あの方がふと消えてしまうのではないかと思った時に、失いたくないと、そう思ってしまったのです」
「それだけなのか」
「たったそれだけ、それだけなんです、人に惚れてしまうというものは」
あの人の柔らかい部分を、私が護れたら。そんな大それたことを願ってしまう。
泣きそうな、痛々しい表情のまま、雪は自嘲するように笑った。
山田家に引き取られた当初は笑う事も泣く事も忘れてしまった娘が、こんな顔をするようになったのか。衛善は少し感慨深いような、寂しいような心地を覚えた。
「何故奴に告げない?」
雪は僅かに目を見開いてから、俯く。
「身内に殺されて親を失った娘より、家付き娘の婿となった方が幸せというものではありませんか?」
ましてこのお家は、罪を裁く業で成り立つ家です。
先程の狼狽が嘘のように、雪は淡々とした声音で言い放つ。
雪の父親は自分の兄に、殺された。
ただの私怨で、ありふれた嫉妬で、彼女の父親は肉親に殺されたのだ。変えようのない事実は消すことは出来ない。彼女の中からその過去が消えることはない。
「過去を、まだ気にするのか」
「気にもなりますよ」
「お前の父は医者となる際、家との縁を切ってただの浪人となった。だからお前は山田家に来たんだろう?」
だから、血の繋がりはあっても彼女は、彼女だけは他の血縁とは違って、その伯父の罪に連座する事を免れた。
「分かっています」
「それでも告げる気はないのか」
「決して」
雪は衛善を見据える、その目には意志の強さである静かな熱が宿っていた。
彼女は本当に士遠に言うつもりがないのだ。
身を焦がす程の恋慕と衝動を己が身に課せられた
衛善は先程の厳しい表情から一転し、小さく笑った。
「『鳴かぬ蛍が身を焦がす』とはよく言ったものだ」
揶揄うような言葉に雪は衛善の顔をついと睨んだ。
すっかり妙齢の臈長けた女になったが、そうやってじっと恨むように睨んでくる気の強い眼差しは衛善が初めて彼女と出会った幼い頃と変わらない。
「言っていないのですから、良いではありませんか。蝉のように煩くありませんし」
「確かに蝉の声よりはいくらかましだが、蛍の光というものは闇夜によく目立つ」
「あの方に見えないなら、さして問題はありません」
不貞腐れた雪はつんとそっぽを向いた。
果たしてあの朴念仁がこの忍ぶ恋に気付くのが先になるのやら、それとも娘の意固地がとうとう解けてしまうのが先になるのやら。衛善は隻眼を細めて苦笑する。
雪の視線の先に白いくちなしが見えて、衛善は不意に閃いた。
「鋏はあるか」
「え、ええ、あります」
雪は少し困惑しながら、袂から巾着を取り出し小さな鋏を衛善に手渡した。
「半分冗談だったのだが、本当に持っていたとは」
「縫ったり繕うのに使いますから」
「何を」とは聞かずとも分かる、少なくとも針仕事ではないことは確かだった──彼女は裁縫より傷の縫合が得意だ──。
衛善はくちなしの枝を特に花が立派に咲いているものを選んで五、六本鋏で手早く切り取り、懐から懐紙を取り出し切り口を包んでから鋏の刃を拭い雪にくちなしと鋏を手渡した。
「屋敷に持ち帰って生けるといい」
「衛善殿」
「そしてまた花が実を結んだら取りにおいで」
最初は恩人の忘れ形見だから、気にかけていただけだった。けれども衛善にとって雪はいつしか妹のように気にかける存在になっていた。
ひとりぼっちになって我らの一員となった、いじらしい恋をするようになった娘。
柔らかく笑う衛善の手から雪は花が崩れないよう、そっと丁寧な手つきで花の束を受け取った。
「また、参ります」
「出来れば士遠以外の事でな」
「衛善殿っ」
「おや、雪もいたのか」
「ああ、やっと戻ったか士遠」
「士遠殿!?」
よく知る声に二人して振り返ると旅装束姿の士遠が開いていた門から姿を現した。
片手で笠を持ち上げて士遠は苦笑する。
「帰りの道中、川が増水して足止めされてしまってね」
「それなら手紙も来ないのも当然か」
「災難でしたね」
「ああ、酷い目にあったよ」
士遠の洒落を受け流し、衛善はひとり合点がつく。
(ああ、だからか)
士遠は他藩からの依頼で七日程江戸を離れていた。だが十日たった今日も帰ってこず、知らせもなかったので典坐などは気を揉んでいた。
士遠のことだから心配はあるまい、大方四、五日前の大雨で街道沿いの川が増水したのだろう。
そう衛善や吉次らは踏んでいたが当たっていたらしい。
雪もまた典坐ほどではないが不安だったのだろう。
「これから屋敷に報告しに行くところでして、衛善さんが戻られている頃だと思って伺ったら雪の声が聞こえたものですから」
「私の薬を届けてもらったんだ。丁度良い、士遠、雪を屋敷まで送ってくれないか」
「え」
「任されました」
「ひとりでも問題は」
「どのみち目的地は同じなんだから送ってもらえ」
「そんな」
「ところで雪、手にしているそれはくちなしかい?」
唐突に士遠に問われて雪は少し戸惑いながら花の束を軽く持ち上げる。
「え、ええ。衛善殿から分けていただいて。後で屋敷に飾ろうかと」
「そうか、もうそんな時期か」
士遠は持ち上げられたくちなしの短く切られた枝が一輪雪の手から零れ落ちそうになるのを受け止め、器用に雪の耳の上に挿した。
「……!?」
「良い匂いですね、衛善さん」
「手入れが良いのでな」
「衛善殿。私は、これで失礼します」
「雪、ちょっと待ってくれ。衛善さん、また明日」
「ああ、雪をよろしく頼む」
耳まで赤くさせながら足早に去っていく雪を、士遠は衛善に一礼してから慌てて追いかける。慌てると言っても二人の歩幅は違うので、あっという間に士遠は雪に追いつく。
二人との距離が離れていくというのに、話し声は随分とよく聞こえた。
衛善は門の前で士遠と雪の小さくなる後ろ姿を見送りながらふむ、と顎に手を添える。
衛善はいずれ彼女に、当主の妻となる佐切を支えてほしいと考えている。
恐らく当主である吉次も似た事を考えているだろう。
身寄りの無い彼女が誰か門弟と夫婦になって、一門の人間として佐切の助けとなってくれたのなら、それはきっと山田家の為となる。そして夫婦となる二人が互いを憎からず思っていれば尚更良いのだが。
それに、
(いずれにせよ、彼女は知りすぎた)
山田家の支えとなろうと彼女が決意し、事実現在支えとなっているが故に、彼女は山田家の内情を深く知る立場にある。
財務や家政は勿論、死体を原料とする製薬法に至るまで、彼女は深く関わっている。
そしてそれは、彼女が他家に嫁ぐことが山田家の不利益となりかねない可能性をも生み出してしまった。
だからこそ、試一刀流の筆頭である衛善は御家の為に彼女を家中に留めねばならないと認識している。
けれども幼い時分より彼女を知る人間としては、見合うべき幸せを得てほしいとも願ってもいる。
双方の観点から、衛善自身は雪の相手に士遠は丁度いいと思うのだが……。
「そればかりは、ふたり次第か」
衛善は肩を竦め、家の門を潜った。
人の気配が消え、陽が傾いて夜の帳が降り始めた道端に、梔子の匂いをした初夏の風が吹いた。