賢者の石編
/* 025 - 静かな前兆
ホグワーツは朝から何処か浮き足立っていた。
大広間の天井には灰色の雲がゆっくりと流れ、外では冷たい風が城壁を叩いている。それでも城の中は妙に賑やかだった。廊下には大きなかぼちゃが幾つも飾られ、魔法で彫られた顔が時折口を開いて笑う。天井近くには黒い蝙蝠の群れが羽ばたき、燭台の炎を掠めるたび、生徒達の歓声が上がった。
ハロウィーン。マグル界でも馴染みのある祭りだ。
もっとも、建築現場ではかぼちゃを飾る余裕などなければ、仮装大会なんかをやる雰囲気もまるでない。十月の終わりともなれば日没は早くなり、暗くなる前に作業を終えることで頭が一杯だった。仮装よりも安全帯。菓子よりも缶コーヒー。それがイザークにとってのハロウィーンだった。
教卓へ置かれた出席簿を閉じる。
「今日はここまでだ」
羊皮紙を閉じる音が教室へ重なる。
午後最後のマグル学を終えた生徒達が、一斉に席を立った。
寮も学年も違う声が重なり、木椅子が床を擦る音が続く。
数人の生徒は、電話機へ名残惜しそうな視線を向けながら教室を後にした。初日の授業以来、教室へ置かれたマグルの道具へ興味を示す者は少なくない。電話だけではない。目覚まし時計も、懐中時計も、小さな工具箱も、生徒達にとっては未知の魔法道具のように映るらしかった。
最後の一人が出ていき、静けさが残る。
イザークは窓辺へ歩いた。禁じられた森の向こうでは、低い雲が空を覆っている。夕暮れだが薄暗く、枝葉は風に揺れ続けていた。
胸ポケットから煙草を取り出し、その箱の中から一本を抜き取る。
流れるように口端へ咥え、ライターを打ち鳴らした。火種が煙草の先端へ燃え移り、僅かな火花を散らせて赤く灯る。吸い込んだ煙を肺いっぱいに溜め、細く吐き出す。紫煙が窓枠に沿うように流れ、やがて溶けていく。
イザークはズボンのポケットから二枚のシックル銀貨を取り出した。
それを親指で宙に飛ばし、キン、という音とともに掴み取る。銀貨は掌の上で冷たく光っていた。一枚を左手へ。もう一枚を右手へ。どちらも同じシックル銀貨だ。魔法省が鋳造した、ごくありふれた硬貨。その違いは、これから与えようとしている役割だけだった。
「……片方が聞き、片方が喋る……」
独り言のように呟く。
理屈は既に組み立てている。要は、音とは振動だ。振動を魔力へ置き換え、対となる媒体へ送り返す。両面鏡でも、似たようなことをしている。出来ないわけではない。だが、それを実現出来るかは、イザークの腕次第になる。
クィリナス・クィレル――あの男が投げた問いは、今も胸の奥へ棘のように残っている。例のあの方がお戻りになれば。あれは雑談などではない。誰かの代わりに確かめに来た人間の目だった。だが結局、スネイプと話した後も決定的な証拠は何一つ見つからなかった。疑うだけなら誰でも、幾らでも出来る。だが疑いだけで人を裁けば、それは魔法省がかつて繰り返してきた愚行と変わらない。証拠がいる。それも、言い逃れの出来ない証拠が。
「クレイヴン教授」
背後から、聞き慣れた声が落ちた。
「いつもそれを吸っておるようじゃが、美味しいのかね?」
イザークは肩越しに振り返った。
ダンブルドアが立っていた。半月型の眼鏡の奥で青い瞳をキラキラ輝かせ、長い白髭を胸元まで揺らしている。紫色のローブは夕暮れの薄暗い教室によく映えていた。相変わらず、気配を消して近付くのが上手い老人だった。
「美味いから吸ってるわけじゃねぇ。吸わねぇと死ぬから吸ってるだけだ」
「マグルの嗜好品と聞いておったが、やけに物騒じゃのう……」
そう言ってダンブルドアは笑みを浮かべた。
真に受けたのかそうではないのか、よく分からない返答だ。イザークは教卓まで歩み寄り、煙草を灰皿代わりの小皿へ押し付け、火を消した。老人の前で吸い続けるほど意固地になるつもりもない。
ダンブルドアの視線が、イザークの手へ移った。
二枚のシックル銀貨。握られたままのそれを見て、僅かに首を傾げた。
「ずいぶんと大事に持っておるようじゃが、研究かね」
「そんなところだ。マグルの道具を再現できねぇかと思ってな」
「ほう? マグルの道具をのう……それは面白そうじゃ」
ダンブルドアは笑うだけで、それ以上訊かなかった。
それが少し意外だった。普通なら何を作ろうとしているのかくらい尋ねる。だが、この老人は違う。興味は示す。だが、必要以上に踏み込まない。相手が自分から話すまで待つ。歓迎会の夜から変わらない距離感だった。
イザークは掌の上で二枚の銀貨を転がした。
「理屈だけなら出来てる」
そう呟き、一枚を教卓へ置く。
もう一枚を少し離れた場所へ置き、杖を抜いた。銀貨へ切っ先を向ける。
「……音は振動だ。振動を魔力へ変換し、そのまま対になる媒体へ送り返す。理論上は、それだけで済む」
低く呪文を唱えた。銀貨の縁が淡く白銀色に輝く。
教室へ微かな魔力の波が広がり、一瞬だけ空気が震えた。イザークは指先で教卓を軽く叩く。乾いた音が響く。数拍遅れて、向かい側の銀貨が細かく震えた。カタリ。それだけだった。音は返ってこない。魔力だけが空振りしたように霧散し、銀貨の光も静かに消えていく。
「……またか」
舌打ちが漏れた。
振動は拾っている。魔力への変換も成功している。だが、その先で音という情報だけが失われる。残るのは意味を持たない魔力の揺らぎだけだった。
「媒体同士は繋がる。だが、声が死ぬ」
銀貨を拾い上げる。
表面へ細かな魔力の焼け跡が残っていた。
「魔力を流せば流すほど、雑音になる。出来そうで出来ねぇ」
イザークは眉間を指で押さえた。
建築でも同じだった。図面の上では成立する。荷重計算も問題ない。だが、実際に建ててみれば一本の梁が僅かに撓み、全体の均衡を崩す。
机上と現実は、いつだって少しだけ違う。
「新しいものとは、その少しが一番厄介なんじゃよ」
ダンブルドアが穏やかに言った。
イザークは顔を上げる。老人は銀貨を眺めたまま、微笑んでいる。
「誰も歩いたことのない道は、最初の一歩が一番長く感じられる」
「慰めのつもりか」
「いや。経験談じゃ」
その一言だけだった。
どの経験を指しているのかは語らない。賢者の石か。十二用途の龍の血か。あるいは、それ以外か。老人ほどの魔法使いなら、失敗した研究の一つや二つでは済まないだろう。イザークは銀貨をポケットへ仕舞った。
「完成する保証はねぇ」
「保証のある研究なら、誰でも出来る」
ダンブルドアは静かに笑う。
「保証がないからこそ、挑む価値がある」
「フン……随分と前向きだな」
「老人になるとな、成功よりも、挑戦する人間を見る方が好きになる」
窓の外は、いつの間にか夕闇へ沈み始めていた。
大広間の方角から、生徒たちの賑やかな笑い声が風に乗って届いてくる。
ダンブルドアは懐中時計を取り出し、蓋を開いた。
「さて。クレイヴン教授。今日は待ちに待ったハロウィーンじゃ。晩餐会へ遅れると、生徒達から苦情が来るやもしれん」
銀の蓋が小さく音を立てて閉じられる。
「教師も楽じゃねぇな」
「校長はもっと楽ではないぞ」
老人は悪戯っぽく片目を細めた。
イザークは小さく肩を竦める。
「酒はあるんだろうな」
「もちろんじゃ。君の期待を裏切らん程度にはな」
「なら行くか」
二人は教室を後にした。
廊下へ出ると、魔法で浮かぶ無数の蝋燭が夕闇を照らしていた。
笑い声。足音。祭りの高揚。
城全体が、これから始まる晩餐会を待ち望んでいる。
ホグワーツは朝から何処か浮き足立っていた。
大広間の天井には灰色の雲がゆっくりと流れ、外では冷たい風が城壁を叩いている。それでも城の中は妙に賑やかだった。廊下には大きなかぼちゃが幾つも飾られ、魔法で彫られた顔が時折口を開いて笑う。天井近くには黒い蝙蝠の群れが羽ばたき、燭台の炎を掠めるたび、生徒達の歓声が上がった。
ハロウィーン。マグル界でも馴染みのある祭りだ。
もっとも、建築現場ではかぼちゃを飾る余裕などなければ、仮装大会なんかをやる雰囲気もまるでない。十月の終わりともなれば日没は早くなり、暗くなる前に作業を終えることで頭が一杯だった。仮装よりも安全帯。菓子よりも缶コーヒー。それがイザークにとってのハロウィーンだった。
教卓へ置かれた出席簿を閉じる。
「今日はここまでだ」
羊皮紙を閉じる音が教室へ重なる。
午後最後のマグル学を終えた生徒達が、一斉に席を立った。
寮も学年も違う声が重なり、木椅子が床を擦る音が続く。
数人の生徒は、電話機へ名残惜しそうな視線を向けながら教室を後にした。初日の授業以来、教室へ置かれたマグルの道具へ興味を示す者は少なくない。電話だけではない。目覚まし時計も、懐中時計も、小さな工具箱も、生徒達にとっては未知の魔法道具のように映るらしかった。
最後の一人が出ていき、静けさが残る。
イザークは窓辺へ歩いた。禁じられた森の向こうでは、低い雲が空を覆っている。夕暮れだが薄暗く、枝葉は風に揺れ続けていた。
胸ポケットから煙草を取り出し、その箱の中から一本を抜き取る。
流れるように口端へ咥え、ライターを打ち鳴らした。火種が煙草の先端へ燃え移り、僅かな火花を散らせて赤く灯る。吸い込んだ煙を肺いっぱいに溜め、細く吐き出す。紫煙が窓枠に沿うように流れ、やがて溶けていく。
イザークはズボンのポケットから二枚のシックル銀貨を取り出した。
それを親指で宙に飛ばし、キン、という音とともに掴み取る。銀貨は掌の上で冷たく光っていた。一枚を左手へ。もう一枚を右手へ。どちらも同じシックル銀貨だ。魔法省が鋳造した、ごくありふれた硬貨。その違いは、これから与えようとしている役割だけだった。
「……片方が聞き、片方が喋る……」
独り言のように呟く。
理屈は既に組み立てている。要は、音とは振動だ。振動を魔力へ置き換え、対となる媒体へ送り返す。両面鏡でも、似たようなことをしている。出来ないわけではない。だが、それを実現出来るかは、イザークの腕次第になる。
クィリナス・クィレル――あの男が投げた問いは、今も胸の奥へ棘のように残っている。例のあの方がお戻りになれば。あれは雑談などではない。誰かの代わりに確かめに来た人間の目だった。だが結局、スネイプと話した後も決定的な証拠は何一つ見つからなかった。疑うだけなら誰でも、幾らでも出来る。だが疑いだけで人を裁けば、それは魔法省がかつて繰り返してきた愚行と変わらない。証拠がいる。それも、言い逃れの出来ない証拠が。
「クレイヴン教授」
背後から、聞き慣れた声が落ちた。
「いつもそれを吸っておるようじゃが、美味しいのかね?」
イザークは肩越しに振り返った。
ダンブルドアが立っていた。半月型の眼鏡の奥で青い瞳をキラキラ輝かせ、長い白髭を胸元まで揺らしている。紫色のローブは夕暮れの薄暗い教室によく映えていた。相変わらず、気配を消して近付くのが上手い老人だった。
「美味いから吸ってるわけじゃねぇ。吸わねぇと死ぬから吸ってるだけだ」
「マグルの嗜好品と聞いておったが、やけに物騒じゃのう……」
そう言ってダンブルドアは笑みを浮かべた。
真に受けたのかそうではないのか、よく分からない返答だ。イザークは教卓まで歩み寄り、煙草を灰皿代わりの小皿へ押し付け、火を消した。老人の前で吸い続けるほど意固地になるつもりもない。
ダンブルドアの視線が、イザークの手へ移った。
二枚のシックル銀貨。握られたままのそれを見て、僅かに首を傾げた。
「ずいぶんと大事に持っておるようじゃが、研究かね」
「そんなところだ。マグルの道具を再現できねぇかと思ってな」
「ほう? マグルの道具をのう……それは面白そうじゃ」
ダンブルドアは笑うだけで、それ以上訊かなかった。
それが少し意外だった。普通なら何を作ろうとしているのかくらい尋ねる。だが、この老人は違う。興味は示す。だが、必要以上に踏み込まない。相手が自分から話すまで待つ。歓迎会の夜から変わらない距離感だった。
イザークは掌の上で二枚の銀貨を転がした。
「理屈だけなら出来てる」
そう呟き、一枚を教卓へ置く。
もう一枚を少し離れた場所へ置き、杖を抜いた。銀貨へ切っ先を向ける。
「……音は振動だ。振動を魔力へ変換し、そのまま対になる媒体へ送り返す。理論上は、それだけで済む」
低く呪文を唱えた。銀貨の縁が淡く白銀色に輝く。
教室へ微かな魔力の波が広がり、一瞬だけ空気が震えた。イザークは指先で教卓を軽く叩く。乾いた音が響く。数拍遅れて、向かい側の銀貨が細かく震えた。カタリ。それだけだった。音は返ってこない。魔力だけが空振りしたように霧散し、銀貨の光も静かに消えていく。
「……またか」
舌打ちが漏れた。
振動は拾っている。魔力への変換も成功している。だが、その先で音という情報だけが失われる。残るのは意味を持たない魔力の揺らぎだけだった。
「媒体同士は繋がる。だが、声が死ぬ」
銀貨を拾い上げる。
表面へ細かな魔力の焼け跡が残っていた。
「魔力を流せば流すほど、雑音になる。出来そうで出来ねぇ」
イザークは眉間を指で押さえた。
建築でも同じだった。図面の上では成立する。荷重計算も問題ない。だが、実際に建ててみれば一本の梁が僅かに撓み、全体の均衡を崩す。
机上と現実は、いつだって少しだけ違う。
「新しいものとは、その少しが一番厄介なんじゃよ」
ダンブルドアが穏やかに言った。
イザークは顔を上げる。老人は銀貨を眺めたまま、微笑んでいる。
「誰も歩いたことのない道は、最初の一歩が一番長く感じられる」
「慰めのつもりか」
「いや。経験談じゃ」
その一言だけだった。
どの経験を指しているのかは語らない。賢者の石か。十二用途の龍の血か。あるいは、それ以外か。老人ほどの魔法使いなら、失敗した研究の一つや二つでは済まないだろう。イザークは銀貨をポケットへ仕舞った。
「完成する保証はねぇ」
「保証のある研究なら、誰でも出来る」
ダンブルドアは静かに笑う。
「保証がないからこそ、挑む価値がある」
「フン……随分と前向きだな」
「老人になるとな、成功よりも、挑戦する人間を見る方が好きになる」
窓の外は、いつの間にか夕闇へ沈み始めていた。
大広間の方角から、生徒たちの賑やかな笑い声が風に乗って届いてくる。
ダンブルドアは懐中時計を取り出し、蓋を開いた。
「さて。クレイヴン教授。今日は待ちに待ったハロウィーンじゃ。晩餐会へ遅れると、生徒達から苦情が来るやもしれん」
銀の蓋が小さく音を立てて閉じられる。
「教師も楽じゃねぇな」
「校長はもっと楽ではないぞ」
老人は悪戯っぽく片目を細めた。
イザークは小さく肩を竦める。
「酒はあるんだろうな」
「もちろんじゃ。君の期待を裏切らん程度にはな」
「なら行くか」
二人は教室を後にした。
廊下へ出ると、魔法で浮かぶ無数の蝋燭が夕闇を照らしていた。
笑い声。足音。祭りの高揚。
城全体が、これから始まる晩餐会を待ち望んでいる。