賢者の石編
/* 009 - 十年の証明
十年という歳月は、人を変える。
窓の外では、八月の風が湖面を静かに撫でていた。ホグワーツ城は、今年もまた新たな学年を迎えようとしている。梟達は朝から慌ただしく塔を行き交い遠くの山々は日差しを留めながらも、少しずつ秋の色へ移ろい始めていた。
校長室は静かだった。
壁一面へ並ぶ歴代校長達の肖像画は、それぞれ思い思いに居眠りをし、ある者は新聞を読み、またある者は静かに鼾を立てている。銀細工の器具は卓上で規則正しく回転し、細い蒸気を吐き続けていた。
アルバス・ダンブルドアは窓辺へ立っていた。
青い瞳は湖ではなく、そのさらに向こうを見ている。
あの夜から、十年が経った。
魔法界は平穏を取り戻した。闇の帝王ヴォルデモートは予言の子に敗北し、多くの死喰い人が裁きを受けた。アズカバンへ送られた者もいる。無罪を主張し、再び純血名家として暮らし始めた者もいる。だが、それだけでは終わらなかった。闇は消えても、人の心までは元へ戻らない。
ダンブルドアはゆっくりと窓から身を離した。
長いローブの裾が床を滑り、柔らかな足音だけが校長室へ響く。机の上には羊皮紙が一枚だけ置かれていた。まだ何も書かれていない。黄ばんだ紙面だけが静かに主を待っている。細い指先が羽根ペンを持ち上げる。インク壺へペン先を浸し、静かに持ち上げた。黒い雫が一滴だけ流れ、やがて羊皮紙へ落ちることなく収まる。宛名を書く。流れるような筆致だった。
イザーク・クレイヴン殿。
そこまで書いたところで、ペン先が止まる。
ダンブルドアはその名を、しばらく見つめていた。
十年前。ヴォルデモートが姿を消したあの夜、一人の青年もまた魔法界から姿を消した。逃亡ではない。潜伏でもない。彼はただ、静かに去った。
魔法省も、元死喰い人達の行方を追っていた。
闇の残党が再び集結することを恐れていたからだ。報告書は何度も校長室へ届いた。逮捕者の名前。逃亡者の名前。裁判の日程。その束の中に、一枚だけ妙な報告が混じっていたことを、ダンブルドアは今でも覚えている。
消息不明。それだけだった。
何処へ消えたのかも、誰と接触したのかも、何一つ分からない。だが、それから数年が過ぎた頃だった。偶然というには出来過ぎた形で、その男の足取りが見つかった。魔法界ではない。マグルの世界に彼はいた。
建設会社に務め、夜明け前に起き、日が暮れるまで土を掘り、鉄筋を運び、コンクリートを流し込む。仕事を終えれば、小さな酒場で酒を一杯だけ飲み、古びたアパートへ帰る。翌朝になれば、また同じ一日を繰り返す。
魔法は使わない。争いも起こさない。誰かへ自ら過去を語ることもない。
十年。ただ、それだけを続けていた。
「……不思議なものじゃな」
ダンブルドアは羽根ペンを静かに置く。
独り言だった。
人は罪を犯す。だが、人は罪だけで出来ているわけではない。
誰かを傷付けた者も、誰かを救うことがある。闇へ身を置いた者も、光を求める日が来る。セブルスがそうだった。そして、おそらく。
「君も、そうなのじゃろう」
その呟きへ答える者はいない。
窓の外では、一羽の梟が青空を横切っていった。
やがて、控えめなノックが三度、校長室へ響いた。
「入りたまえ」
重厚な扉が静かに開く。
黒いローブを翻し、一人の男が室内へ足を踏み入れた。細身の身体。蝋のように青白い肌。肩口まで流れる黒髪。かつて死喰い人として闇へ身を置き、今はホグワーツ魔法薬学教授として教壇へ立つ男だった。十年前と比べればその顔には幾分か疲労の色が刻まれている。だが、その黒い瞳だけは変わらない。感情を深く沈めたまま、誰にも容易く内側を覗かせない眼差しだった。
扉が閉める。蝶番が低く鳴り、校長室は再び静寂へ包まれる。
セブルスは机の前まで歩み寄り、短く頭を下げた。
「お呼びでしょうか、校長」
「呼び立ててすまんのう、セブルス」
「そう仰るのであれば、なるべく手短に願いたいものです」
声音は淡々としていた。だが、その奥には僅かな疲労が滲んでいる。
夏休みといっても、教師に休暇など存在しない。新学期へ向けた教材の見直し。魔法薬の材料の補充。教室と薬品庫の管理。例年のように事故を起こす生徒達を想定した在庫確認。授業が始まる前だからこそ終えねばならない仕事は山ほどある。その貴重な時間を割いてまで校長室へ来ている以上、世間話に付き合うつもりはない。ダンブルドアはそれを十分承知していた。
「安心せい。長話をするつもりはないのでな」
そう言うと、ダンブルドアは机上へ視線を落とした。
先ほどまで羽根ペンを走らせていた羊皮紙が、静かに横たわっている。まだ宛名しか書かれていない一枚だった。
「実はの。一人の男へ手紙を書こうとしておった」
セブルスは何も言わない。
問い返すこともなく、ただ校長の次の言葉を待っている。その沈黙を受け入れるように、ダンブルドアは羊皮紙を静かに机の向こうへ滑らせた。
紙は木目の上を擦り、小さな音を立てて止まる。
セブルスの視線が、自然とそこへ落ちた。羊皮紙へ記された名を認めた瞬間だった。表情は変わらない。その無表情は、十年前と寸分違わない。それでもダンブルドアには分かった。黒い瞳が、ごく僅かに細められたことを。呼吸が一拍だけ浅くなったことを。長年見続けてきたからこそ分かる小さな変化。
イザーク・クレイヴン。
その名は、十年という歳月を経てもなお、セブルス・スネイプの記憶から消えてはいなかったのだ。
ダンブルドアは静かに口を開く。
「おぬしは、この男を覚えておるかね」
校長室は静まり返っていた。
銀細工の器具が規則正しく回り続ける音だけが、二人の間をゆっくりと流れていく。セブルスは羊皮紙から目を離さない。やがて、小さく息を吐いた。
「……忘れる理由がありません。イザーク・クレイヴン……元死喰い人です。魔法省の資料では、現在も消息不明だったはずですが」
「その通りじゃ」
青い瞳は穏やかだった。
その奥には、十年前から抱き続けてきた一つの問いが静かに宿っている。
「じゃが、わしが聞きたいのは経歴ではない」
言葉を選ぶように、一呼吸置く。
「おぬしは、イザーク・クレイヴンという男を、どう見ておったかね」
問いは短かった。
だが、校長室へ落ちた沈黙は長い。
セブルスは羊皮紙へ視線を落としたまま、答えようとしなかった。
歴代校長達の肖像画も、不思議なほど静かだった。普段であれば何かしら口を挟む者が一人はいる。だが今は、誰も二人の間へ割って入ろうとはしない。やがて、セブルスは静かに顔を上げる。黒い瞳はダンブルドアを見た。
「……優秀な男でした。魔法使いとしての技量も高い。判断も早い。何より、命令へ私情を挟まない。少なくとも、私が知る限りでは」
一度言葉が途切れる。
セブルスは僅かに視線を伏せた。十年前の広間。青白い炎。石床へ崩れ落ちた男。あの夜の光景が、脳裏へゆっくりと浮かび上がる。
「誰よりも忠誠心が厚かった。少なくとも、私にはそう見えた」
ダンブルドアは何も言わない。
続きを待つように、静かに頷くだけだった。
「闇の帝王へ疑問を抱くこともない。命令へ異を唱えることもない。善悪ではなく、命令か否かだけで行動を決める男でした。だからこそ、あの夜の奴は、私の知るイザーク・クレイヴンではなかったように思えます」
校長室へ静かな沈黙が落ちる。
窓の外では風が梟の羽を揺らし、硝子へ木々の影をゆっくりと映していた。卓上の銀細工は規則正しく回り続け、一定の間隔で細い蒸気を吐き出している。その単調な音だけが、言葉の途切れた空間を埋めていた。
ダンブルドアは急かさない。老いた魔法使いは両手を杖の頭へ重ねたまま、ただ静かにセブルスを見つめていた。やがて、セブルスが口を開く。
「会議中、一人の死喰い人が処刑された。それだけのことです。それ自体は、珍しい話ではない。命令一つで仲間を失うことなど日常で、恐怖こそすれど、驚くことはない。それは私も、奴も同じだったはず。ですが――」
セブルスの声が、僅かに低くなる。
ダンブルドアは何も言わず、続きを待った。青い瞳は穏やかだったが、その視線は一瞬たりともセブルスから逸れない。言葉そのものではなく、そこへ添えられた僅かな間や、呼吸の変化まで拾い上げるような静けさだった。
「奴は、倒れた男を見ていた。ただ死体へ目を向けていた、という意味ではありません。何かを理解しようとしているように見えた。あるいは……これまで理解していたものが、急に分からなくなったようにも」
自らの言葉に確信が持てないのか、そこで一度口を閉ざす。
黒い瞳が羊皮紙へ落ちた。乾ききっていないインクの文字を見つめながら、十年前の記憶を慎重に掘り起こしているようだった。
「開心術を用いたわけではありません。奴の心を読んだわけでもない。ただ、その時の表情が……先ほどまでとは違って見えたのです」
「疑念かね」
ダンブルドアは静かに問うた。
セブルスは即座には答えなかった。
銀細工の器具が、かちりと小さな音を立てる。細い蒸気が白く立ち上り、やがて空気へ溶けて消えた。
「……そうであったのかもしれません」
やがて落とされた声には、珍しく曖昧さが残っていた。
「少なくとも、それまでのクレイヴンは、闇の帝王の判断を疑うような男ではなかった。命令が下されれば従う。理由を問わない。そういう男でした」
「そうじゃろうな」
ダンブルドアは小さく頷いた。
セブルスの黒い瞳が、僅かに細められる。
「まるで、確信がおありのようですね」
「確信というほどのものではない」
ダンブルドアは机上へ視線を落とした。
羊皮紙へ記された一人の男の名。
その文字の向こうへ、十年という歳月が静かに横たわっている。
「ただのう、セブルス。人は一度疑いを抱けば、以前と同じ場所へ戻ることはできんものじゃ。見えなかったものが見えてしまえば、再び目を閉じたところで、知らなかった頃の自分には戻れぬ」
セブルスは何も言わない。
だが、その沈黙が何を意味するのか、ダンブルドアには分かっていた。
彼自身もまた、そうだったからだ。
闇の帝王へ忠誠を誓い、その力を信じ、命令へ従っていた。だが、リリー・ポッターの命が脅かされた瞬間、それまで絶対だったものへ初めて疑いを抱いた。そして一度生まれた亀裂は、二度と塞がらなかった。
「彼は今、マグル界で暮らしておる」
ダンブルドアは穏やかに告げた。
セブルスの表情は変わらない。
少なくとも、大きくは。だが、黒い瞳がほんの僅かに見開かれた。
「……クレイヴンが? まさか」
「意外かね?」
「意外という言葉では足りません」
低い声だった。
セブルスの視線が、再び羊皮紙へ落ちる。
「奴は魔法界の人間です。しかも純血主義を掲げていた死喰い人です。マグルの生活に関心を持つような男ではなかった。まして、魔法を捨てるなど」
「捨てたわけではないようじゃ」
ダンブルドアは静かに首を横へ振る。
「杖は今も手元へ置いておる。ただ、使わぬだけじゃ」
窓の外を一羽の梟が横切る。
白い羽が陽光を受け、一瞬だけ輝いた。
「十年前、魔法界から姿を消した。名前を変えることもせず、マグルの町へ移り住んだ。小さな建設会社へ勤め、今は家屋の基礎を造る仕事をしておる」
「建設会社」
セブルスは、その単語を確かめるように繰り返した。
「毎朝、夜明け前に起きる。土を掘り、鉄筋を運び、コンクリートを流し込む。雨の日も、風の日も、十年間、ほとんど休まず働いてきたそうじゃ」
ダンブルドアは椅子の背へ身体を預ける。
「魔法を使えば、数秒で終わる仕事をな」
セブルスは黙り込んだ。
ダンブルドアはその沈黙を急かさなかった。セブルスの中で、かつてのイザーク・クレイヴンと、今語られた男の姿が結び付かないのだろう。
それも当然だった。
誰よりも闇の帝王へ忠実で、誰よりも効率を重んじた男が、魔法を使わず、泥へ塗れ、ただ一つの家の土台を造る。
それは、十年前の姿からは想像し難い生き方だった。
「争いを起こした記録はない。闇の魔法を用いた形跡も。元死喰い人と接触した記録も。魔法界へ戻ろうとした様子もない。仕事仲間と酒を飲み、時折口論をし、それでも翌朝には同じ現場へ向かう。実に平凡な生活じゃ」
「監視していたのですか」
セブルスの声音が僅かに硬くなる。
「見守っておった、と言った方がよいかもしれんな」
「言葉を変えたところで、意味は同じでしょう」
「そうかもしれん」
ダンブルドアは悪びれる様子もなく微笑んだ。
「じゃが、彼へ危害を加えるつもりはなかった。魔法省へ居場所を知らせるつもりもなかった。ただ、彼が何を選ぶのかを見ておった」
「そして十年間、何もしなかった」
「何もしなかったのではない」
ダンブルドアは静かに否定する。
「働き、生き、人と関わった。それは、何もしないこととは違う」
青い瞳が、まっすぐセブルスを捉える。
セブルスは答えなかった。
窓の外から吹き込む風が、卓上の羊皮紙の端を僅かに持ち上げる。
乾きかけたインクが、光を受けて鈍く輝いた。
「彼は贖罪を果たしておる」
ダンブルドアは言った。
セブルスの黒い瞳が、僅かに険しくなる。
「贖罪とは、十年間大人しく暮らせば済むものではありません」
「無論じゃ」
ダンブルドアは頷く。
「犯した罪が消えるわけではない。奪った命が戻るわけでもない。許されるか否かを、本人が決めることもできぬ。じゃが、罪を犯した者が、その後どう生きるか。それだけは、自ら選ぶことができる」
校長室へ、柔らかな沈黙が落ちる。
「彼は逃げなかった。少なくとも、自分自身からはのう」
セブルスは羊皮紙へ視線を落としたままだった。
その横顔から、何を考えているのかを読み取ることは難しい。
ダンブルドアは静かに続けた。
「おぬしのように」
その一言に、セブルスの目が持ち上がる。
黒い瞳が、鋭くダンブルドアを射抜いた。
「私と、奴を同列に置くおつもりですか」
「違うのかね」
穏やかな問いだった。
セブルスの唇が僅かに引き結ばれる。
「おぬしもまた、過去を消すことはできん。じゃが、それでも教壇へ立ち、子供達を守り、十年間、自ら選んだ役目を果たしてきた」
「私は命令に従っているだけです」
ダンブルドアは小さく笑った。
「そう思いたければ、そう思えばよい。人は、自分の善意を認めることを、時に罪を認める以上に嫌がるものじゃからな」
セブルスは何も返さなかった。
ただ、校長室の空気が僅かに冷えたような気がした。
ダンブルドアは羊皮紙を手元へ引き戻す。
「わしは、彼をホグワーツへ招こうと考えておる」
今度こそ、セブルスの表情が明確に動いた。
眉間へ深い皺が刻まれ、黒い瞳に警戒が浮かぶ。
「……まさか」
「本人と話してから決めるつもりじゃがな」
「教師として、ですか」
「マグル学の教授として」
セブルスはしばらく何も言わなかった。
その沈黙は、先ほどまでとは違う。
驚きではない。明確な反対の形を探している沈黙だった。
「誰よりも忠誠心の厚かった男です。十年大人しく暮らしていたからといって、それだけで信用に値するとは思えません」
「誰よりも忠誠心の厚かった君が、それを言うのかね」
ダンブルドアは穏やかに問い返した。
セブルスは黙った。
窓の外では八月の風が湖面を渡り、細かな波紋を幾重にも広げていた。
十年という歳月は、人を変える。
窓の外では、八月の風が湖面を静かに撫でていた。ホグワーツ城は、今年もまた新たな学年を迎えようとしている。梟達は朝から慌ただしく塔を行き交い遠くの山々は日差しを留めながらも、少しずつ秋の色へ移ろい始めていた。
校長室は静かだった。
壁一面へ並ぶ歴代校長達の肖像画は、それぞれ思い思いに居眠りをし、ある者は新聞を読み、またある者は静かに鼾を立てている。銀細工の器具は卓上で規則正しく回転し、細い蒸気を吐き続けていた。
アルバス・ダンブルドアは窓辺へ立っていた。
青い瞳は湖ではなく、そのさらに向こうを見ている。
あの夜から、十年が経った。
魔法界は平穏を取り戻した。闇の帝王ヴォルデモートは予言の子に敗北し、多くの死喰い人が裁きを受けた。アズカバンへ送られた者もいる。無罪を主張し、再び純血名家として暮らし始めた者もいる。だが、それだけでは終わらなかった。闇は消えても、人の心までは元へ戻らない。
ダンブルドアはゆっくりと窓から身を離した。
長いローブの裾が床を滑り、柔らかな足音だけが校長室へ響く。机の上には羊皮紙が一枚だけ置かれていた。まだ何も書かれていない。黄ばんだ紙面だけが静かに主を待っている。細い指先が羽根ペンを持ち上げる。インク壺へペン先を浸し、静かに持ち上げた。黒い雫が一滴だけ流れ、やがて羊皮紙へ落ちることなく収まる。宛名を書く。流れるような筆致だった。
イザーク・クレイヴン殿。
そこまで書いたところで、ペン先が止まる。
ダンブルドアはその名を、しばらく見つめていた。
十年前。ヴォルデモートが姿を消したあの夜、一人の青年もまた魔法界から姿を消した。逃亡ではない。潜伏でもない。彼はただ、静かに去った。
魔法省も、元死喰い人達の行方を追っていた。
闇の残党が再び集結することを恐れていたからだ。報告書は何度も校長室へ届いた。逮捕者の名前。逃亡者の名前。裁判の日程。その束の中に、一枚だけ妙な報告が混じっていたことを、ダンブルドアは今でも覚えている。
消息不明。それだけだった。
何処へ消えたのかも、誰と接触したのかも、何一つ分からない。だが、それから数年が過ぎた頃だった。偶然というには出来過ぎた形で、その男の足取りが見つかった。魔法界ではない。マグルの世界に彼はいた。
建設会社に務め、夜明け前に起き、日が暮れるまで土を掘り、鉄筋を運び、コンクリートを流し込む。仕事を終えれば、小さな酒場で酒を一杯だけ飲み、古びたアパートへ帰る。翌朝になれば、また同じ一日を繰り返す。
魔法は使わない。争いも起こさない。誰かへ自ら過去を語ることもない。
十年。ただ、それだけを続けていた。
「……不思議なものじゃな」
ダンブルドアは羽根ペンを静かに置く。
独り言だった。
人は罪を犯す。だが、人は罪だけで出来ているわけではない。
誰かを傷付けた者も、誰かを救うことがある。闇へ身を置いた者も、光を求める日が来る。セブルスがそうだった。そして、おそらく。
「君も、そうなのじゃろう」
その呟きへ答える者はいない。
窓の外では、一羽の梟が青空を横切っていった。
やがて、控えめなノックが三度、校長室へ響いた。
「入りたまえ」
重厚な扉が静かに開く。
黒いローブを翻し、一人の男が室内へ足を踏み入れた。細身の身体。蝋のように青白い肌。肩口まで流れる黒髪。かつて死喰い人として闇へ身を置き、今はホグワーツ魔法薬学教授として教壇へ立つ男だった。十年前と比べればその顔には幾分か疲労の色が刻まれている。だが、その黒い瞳だけは変わらない。感情を深く沈めたまま、誰にも容易く内側を覗かせない眼差しだった。
扉が閉める。蝶番が低く鳴り、校長室は再び静寂へ包まれる。
セブルスは机の前まで歩み寄り、短く頭を下げた。
「お呼びでしょうか、校長」
「呼び立ててすまんのう、セブルス」
「そう仰るのであれば、なるべく手短に願いたいものです」
声音は淡々としていた。だが、その奥には僅かな疲労が滲んでいる。
夏休みといっても、教師に休暇など存在しない。新学期へ向けた教材の見直し。魔法薬の材料の補充。教室と薬品庫の管理。例年のように事故を起こす生徒達を想定した在庫確認。授業が始まる前だからこそ終えねばならない仕事は山ほどある。その貴重な時間を割いてまで校長室へ来ている以上、世間話に付き合うつもりはない。ダンブルドアはそれを十分承知していた。
「安心せい。長話をするつもりはないのでな」
そう言うと、ダンブルドアは机上へ視線を落とした。
先ほどまで羽根ペンを走らせていた羊皮紙が、静かに横たわっている。まだ宛名しか書かれていない一枚だった。
「実はの。一人の男へ手紙を書こうとしておった」
セブルスは何も言わない。
問い返すこともなく、ただ校長の次の言葉を待っている。その沈黙を受け入れるように、ダンブルドアは羊皮紙を静かに机の向こうへ滑らせた。
紙は木目の上を擦り、小さな音を立てて止まる。
セブルスの視線が、自然とそこへ落ちた。羊皮紙へ記された名を認めた瞬間だった。表情は変わらない。その無表情は、十年前と寸分違わない。それでもダンブルドアには分かった。黒い瞳が、ごく僅かに細められたことを。呼吸が一拍だけ浅くなったことを。長年見続けてきたからこそ分かる小さな変化。
イザーク・クレイヴン。
その名は、十年という歳月を経てもなお、セブルス・スネイプの記憶から消えてはいなかったのだ。
ダンブルドアは静かに口を開く。
「おぬしは、この男を覚えておるかね」
校長室は静まり返っていた。
銀細工の器具が規則正しく回り続ける音だけが、二人の間をゆっくりと流れていく。セブルスは羊皮紙から目を離さない。やがて、小さく息を吐いた。
「……忘れる理由がありません。イザーク・クレイヴン……元死喰い人です。魔法省の資料では、現在も消息不明だったはずですが」
「その通りじゃ」
青い瞳は穏やかだった。
その奥には、十年前から抱き続けてきた一つの問いが静かに宿っている。
「じゃが、わしが聞きたいのは経歴ではない」
言葉を選ぶように、一呼吸置く。
「おぬしは、イザーク・クレイヴンという男を、どう見ておったかね」
問いは短かった。
だが、校長室へ落ちた沈黙は長い。
セブルスは羊皮紙へ視線を落としたまま、答えようとしなかった。
歴代校長達の肖像画も、不思議なほど静かだった。普段であれば何かしら口を挟む者が一人はいる。だが今は、誰も二人の間へ割って入ろうとはしない。やがて、セブルスは静かに顔を上げる。黒い瞳はダンブルドアを見た。
「……優秀な男でした。魔法使いとしての技量も高い。判断も早い。何より、命令へ私情を挟まない。少なくとも、私が知る限りでは」
一度言葉が途切れる。
セブルスは僅かに視線を伏せた。十年前の広間。青白い炎。石床へ崩れ落ちた男。あの夜の光景が、脳裏へゆっくりと浮かび上がる。
「誰よりも忠誠心が厚かった。少なくとも、私にはそう見えた」
ダンブルドアは何も言わない。
続きを待つように、静かに頷くだけだった。
「闇の帝王へ疑問を抱くこともない。命令へ異を唱えることもない。善悪ではなく、命令か否かだけで行動を決める男でした。だからこそ、あの夜の奴は、私の知るイザーク・クレイヴンではなかったように思えます」
校長室へ静かな沈黙が落ちる。
窓の外では風が梟の羽を揺らし、硝子へ木々の影をゆっくりと映していた。卓上の銀細工は規則正しく回り続け、一定の間隔で細い蒸気を吐き出している。その単調な音だけが、言葉の途切れた空間を埋めていた。
ダンブルドアは急かさない。老いた魔法使いは両手を杖の頭へ重ねたまま、ただ静かにセブルスを見つめていた。やがて、セブルスが口を開く。
「会議中、一人の死喰い人が処刑された。それだけのことです。それ自体は、珍しい話ではない。命令一つで仲間を失うことなど日常で、恐怖こそすれど、驚くことはない。それは私も、奴も同じだったはず。ですが――」
セブルスの声が、僅かに低くなる。
ダンブルドアは何も言わず、続きを待った。青い瞳は穏やかだったが、その視線は一瞬たりともセブルスから逸れない。言葉そのものではなく、そこへ添えられた僅かな間や、呼吸の変化まで拾い上げるような静けさだった。
「奴は、倒れた男を見ていた。ただ死体へ目を向けていた、という意味ではありません。何かを理解しようとしているように見えた。あるいは……これまで理解していたものが、急に分からなくなったようにも」
自らの言葉に確信が持てないのか、そこで一度口を閉ざす。
黒い瞳が羊皮紙へ落ちた。乾ききっていないインクの文字を見つめながら、十年前の記憶を慎重に掘り起こしているようだった。
「開心術を用いたわけではありません。奴の心を読んだわけでもない。ただ、その時の表情が……先ほどまでとは違って見えたのです」
「疑念かね」
ダンブルドアは静かに問うた。
セブルスは即座には答えなかった。
銀細工の器具が、かちりと小さな音を立てる。細い蒸気が白く立ち上り、やがて空気へ溶けて消えた。
「……そうであったのかもしれません」
やがて落とされた声には、珍しく曖昧さが残っていた。
「少なくとも、それまでのクレイヴンは、闇の帝王の判断を疑うような男ではなかった。命令が下されれば従う。理由を問わない。そういう男でした」
「そうじゃろうな」
ダンブルドアは小さく頷いた。
セブルスの黒い瞳が、僅かに細められる。
「まるで、確信がおありのようですね」
「確信というほどのものではない」
ダンブルドアは机上へ視線を落とした。
羊皮紙へ記された一人の男の名。
その文字の向こうへ、十年という歳月が静かに横たわっている。
「ただのう、セブルス。人は一度疑いを抱けば、以前と同じ場所へ戻ることはできんものじゃ。見えなかったものが見えてしまえば、再び目を閉じたところで、知らなかった頃の自分には戻れぬ」
セブルスは何も言わない。
だが、その沈黙が何を意味するのか、ダンブルドアには分かっていた。
彼自身もまた、そうだったからだ。
闇の帝王へ忠誠を誓い、その力を信じ、命令へ従っていた。だが、リリー・ポッターの命が脅かされた瞬間、それまで絶対だったものへ初めて疑いを抱いた。そして一度生まれた亀裂は、二度と塞がらなかった。
「彼は今、マグル界で暮らしておる」
ダンブルドアは穏やかに告げた。
セブルスの表情は変わらない。
少なくとも、大きくは。だが、黒い瞳がほんの僅かに見開かれた。
「……クレイヴンが? まさか」
「意外かね?」
「意外という言葉では足りません」
低い声だった。
セブルスの視線が、再び羊皮紙へ落ちる。
「奴は魔法界の人間です。しかも純血主義を掲げていた死喰い人です。マグルの生活に関心を持つような男ではなかった。まして、魔法を捨てるなど」
「捨てたわけではないようじゃ」
ダンブルドアは静かに首を横へ振る。
「杖は今も手元へ置いておる。ただ、使わぬだけじゃ」
窓の外を一羽の梟が横切る。
白い羽が陽光を受け、一瞬だけ輝いた。
「十年前、魔法界から姿を消した。名前を変えることもせず、マグルの町へ移り住んだ。小さな建設会社へ勤め、今は家屋の基礎を造る仕事をしておる」
「建設会社」
セブルスは、その単語を確かめるように繰り返した。
「毎朝、夜明け前に起きる。土を掘り、鉄筋を運び、コンクリートを流し込む。雨の日も、風の日も、十年間、ほとんど休まず働いてきたそうじゃ」
ダンブルドアは椅子の背へ身体を預ける。
「魔法を使えば、数秒で終わる仕事をな」
セブルスは黙り込んだ。
ダンブルドアはその沈黙を急かさなかった。セブルスの中で、かつてのイザーク・クレイヴンと、今語られた男の姿が結び付かないのだろう。
それも当然だった。
誰よりも闇の帝王へ忠実で、誰よりも効率を重んじた男が、魔法を使わず、泥へ塗れ、ただ一つの家の土台を造る。
それは、十年前の姿からは想像し難い生き方だった。
「争いを起こした記録はない。闇の魔法を用いた形跡も。元死喰い人と接触した記録も。魔法界へ戻ろうとした様子もない。仕事仲間と酒を飲み、時折口論をし、それでも翌朝には同じ現場へ向かう。実に平凡な生活じゃ」
「監視していたのですか」
セブルスの声音が僅かに硬くなる。
「見守っておった、と言った方がよいかもしれんな」
「言葉を変えたところで、意味は同じでしょう」
「そうかもしれん」
ダンブルドアは悪びれる様子もなく微笑んだ。
「じゃが、彼へ危害を加えるつもりはなかった。魔法省へ居場所を知らせるつもりもなかった。ただ、彼が何を選ぶのかを見ておった」
「そして十年間、何もしなかった」
「何もしなかったのではない」
ダンブルドアは静かに否定する。
「働き、生き、人と関わった。それは、何もしないこととは違う」
青い瞳が、まっすぐセブルスを捉える。
セブルスは答えなかった。
窓の外から吹き込む風が、卓上の羊皮紙の端を僅かに持ち上げる。
乾きかけたインクが、光を受けて鈍く輝いた。
「彼は贖罪を果たしておる」
ダンブルドアは言った。
セブルスの黒い瞳が、僅かに険しくなる。
「贖罪とは、十年間大人しく暮らせば済むものではありません」
「無論じゃ」
ダンブルドアは頷く。
「犯した罪が消えるわけではない。奪った命が戻るわけでもない。許されるか否かを、本人が決めることもできぬ。じゃが、罪を犯した者が、その後どう生きるか。それだけは、自ら選ぶことができる」
校長室へ、柔らかな沈黙が落ちる。
「彼は逃げなかった。少なくとも、自分自身からはのう」
セブルスは羊皮紙へ視線を落としたままだった。
その横顔から、何を考えているのかを読み取ることは難しい。
ダンブルドアは静かに続けた。
「おぬしのように」
その一言に、セブルスの目が持ち上がる。
黒い瞳が、鋭くダンブルドアを射抜いた。
「私と、奴を同列に置くおつもりですか」
「違うのかね」
穏やかな問いだった。
セブルスの唇が僅かに引き結ばれる。
「おぬしもまた、過去を消すことはできん。じゃが、それでも教壇へ立ち、子供達を守り、十年間、自ら選んだ役目を果たしてきた」
「私は命令に従っているだけです」
ダンブルドアは小さく笑った。
「そう思いたければ、そう思えばよい。人は、自分の善意を認めることを、時に罪を認める以上に嫌がるものじゃからな」
セブルスは何も返さなかった。
ただ、校長室の空気が僅かに冷えたような気がした。
ダンブルドアは羊皮紙を手元へ引き戻す。
「わしは、彼をホグワーツへ招こうと考えておる」
今度こそ、セブルスの表情が明確に動いた。
眉間へ深い皺が刻まれ、黒い瞳に警戒が浮かぶ。
「……まさか」
「本人と話してから決めるつもりじゃがな」
「教師として、ですか」
「マグル学の教授として」
セブルスはしばらく何も言わなかった。
その沈黙は、先ほどまでとは違う。
驚きではない。明確な反対の形を探している沈黙だった。
「誰よりも忠誠心の厚かった男です。十年大人しく暮らしていたからといって、それだけで信用に値するとは思えません」
「誰よりも忠誠心の厚かった君が、それを言うのかね」
ダンブルドアは穏やかに問い返した。
セブルスは黙った。
窓の外では八月の風が湖面を渡り、細かな波紋を幾重にも広げていた。