賢者の石編
/* 023 - 死喰い人の噂
朝日が高窓から差し込み、大広間の石床へ長い光を落としている。
四寮の長机には、既に多くの生徒が集まり始めていた。ベーコンの香ばしい匂い。銀食器の触れ合う澄んだ響き。それらを掻き消すように、無数の話し声が天井高くにまで広がっていた。
ハリー・ポッターは欠伸を噛み殺しながら席へ着いた。
まだ朝には慣れそうにない。ダーズリー家では、目を覚ませばすぐに朝食の支度を手伝わされていたし、今日みたくのんびりと食堂へ向かって、出来立ての料理が沢山並んでいる席へ座る生活なんて想像したこともない。
皿にベーコンを取り分けたところで、隣からロンの声が飛んだ。
「そんなに取っても食べれないだろ?」
返事をするより早く、ロンの皿へ一枚移される。
「ロン」
「一枚だけだよ」
悪びれた様子もない。
ハリーは呆れながらパンへバターを塗りたくった。
大広間の天井は今日も青空だった。本物の空ではないと聞いていても、見上げれば、その壮大さに信じてしまいそうになる。白い雲がゆっくり流れ、その向こうでは朝日が柔らかな光を落としている。眩しい朝だった。
ふと、視線が貴賓席の方へ流れた。
マクゴナガル教授は新聞へ目を通していた。フリットウィック教授は席から落ちそうになりながらも、隣の教授と穏やかに話している。クィレル教授は相変わらず落ち着きなく辺りを見回し、紫色のターバンを何度も触っていた。
そしてスネイプ。
黒いローブのまま静かに腰掛け、表情らしい表情はない。何となく、視線が合ったような気がした。ハリーは慌てて皿へ目を落とす。合わせた目はやはりハリーを嫌っていて、それどころか憎んでいるようだった。歓迎会から一週間経った今でも、理由は分からない。初めて会った日から、あの教授だけは自分を見る目が他と違っていた。それは、間違いようがない。
「君、またスネイプのこと見てる」
「見てたわけじゃないよ」
ハリーは小さく言い返した。
ロンは肩を竦める。
「僕だったら出来るだけ見ないけどな。あの人、誰を見る時も睨んでるみたいだし。まぁ、君に対してはよっぽど睨んでるけど」
ロンは同情するように口を歪ませた。
ハリーは小さく息を吐く。
「何なんだろう。嫌われるようなこと、した覚えないんだけど」
「スネイプの考えてることなんて、誰にも分からないよ」
ロンはベーコンを口へ放り込み、肩を竦める。
フォークでソーセージを突き刺した。
「でもさ。新しい教授の方は、もっと分からない」
「クレイヴン教授のこと?」
「ウン」
ロンは一度だけ貴賓席へ目を向けた。
銀髪の教師は窓際の席で静かに朝食を取っていた。黒いスーツ姿は教師というより役人か軍人、あるいはスパイ映画に出てくるような人にも見える。目元に斜めに走る古い傷だけが、その整った横顔へ奇妙な威圧感を与えていた。
「フレッド達が言ってたんだ」
ロンはハリーと肩を寄せ、更に声を落とした。
「昔、例のあの人の仲間だったって。上級生の間で噂になってるみたい」
「仲間? まさか」
「ホントさ。死喰い人だったらしいよ」
死喰い人。ハリーは首を傾げた。
口の中で繰り返してみる。妙な響きだった。人の名前とも、生き物の名前とも違う。何処か冷たくて、不吉な音だけが耳に残った。
ロンはハリーの様子を見て付け加えた。
「名前を呼んじゃいけないあの人に付いてた魔法使いのことさ」
ハリーは思わず貴賓席を見た。
クレイヴン教授は相変わらず静かだった。パンを小さく千切り、ゆっくりと口へ運んでいる。その仕草には乱暴さも気負いもない。僅かに癖の残った銀色の髪へ朝日が落ち、灰色の瞳はどこか遠くを見ているようだった。
「ダンブルドアが率いる不死鳥の騎士団とも戦ったし、魔法省とも。人も沢山殺したって聞いてるよ。捕まった人もいるし、今でもアズカバンって牢屋にいる奴もいる。でも、中には捕まらなかった奴もいるんだ」
ハリーは黙って聞いていた。
ダーズリー家では魔法界の話など一切聞かされなかった。ヴォルデモートという名前も、ハリーの両親が自動車事故ではなく、ヴォルデモートに殺されたことも、ホグワーツへ来るまで知らなかった。
だからこそ、今聞く話はどれも現実味が薄い。
けれど大広間を見渡せば、それは昔話では済まないのだと分かる。誰もクレイヴン教授を指差したりはしない。噂話をしている生徒も、大人達教師へ聞こえないよう声を潜めている。それだけで十分だった。死喰い人という言葉には今でも、口を潜めなければならない重さがあるんだと。
「でもさ」
ロンは急に肩を竦めた。
「ダンブルドア校長が教師にしたんだから、大丈夫なんだと思う」
言葉とは裏腹に、自分自身を納得させようとしているような口調だった。
「それに、もう例のあの人はいないし」
最後の一言で、ハリーはもう一度貴賓席へ目を向けた。
クレイヴン教授はナイフとフォークを置き、隣へ座るスネイプへ一言だけ声を掛けていた。それにスネイプは、短く答えただけだった。二人とも表情はほとんど変わらない。けれど、どこか似ていた。必要以上に話さず、人を寄せ付けない空気。誰かへ見られることに慣れ切った人間だけが持つ静けさ。
「スネイプも昔は死喰い人だったって話、聞いたことある?」
ロンが不意に言った。
ハリーは目を瞬かせる。
「え、そうなの?」
「いや、兄さん達が言ってただけだから、本当かどうかは知らないけど」
ロンは慌てて付け加えた。
「ダンブルドア先生が信用してるんだから、きっと違うんだろうけどさ」
ハリーは返事をしなかった。
貴賓席では、黒いローブと黒いスーツが並んでいる。片方は、自分を理由もなく憎んでいるように見える教師。もう片方は、昨日まで普通の教師だと思っていた男。どちらも、自分の知らない過去を抱えている。
ホグワーツは、不思議な学校だと思っていた。
だが今は、それだけではない。この城そのものが、誰にも話されない昔話を石壁の奥深くへ閉じ込めているように思えた。
朝日が高窓から差し込み、大広間の石床へ長い光を落としている。
四寮の長机には、既に多くの生徒が集まり始めていた。ベーコンの香ばしい匂い。銀食器の触れ合う澄んだ響き。それらを掻き消すように、無数の話し声が天井高くにまで広がっていた。
ハリー・ポッターは欠伸を噛み殺しながら席へ着いた。
まだ朝には慣れそうにない。ダーズリー家では、目を覚ませばすぐに朝食の支度を手伝わされていたし、今日みたくのんびりと食堂へ向かって、出来立ての料理が沢山並んでいる席へ座る生活なんて想像したこともない。
皿にベーコンを取り分けたところで、隣からロンの声が飛んだ。
「そんなに取っても食べれないだろ?」
返事をするより早く、ロンの皿へ一枚移される。
「ロン」
「一枚だけだよ」
悪びれた様子もない。
ハリーは呆れながらパンへバターを塗りたくった。
大広間の天井は今日も青空だった。本物の空ではないと聞いていても、見上げれば、その壮大さに信じてしまいそうになる。白い雲がゆっくり流れ、その向こうでは朝日が柔らかな光を落としている。眩しい朝だった。
ふと、視線が貴賓席の方へ流れた。
マクゴナガル教授は新聞へ目を通していた。フリットウィック教授は席から落ちそうになりながらも、隣の教授と穏やかに話している。クィレル教授は相変わらず落ち着きなく辺りを見回し、紫色のターバンを何度も触っていた。
そしてスネイプ。
黒いローブのまま静かに腰掛け、表情らしい表情はない。何となく、視線が合ったような気がした。ハリーは慌てて皿へ目を落とす。合わせた目はやはりハリーを嫌っていて、それどころか憎んでいるようだった。歓迎会から一週間経った今でも、理由は分からない。初めて会った日から、あの教授だけは自分を見る目が他と違っていた。それは、間違いようがない。
「君、またスネイプのこと見てる」
「見てたわけじゃないよ」
ハリーは小さく言い返した。
ロンは肩を竦める。
「僕だったら出来るだけ見ないけどな。あの人、誰を見る時も睨んでるみたいだし。まぁ、君に対してはよっぽど睨んでるけど」
ロンは同情するように口を歪ませた。
ハリーは小さく息を吐く。
「何なんだろう。嫌われるようなこと、した覚えないんだけど」
「スネイプの考えてることなんて、誰にも分からないよ」
ロンはベーコンを口へ放り込み、肩を竦める。
フォークでソーセージを突き刺した。
「でもさ。新しい教授の方は、もっと分からない」
「クレイヴン教授のこと?」
「ウン」
ロンは一度だけ貴賓席へ目を向けた。
銀髪の教師は窓際の席で静かに朝食を取っていた。黒いスーツ姿は教師というより役人か軍人、あるいはスパイ映画に出てくるような人にも見える。目元に斜めに走る古い傷だけが、その整った横顔へ奇妙な威圧感を与えていた。
「フレッド達が言ってたんだ」
ロンはハリーと肩を寄せ、更に声を落とした。
「昔、例のあの人の仲間だったって。上級生の間で噂になってるみたい」
「仲間? まさか」
「ホントさ。死喰い人だったらしいよ」
死喰い人。ハリーは首を傾げた。
口の中で繰り返してみる。妙な響きだった。人の名前とも、生き物の名前とも違う。何処か冷たくて、不吉な音だけが耳に残った。
ロンはハリーの様子を見て付け加えた。
「名前を呼んじゃいけないあの人に付いてた魔法使いのことさ」
ハリーは思わず貴賓席を見た。
クレイヴン教授は相変わらず静かだった。パンを小さく千切り、ゆっくりと口へ運んでいる。その仕草には乱暴さも気負いもない。僅かに癖の残った銀色の髪へ朝日が落ち、灰色の瞳はどこか遠くを見ているようだった。
「ダンブルドアが率いる不死鳥の騎士団とも戦ったし、魔法省とも。人も沢山殺したって聞いてるよ。捕まった人もいるし、今でもアズカバンって牢屋にいる奴もいる。でも、中には捕まらなかった奴もいるんだ」
ハリーは黙って聞いていた。
ダーズリー家では魔法界の話など一切聞かされなかった。ヴォルデモートという名前も、ハリーの両親が自動車事故ではなく、ヴォルデモートに殺されたことも、ホグワーツへ来るまで知らなかった。
だからこそ、今聞く話はどれも現実味が薄い。
けれど大広間を見渡せば、それは昔話では済まないのだと分かる。誰もクレイヴン教授を指差したりはしない。噂話をしている生徒も、大人達教師へ聞こえないよう声を潜めている。それだけで十分だった。死喰い人という言葉には今でも、口を潜めなければならない重さがあるんだと。
「でもさ」
ロンは急に肩を竦めた。
「ダンブルドア校長が教師にしたんだから、大丈夫なんだと思う」
言葉とは裏腹に、自分自身を納得させようとしているような口調だった。
「それに、もう例のあの人はいないし」
最後の一言で、ハリーはもう一度貴賓席へ目を向けた。
クレイヴン教授はナイフとフォークを置き、隣へ座るスネイプへ一言だけ声を掛けていた。それにスネイプは、短く答えただけだった。二人とも表情はほとんど変わらない。けれど、どこか似ていた。必要以上に話さず、人を寄せ付けない空気。誰かへ見られることに慣れ切った人間だけが持つ静けさ。
「スネイプも昔は死喰い人だったって話、聞いたことある?」
ロンが不意に言った。
ハリーは目を瞬かせる。
「え、そうなの?」
「いや、兄さん達が言ってただけだから、本当かどうかは知らないけど」
ロンは慌てて付け加えた。
「ダンブルドア先生が信用してるんだから、きっと違うんだろうけどさ」
ハリーは返事をしなかった。
貴賓席では、黒いローブと黒いスーツが並んでいる。片方は、自分を理由もなく憎んでいるように見える教師。もう片方は、昨日まで普通の教師だと思っていた男。どちらも、自分の知らない過去を抱えている。
ホグワーツは、不思議な学校だと思っていた。
だが今は、それだけではない。この城そのものが、誰にも話されない昔話を石壁の奥深くへ閉じ込めているように思えた。