賢者の石編

/* 026 - ハロウィーンの攻防


 教室を出ると、石造りの廊下は夕闇に包まれ始めていた。
 壁へ取り付けられた燭台へ、一つ、また一つと魔法の炎が灯っていく。橙色の光は長い影を床へ落とし、古びた肖像画の住人達をぼんやりと照らし出していた。甲冑姿の鎧は槍を立てたまま微動だにせず、窓の向こうでは禁じられた森が夜の色へ沈みつつあった。

 遠くから笑い声が聞こえた。
 晩餐会を楽しみにしている生徒達が、それぞれの寮の友人と肩を並べながら廊下を歩いていく。頭上を小さな蝙蝠が横切り、天井近くでくるりと旋回すると、その後を一年生らしい数人の生徒が歓声を上げながら追い掛けていた。

 祭りの日だった。
 イザークは黒いスーツのポケットへ手を入れ、ダンブルドアと並んで歩く。老人は長い白髭を揺らしながら、ゆったりとした足取りで廊下を進んでいた。周囲を通り過ぎる生徒が挨拶をすれば、その一人ひとりへ笑顔で応じている。

「クレイヴン教授」
 ダンブルドアが穏やかに口を開いた。

「生徒達から、君の授業はなかなか評判が良いようじゃ」

 ダンブルドアは前を向いたまま言った。
 それにイザークは鼻を鳴らす。

「噂なんざ当てにならねぇよ」
「そうかね?」
「授業と言っても、電話を見せて、時計を触らせて、工具の説明をしただけだ。ガキどもが面白がるのは最初だけさ」

 ダンブルドアは小さく笑う。

「君はそう思っておるようじゃが、どうやら生徒達は違うらしい」

 イザークは横目で老人を見た。

「何を聞いた」
「マグルが少し好きになったと」

 その一言だけだった。
 イザークは足を止めこそしなかったが、視線だけが僅かに揺れる。
 ダンブルドアは続ける。

「純血の家に育った子供の多くは、マグルを知る前に教えられることが多い。危険だ。愚かだ。我々より劣っている、と」

 一枚の肖像画が二人を見送りながら、小さく帽子を持ち上げた。

「……じゃが、君は違う。便利だから凄い、とは教えなかった。魔法より優れている、とも言わなかった」

 老人は生徒達が歩いていく後ろ姿を眺める。
 青い瞳が細められる。

「マグルも同じ人間じゃ、と教えた」
「当たり前の話だ」
「その当たり前が、一番難しい」

 静かな声だった。
 廊下を渡る風が、ダンブルドアの髭を揺らす。

「魔法は呪文で教えられる。歴史は本で教えられる。じゃが、人を偏見なく見ることだけは、誰かの姿を見て学ぶしかない」

 イザークは何も言わなかった。
 靴音だけが規則正しく石床へ響いている。

「君はマグル学を教えておるようで、その実、人間を見ることを教えておる」

 イザークは苦笑とも溜息ともつかない息を漏らした。

「買い被りだ」
「そうかもしれん」

 ダンブルドアは否定しない。

「じゃが、生徒というものは、教師が思っている以上によく見ておる」

 その言葉だけが、不思議と廊下へ残った。
 教えている内容だけではない。歩き方も、怒り方も、笑い方も。何を見て、何を見過ごすのかも。子供達は、大人が思う以上に覚えている。

 イザークは僅かに視線を落とした。
 十年間、いや、生まれてこの方、教える仕事などしたことはない。鉄骨を組み、コンクリートを流し、図面と睨み合う毎日だった。教師という肩書は未だ借り物のように感じる。それでも、知らないうちに誰かが授業を見て、何かを受け取っていたというのなら――悪い気はしなかった。

 やがて二人は、大広間へ続く巨大な樫の扉の前へ辿り着く。
 ダンブルドアは扉へ手を掛け、少年のように目を細める。

「さて。今夜は年に一度の晩餐会じゃ。せっかくなら楽しむとしよう」

 重い樫の扉が、ゆっくりと開かれた。
 途端に、熱気が押し寄せる。生徒達の笑い声。食器の触れ合う軽やかな音。焼き立ての肉料理と香草の匂い。甘く煮詰めたリンゴの香りまで混ざり合い、大広間全体が祭りの空気へ包まれていた。

 天井には本物と見紛うほど無数の蝙蝠が舞っている。
 黒い羽が燭火の明かりを横切るたび、影が石壁を駆け抜けた。何百本もの蝋燭が宙へ浮かび、その下では巨大な南瓜が所々に積み上げられている。口を開いた南瓜提灯は橙色の光を漏らし、時折くぐもった笑い声まで響かせていた。

 四寮の長机は既に賑わっている。グリフィンドールでは双子のウィーズリーが一年生へ何やら悪戯を仕掛け、周囲から笑いが起こっていた。ハッフルパフは料理を前に早くも皿を山のように積み上げ、レイブンクローでは上級生が本を片手に友人と議論を続けている。スリザリンだけは比較的静かだったが、それでも普段より幾分柔らかい空気が流れていた。

 教師達も次々と席へ着いていく。
 スプラウトは収穫祭でも始まるようだと嬉しそうに南瓜を眺め、フリットウィックは机へ並ぶ料理へ目を輝かせていた。マクゴナガルは生徒達の様子を見守りながら静かに席へ着き、スネイプだけは相変わらず何一つ変わらぬ表情で黒いローブを翻している。

 イザークは貴賓席へ腰を下ろした。目の前には、普段よりも豪勢な料理が並んでいる。焼き上げられた七面鳥。香草を散らしたローストポテト。肉汁の滴るソーセージ。湯気を立てる南瓜のスープ。銀皿には色鮮やかな果実や菓子まで並び、宴席という言葉がよく似合う光景だった。

「悪くねぇな」

 誰へともなく呟く。
 ダンブルドアは隣で小さく笑った。

「気に入ってもらえたようで何よりじゃ」

 イザークはグラスを手に取る。
 酒はある。料理も悪くない。今夜くらいは、余計なことを考えずに過ごしてもいいのかもしれない。そんなことを思った、その時だった。

 大広間の扉が、激しく開かれた。
 全員の視線が入口へ向く。飛び込んできたのはクィレルだった。紫色のターバンは乱れ、顔色は土気色に変わっている。肩で荒く息をしながら走り寄り、ダンブルドアの前まで進み出る。その顔は恐怖で歪んでいた。

「……地下牢に……トロールが……お知らせしなくてはと……」

 言葉は最後まで続かなかった。
 クィレルの膝から力が抜け、よろめくように数歩前へ踏み出したかと思えばそのまま床へ崩れ落ちた。

 一瞬だった。
 静まり返っていた大広間が、次の瞬間には爆発したような騒ぎへ変わる。

 悲鳴にも似た声が四方から上がる。
 椅子を蹴る音。食器の割れる音。立ち上がった生徒同士が肩をぶつけ合い、長机の上では銀の皿が派手な音を立てて転がった。

 イザークは立ち上がらなかった。
 灰色の瞳だけが、倒れたクィレルを静かに見つめている。

 息は乱れている。額には脂汗。震えも本物だった。演技には見えない。
 だが、それでも胸の奥に残っていた違和感は消えなかった。

 何故、防衛術の教授であるクィレルがその場で対処しなかったのか。
 何故、地下牢なのか。
 何故、よりにもよって、晩餐会の最中なのか。

 作為的な何かを感じかけた、その時だった。
 ダンブルドアが静かに立ち上がる。老人は杖を抜くこともなく、大広間全体を見渡した。ざわめきは収まらない。

 しかし次の瞬間、ダンブルドアが声を上げた。

「静かに!」

 その一言だけだった。
 魔法でも使ったのかと思うほど、声は大広間の隅々まで鮮明に響く。生徒達は反射的に口を閉ざした。残っていた物音も、波が引くように静まっていく。

 ダンブルドアは倒れたクィレルへ一瞥だけ送り、それから各寮の監督生達へ視線を向けた。

「監督生は各寮の生徒を連れ、直ちに寮へ戻りなさい」

 落ち着いた声だった。
 焦りはない。だからこそ、その場にいた誰もが従った。

 監督生達がすぐさま立ち上がり、生徒達へ指示を飛ばし始める。
 大広間の空気が動き始めた。監督生達がそれぞれの寮生をまとめ、生徒達が長机から離れていく。先ほどまで祭りの歓声に満ちていた広間は、今や不安げな囁きと慌ただしい足音に埋め尽くされていた。

 イザークもようやく椅子から腰を上げる。
 トロール。最後に実物を見たのは随分と昔だった。頭は悪い。動きも鈍い。だが、それを補って余りある膂力がある。成人した魔法使いなら兎も角、勉強も半ばの子供が出くわせば洒落にならない。杖があるから安全などという理屈は、相手が呪文を唱えるまで待ってくれる場合にしか通用しない。

 イザークは上着の内側へ手を入れ、杖があることを確かめた。
 その時だった。視界の端で、黒い影が動いた。

 スネイプだった。
 教師達がダンブルドアの指示を待つ中、既に席を離れている。黒いローブを翻し、大広間の端を抜ける。その足取りに普段の悠然としたものはない。走ってこそいないが、明らかに急いでいた。イザークは眉を寄せた。

 スネイプは振り返ることなく、大広間を出ていく。
 何か知っている。そう考えるより先に身体が動いた。

「クレイヴン教授?」

 背後からマクゴナガルの声が聞こえたが、返事はしなかった。
 人波を避けながら大広間を横切る。樫の扉を抜けると、先ほどまで二人で歩いてきた廊下が目の前へ伸びていた。黒いローブが、その先を曲がる。

「おい!」

 イザークは足を速めた。
 生徒達とは逆方向へ進む。地下牢へ向かうなら、このまま階段を下りればいい。だが、スネイプは階段の前を通り過ぎた。イザークの眉間へ皺が寄る。

「スネイプ!」

 今度は聞こえたらしい。
 スネイプの歩みが僅かに緩んだ。それでも止まりはしない。
 イザークは数歩で距離を詰めた。

「おい、そっちは地下牢じゃねぇぞ」
「知っている」
「なら何処へ行く」

 スネイプが足を止めた。
 振り返った顔からは、普段の皮肉めいた色が完全に消えている。黒い瞳だけが鋭くイザークを見た。

「四階だ」
「四階だと?」

 スネイプは説明しなかった。
 代わりに視線を一度だけ大広間の方角へ向ける。生徒達の声が、遠くから幾重にも反響して届いていた。

「クレイヴン。貴様は地下牢へ行け」
「待て。四階に何がある」
「今説明している暇はない」

 スネイプが低く切り捨てる。
 イザークは目を細めた。

 四階。その言葉だけが、頭の中へ引っ掛かる。
 ホグワーツへ来た初日の夜。新入生を前に、ダンブルドアが告げていた言葉を思い出す。禁じられた森。そして、四階右側の廊下。死にたくなければ近付くなと、冗談めかした口調で警告していた。立入禁止区域。

「ハロウィーンで大半の生徒が集まっていたとはいえ全員ではない。この騒ぎを知らん生徒がトロールと鉢合わせる可能性がある」

 スネイプの言葉に、イザークは返事をしなかった。
 聞きたいことはある。何故、教師である自分にまで伏せられているのか。四階に何があると言うのか。そして何より、地下牢へトロールが入り込んだこの状況で、何故そちらを放ってまで四階へ向かう必要があるのか。だが、どれも今説明を受ける必要はない。トロールは待ってなどくれない。まして、生徒が一人でも出くわせば、取り返しがつかなくなる。

「……まぁいい。トロールは任せておけ」

 イザークはそれだけ答えた。
 今度はスネイプの方が僅かに眉を動かした。

「貴様にしては随分と聞き分けがいいな」
「あ? オレを何だと思ってやがる」
「答える時間が惜しい」

 腹の立つ男だった。
 イザークは舌打ちし、踵を返す。振り返ることはしなかった。

 そのままスネイプと別れ、イザークは地下牢へと続く階段を降りながら上着の内側へ手を入れた。杖を引き抜く。黒檀の杖が指へ収まり、握り慣れた感触が掌へ返ってきた。数ヶ月前のイザークなら、杖を抜くという動作にも僅かな違和感があった。だが、今はもうない。

 階段を駆け下りる。
 一段。二段。三段。
 革靴が石を叩く硬い音が、吹き抜けへ響いた。

 城の下層へ進むにつれ、空気が変わっていった。
 晩餐会の熱気はもう届かない。石壁から滲み出す冷気が肌へまとわりつき、燭台の炎さえ上階より弱々しく見える。生徒達の声も消え、代わりに自分の足音だけが長い廊下を走っていく。イザークは速度を落とさなかった。

 角を曲がる。誰もいない。さらに先へ。
 トロールが地下牢にいるという情報しかない。どの廊下なのか。どの部屋にいるのか。クィレルはそこまで言わなかった。

「チッ……肝心なところで気絶しやがって」

 悪態を吐きながら進む。
 その時だった。

 鼻先を、異様な臭気が掠めた。
 イザークの足が止まる。一度、鼻から息を吸う。湿った地下牢特有の黴臭さではない。もっと生々しい。泥。汗。獣脂。腐りかけた肉。それらを一緒くたにして何日も放置したような、重く粘つく悪臭だった。

「こっちか」

 杖を構え直す。臭いの濃い方へ足を向けた。
 数歩進んだところで、床へ何かが落ちていることに気付く。それは大きな足跡だった。濡れた泥が石床へべったりと付着している。人間のものではない。イザークの靴より遥かに大きく、歩幅も異様に広い。

 一つ。その先に、もう一つ。
 廊下の奥へ続いている。

「親切なもんだな」

 追跡するまでもない。イザークは足跡を追った。
 だが、十数歩も進まないうちに、その眉間へ皺が寄る。

 足跡が向かっている方向がおかしい。
 地下牢の奥ではない。上階へ続く階段へ向かっている。

 嫌な予感がした。
 クィレルが大広間へ駆け込んでから、それなりに時間が経っている。トロールが同じ場所へじっと留まっている保証など、最初からなかった。

 イザークは階段の前まで走った。
 そして――上から、鈍い衝撃音が響いた。石壁が僅かに震える。一拍遅れて何かが砕ける音。続いて聞こえたのは、子供の声だった。何を叫んだのかまでは聞き取れない。だが、状況を把握するには、それだけで十分だった。

「チッ……鉢合わせたか」

 地面を蹴る。今度は階段を上へ駆け上がった。足音が石壁へ反響する。一階へ近付くにつれ、先ほどの悪臭がさらに濃くなっていった。鼻を覆いたくなるほどだった。泥と汗と腐敗臭。それに混じって、今度は別の匂いがする。

 砕けた石。古い漆喰。水。何かを壊したらしい。
 階段を上り切る。廊下へ飛び出した瞬間、イザークは足を止めた。

 床へ泥の足跡が続いている。壁際には壊れた燭台が転がり、石片が散乱していた。少し先では、額縁が一つ斜めに傾いている。中の人物は既に別の肖像画へ逃げ込んだのか、空になっていた。そしてさらに奥――女子トイレの方角でガンと重いものが壁へ叩き付けられたような音が響いた。

「やーい、ウスノロ!」

 子供の声。今度は、はっきり聞こえた。
 イザークの顔から表情が消える。

 女子トイレの入口へ近付くほど、悪臭と水音、そしてトロールの特徴的な唸り声が強くなった。床には棍棒を引き摺った痕が伸び、水が廊下まで流れ出している。入口の扉は開け放たれていた。イザークは迷わず中へ踏み込む。

 最初に見えたのは、巨大な背中だった。
 鈍い灰色の皮膚。丸太のような腕。不釣り合いに小さな頭。天井近くまで届きそうな巨体が、女子トイレの中央を塞いでいる。その手前には、見覚えのある子供がいた。ハリー・ポッターと、ロナウド・ウィーズリーだった。

「早く、走れ、走るんだ!」

 ポッターが叫んだ。
 視線の先には、倒れた洗面台の陰に隠れた一人の少女が蹲っていた。今にも気を失いそうなほど顔は蒼白になり、身体は縮み上がっている。走れと急かされても、その少女、ハーマイオニー・グレンジャーは動かなかった。恐怖で口を開けたまま、トロールを呆然と眺めている。

 ポッターの叫び声に、トロールが唸り声を返した。
 右手の棍棒を持ち上げ、ウィーズリーへ振り上げる。ポッターが助けようと右足を前に出す。イザークはその肩に手を添え、静かに制止した。

 杖を真っ直ぐ構え、呪文も唱えることなく振り上げた。
 杖先から淡い光が走った。閃光と呼ぶほど強くはない。狭い室内を一瞬だけ白く染め、次の瞬間にはトロールの全身へ絡み付くように消える。振り上げられていた棍棒が止まった。肘が硬直する。肩が固まり、首が僅かに引き攣る。太い脚もその場へ縫い付けられたように動きを失った。何が起きたのか理解していないのか、トロールの小さな目がぎょろりと動く。数秒前までトイレ中を震わせていた唸り声も、その短い喉の奥で潰えた。

 静かになった。あまりにも呆気なく。ポッターもウィーズリーも、目の前で起きたことを理解できていないようだった。二人とも杖を握ったまま立ち尽くし、石のように動かなくなった巨体を見上げている。

 イザークは杖を下ろさなかった。
 石化は成功している。だが、トロールの身体は既に後ろへ傾いていた。

 支えを失った巨体が、ゆっくりと倒れはじめる。
 その先にいるのは、グレンジャーだった。少女は気付いていない。頭上へ迫る灰色の影を見下ろしたまま、身体が動いていなかった。

「ハーマイオニー!」

 我に返ったポッターとウィーズリーが叫んだ。
 イザークは内心で舌打ちを落とし、杖先を僅かに動かした。次の瞬間、少女のローブが引っ張られるように伸びる。その勢いのまま、身体が床から浮かび上がり、グレンジャーが思い出したように悲鳴を上げた。

 イザークは杖を持つ右手を僅かに引き、空いた左腕を伸ばした。
 小さな身体が胸元へ飛び込んでくる。そのまま抱き止めた。

 直後――背後で轟音が響いた。
 石化したトロールが床へ倒れ込む。巨体の重みに石床が震え、壊れかけていた洗面台が完全に砕け散った。白い陶器の破片が跳ね、水が一気に吹き出す。ポッターとウィーズリーが反射的に腕で顔を庇った。

 イザークはグレンジャーを抱えたまま、倒れたトロールへ視線を向ける。
 動かない。呼吸だけはしている。胸郭が僅かに上下していた。身体を縛っただけで、死んではいない。それを確認してから、ようやく杖先を下げた。

 腕の中で、グレンジャーが浅い呼吸を繰り返している。

「……怪我は」

 まず訊いたのは、それだった。
 だが、グレンジャーは返事をしなかった。聞こえていないのかと思ったが、違う。大きく見開かれた目がイザークの顔を見上げている。ただ、まだ置かれている状況へ、身体が追い付いていないらしかった。イザークは、水の流れていない壁際まで数歩移動し、そのまま、グレンジャーの身体をゆっくりと床へ下ろした。背中を預けられるように座らせる。グレンジャーの脚はまだ僅かに震えていた。自分で身体を支えようとしているが、力が入り切っていない。

 イザークはその場へ片膝をついた。
 濡れた石床がスラックスの膝へ冷たく染み込む。気には留めない。
 グレンジャーと同じ高さまで視線を落とす。

「グレンジャー。怪我はないかと訊いている」

 先ほどより少しだけ低い声だった。
 怒ってはいない。急かしてもいない。ただ、答えを必要としている声音。
 グレンジャーは何度か瞬きをして、項垂れるように視線を落とした。

「……ありません。クレイヴン教授」

 少し迷ってから、グレンジャーは首を横へ振った。
 ようやく短く息を吐く。そこで初めて、イザークは背後へ視線を向けた。ポッターとウィーズリーはまだ同じ場所に立っていた。二人とも泥と水で制服を汚し、呼吸を乱している。ポッターの眼鏡は少しずれ、ウィーズリーの髪は額へ張り付いていた。だが、立っている。血も見えない。

「お前らもだ。怪我はないか」

 ポッターは一瞬だけ目を瞬かせた。
 それから、どこか誇らしげに胸を張る。

「ありません」

 声には妙な自信があった。
 トロールを相手にここまで持ち堪えたのだ。もしかすると、多少は褒められると思っているのかもしれない。少なくとも、自分達が無謀なことをしたという自覚より、同級生であるグレンジャーを助けようとしたという事実の方が、今のポッターには大きいらしかった。イザークはその顔を数秒見つめた。

「そうか」

 褒めもしなければ、咎めもしない。
 次にウィーズリーへ視線を向ける。

「ウィーズリー。お前は」
「……大丈夫です」

 こちらはポッターほど得意げではなかった。
 むしろ、教師の反応を窺うように僅かに肩を縮めている。

 その時だった。
 廊下の向こうから、複数の足音が響いた。硬い靴音が石床を打ち、こちらへ近付いてくる。一人ではない。二人、三人。かなり急いでいるらしく、規則正しい足音は瞬く間に大きくなった。イザークが顔を上げる。

 直後、開け放たれていた扉からマクゴナガルが飛び込んできた。

「いったい、これは――」

 言葉が途中で止まる。
 そのすぐ後ろから、黒いローブを翻したスネイプが姿を現した。さらに少し遅れて、クィレルが紫色のターバンを揺らしながら入ってくる。

 三人とも、入口で一瞬だけ足を止めた。
 無理もない。女子トイレは半壊していた。床一面には水が広がり、砕けた陶器と石片が散乱している。洗面台は原形を留めず、その中央には巨大なトロールが横倒しになっていた。石化した身体はぴくりとも動かず、ただ胸だけが緩慢に上下している。そして壁際には、グリフィンドールの一年生が三人。

 マクゴナガルの顔から血の気が引いた。

「ポッター! ウィーズリー! グレンジャー!」

 三人の名を呼ぶ声が、普段より一段高い。
 イザークは立ち上がった。

「怪我はねぇ。三人とも確認した」

 その言葉に、マクゴナガルの肩から僅かに力が抜ける。
 だが、それもほんの一瞬だった。すぐに厳しい表情へ戻り、トロールへ視線を向ける。倒れている巨体。それから三人の生徒。最後にイザーク。

「クレイヴン教授。何があったのです?」

 短い問いだった。
 責める響きではない。まず状況を把握しようとしている。イザークは杖を上着の内側へ戻しながら、倒れたトロールへ顎をしゃくった。

「地下牢へ向かったが、奴はもう移動していた。足跡を追って一階まで戻ったところで、女子トイレの方向から物音がした」

 マクゴナガルが三人を見る。

「オレが入った時には、そこの二人――ポッターとウィーズリーがトロールを引き付けていた。グレンジャーは奥だ。棍棒がウィーズリーに振り下ろされるところだったから、その前に止めた。それだけだ」

 マクゴナガルは黙って聞いていたが、最後の一言で眉間の皺が深くなる。
 ポッターの表情から、先ほどまでの得意げな色が少しだけ薄れた。

「それだけ、ではありません」

 低い声だった。
 視線がポッターとウィーズリーへ向く。

「何故、あなた方がここにいるのです?」

 ポッターが口を開きかけた。
 しかし、その前に。

「……わ、私のせいです」

 細い声が響いた。全員の視線が、壁際へ集まる。
 グレンジャーだった。先ほどまで震えていた少女が、壁へ手をつきながら立ち上がろうとしている。イザークは眉を寄せた。

「おい。無理に立つな」
「大丈夫です」

 そう答えた声は、まだ僅かに震えていた。
 それでもグレンジャーは立ち上がった。

「私が……トロールを探しに行ったんです」

 イザークの眉が、今度こそはっきりと動いた。
 何を言っている。それは口には出さなかった。だが、自然な流れでポッターとウィーズリーを見る。二人も驚いていた。嘘を付いている。だが、イザークは何も言わなかった。マクゴナガルもまた、グレンジャーを見つめている。

「あなたが?」
「はい」

 グレンジャーは一度だけ唇を結んだ。

「私、私一人でやっつけられると思いました。あの――本で読んでトロールについてはいろんなことを知ってたので。でも、間違っていました。もし二人が捜しに来てくれなかったら……私、いまごろ死んでいました」

 静寂が落ちた。
 水の流れる音だけが、壊れた女子トイレへ響いている。

「二人とも誰かを呼びに行く時間がなかったんです。二人が来てくれた時にはもう、殺される寸前で……誰かが助けに来てくれることを祈って、二人は時間稼ぎをしていました。クレイヴン教授が来られなかったら、三人とも……」

 イザークはグレンジャーを見た。
 嘘は上手くない。声は硬いし、視線も僅かに泳いでいる。何より、ポッターとウィーズリーの顔を見れば分かる。その通りだという表情を装っていても、本人達が一番、この話を初めて聞いた顔をしている。だが、イザークは口を挟まなかった。嘘を付く理由など、手に取るように分かる。そしてそのくらい、マクゴナガルも分かっている。わざわざ指摘する謂れもない。

 マクゴナガルは暫く何も言わなかった。
 細い唇を固く結び、グレンジャーを見つめている。厳しい表情は崩れない。だが、その目には先ほどまでとは少し違う色が浮かんでいた。

「グレンジャー。あなたは、トロールに立ち向かえるほどの力を持っていると思い込み、教師へ知らせることもせず、一人でここへ来たのですね」

 グレンジャーの肩が僅かに縮む。

「軽率です。その行動によって、自分自身だけでなく、あなたを捜しに来た二人まで危険へ巻き込んだ。そのことは理解しているのでしょうね?」
「……はい」
「グリフィンドールから五点減点します」

 グレンジャーは唇を噛み、小さく頷いた。
 マクゴナガルはそれ以上責めなかった。今度はポッターとウィーズリーへ向き直る。二人とも先ほどまでより背筋を伸ばしていた。ポッターは何を言われるのか待つようにマクゴナガルを見上げ、ウィーズリーはどこか居心地悪そうに視線を泳がせている。

「しかし」
 マクゴナガルの声音が僅かに変わった。

「危険を承知で友人を助けに来たこと。そして、教師が到着するまでトロールを引き付け続けたことは、無謀であったとしても勇気ある行動です」

 ポッターの顔が僅かに明るくなる。

「ポッター。ウィーズリー。二人には、それぞれグリフィンドールへ五点ずつ差し上げましょう」
「本当ですか?」

 ポッターが思わず声を上げた。
 マクゴナガルの眉が僅かに上がる。

「ええ。ただし。次からは、勇気と無謀を取り違えないように」
「……はい」

 二人の返事が重なる。
 イザークはそのやり取りを黙って見ていた。五点引かれ、十点戻った。結果だけ見れば、グリフィンドールは得をしている。随分と器用な採点だと思ったが、口に出すほど野暮でもなかった。

 グレンジャーは俯いていた。
 その横で、ポッターとウィーズリーが僅かに視線を合わせる。ほんの一瞬だった。だが、それまでの二人が向けていたものとは違って見えた。何かが変わった。イザークには、それが何なのかまでは分からない。ただ、三人の間に先ほどまでなかったものが一つ生まれたことだけは、何となく分かった。

 その時だった。
 ポッターの視線が、不意にイザークの横を通り過ぎた。先ほどまでマクゴナガルを見ていたはずの緑色の瞳が、一点へ止まっている。

 顔には、僅かな疑問。
 イザークはその視線を追った。

 スネイプだった。
 入口近くへ立ったまま、倒れたトロールを見下ろしている。いつもと変わらない。少なくとも、上半身だけを見れば。だが、黒いローブの裾から覗く左脚へ目を落とした瞬間、イザークの目が細くなった。

「……おい」

 布地が裂けている。
 膝より下。ズボンの一部が大きく破れ、その下から覗く皮膚には、深く抉られた傷が走っていた。血は既に靴まで伝い、黒い革の表面を濡らしている。浅い傷ではない。何か鋭いものへ噛み付かれたような、あるいは引き裂かれたような傷だった。イザークの視線が鋭くなる。

「スネイプ教授」

 呼ばれた本人は、僅かに眉を寄せただけだった。

「何だ」
「何だ、じゃねぇ」

 イザークは数歩で距離を詰めた。
 スネイプは反射的に半歩身を引こうとしたが、その瞬間、負傷した脚へ体重が掛かったのか、僅かに顔を歪める。それを見逃さなかった。

「その脚はどうした」

 スネイプの黒い瞳が、一瞬だけ自分の左脚へ落ちた。
 そこで初めて、傷口がローブの裾から覗いていることへ気付いたらしい。ほとんど反射だった。細い指が黒い布地を掴み、そのまま乱暴に引き下ろす。裂けたズボンも、血に濡れた皮膚も、瞬く間にローブの内側へ隠された。

「問題ない」

 即答だった。あまりにも早い。
 イザークは目を細める。

「そうか」

 口ではそう返したが、納得したわけではない。
 問題がない人間は、傷を見られた途端に隠したりしない。まして、立っているだけで血を靴まで垂らすような傷を、擦り傷のような顔で扱う必要もない。

 スネイプは視線を逸らした。

「トロールの処理が残っている。今は――」

 最後まで言わせなかった。
 イザークは腕を伸ばし、スネイプの上腕を掴んだ。

「何をする」

 低い声が飛ぶ。構わず引き寄せる。
 負傷した脚へ余計な体重を掛けさせないよう、半ば自分の方へ重心を預けさせる形になった。スネイプの身体が僅かに傾く。

「来い」
「……何処へだ」
「オレの部屋だ。治療する」

 短く告げる。
 マクゴナガルとクィレルがこちらを見る気配がした。イザークは気に留めなかった。床へ倒れているトロールは石化している。目は緩慢ながら動いているが、縛られたまま動く気配はない。生徒にも怪我はない。今すぐ対処すべきものがあるとすれば、むしろ目の前で血を流し続けているこの男の方だった。

「必要ない。歩けている」
 スネイプの返答は冷たかった。

「見りゃ分かる」
「なら放せ」

 イザークは無視して、そのまま歩き出した。
 半ば引かれる形で、スネイプも一歩踏み出す。右脚。次に左脚。左脚が床へ触れた瞬間、僅かに歩幅が乱れた。イザークは何も言わなかった。言えば、意地でも普通に歩こうとするに決まっている。面倒な男というものは――イザーク自身も面倒な男だが――負傷した時ほど面倒になるものだ。

 二歩。三歩。
 廊下へ差しかかったところで、スネイプが強く腕を振った。
 イザークの手が払い除けられる。

「必要ないと言っているのが聞こえんのか」

 今度の声には、明確な拒絶があった。
 スネイプは一歩距離を取る。黒いローブが二人の間へ垂れ下がり、傷を完全に覆い隠していた。背筋を伸ばし、何事もない顔を作っている。だが、顔色は悪い。元から青白い男だから分かりにくい。それでも、唇から僅かに血の気が失われている。立っている姿勢も、無意識に右脚へ重心を寄せていた。

「必要かどうかは、私が判断する。貴様ではない」
「お前が?」

 イザークは眉を上げた。

「馬鹿言え。それを決めるのはお前じゃねぇ」

 スネイプの黒い瞳が鋭くなる。

「では誰が決めると?」
「今はオレだ」
「随分と横暴な理屈だな」
「血ぃ流しながら大丈夫だと言い張る奴よりは、マシだと思うがな」

 スネイプは唇を薄く引き結んだ。
 イザークは一歩近付く。

「お前が思うほど、傷は浅くねぇ。牙か爪か知らんが、汚れてりゃ化膿する。魔法で塞げば何でも終わりだと思うな」
「私は魔法薬学の教授だ」
「だから何だ」
「貴様より治療については心得ている」
「ほう。なら、その知識を使ってさっさと治したらどうだ?」

 スネイプが黙る。
 返す言葉が見つからなかったのか。
 あるいは、見つけたところで無駄だと悟ったのか。

 イザークは数秒待った。

「マクゴナガル教授。こいつ、借りるぞ」

 背後へ声を投げる。マクゴナガルがこちらを見る。
 スネイプの眉間へ皺が刻まれた。

「私は物ではない」
「今は似たようなもんだ」

 マクゴナガルは二人を見比べ、それからスネイプの足元へ視線を落とした。
 床へ、小さな血痕が残っている。それだけで事情は理解したらしい。

「こちらは私とクィレル教授で対処します。三人も私が寮へ戻しましょう」
「ああ。よろしく頼む」

 イザークは頷いた。
 クィレルへ一度だけ視線を向ける。紫色のターバン。青白い顔。倒れたままのトロールを盗み見ているその横顔には、恐怖ばかりが貼り付けてあったが、それは何を考えているのか分からない表情でもあった。

 訊きたいことはある。
 だが、それも後だ。今日は後回しにするものばかり増えていく。
 イザークは再びスネイプへ向き直った。

「行くぞ」
「私は――」
「歩けるんだろ。なら、歩け」

 スネイプの目が険しくなる。
 だが、今度は拒まなかった。

 二人は女子トイレを出た。
 廊下は静まり返っている。祭りの夜だったはずなのに、生徒達は既に各寮へ避難したのだろう。遠くに監督生の声が僅かに聞こえるだけだった。

 イザークはスネイプの半歩前を歩く。
 背後の足音を聞く。一歩。また一歩。そして、僅かな間。左脚を庇うように引き摺る音が響く。本人がどれほど隠そうとも、音までは誤魔化せない。

 しばらく歩いたところで、イザークが口を開いた。

「お前らしくもねぇ。その傷、一体何処で付けやがった」

 スネイプは答えない。
 だが、足音が、一瞬だけ止まった。

「四階へ行く途中で、野良犬にでも噛まれたか」

 イザークはようやく肩越しに振り返る。
 スネイプの顔が、露骨に不機嫌そうに歪んだ。
 その反応を見て、イザークは僅かに目を細めた。

「……フン。犬か」

 今度こそ、スネイプの足が止まった。

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