賢者の石編

/* 024 - 答えを待つ者


 夕食も終わりに近付いていた。
 大広間には食後の穏やかな空気が流れている。銀食器が触れ合う澄んだ音。教師の談笑。食べ終えた生徒達は席を立ち、各々の寮へ戻り始めている。高い天井へ映る夕焼け色の空は、昼間の青さをゆっくりと紫へ変えつつあった。

 イザークは椅子へ深く腰掛けたまま、最後に残った酒を口へ運んだ。
 魔法界の酒にも、ようやく舌が慣れてきた。マグルの安いウィスキーとは香りも癖も違う。それでも、食後に一杯飲みたくなる気持ちは変わらない。

 杯を机へ置く。
 そのまま胸ポケットへ手を入れ、煙草の箱を取り出した。そこから一本だけを抜き取る。口端へ咥え、指先でライターを探した、そのときだった。

「クレイヴン教授」

 穏やかな女の声が届く。火を点ける前に顔を上げた。
 数席離れた場所から、マクゴナガルがこちらを見ている。四角い眼鏡の奥にある青い瞳は相変わらず涼やかだった。叱責するような険しさはない。だが、その静かな眼差しには、不思議と逆らい難いものがあった。

「申し訳ありませんが」
 一拍置き、丁寧な口調のまま続ける。

「大広間での喫煙は、ご遠慮いただけますか」

 周囲の会話が止まったわけではない。
 それでも、その一言だけが妙にはっきりと耳へ届いた。

 イザークは煙草を咥えたまま辺りを見回す。
 フリットウィックは困ったように苦笑している。スプラウトは「とうとう注意されましたか」とでも言いたげに肩を竦めた。ダンブルドアだけは半月形の眼鏡越しにこちらを眺め、楽しそうに紅茶を飲んでいる。スネイプは一瞥しただけだった。助け舟を出す気もなければ、興味もないらしい。

「……悪い。配慮が足りなかったようだな」

 煙草を箱へ戻す。ライターもポケットへ仕舞った。
 マクゴナガルは小さく頷く。

「ご理解いただき、ありがとうございます」

 それだけだった。
 説教はしない。責めもしない。だが、それがかえって居心地を悪くした。

 建築現場なら、食後の一本へ文句を言う者などいない。
 昼休憩になれば全員が缶コーヒーを片手に煙草へ火を点ける。煙の向こうで馬鹿話をして、それが終われば何事もなかったように仕事へ戻る。だが、教師という肩書には、それなりの品行というものが求められるらしい。まだ、その感覚が身体へ馴染まない。イザークは静かに椅子を引いた。

「先に失礼する」

 誰へ向けた言葉でもない。
 黒いスーツの裾を揺らしながら立ち上がると、そのまま大広間を後にした。

 厚い樫の扉が閉じる。途端に喧騒は遠ざかった。
 石造りの廊下には夕暮れの静けさだけが残っている。窓から差し込む赤い光が床へ長く伸び、古い甲冑の影を壁へ映していた。遠くでは生徒達の笑い声が反響し、肖像画の住人達が退屈そうに欠伸をしている。

 イザークは胸ポケットから煙草を取り出した。

「これなら文句はねぇだろ」

 誰へ言うでもなく呟く。
 一本を口へ咥え、今度こそライターへ指を掛ける。

「……ク、クレイヴン教授」

 火花が散る寸前だった。
 後ろから控えめな声が届く。イザークは指を止めた。振り返る。廊下の向こうに立っていたのは、紫色のターバンを巻いたクィレルだった。教本を胸へ抱き締めるように持ち、どこか落ち着かない様子でこちらを見ている。

「す、少し……お、お時間を頂いても、?」

 イザークは煙草を口から外した。
 夕焼けに染まった廊下へ、短い沈黙だけが落ちる。

「……構わねぇが」

 そう答えた瞬間、クィレルは胸を撫で下ろすように小さく笑った。
 だが、その安堵はどこか作り物めいて見えた。

 クィレルは教本を抱え直した。
 何かを切り出そうとしては躊躇い、言葉を飲み込む。
 その動作を二、三度繰り返してから、ようやく口を開く。

「ま、まだホグワーツには、お慣れになりませんか」

 思っていたより当たり障りのない問いだった。
 イザークは煙草を指先で弄びながら肩を竦める。

「城が広過ぎるな。階段は動く。廊下は似たような景色ばかりだ。昨日通れた道が今日は塞がってる。現場より余程ややこしい」

 クィレルが小さく笑う。

「そ、それは皆、最初はそう仰います」
「教師連中まで迷うのか」
「ええ……た、たまに」

 少しだけ空気が和らいだ。
 イザークはライターをポケットへ戻す。
 どうせ話が終わるまでは吸えそうもない。

 二人は並んで廊下を歩き始めた。
 窓の外では夕焼けが禁じられた森の梢を赤黒く染めている。長く伸びた影が石床を横切り、生徒達がその間を笑いながら通り過ぎていった。

「マグル学の授業も、評判が良いそうで」
「もう耳に入ったか」
「ホ、ホグワーツでは噂が広まるのは、は、早いですから」

 それは確かにそうだった。
 歓迎会で煙草を取り出しただけで翌日には生徒達が知っていたくらいだ。
 新任教師の授業が話題になるなど、珍しくもない。

「大したことは教えてねぇよ」
「い、いえ……マグルを道具ではなく、人として見る授業だった、と」

 イザークは歩みを止めなかった。
 そんな風に受け取る生徒もいたのか、とだけ思う。

「買い被り過ぎだ」
「で、ですが……」

 クィレルは少し言葉を選ぶように俯いた。

「教授は……マグル界で長く暮らしておられたのでしょう?」

 その一言だけが、妙に重く聞こえた。
 イザークは横目でクィレルを見る。紫色のターバンの奥にある目は、相変わらず落ち着きなく揺れている。だが、その問いだけは妙に芯があった。

「十年ほどな」
「じゅ、十年も」
「長いようで短ぇ」

 クィレルは静かに頷く。
 教本を抱く指先へ、僅かに力が入った。

「……も、戻ろうとは、思われなかったのですか?」

 その瞬間だった。イザークの足が、ほんの僅かに止まる。
 廊下を歩く生徒達は何事もなく二人の横を通り過ぎていく。夕暮れの風が高窓から吹き込み、黒いスーツの裾を揺らした。

 何故、そんなことを訊く。
 教師同士の世間話としては、一歩踏み込み過ぎている。

 イザークは表情を変えなかった。
 だが胸の奥では、小さな違和感が静かに芽を出し始めていた。

 イザークは足を止めたまま、窓の外へ目を向けた。
 夕焼けが禁じられた森を赤黒く染めている。枝葉の隙間から吹き込む風が、石造りの廊下へ冷たい空気を運んできた。

「……戻る理由がなかった」

 短く答える。
 嘘ではない。魔法界へ未練があったなら、とっくの昔に戻っている。十年間という歳月は、故郷を他人の街へ変えるには十分な長さだった。

 クィレルはその返答を咀嚼するように小さく頷く。

「そ、それほどまでに……マグル界での暮らしは、良かったのですね」
「フン……良いことばかりじゃねぇさ」

 廊下を歩き始める。
 クィレルも一歩遅れて並んだ。

「朝は早ぇ。夏は暑く、冬は寒い。現場じゃ毎日泥だらけだ。手ぇ切ることもあるし、鉄骨の下敷きになりかけたこともある。給料日に酒を飲み過ぎて翌日怒鳴られたこともある。だが、それが生活だ」

 クィレルは黙って聞いている。

「魔法界も同じだ。多少道具が違うだけで、人間のやることは変わらねぇ」

 しばらく沈黙が続いた。
 二人の靴音だけが、規則正しく石床へ響いている。
 やがてクィレルが、おずおずと口を開いた。

「で、ですが……教授ほどのお方なら……その、ヴ……」

 言葉が止まる。
 周囲を見回し、小さく息を呑む。

「……例のお方が、お戻りになれば」

 イザークの視線が、ゆっくりとクィレルへ向いた。
 廊下を歩いていた数人の生徒が、二人の横を通り過ぎていく。
 誰も話を聞いてはいない。それでもクィレルは、声を潜めたままだった。

「きっと……再び、お呼びになるのではありませんか」

 夕暮れの光が、ターバンの紫を鈍く照らしている。
 イザークは答えなかった。

 今度の質問は、雑談では済まない。
 何故そんな仮定を持ち出すのか。何故、今その話をするのか。
 偶然にしては出来過ぎている。

 クィレルは視線を泳がせながらも、返答を待っていた。
 怯えているようにも見える。
 だが、本当に怯えている人間は、こんな質問はしない。

 イザークは胸ポケットの煙草へ指先を触れさせた。
 吸いたい。無性にそう思った。それは煙草が欲しいからではない。考える時間が欲しかった。目の前の男が、何を知り、何を知ろうとしているのか。その意図だけが、夕暮れの廊下に細い棘のように引っ掛かっていた。

「……それはどういう意味だ。何か、知っているのか」

 クィレルの肩が、小さく震えた。
 予想していた返答ではなかったのだろう。
 口元が僅かに引き攣り、抱えた教本を持つ指へ力が籠もる。

「い、いえ……そ、その……教授ほどのお方でしたら、もし例のお方がお戻りになれば、再び力を貸してほしいと望まれるのではないか、と……」

 言葉を継ぎ足すように続ける。

「そ、そういう意味で……た、他意はありません」

 イザークは何も答えなかった。
 誤魔化している。そう思った。質問へ質問で返された人間特有の間だった。考えてから話したのではない。返答を用意していなかった人間が、その場で、取り繕う言葉を組み立てているように感じられた。

 夕暮れの光が廊下を赤く染める。
 窓硝子へ映ったクィレルの横顔は、どこか疲れ切って見えた。額には薄く汗が滲んでいる。まだ秋口だというのに、不自然なほど顔色が悪い。

 イザークは何も言わず、クィレルの横顔を見つめた。

 視線を向けられていることへ気付いているはずだった。
 だが、クィレルは顔を上げようとしない。抱えた教本の角へ目を落とし、指先だけを不自然に動かしている。表紙を撫でる。角を押さえる。腕の位置を変える。どれも必要のない動作だった。落ち着かない人間は、身体を止めていられない。それ自体は珍しいことではない。問題は、その動きが普段のクィレルよりも僅かに速いことだった。

「……随分と仮定の話が好きなんだな」

 イザークは静かに言った。
 クィレルが顔を上げる。ターバンの下で目が小さく見開かれた。

「え……?」
「戻るかどうかも分からねぇ男の話だ」

 指先に挟んだ煙草を、ゆっくりと一度回す。
 薄い紙の継ぎ目が親指の腹へ触れた。

「死んだとも、生きているとも知れねぇ。十年間、一度も姿を見せていない。それなのに、お前は戻ってくることを前提に話している」
「そ、それは……」

 クィレルの唇が動く。
 だが、言葉はすぐには続かなかった。

 廊下の奥から、甲高い笑い声が聞こえてくる。
 角を曲がった先を、数人の生徒が追いかけ合うように走っていった。靴音が石壁へ何度も反響しやがて遠ざかる。夕食を終えたばかりの子供達にとって、教師二人が交わしている会話など何の価値もないのだろう。

 イザークは彼らの姿が消えるまで待った。
 それから、再びクィレルへ目を戻す。

「お前は、戻ると思っているのか」

 問いを返す。
 クィレルの喉が、小さく鳴った。
 抱えていた教本が僅かに沈み、すぐに胸元へ引き戻される。

「わ、私は……」
 一度、唇を舐める。

「も、もちろん、そのようなことは……」
「思っていないと」
「え、ええ」

 クィレルは幾度も頷いた。
 あまりにも早い動作だった。

「例のお方は、十年前に消えたのです。い、今さら戻られるなど……そのようなことは、あるはずが……」

 声は尻すぼみに小さくなっていく。
 否定する言葉にしては、妙に歯切れが悪い。恐怖によって名を口にできない人間は珍しくない。今の魔法界では、むしろその方が普通なのだろう。だが、この男が恐れているのは名前ではなかった。何かを知っていることが露見するのを恐れている。イザークには、そう見えた。

「そうか」

 短く返す。
 それ以上追及しなかった。ここで問いを重ねれば、クィレルは完全に口を閉ざす。あるいは、逃げるための嘘をより慎重に組み立て始めるだろう。どちらにせよ、得られるものは少ない。

 イザークは再び歩き始めた。
 クィレルは一瞬遅れて、その隣へ並ぶ。

 二人の間には、人一人分ほどの距離が空いていた。
 並んでいるというより、同じ方向へ歩いているだけに近い。夕日は既に森の向こうへ半ば沈み、窓から差し込む光は先ほどよりも暗い。赤から紫へ。紫から、深い藍へ。石床へ伸びた二人の影も輪郭を失い始めていた。

「で、では……」

 暫くして、クィレルが口を開いた。

「もしもの話です。ほ、本当に、ただの仮定として……」

 まだ続けるのか。
 イザークは僅かに目を細めた。だが、止めなかった。

「もし、例のお方がお戻りになり……教授を、お呼びになったとしたら」

 教本を抱く腕へ、再び力が籠もる。
 クィレルの声は震えていた。それでも、先ほどより明瞭だった。

「教授は……ど、どうなさるのでしょう」

 今度こそ、問いの形が露わになった。
 マグル界での暮らしがどうだったか。魔法界へ戻ろうと思わなかったのか。かつての主人が戻れば、再び呼ばれるのではないか。すべて、この問いへ辿り着くための前置きだったのだろう。

 イザークは足を止めなかった。
 表情も変えない。
 だが、頭の中では幾つもの可能性が素早く組み上がっていた。

 クィレル自身が、闇の帝王へ傾倒している。
 旧死喰い人の誰かから、自分を探るよう頼まれた。
 あるいは、単なる好奇心か。

 最後の可能性は低い。好奇心だけならば、これほど怯える必要はない。会話の途中で逃げ道を幾つも用意する必要もなかった。

 イザークは煙草を口端へ咥えた。
 火は点けないまま、指先から唇へ移す。
 その動作に紛れ、僅かに時間を置いた。

「さあな」

 やがて答える。
 クィレルが横目を向ける。その視線には、明らかな落胆が浮かんでいた。

「そ、それは……」
「その時にならなきゃ分からねぇ」
「しかし……」
「十年前のオレなら迷わず従った」

 イザークは前を見たまま告げた。
 クィレルの歩みが、ほんの僅かに遅れる。

「命令なら人を殺した。理由も訊かなかった。我が君が正しいと思っていたからじゃねぇ。正しいかどうかを考える必要がないと思っていたからだ」

 廊下の角へ差しかかる。
 壁際に並ぶ甲冑の一体が、二人を追うように兜の向きを変えた。金属の擦れ合う音が小さく響く。イザークはそれを一瞥し、そのまま通り過ぎる。

「だが、十年経った。人間が同じ答えを出す保証なんざ、どこにもねぇ」

 嘘ではなかった。
 だが、真実のすべてでもない。

 闇の帝王への忠誠は、とうに捨てた。
 二度と頭を垂れるつもりはない。それを今ここで明かす理由もなかった。クィレルが誰のために問いを投げているのか分からない以上、答えを与えることは自ら喉元を差し出す行為に等しい。

 曖昧にしておけばいい。復帰を否定せず。忠誠も示さず。マグル界で過ごした十年によって、何かが変わったことだけを匂わせる。相手が何者であれ、勝手に都合の良い答えを導き出すだろう。

 クィレルは黙り込んだ。
 ターバンの奥にある顔は、僅かに俯いている。言葉の意味を考えているようにも見える。だが、イザークには別の何かへ聞かせるため、一言一句を記憶しているようにも思えた。

「……変わられたのですね」

 やがてクィレルが言った。

「そう見えるか」
「え、ええ。以前の教授を、私は存じ上げませんが……」

 そこで不自然に言葉が止まる。
 イザークは横目を向けた。

「知らねぇ割には、随分と昔のオレに詳しそうだな」

 クィレルの足音が乱れた。
 一歩だけ靴底が石床を擦り、乾いた音を立てる。

「そ、そのようなことは……」
「教授ほどの方なら、と言ったな。オレが何をしていたか。どの程度重用されていたか。知らなきゃ出てこねぇ言葉だ」

 夕暮れの光は既にほとんど失われていた。
 壁の松明へ火が灯り始める。一つ。少し離れて、もう一つ。橙色の炎が石壁を舐め、クィレルの顔へ細長い影を落とした。

 額の汗が、今度ははっきりと見えた。
 一筋がこめかみを伝い、頬へ落ちる。

「う、噂です」
 絞り出すような声だった。

「上級生達が話しているのを、たまたま、偶然……」
「生徒の噂を聞いて、本人へ昔の主人に従うか訊きに来たのか」

 イザークは鼻を鳴らした。

「随分と勇気があるじゃねぇか」
「そ、それは……私はただ……」

 クィレルは口を開いた。
 だが、その先は続かなかった。目が揺れている。助けを求めるように廊下の先を見る。だが、近くに生徒の姿はない。逃げる理由を探しているのだろう。それとも、次に何を訊くべきか分からなくなったのか。

 イザークは足を止めた。クィレルも反射的に止まる。
 二人の間へ、松明の炎が揺れていた。

「誰に訊けと言われた」

 声を低く落とす。
 クィレルの顔から、僅かに血の気が引いた。

「だ、誰にも……」
「なら、何故そこまで知りたがる」
「た、ただの興味です」
「嘘が下手だな」

 イザークは煙草を指先へ戻した。
 火のついていない先端を、クィレルへ向けるように軽く持ち上げる。

「最初から質問を決めていた。そうだろ? ホグワーツに慣れたか。マグル学はどうか。マグル界での暮らしはどうだった。戻る気はなかったのか。お前の言う例のあの方が戻れば、どうする」

 一つずつ並べるたび、クィレルの肩が僅かに強張る。

「お前が知りたいのは、オレが何をしてきたかじゃねぇ」

 灰色の瞳が、真っ直ぐクィレルを捉えた。

「今、どちら側にいるかだ」

 沈黙が落ちた。松明の炎が爆ぜる。
 壁へ掛けられた肖像画の中で、眠っていた男が薄く片目を開いた。二人を見比べ、面倒事の気配を察したのか、毛布を頭まで引き上げる。

 クィレルは唇を動かした。
 声は出ない。抱えていた教本の表紙が、指の力で僅かに歪んでいる。イザークはその様子を静かに見ていた。杖へ手を伸ばすつもりはない。脅すつもりもなかった。ただ、逃げ道だけを塞いだ。

「答えろ、クィレル。誰のために訊いている」
「わ、私は……」

 その時だった。

「――おや、おや」

 廊下の奥から、低く滑らかな声が響いた。
 聞き覚えのある声だった。クィレルの身体が目に見えて強張る。イザークは視線だけを声の方へ向けた。

 黒いローブが、廊下の暗がりからゆっくりと現れる。
 スネイプだった。両手をローブの袖へ収め、音もなく歩いてくる。蝋のように青白い顔には、感情らしいものは浮かんでいない。だが黒い瞳だけは、クィレルとイザークの間へ落ちた緊張を見逃していなかった。

「クィレル教授に、クレイヴン教授」

 スネイプは二人から数歩離れた場所で立ち止まる。
 薄い唇が、ほんの僅かに歪んだ。

「廊下の真ん中で、随分と熱心な話をしておられるようですな」

 丁寧な言葉だった。声音も穏やかだった。
 それにもかかわらず、クィレルは追い詰められたように肩を縮めた。

「セ、セブルス……」
「私が邪魔をしたのであれば、謝罪しよう」

 謝る気など微塵もない声だった。

「もっとも、クィレル教授は随分と顔色が優れないようだ。新任教授との歓談が、それほど体力を要するものとは存じ上げなかった」
「い、いえ。そのようなことは……」

 クィレルは教本を抱え直す。
 視線がイザークとスネイプの間を行き来した。

「……た、ただクレイヴン教授へ、ホグワーツでの生活について……す、少しお話を伺っていただけです」
「ほう」

 スネイプの黒い瞳がイザークへ向く。
 問い掛けるような視線だった。イザークは肩を竦める。

「だそうだ」
「随分と有意義な会話だったらしい」
「まだ途中だったがな」

 その一言で、クィレルの顔が僅かに強張る。
 セブルスは見逃さなかった。黒い瞳が細くなる。

「それは残念だ。だがクィレル教授には、明日の授業準備もあるのでは?」

 問いの形をしていた。
 実際には、明確な退去の勧告だった。クィレルは一拍遅れて頷く。

「そ、そうでした。まだ準備が……」

 教本を胸元へ強く引き寄せる。

「で、では、クレイヴン教授。また、いずれ……」
「ああ」

 イザークは止めなかった。
 クィレルは小さく頭を下げる。踵を返し、足早に廊下を去っていく。走ってはいない。だが、歩幅は不自然なほど広かった。紫色のターバンが角の向こうへ消えるまで、二人は何も言わなかった。

 靴音が遠ざかる。
 やがて、完全に聞こえなくなる。

 スネイプが先に口を開いた。

「何を訊かれた」
「世間話だ」
「貴様が、あの男の言葉を世間話だと思っている顔には見えんな」
「顔に出ていたか」
「致命的にな」

 歓迎会の夜と同じような言葉だった。
 イザークは鼻を鳴らす。
 火のついていない煙草を再び口端へ咥える。胸ポケットからライターを取り出そうとしたが、スネイプの視線がそこへ落ちたのを見て手を止めた。

「お前まで文句を言うのか」
「好きにしろ。肺を腐らせるのは貴様の自由だ」
「なら見るな」
「廊下へ煙を撒き散らされれば、嫌でも目に入る」

 面倒な男だった。
 イザークは結局、火を点けずに煙草を箱へ戻した。

「……闇の帝王が戻れば、どうするのかと訊かれた」

 スネイプの表情が消えた。
 もともと変化に乏しい顔だった。
 それでも、今の沈黙は先ほどまでの皮肉とは明確に異なっている。

「クィレルが?」
「ああ」
「前後を話せ」

 命令するような口調だった。
 イザークは眉を寄せる。

「何故だ」
「いいから話せ」

 スネイプは一歩近付いた。
 黒いローブの裾が石床を擦る。

 歓迎会の夜、酒を挟んで話していた男とは違う。
 教師でもない。かつて闇の帝王の傍らで、僅かな異変も見逃さず生き延びてきた死喰い人の顔だった。

 イザークは数秒、その黒い瞳を見返した。

 それから、クィレルとの会話を簡潔に語った。
 ホグワーツへ慣れたかと問われたこと。マグルでの暮らしを探られたこと。魔法界へ戻ろうと思わなかったのかと訊かれたこと。そして、闇の帝王が戻った場合、自分が再び従うのかを尋ねられたこと。話が終わるまで、スネイプは口を挟まなかった。ただ、最後まで黙って聞いている。

「……どう思う」

 イザークが問う。
 セブルスはすぐには答えなかった。クィレルが去った廊下の奥へ視線を向ける。松明の炎が、その青白い横顔へ揺らめく影を落としていた。

「不自然だ。奴が貴様の過去へ興味を持つ理由がない。まして、闇の帝王への忠誠を確かめる理由など」

 イザークは僅かに目を細めた。

「誰かに訊かされてる。そう考えるのが自然だろうな」

 セブルスの黒い瞳が戻る。

「誰だ」
「それを訊いていたところで、お前が来た」
「私のせいだと?」
「助かったとは思っている」

 意外な答えだったのか、セブルスの眉が僅かに動く。

「……奴は、もう何も話さなかっただろう。追い詰め過ぎた。あのまま続けていれば、警戒させるだけだった」

 イザークは壁へ背を預ける。
 腕を組み、クィレルが消えた方向を見た。

「だが、これで分かった。あいつは何かを隠してる」
「それだけなら、歓迎会の夜から明白だった」
「気付いてたのか」
「気付かぬ方が難しい。虚弱を装うにしても、あれでは過剰だ」

 セブルスは冷たく言い捨てる。
 やはり同じ違和感を抱いていたらしい。

「何を隠しているかまでは?」
「分からん」
「開心術は」
「試していない」
「何故だ」
「理由もなく同僚の心を覗けば、ダンブルドアが煩い」
「お前がそんなことを気にするのか」
「教師というものは、貴様が思っている以上に制約が多い」

 煙草一つで追い出された直後だけに、否定できなかった。
 イザークは口元を歪める。

「なら、別の方法を考える」
「何をするつもりだ」
「まだ決めてねぇ」

 そう答えながら、脳裏には既に一つの発想が浮かび始めていた。
 マグル界には、本人の知らぬところで会話を拾う道具がある。盗聴器。魔法で同じことができるなら、クィレルが一人でいる時に何を話すのか聞けるかもしれない。問題は、この城では他人の部屋へ魔法を仕掛ければ、気付かれる可能性が高いことだった。対象範囲。聞き取れる距離。持続時間。術者との繋がり。何より、クィレル本人やダンブルドアに察知されない方法が必要になる。

 難しい。
 だからこそ、試す価値があった。

 イザークは口端を吊り上げ、クツクツと笑い声を零した。

「ろくでもないことを考えている顔だな」
「そう見えるか?」
「致命的にな」

 二度目だった。
 イザークは鼻で笑い、壁から背を離す。

「決まったら教えてやる」
「教えなくて結構だ。先に止める羽目になる」
「なら黙ってやるさ」
「なお悪い」

 二人は同時に廊下の奥へ視線を向けた。
 クィレルの姿はもうない。それでも、先ほど交わされた問いだけが、冷え始めた廊下へ残っているようだった。

 闇の帝王が戻れば、どうする。
 単なる好奇心ではない。誰かが答えを待っている。
 イザークには、そんな気がしてならなかった。

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