賢者の石編
/* 018 - 再会の沈黙
大広間には、既に大半の生徒が集まっていた。
四つの寮を示す長机が、石造りの床を縦に貫くように並んでいる。
磨き上げられた天板には黄金の皿と銀の杯が等間隔に置かれ、その表面へ、頭上に浮かぶ無数の蝋燭の光が揺らめいていた。まだ料理は現れていない。空の皿ばかりが並ぶ卓上を前に、生徒達はこれから始まる新入生歓迎会を待ちながら、思い思いに言葉を交わしている。
天井には、雲一つない夜空が広がっていた。
魔法によって映し出された空は、城の外にある本物の夜と寸分違わぬ色をしている。深い群青の中で無数の星が瞬き、時折薄い雲がゆっくりと横切っていく。その下を蝋燭が漂い、風もないというのに炎を僅かに揺らしていた。
石壁には寮旗が垂れ下がっている。
深紅と金の獅子。緑と銀の蛇。青と青銅の鷲。黄と黒の穴熊。
古い布地へ織り込まれた紋章は、何百年もの間、同じ場所から生徒達を見下ろしてきた。壁際には甲冑が並び、その磨かれた胸当てへ蝋燭の光が鈍く映り込んでいる。広間の上部を横切る梁には幽霊達が漂い、ときおり長机をすり抜けては、近くに座っている生徒を驚かせていた。
その度に笑い声が上がる。
グリフィンドールの長机では、休暇中に起きた出来事を競うように話す声が重なっていた。クィディッチの試合。家族旅行。夏の課題を最後まで放置していた生徒が、隣の者から呆れた顔を向けられている。
ハッフルパフでは、土産らしい包みを数人で覗き込み、誰かが中身を取り出すたびに歓声が起こった。レイブンクローの卓では、早くも教科書を開いている生徒がいる。その隣では、上級生らしき少女が新しい時間割について話し、周囲の者達が面倒そうに耳を傾けていた。
スリザリンの長机も、普段と変わらない。
黒と緑のローブを纏った生徒達が、それぞれ小さな集団を作っている。声は他寮ほど大きくはない。それでも、休暇中に交わされた噂や、誰の家がどの家と関係を深めたかという話は絶えず続いていた。
セブルス・スネイプは、教職員用貴賓席の長卓の端近くに座り、その様子を黙って眺めていた。正確には、眺めているように見せていた。
生徒達の話に興味があるわけではない。どこの家が誰を招いたか、誰が新しい箒を手に入れたかなど、セブルスにとってはどうでも良いことだった。休暇を終えた生徒達は、毎年同じような話をする。そして数日も経てば宿題に追われ、授業を嫌い、廊下を走り回り、教師の目を盗んで下らない悪戯を始める。
変わることのない光景だった。
少なくとも、表面上は。
セブルスは手元の銀杯へ視線を落とした。
杯にはまだ何も注がれていない。磨かれた内側へ、蝋燭の炎だけが歪んで映っている。長い指を脚部へ添えたまま、彼は僅かに眉を寄せた。
左隣では、クィリナス・クィレルが落ち着かない様子で何度も紫色のターバンへ触れていた。以前よりも更に青白くなった顔には薄い汗が浮かび、誰かが近くで大きな声を上げるたびに肩を震わせている。
その向こうでは、フィリウス・フリットウィックが隣席の教授と楽しげに言葉を交わしていた。小さな身体を分厚い座布団へ沈め、今年入学する生徒達について何か話している。
ミネルバ・マクゴナガルの席は空いていた。
新入生を迎えに行っているのだろう。
アルバス・ダンブルドアは中央の席に着き、長い指を組んで静かに生徒達を見渡していた。半月型の眼鏡の奥で、青い瞳だけが蝋燭の光を受けて微かに輝いている。その表情には、毎年変わらぬ穏やかな笑みが浮かんでいた。
セブルスは一瞬だけ、そちらへ目を向けた。
ダンブルドアは何も言わない。当然だった。新入生歓迎会が始まる前から、わざわざ話しかける理由などない。まして、数週間前に校長室で交わした話をこの場で蒸し返すはずもなかった。
それでも、セブルスにはあの老人の沈黙が妙に気に障った。
何かを知っている。そう感じさせる沈黙だった。ダンブルドアはいつもそうだった。重要なことほど直前まで語らず、相手が自ら気付くことを期待する。あるいは、気付いた時にどう反応するかを見ている。本人は信頼とでも呼ぶのだろうが、セブルスに言わせれば、悪趣味な観察に過ぎなかった。
視線を戻す。
大広間のざわめきは、徐々に大きくなっていた。
新入生の到着を待ちきれない生徒達が、何度も正面の扉を振り返っている。
上級生の中には、組分けの儀式を懐かしむように笑っている者もいた。自分がどれほど取り乱していたかを棚へ上げ、これから入ってくる十一歳の子供達を品定めするつもりらしい。実にくだらない。
セブルスは椅子の背へ僅かに身体を預けた。
黒いローブの裾が床へ落ちる。両腕を胸の前で組み、長机の向こうへ冷たい視線を投げた。その視線に気付いたのか、スリザリンの卓で騒いでいた数人の生徒が声を落とす。だが、それも長くは続かなかった。別の卓から笑い声が上がり、すぐに広間全体の喧騒へ飲み込まれていく。
セブルスは目を細めた。
いつもの九月だった。浮かれた生徒達。空の皿。新入生を待つ時間。天井へ映る夜空。古い城へ戻ってきた者達が作り出す、落ち着きのない熱気。
何一つ変わっていない。
そのはずだった。背後で、扉の軋む音がした。正面ではない。新入生が入ってくる大扉とは別に、教職員用の長卓の背後へ設けられた小さな扉だった。
古い蝶番が、低く長い音を立てる。ただそれだけの音だった。
普段なら、気に留める者などほとんどいない。教師が一人遅れて入ってきたか、家畜小屋から戻ったハグリッドが姿を見せたか、その程度のことだ。
だが、その時は違った。
スリザリンの長机に座っていた一人の生徒が、最初に背後を見た。
続いて、その隣にいた者が顔を上げる。
視線は波のように広がっていった。端から端へ。ひとつの卓から別の卓へ。あれほど絶え間なく響いていた声が、少しずつ小さくなっていく。
笑い声が途切れる。
椅子を引く音だけが、妙に大きく響いた。誰かが途中まで話していた言葉を飲み込む。ほんの数秒前まで広間を満たしていたざわめきが、不自然なほど急速に失われていった。完全な静寂ではない。遠くで誰かが囁く声。杯が卓へ触れる小さな音。宙に浮かぶ蝋燭が燃える微かな気配。それでも、全員の意識が一箇所へ向けられていることは分かった。
セブルスは座ったまま、僅かに眉を寄せた。
何事かと考えるより先に、背後から足音が聞こえた。
革靴が石床を打つ音だった。
一歩。また一歩。一定の間隔を保ち、急ぐ様子もなく近づいてくる。
ホグワーツの教師の大半は、革靴など履かない。少なくとも、ローブの下からその音を明確に響かせて歩く者はいなかった。
セブルスの指先が、組んだ腕の下で僅かに動いた。
理由は分からない。ただ、その足音を聞いた瞬間、胸の奥に古い違和感が生まれた。遠い記憶へ触れた時に似ていた。忘れたはずの匂い。二度と聞くことはないと思っていた声。突然脳裏へ浮かぶ情景。
革靴の音が止まる。
セブルスはゆっくりと振り返った。
最初に目へ入ったのは、黒だった。
魔法使いのローブとは異なる、身体の線に沿って仕立てられた黒いスーツ。シャツの襟元には、同じく黒いネクタイが緩く結ばれている。
次に、銀色の髪が見えた。後方へ撫でつけられた髪は、蝋燭の光を受けて鈍く輝いている。かつてより僅かに長くなっていたが、その色も、癖も、記憶の中とほとんど変わっていない。頬には傷があった。皮膚を斜めに走る古い痕。灰色の瞳が、口端に咥えられた煙草の煙越しに大広間を静かに見渡している。
その顔を認識した瞬間、セブルスの呼吸が止まった。
音もなく。ほんの一拍だけ。
心臓が胸の奥で強く脈打ち、その衝撃が肋骨の内側へ響いた。
驚きがなかったわけではない。数週間前、ダンブルドアは確かにその名を口にしていた。十年もの間、魔法界から姿を消していた男を、マグル学の教授としてホグワーツへ迎え入れたいのだと。当然、セブルスは反対した。あのクレイヴンが教師に適した人間ではないという理由だけではない。彼が再び魔法界へ戻るとは思えなかったからだ。
十年前、何の説明も残さず姿を消した。死喰い人達が裁判に掛けられ、自らの過去を隠すために奔走し、あるいは、互いの名を売って罪を免れようとしていた時期にも、クレイヴンは一度として姿を見せなかった。
ダンブルドアからマグル界で暮らしていると聞いたとき、魔法を捨てたわけではない。だが、戻るつもりもないのだと結論付けていた。ダンブルドアが何通手紙を送ろうと、返事など寄越さないだろう。仮に直接会いに行ったとしても、既に居場所があるクレイヴンに追い返されるに決まっていると。
そう考えていた。否。そう考えたかったのかもしれない。
胸の奥に沈んでいた嫌な予感が、ようやく明確な形を取る。
ダンブルドアは、クレイヴンが来るとは一言も告げなかった。
返事があったとも。招きを受け入れたとも。ただ、何も言わなかった。あのダンブルドアの沈黙を、セブルスは何度も目にしてきた。言葉にしなくとも、既に物事が自分の望む方向へ動いている時、ダンブルドアは決まってあの穏やかな表情を浮かべる。嫌な予感は的中していた。
十年もの間、魔法界へ背を向けていた男が。
マグルの衣服を身に纏い、マグルの煙草を咥えたまま。
アルバス・ダンブルドアの招きに応じて、ホグワーツへ戻ってきた。
セブルスは椅子へ座ったまま、クレイヴンを見上げていた。
以前とは違って見えた。日に焼けた皮膚。厚みを増した肩。スーツの布越しにも分かる、労働によって作られた肉体。かつてのクレイヴンも華奢ではなかった。だが、今の身体つきには魔法使い特有の細さがない。杖を振るのではなく、自らの手で重い物を持ち、身体を使って働いてきた人間の輪郭だった。
十年という時間が、そこにだけ刻まれている。
顔立ちはほとんど変わらない。灰色の瞳に浮かぶ倦んだような表情も。他人の内側を見透かしているような、静かな視線も。何も変わっていない。
そう思った瞬間、古い記憶が不意に蘇った。
暗い部屋だった。窓は閉ざされ、燭台の青白い炎だけが壁へ細長い影を落としていた。息をすることすら許されないような沈黙。その中央に、あの男がいた。闇の帝王。セブルスはその前へ膝をついていた。
床へ触れた膝の冷たさまで、今も覚えている。
声が震えないように努めていた。
ポッターは殺しても構わない。
子供も。だが、女だけは。リリーだけは助けてほしい。
それがどれほど醜悪な願いであるか、理解していなかったわけではない。夫と子供が殺されても、自分が望む女だけが生き残ればよい。愛と呼ぶには利己的で、忠誠と呼ぶにはあまりにも浅ましい懇願だった。
それでも、セブルスは頭を垂れた。
縋った。頼み込んだ。
そして、その場にはクレイヴンがいた。
壁際に立ち、何も言わず見ていた。止めもしなかった。嘲笑もしなかった。軽蔑を示すことさえなかった。ただ、見ていた。それが何より耐え難かった。セブルスが自らの尊厳を投げ捨て、一人の女の命を乞う姿を。夫と息子を見殺しにすることさえ厭わず、彼女だけを欲した姿を。クレイヴンは最初から最後まで見ていた。その記憶が、喉の奥へ冷たい指を差し込んだ。
セブルスの唇が僅かに引き結ばれる。
何を言えばよい。久しい、とでも。ホグワーツへようこそ、とでも。あるいは何故戻ったと問うのか。どの言葉も口へ出す前に腐っていくようだった。
クレイヴンの灰色の瞳が、大広間を巡る。
グリフィンドール。ハッフルパフ。レイブンクロー。スリザリン。四つの長机へ向けられていた視線が、やがて教職員用の長卓へ移った。教師達の顔を順に辿っていく。フリットウィック。スプラウト。クィレル。そして、セブルス。
視線が重なった。
セブルスの背筋が、意識するより先に強張る。
イザークも足を止めた。
二人の間には、大広間を満たす無数の視線があった。
上級生達は、見知らぬ男が何者なのかと囁き合っている。教師達もまた、ダンブルドアとクレイヴンを交互に見ていた。だが、セブルスには何も聞こえなかった。クレイヴンの視線だけが、十年前と現在を真っ直ぐ繋いでいる。
数秒。ほんの数秒だった。
クレイヴンの表情には、何の変化もない。
驚きも。怒りも。懐かしさも。軽蔑さえ浮かんでいなかった。ただ、セブルスを見ている。その無表情が、かえって息苦しかった。
煙草の先端が赤く灯る。
クレイヴンはゆっくりと煙を吸い込んだ。頬が僅かに窄まり、灰色の煙が口元へ滞留する。それから、何も言わないまま吐き出した。細い煙が二人の視線の間へ流れ込む。蝋燭の光を薄く曇らせながら上昇し、やがて高い天井へ向かう前に形を失った。挨拶はなかった。問いも。非難も。まるで、セブルスへ掛ける言葉など最初から存在しないかのようだった。
胸の奥に、鈍い痛みが生まれる。煙草の煙を向けられたことに腹を立てたわけではない。無視されたとも思わなかった。クレイヴンが何を考えているのか分からない。それがセブルスには、耐え難かった。
あの夜のことを覚えているのか。
覚えているに決まっている。
ならば、今の自分をどう見ている。
闇の帝王へ女の命を乞い、その願いが聞き届けられなかった途端、ダンブルドアの庇護へ逃げ込んだ男。かつての主人を裏切りながら、その印を左腕へ残したまま、今では教師の顔をして子供達の前へ座っている男。クレイヴンの目には、そう映っているのか。セブルスには問えなかった。
「来てくれたか、イザーク」
中央から、穏やかな声が響いた。
ダンブルドアだった。
張り詰めていた空気が、その一言によって僅かに緩む。
生徒達の間から再び囁きが起こった。
誰なのか。新しい教師なのか。なぜローブを着ていない。なぜ大広間で煙草を吸っている。断片的な声が、長机の端から端へ伝わっていく。
クレイヴンはようやくセブルスから視線を外した。
煙草を指に挟み、ダンブルドアへ顔を向ける。
「見りゃ分かるだろ」
低く掠れた声だった。十年前と変わらない。
セブルスの指先が、ローブの下で僅かに強張る。
ダンブルドアは、その無愛想な返答にも表情を変えなかった。
「君が列車へ乗り遅れていないか、少々心配していたのでね」
「ガキじゃねぇんだ。一人で列車くらい乗れる」
「それは失礼した」
ダンブルドアの青い瞳が愉快そうに細められる。
クレイヴンは面倒そうに煙を吐き、手にしていた灰皿に押し潰した。
その仕草を見ながら、セブルスはようやく浅く息を吸った。
肺へ空気が入る。
だが、胸の奥に生じた圧迫感は消えなかった。
ダンブルドアが長卓の一席を示す。
「君の席は用意しておる」
セブルスの視線が、その手の先を追った。
空いているのは、クィレルを挟んだ向こう側だった。近すぎる。そう思った自分に気付き、セブルスは内心で舌打ちした。
大広間の端と端であろうと、同じ城にいることには変わりない。
授業が始まれば、廊下でも、職員室でも、何度となく顔を合わせることになる。逃れられるはずがない。それでも、今この場で手を伸ばせば届くほどの距離へ座られることには、別の意味があった。
クレイヴンは示された席を一瞥した。
次いで、その隣にいるクィレルへ視線を向ける。クィレルは目が合っただけで肩を跳ねさせ、慌てて杯へ視線を落とした。クレイヴンの眉が僅かに動く。何かを感じ取ったのか。あるいは、単にその怯え方を不審に思っただけか。
セブルスには分からなかった。
クレイヴンはそれ以上クィレルを見ようともせず、長卓へ向かって歩き出した。革靴が石床を打つ。一歩。また一歩。その音が近づくたび、セブルスの脳裏には、忘れたはずの夜が蘇った。
膝をついた自分。冷たい床。笑う闇の帝王。壁際に立つ銀髪の男。
何も言わず、全てを見ていた灰色の瞳。
セブルスは手元の銀杯へ目を落とした。
磨かれた内側には、歪んだ自分の顔が映っている。
顔を上げることができなかった。
革靴の音が、すぐ近くで止まった。
椅子が床を擦る。セブルスは顔を上げなかった。磨かれた銀杯の内側へ歪んで映る自分の顔を見たまま、その向こうでクレイヴンが席へ着く気配だけを聞いていた。布地の擦れる音。灰皿が卓上へ置かれる、小さな金属音。
それだけだった。
挨拶はない。セブルスへ向けられる言葉も、視線もなかった。クレイヴンは最初から、そこにセブルスなどいないかのように椅子へ腰を下ろした。
その方が良い。今は何も話すべきではない。
周囲には生徒がいる。教師達もいる。十年前のことを知る者は少ないとはいえ、二人の間に流れる僅かな変化を、ダンブルドアが見逃すはずもなかった。
だから、これで良い。
そう考えながらも、胸の奥に生まれた鈍い感覚は消えなかった。
責められることを恐れていたはずだった。
あの夜のことを持ち出されるのではないかと。薄い嘲笑を向けられるのではないかと。それにもかかわらず、何も言われないことが、言葉を向けられるよりも重く感じられた。
クレイヴンにとっては、既に過ぎたことなのかもしれない。
記憶へ留めるほどの価値さえない出来事。あるいは、セブルス自身が、言葉を掛けるに値しない人間になっただけなのか。
考えるだけ無駄だった。クレイヴンの沈黙にどのような意味があるのかなど、本人に尋ねなければ分からない。そして、尋ねるつもりはなかった。
セブルスは銀杯から目を離し、正面へ視線を戻した。
大広間では、まだ生徒達の囁きが続いている。
新しく現れた男が誰なのか。なぜマグルの衣服を着ているのか。どの科目を担当するのか。それぞれが憶測を交わし、ときおり教師席へ盗み見るような視線を向けている。特にスリザリンの長机から注がれる視線は露骨だった。幾人かの上級生は、クレイヴンの顔を知っているようには見えない。それでも、彼らの親の中には、その名を記憶している者がいるかもしれなかった。
かつて闇の帝王の傍らにいた男。忠実な死喰い人の一人。
そして、戦争が終わるより前に姿を消した裏切り者。
どのような形で語られているかは分からない。
死んだと言われているのか。逃げたと嘲られているのか。
あるいは、最初から存在しなかったことにされているのか。純血の家系は、都合の悪い過去を忘れることに長けている。セブルスも、その恩恵を受けた一人だった。自分だけは違うと考えるほど、愚かではない。
「随分と注目を集めておるようじゃな」
ダンブルドアが、楽しげに言った。
声は大きくない。教職員用の長卓へ座っている者にだけ届く程度だった。
クレイヴンは長机へ片肘をつき、頬杖をつくようにして生徒達を眺めていた。視線を向けられていることなど、初めから気にも留めていないらしい。
「煙草咥えて入ってきた奴がいりゃ、見るだろ」
「それだけが理由ではないと思うがね」
「なら、そいつらに訊け」
素っ気なく答える。
ダンブルドアは小さく笑った。
クレイヴンの声を聞くたび、セブルスの意識は否応なくそちらへ引かれた。
聞かないようにしようとするほど、言葉の一つ一つが明瞭に耳へ届く。
十年前と同じ声。同じ話し方。
だが以前よりもどこか乾いていた。鋭さが失われたわけではない。むしろ、余計なものが削ぎ落とされている。
かつてのクレイヴンには、怒りがあった。
魔法界の古い秩序へ向けられた怒り。血筋だけで人間の価値が決められることへの嫌悪。無能な者が名家に生まれたというだけで重用され、実力のある者が生まれによって踏みつけられることへの憤り。その怒りが、彼を闇の帝王のもとへ導いた。少なくとも、初めはそうだった。
今の声には、それがない。
何かを変えようとする者の熱ではなく、変わらないものを既に見限った人間の響きだった。十年という時間は、肉体だけに刻まれているわけではない。
セブルスがそう考えた時、正面の大扉が開いた。
大広間に響いていた囁きが、再び弱まる。ミネルバ・マクゴナガルが入ってきた。深緑色のローブを纏い、背筋を真っ直ぐ伸ばしている。その後ろには、黒いローブ姿の新入生達が一列になって続いていた。
それまでクレイヴンへ集まっていた生徒達の視線が、一斉に新入生へ向けられる。セブルスは僅かに息を吐いた。救われたように感じたことへ、すぐに不快感を覚える。たかが一人の男が近くへ座っただけだ。恐れる理由などない。今の自分は死喰い人ではない。闇の帝王の前へ膝をつく必要もない。あの時とは違う。そう言い聞かせながら、セブルスは新入生達を見た。
皆、同じような顔をしている。
緊張。不安。好奇心。今にも泣き出しそうな者もいれば、平静を装おうとして失敗している者もいた。教師席へ目を向ける余裕のある者は少なく、四つの長机へ座る上級生達の視線を浴びながら、覚束ない足取りで前へ進んでいく。
その列の中に、赤毛の少年がいた。
ウィーズリー家の子供だろう。顔立ちに見覚えがある。兄達と同じ、そばかすの浮いた白い顔。緊張した様子で隣を歩く少年へ、何か囁いていた。
その隣にいる少年を見た瞬間、セブルスの視線が止まった。
小柄だった。細い肩。ひどく痩せた身体。乱れた黒髪。丸い眼鏡。
そして、その奥にある緑色の瞳。
喉の奥が狭まる。
リリー。一瞬、そう見えた。
顔立ちは違う。髪も。表情も。眼鏡の奥から教師席を見上げる顔は、憎むべき男によく似ていた。ジェームズ・ポッター。傲慢で。愚かで。自分が正しいと信じて疑わなかった男そのものだった。
だが、瞳だけは違った。
リリーの目だった。十一年前と何一つ変わらない、鮮やかな緑色。
セブルスの指が、無意識に銀杯の脚を掴む。
力を入れすぎたのか、金属が僅かに軋んだ。
少年は教師席を見上げたまま、ゆっくりと視線を巡らせている。
ハグリッド。ダンブルドア。マクゴナガル。フリットウィック。クレイヴン。クィレル――そして、セブルス。
視線が重なった。少年の表情に、僅かな戸惑いが浮かぶ。
その額を、乱れた前髪が覆っていた。風か、動いた拍子か。髪の隙間から、稲妻の形をした傷痕が覗く。セブルスの胃の奥が冷たくなる。予言。闇の帝王。リリーの死。十一年もの間、押し込めてきたものが、一度に蘇る。
少年はすぐに視線を逸らした。
だが、セブルスは目を離すことができなかった。
ポッターの息子。リリーが命を賭けて守った子供。
自分が闇の帝王へ伝えた予言によって、殺されかけた少年。
生き残った男の子。それが今、ホグワーツの大広間に立っている。
隣で、椅子が僅かに軋んだ。
セブルスの意識が現実へ引き戻される。クレイヴンが姿勢を変えたのだ。それまで気怠そうに頬杖をついていた男が、僅かに身体を起こしている。灰色の瞳は、新入生の列へ向けられていた。誰を見ているのか。確かめるまでもなかった。ハリー・ポッター。クレイヴンもまた、あの少年を見ていた。
表情に驚きはない。
目を見開くことも。眉を動かすこともなかった。
ただ、煙草を咥えていた時と同じように、静かに見ている。
セブルスは胸の奥が強張るのを感じた。
クレイヴンは全てを知っている。予言のことをどこまで知っていたかは分からない。だが、セブルスがリリーの命を乞うたことは知っている。そして、今その息子が目の前にいる。クレイヴンの視線が、少年からセブルスへ移るのではないかと思った。あの夜と今を結びつけるように。お前が救いたかった女の息子だと――無言で告げるように。
だが、クレイヴンはセブルスを見なかった。
視線は新入生へ向けられたままだった。セブルスの存在など、初めから意識していないように。
マクゴナガルが新入生達を長卓の前へ並ばせる。
古びた四脚椅子が中央へ置かれ、その上に汚れた組分け帽子が載せられた。縫い目の一部が口のように裂ける。歌が始まった。
毎年、毎年よくもこれほど長々と歌う内容を思いつくものだと、セブルスは思う。帽子の歌へ耳を傾けながらも、意識の半分は隣へ向いていた。
クレイヴンは組分け帽子を眺めている。
懐かしんでいるようには見えない。自らもかつて、あの椅子へ座ったことがあるはずだった。だが、その記憶へ何の感慨も抱いていないかのように、退屈そうな顔で煙草の代わりに自分の指先を眺めている。
歌が終わる。大広間から拍手が起きた。
クレイヴンは拍手をしなかった。セブルスも同じだった。
マクゴナガルが羊皮紙を広げる。
新入生達の名が、順に読み上げられていった。
「アボット、ハンナ!」
金髪の少女が進み出る。
帽子が頭へ載せられ、短い沈黙の後、ハッフルパフの名が叫ばれた。
歓声。拍手。
少女は安堵した様子で卓へ向かう。
次々に名が呼ばれていく。
ボーンズ。ブート。ブロックルハースト。ブラウン。フィンチ=フレッチリー。生徒達は一人ずつ四つの寮へ振り分けられていった。
クレイヴンは初めの数人を見た後、興味を失ったらしい。長机の上に置かれた銀のナイフを手に取り、刃先へ映る蝋燭の光を眺めていた。指先で柄を転がし、刃を裏返す。その仕草に、クィレルが落ち着かない様子で何度も横目を向けている。クレイヴンは気付いているはずだった。それでも何も言わない。
やがて、マクゴナガルの声が大広間へ響いた。
「マルフォイ、ドラコ!」
スリザリンの長机がざわつく。
白金色の髪をした少年が、新入生の列から進み出た。迷いのない足取りだった。自分がどこへ入るのか、初めから知っている者の歩き方。帽子は少年の頭へ触れたか触れないかのうちに叫んだ。
「スリザリン!」
歓声が上がる。
ドラコ・マルフォイは満足そうに笑い、スリザリンの卓へ向かった。
その途中、教師席へ目を向ける。
視線は真っ直ぐ、クレイヴンへ向けられていた。セブルスはそのことに気付いた。クレイヴンも気付いたらしい。灰色の瞳が、ほんの僅かに少年へ向けられる。だが、反応はそれだけだった。
手を上げることも。笑うことも。頷くことさえない。
ドラコは一瞬だけ足を緩めたが、すぐにスリザリンの卓へ座った。その顔には、僅かな不満が浮かんでいる。何かあったのか。セブルスには分からない。だが、クレイヴンとルシウスがかつて親しかったことは知っていた。その息子と、既にどこかで接触していたのかもしれない。
考えている間にも、組分けは続いた。
「ポッター、ハリー!」
その名が呼ばれた瞬間、大広間の空気が変わった。
囁きが走る。あの子か。傷を見ろ。本当にいる。生き残った男の子。
四つの長机から注がれる視線の中、ハリー・ポッターは前へ進んだ。
緊張を隠せていない。
肩は強張り、両手は身体の脇へ不自然に添えられている。
それでも逃げ出さず、椅子へ座った。
組分け帽子が頭へ載せられる。
帽子の縁が眼鏡まで覆い隠し、少年の顔が見えなくなった。
沈黙が続く。
他の生徒より長い。大広間の誰もが、息を詰めて待っている。
セブルスもまた、帽子を見つめていた。
どこへ入る。グリフィンドールか。父親と同じように。
あるいは、別の寮か。
隣から、小さな音がした。
クレイヴンが銀のナイフを卓へ置いた。刃が皿の縁へ触れ、乾いた音を立てる。セブルスはそちらを見なかった。だが、クレイヴンが先ほどまでの無関心を失っていることは分かった。長い沈黙の後、帽子が叫ぶ。
「グリフィンドール!」
歓声が爆発した。
グリフィンドールの長机から生徒達が立ち上がり、手を叩き、名を呼ぶ。
ハリー・ポッターは帽子を脱ぐと、安堵したように息を吐いた。
そのままグリフィンドールの卓へ向かう。
途中で一度、教師席へ顔を向けた。視線はセブルスの方角を掠める。そしてその隣。クレイヴンへ止まった。少年の足が、僅かに遅くなる。
列車で見たことがあるのだろうか。
クレイヴンの方にも、少年を知っている様子があった。
だが、互いに何も言わない。
ハリーはすぐに前へ向き直り、赤毛の少年の隣へ座った。
グリフィンドールの生徒達がその肩を叩き、歓迎する。
クレイヴンはそれを見届けると、椅子の背へ再び身体を預けた。
興味を失ったように。
だが、セブルスには分かった。少なくとも、完全な無関心ではない。
その視線には、何かを確かめるような静けさがあった。
何を見た。何を考えた。問いかけたいとは思わなかった。
答えを聞くことが恐ろしかった。
最後の新入生が組分けを終える。
マクゴナガルが羊皮紙を巻き、椅子と組分け帽子を片付けた。
ダンブルドアが立ち上がる。
大広間が静まる。青い瞳が、生徒達をゆっくりと見渡した。
「歓迎しよう」
両腕を広げる。
「新入生諸君には、ホグワーツへ。上級生諸君には、再び我が校へ戻ってきたことを嬉しく思う」
いつもの挨拶だった。
セブルスは聞き流す。
禁止されている森。廊下。規則。フィルチからの伝言。毎年、内容はほとんど変わらない。今年だけ異なるのは、その後だった。
「そして、食事を始める前に、皆へ新しい教授を紹介しておこう」
大広間がざわめく。
生徒達の視線が、一斉にクレイヴンへ集まった。クレイヴンは動かない。立ち上がる気配さえない。ダンブルドアは気にする様子もなく続ける。
「空席になっておったマグル学じゃが、嬉しいことにイザーク・クレイヴン教授が教鞭を執ることになった。皆拍手!」
一拍。それから、困惑の混じった拍手が起こった。
まずはハッフルパフ。次に、グリフィンドール。レイブンクローの生徒達も続く。スリザリンの卓だけは、反応が遅れた。マグル学――その言葉を聞いた瞬間、何人かの顔へ露骨な失望が浮かぶ。純血の家に生まれた生徒達にとってマグル学は、取るに足らない科目だった。
クレイヴンの外見から、闇の魔術か、決闘術か、少なくともより危険な何かを教える人物だと期待していたのだろう。実に浅薄だった。見た目だけで相手を判断し、都合の良い役割を押し付ける。だが、セブルスも他人のことは言えなかった。クレイヴンがマグル学を教える。数週間前に聞かされた時も、未だに現実味がなかった。闇の帝王のもとで人を殺していた男が。純血主義を掲げマグルを虐殺していたような男が。今度は子供達へ、マグルについて教える。
皮肉という言葉では足りない。
それは罰なのか。贖罪なのか。
あるいは、ただ仕事として引き受けただけなのか。
クレイヴンはようやく椅子から立ち上がった。
拍手が少しだけ大きくなる。
銀髪の男は、生徒達を見渡した。
表情は変わらない。愛想の良い笑みも。歓迎へ応える仕草もない。
数秒、四つの長机へ視線を向けた後、低い声で言った。
「興味がある奴だけ来い」
それだけだった。
再び椅子へ座る。大広間に、妙な沈黙が落ちた。
ダンブルドアだけが愉快そうに笑っている。フリットウィックは目を丸くし、スプラウトは困ったような笑みを浮かべていた。
生徒達は互いの顔を見合わせる。
やがて、グリフィンドールのどこかから小さな笑い声が上がった。
それをきっかけに、拍手が疎らに続く。
セブルスは横目でクレイヴンを見た。
本人は既に紹介が終わったものとして、空の皿へ目を向けている。
十年前と変わらない。他人からどう見られるかについて、恐ろしいほど興味がない。だが、以前とは違う。かつてのクレイヴンなら、無関心の裏側には怒りがあった。今は、何も期待していないだけに見える。
ダンブルドアが両手を打ち合わせた。
「では、食事にしよう」
次の瞬間、空だった黄金の皿へ料理が現れた。
焼かれた肉。茹でた野菜。山のようなジャガイモ。パン。濃い色のグレイビーソース。大広間を香ばしい匂いが満たし、生徒達から歓声が上がる。つい先ほどまでの緊張は、食欲の前へあっけなく押し流された。
セブルスは目の前へ現れた料理を見た。
だが、食欲はなかった。銀杯には赤葡萄酒が満たされている。
それを手に取り、一口含む。
隣では、クィレルが震える手で料理を皿へ取っていた。
その向こうで、クレイヴンがパンを一切れ手に取る。ナイフを使わず、指で二つに割った。何気ない仕草だった。それでも、セブルスの目には妙に異質に映った。魔法使いの食卓へ戻ってきたというのに、クレイヴンの動作にはマグル界で過ごした十年が残っているように見えた。手を使うことを厭わない。装飾された銀器より、自分の指の方を信用している。
クレイヴンはパンを口へ運び、無言で咀嚼した。
セブルスの方は一度も見ない。まるで、本当に何もなかったように。
セブルスは銀杯を置いた。
これで良い。今夜、話す必要はない。明日も。その次の日も。授業と校務に必要なこと以外、言葉を交わす理由などない。同じ城にいようと、互いに関わらず過ごすことはできる。そう考えた。だが、クレイヴンがパンへ手を伸ばした時、その左袖が僅かに捲れた。日焼けした手首。その上に、黒い痕が覗く。闇の印。薄れてはいる。それでも消えてはいない。
セブルスの左腕が、ローブの下で疼いた。
同じ印。同じ主人へ仕えた証。
十年の歳月も、マグル界での生活も、消すことのできなかった過去。
クレイヴンは袖を直した。セブルスを見ないまま。
そして何事もなかったように、再び食事を続けた。
その夜、大広間には数百人がいた。
笑い声があり。皿の触れ合う音があり。新しい一年の始まりを祝う声があった。それでもセブルスには、自分とクレイヴンの間にだけ、十年前から続く沈黙が横たわっているように思えた。
大広間には、既に大半の生徒が集まっていた。
四つの寮を示す長机が、石造りの床を縦に貫くように並んでいる。
磨き上げられた天板には黄金の皿と銀の杯が等間隔に置かれ、その表面へ、頭上に浮かぶ無数の蝋燭の光が揺らめいていた。まだ料理は現れていない。空の皿ばかりが並ぶ卓上を前に、生徒達はこれから始まる新入生歓迎会を待ちながら、思い思いに言葉を交わしている。
天井には、雲一つない夜空が広がっていた。
魔法によって映し出された空は、城の外にある本物の夜と寸分違わぬ色をしている。深い群青の中で無数の星が瞬き、時折薄い雲がゆっくりと横切っていく。その下を蝋燭が漂い、風もないというのに炎を僅かに揺らしていた。
石壁には寮旗が垂れ下がっている。
深紅と金の獅子。緑と銀の蛇。青と青銅の鷲。黄と黒の穴熊。
古い布地へ織り込まれた紋章は、何百年もの間、同じ場所から生徒達を見下ろしてきた。壁際には甲冑が並び、その磨かれた胸当てへ蝋燭の光が鈍く映り込んでいる。広間の上部を横切る梁には幽霊達が漂い、ときおり長机をすり抜けては、近くに座っている生徒を驚かせていた。
その度に笑い声が上がる。
グリフィンドールの長机では、休暇中に起きた出来事を競うように話す声が重なっていた。クィディッチの試合。家族旅行。夏の課題を最後まで放置していた生徒が、隣の者から呆れた顔を向けられている。
ハッフルパフでは、土産らしい包みを数人で覗き込み、誰かが中身を取り出すたびに歓声が起こった。レイブンクローの卓では、早くも教科書を開いている生徒がいる。その隣では、上級生らしき少女が新しい時間割について話し、周囲の者達が面倒そうに耳を傾けていた。
スリザリンの長机も、普段と変わらない。
黒と緑のローブを纏った生徒達が、それぞれ小さな集団を作っている。声は他寮ほど大きくはない。それでも、休暇中に交わされた噂や、誰の家がどの家と関係を深めたかという話は絶えず続いていた。
セブルス・スネイプは、教職員用貴賓席の長卓の端近くに座り、その様子を黙って眺めていた。正確には、眺めているように見せていた。
生徒達の話に興味があるわけではない。どこの家が誰を招いたか、誰が新しい箒を手に入れたかなど、セブルスにとってはどうでも良いことだった。休暇を終えた生徒達は、毎年同じような話をする。そして数日も経てば宿題に追われ、授業を嫌い、廊下を走り回り、教師の目を盗んで下らない悪戯を始める。
変わることのない光景だった。
少なくとも、表面上は。
セブルスは手元の銀杯へ視線を落とした。
杯にはまだ何も注がれていない。磨かれた内側へ、蝋燭の炎だけが歪んで映っている。長い指を脚部へ添えたまま、彼は僅かに眉を寄せた。
左隣では、クィリナス・クィレルが落ち着かない様子で何度も紫色のターバンへ触れていた。以前よりも更に青白くなった顔には薄い汗が浮かび、誰かが近くで大きな声を上げるたびに肩を震わせている。
その向こうでは、フィリウス・フリットウィックが隣席の教授と楽しげに言葉を交わしていた。小さな身体を分厚い座布団へ沈め、今年入学する生徒達について何か話している。
ミネルバ・マクゴナガルの席は空いていた。
新入生を迎えに行っているのだろう。
アルバス・ダンブルドアは中央の席に着き、長い指を組んで静かに生徒達を見渡していた。半月型の眼鏡の奥で、青い瞳だけが蝋燭の光を受けて微かに輝いている。その表情には、毎年変わらぬ穏やかな笑みが浮かんでいた。
セブルスは一瞬だけ、そちらへ目を向けた。
ダンブルドアは何も言わない。当然だった。新入生歓迎会が始まる前から、わざわざ話しかける理由などない。まして、数週間前に校長室で交わした話をこの場で蒸し返すはずもなかった。
それでも、セブルスにはあの老人の沈黙が妙に気に障った。
何かを知っている。そう感じさせる沈黙だった。ダンブルドアはいつもそうだった。重要なことほど直前まで語らず、相手が自ら気付くことを期待する。あるいは、気付いた時にどう反応するかを見ている。本人は信頼とでも呼ぶのだろうが、セブルスに言わせれば、悪趣味な観察に過ぎなかった。
視線を戻す。
大広間のざわめきは、徐々に大きくなっていた。
新入生の到着を待ちきれない生徒達が、何度も正面の扉を振り返っている。
上級生の中には、組分けの儀式を懐かしむように笑っている者もいた。自分がどれほど取り乱していたかを棚へ上げ、これから入ってくる十一歳の子供達を品定めするつもりらしい。実にくだらない。
セブルスは椅子の背へ僅かに身体を預けた。
黒いローブの裾が床へ落ちる。両腕を胸の前で組み、長机の向こうへ冷たい視線を投げた。その視線に気付いたのか、スリザリンの卓で騒いでいた数人の生徒が声を落とす。だが、それも長くは続かなかった。別の卓から笑い声が上がり、すぐに広間全体の喧騒へ飲み込まれていく。
セブルスは目を細めた。
いつもの九月だった。浮かれた生徒達。空の皿。新入生を待つ時間。天井へ映る夜空。古い城へ戻ってきた者達が作り出す、落ち着きのない熱気。
何一つ変わっていない。
そのはずだった。背後で、扉の軋む音がした。正面ではない。新入生が入ってくる大扉とは別に、教職員用の長卓の背後へ設けられた小さな扉だった。
古い蝶番が、低く長い音を立てる。ただそれだけの音だった。
普段なら、気に留める者などほとんどいない。教師が一人遅れて入ってきたか、家畜小屋から戻ったハグリッドが姿を見せたか、その程度のことだ。
だが、その時は違った。
スリザリンの長机に座っていた一人の生徒が、最初に背後を見た。
続いて、その隣にいた者が顔を上げる。
視線は波のように広がっていった。端から端へ。ひとつの卓から別の卓へ。あれほど絶え間なく響いていた声が、少しずつ小さくなっていく。
笑い声が途切れる。
椅子を引く音だけが、妙に大きく響いた。誰かが途中まで話していた言葉を飲み込む。ほんの数秒前まで広間を満たしていたざわめきが、不自然なほど急速に失われていった。完全な静寂ではない。遠くで誰かが囁く声。杯が卓へ触れる小さな音。宙に浮かぶ蝋燭が燃える微かな気配。それでも、全員の意識が一箇所へ向けられていることは分かった。
セブルスは座ったまま、僅かに眉を寄せた。
何事かと考えるより先に、背後から足音が聞こえた。
革靴が石床を打つ音だった。
一歩。また一歩。一定の間隔を保ち、急ぐ様子もなく近づいてくる。
ホグワーツの教師の大半は、革靴など履かない。少なくとも、ローブの下からその音を明確に響かせて歩く者はいなかった。
セブルスの指先が、組んだ腕の下で僅かに動いた。
理由は分からない。ただ、その足音を聞いた瞬間、胸の奥に古い違和感が生まれた。遠い記憶へ触れた時に似ていた。忘れたはずの匂い。二度と聞くことはないと思っていた声。突然脳裏へ浮かぶ情景。
革靴の音が止まる。
セブルスはゆっくりと振り返った。
最初に目へ入ったのは、黒だった。
魔法使いのローブとは異なる、身体の線に沿って仕立てられた黒いスーツ。シャツの襟元には、同じく黒いネクタイが緩く結ばれている。
次に、銀色の髪が見えた。後方へ撫でつけられた髪は、蝋燭の光を受けて鈍く輝いている。かつてより僅かに長くなっていたが、その色も、癖も、記憶の中とほとんど変わっていない。頬には傷があった。皮膚を斜めに走る古い痕。灰色の瞳が、口端に咥えられた煙草の煙越しに大広間を静かに見渡している。
その顔を認識した瞬間、セブルスの呼吸が止まった。
音もなく。ほんの一拍だけ。
心臓が胸の奥で強く脈打ち、その衝撃が肋骨の内側へ響いた。
驚きがなかったわけではない。数週間前、ダンブルドアは確かにその名を口にしていた。十年もの間、魔法界から姿を消していた男を、マグル学の教授としてホグワーツへ迎え入れたいのだと。当然、セブルスは反対した。あのクレイヴンが教師に適した人間ではないという理由だけではない。彼が再び魔法界へ戻るとは思えなかったからだ。
十年前、何の説明も残さず姿を消した。死喰い人達が裁判に掛けられ、自らの過去を隠すために奔走し、あるいは、互いの名を売って罪を免れようとしていた時期にも、クレイヴンは一度として姿を見せなかった。
ダンブルドアからマグル界で暮らしていると聞いたとき、魔法を捨てたわけではない。だが、戻るつもりもないのだと結論付けていた。ダンブルドアが何通手紙を送ろうと、返事など寄越さないだろう。仮に直接会いに行ったとしても、既に居場所があるクレイヴンに追い返されるに決まっていると。
そう考えていた。否。そう考えたかったのかもしれない。
胸の奥に沈んでいた嫌な予感が、ようやく明確な形を取る。
ダンブルドアは、クレイヴンが来るとは一言も告げなかった。
返事があったとも。招きを受け入れたとも。ただ、何も言わなかった。あのダンブルドアの沈黙を、セブルスは何度も目にしてきた。言葉にしなくとも、既に物事が自分の望む方向へ動いている時、ダンブルドアは決まってあの穏やかな表情を浮かべる。嫌な予感は的中していた。
十年もの間、魔法界へ背を向けていた男が。
マグルの衣服を身に纏い、マグルの煙草を咥えたまま。
アルバス・ダンブルドアの招きに応じて、ホグワーツへ戻ってきた。
セブルスは椅子へ座ったまま、クレイヴンを見上げていた。
以前とは違って見えた。日に焼けた皮膚。厚みを増した肩。スーツの布越しにも分かる、労働によって作られた肉体。かつてのクレイヴンも華奢ではなかった。だが、今の身体つきには魔法使い特有の細さがない。杖を振るのではなく、自らの手で重い物を持ち、身体を使って働いてきた人間の輪郭だった。
十年という時間が、そこにだけ刻まれている。
顔立ちはほとんど変わらない。灰色の瞳に浮かぶ倦んだような表情も。他人の内側を見透かしているような、静かな視線も。何も変わっていない。
そう思った瞬間、古い記憶が不意に蘇った。
暗い部屋だった。窓は閉ざされ、燭台の青白い炎だけが壁へ細長い影を落としていた。息をすることすら許されないような沈黙。その中央に、あの男がいた。闇の帝王。セブルスはその前へ膝をついていた。
床へ触れた膝の冷たさまで、今も覚えている。
声が震えないように努めていた。
ポッターは殺しても構わない。
子供も。だが、女だけは。リリーだけは助けてほしい。
それがどれほど醜悪な願いであるか、理解していなかったわけではない。夫と子供が殺されても、自分が望む女だけが生き残ればよい。愛と呼ぶには利己的で、忠誠と呼ぶにはあまりにも浅ましい懇願だった。
それでも、セブルスは頭を垂れた。
縋った。頼み込んだ。
そして、その場にはクレイヴンがいた。
壁際に立ち、何も言わず見ていた。止めもしなかった。嘲笑もしなかった。軽蔑を示すことさえなかった。ただ、見ていた。それが何より耐え難かった。セブルスが自らの尊厳を投げ捨て、一人の女の命を乞う姿を。夫と息子を見殺しにすることさえ厭わず、彼女だけを欲した姿を。クレイヴンは最初から最後まで見ていた。その記憶が、喉の奥へ冷たい指を差し込んだ。
セブルスの唇が僅かに引き結ばれる。
何を言えばよい。久しい、とでも。ホグワーツへようこそ、とでも。あるいは何故戻ったと問うのか。どの言葉も口へ出す前に腐っていくようだった。
クレイヴンの灰色の瞳が、大広間を巡る。
グリフィンドール。ハッフルパフ。レイブンクロー。スリザリン。四つの長机へ向けられていた視線が、やがて教職員用の長卓へ移った。教師達の顔を順に辿っていく。フリットウィック。スプラウト。クィレル。そして、セブルス。
視線が重なった。
セブルスの背筋が、意識するより先に強張る。
イザークも足を止めた。
二人の間には、大広間を満たす無数の視線があった。
上級生達は、見知らぬ男が何者なのかと囁き合っている。教師達もまた、ダンブルドアとクレイヴンを交互に見ていた。だが、セブルスには何も聞こえなかった。クレイヴンの視線だけが、十年前と現在を真っ直ぐ繋いでいる。
数秒。ほんの数秒だった。
クレイヴンの表情には、何の変化もない。
驚きも。怒りも。懐かしさも。軽蔑さえ浮かんでいなかった。ただ、セブルスを見ている。その無表情が、かえって息苦しかった。
煙草の先端が赤く灯る。
クレイヴンはゆっくりと煙を吸い込んだ。頬が僅かに窄まり、灰色の煙が口元へ滞留する。それから、何も言わないまま吐き出した。細い煙が二人の視線の間へ流れ込む。蝋燭の光を薄く曇らせながら上昇し、やがて高い天井へ向かう前に形を失った。挨拶はなかった。問いも。非難も。まるで、セブルスへ掛ける言葉など最初から存在しないかのようだった。
胸の奥に、鈍い痛みが生まれる。煙草の煙を向けられたことに腹を立てたわけではない。無視されたとも思わなかった。クレイヴンが何を考えているのか分からない。それがセブルスには、耐え難かった。
あの夜のことを覚えているのか。
覚えているに決まっている。
ならば、今の自分をどう見ている。
闇の帝王へ女の命を乞い、その願いが聞き届けられなかった途端、ダンブルドアの庇護へ逃げ込んだ男。かつての主人を裏切りながら、その印を左腕へ残したまま、今では教師の顔をして子供達の前へ座っている男。クレイヴンの目には、そう映っているのか。セブルスには問えなかった。
「来てくれたか、イザーク」
中央から、穏やかな声が響いた。
ダンブルドアだった。
張り詰めていた空気が、その一言によって僅かに緩む。
生徒達の間から再び囁きが起こった。
誰なのか。新しい教師なのか。なぜローブを着ていない。なぜ大広間で煙草を吸っている。断片的な声が、長机の端から端へ伝わっていく。
クレイヴンはようやくセブルスから視線を外した。
煙草を指に挟み、ダンブルドアへ顔を向ける。
「見りゃ分かるだろ」
低く掠れた声だった。十年前と変わらない。
セブルスの指先が、ローブの下で僅かに強張る。
ダンブルドアは、その無愛想な返答にも表情を変えなかった。
「君が列車へ乗り遅れていないか、少々心配していたのでね」
「ガキじゃねぇんだ。一人で列車くらい乗れる」
「それは失礼した」
ダンブルドアの青い瞳が愉快そうに細められる。
クレイヴンは面倒そうに煙を吐き、手にしていた灰皿に押し潰した。
その仕草を見ながら、セブルスはようやく浅く息を吸った。
肺へ空気が入る。
だが、胸の奥に生じた圧迫感は消えなかった。
ダンブルドアが長卓の一席を示す。
「君の席は用意しておる」
セブルスの視線が、その手の先を追った。
空いているのは、クィレルを挟んだ向こう側だった。近すぎる。そう思った自分に気付き、セブルスは内心で舌打ちした。
大広間の端と端であろうと、同じ城にいることには変わりない。
授業が始まれば、廊下でも、職員室でも、何度となく顔を合わせることになる。逃れられるはずがない。それでも、今この場で手を伸ばせば届くほどの距離へ座られることには、別の意味があった。
クレイヴンは示された席を一瞥した。
次いで、その隣にいるクィレルへ視線を向ける。クィレルは目が合っただけで肩を跳ねさせ、慌てて杯へ視線を落とした。クレイヴンの眉が僅かに動く。何かを感じ取ったのか。あるいは、単にその怯え方を不審に思っただけか。
セブルスには分からなかった。
クレイヴンはそれ以上クィレルを見ようともせず、長卓へ向かって歩き出した。革靴が石床を打つ。一歩。また一歩。その音が近づくたび、セブルスの脳裏には、忘れたはずの夜が蘇った。
膝をついた自分。冷たい床。笑う闇の帝王。壁際に立つ銀髪の男。
何も言わず、全てを見ていた灰色の瞳。
セブルスは手元の銀杯へ目を落とした。
磨かれた内側には、歪んだ自分の顔が映っている。
顔を上げることができなかった。
革靴の音が、すぐ近くで止まった。
椅子が床を擦る。セブルスは顔を上げなかった。磨かれた銀杯の内側へ歪んで映る自分の顔を見たまま、その向こうでクレイヴンが席へ着く気配だけを聞いていた。布地の擦れる音。灰皿が卓上へ置かれる、小さな金属音。
それだけだった。
挨拶はない。セブルスへ向けられる言葉も、視線もなかった。クレイヴンは最初から、そこにセブルスなどいないかのように椅子へ腰を下ろした。
その方が良い。今は何も話すべきではない。
周囲には生徒がいる。教師達もいる。十年前のことを知る者は少ないとはいえ、二人の間に流れる僅かな変化を、ダンブルドアが見逃すはずもなかった。
だから、これで良い。
そう考えながらも、胸の奥に生まれた鈍い感覚は消えなかった。
責められることを恐れていたはずだった。
あの夜のことを持ち出されるのではないかと。薄い嘲笑を向けられるのではないかと。それにもかかわらず、何も言われないことが、言葉を向けられるよりも重く感じられた。
クレイヴンにとっては、既に過ぎたことなのかもしれない。
記憶へ留めるほどの価値さえない出来事。あるいは、セブルス自身が、言葉を掛けるに値しない人間になっただけなのか。
考えるだけ無駄だった。クレイヴンの沈黙にどのような意味があるのかなど、本人に尋ねなければ分からない。そして、尋ねるつもりはなかった。
セブルスは銀杯から目を離し、正面へ視線を戻した。
大広間では、まだ生徒達の囁きが続いている。
新しく現れた男が誰なのか。なぜマグルの衣服を着ているのか。どの科目を担当するのか。それぞれが憶測を交わし、ときおり教師席へ盗み見るような視線を向けている。特にスリザリンの長机から注がれる視線は露骨だった。幾人かの上級生は、クレイヴンの顔を知っているようには見えない。それでも、彼らの親の中には、その名を記憶している者がいるかもしれなかった。
かつて闇の帝王の傍らにいた男。忠実な死喰い人の一人。
そして、戦争が終わるより前に姿を消した裏切り者。
どのような形で語られているかは分からない。
死んだと言われているのか。逃げたと嘲られているのか。
あるいは、最初から存在しなかったことにされているのか。純血の家系は、都合の悪い過去を忘れることに長けている。セブルスも、その恩恵を受けた一人だった。自分だけは違うと考えるほど、愚かではない。
「随分と注目を集めておるようじゃな」
ダンブルドアが、楽しげに言った。
声は大きくない。教職員用の長卓へ座っている者にだけ届く程度だった。
クレイヴンは長机へ片肘をつき、頬杖をつくようにして生徒達を眺めていた。視線を向けられていることなど、初めから気にも留めていないらしい。
「煙草咥えて入ってきた奴がいりゃ、見るだろ」
「それだけが理由ではないと思うがね」
「なら、そいつらに訊け」
素っ気なく答える。
ダンブルドアは小さく笑った。
クレイヴンの声を聞くたび、セブルスの意識は否応なくそちらへ引かれた。
聞かないようにしようとするほど、言葉の一つ一つが明瞭に耳へ届く。
十年前と同じ声。同じ話し方。
だが以前よりもどこか乾いていた。鋭さが失われたわけではない。むしろ、余計なものが削ぎ落とされている。
かつてのクレイヴンには、怒りがあった。
魔法界の古い秩序へ向けられた怒り。血筋だけで人間の価値が決められることへの嫌悪。無能な者が名家に生まれたというだけで重用され、実力のある者が生まれによって踏みつけられることへの憤り。その怒りが、彼を闇の帝王のもとへ導いた。少なくとも、初めはそうだった。
今の声には、それがない。
何かを変えようとする者の熱ではなく、変わらないものを既に見限った人間の響きだった。十年という時間は、肉体だけに刻まれているわけではない。
セブルスがそう考えた時、正面の大扉が開いた。
大広間に響いていた囁きが、再び弱まる。ミネルバ・マクゴナガルが入ってきた。深緑色のローブを纏い、背筋を真っ直ぐ伸ばしている。その後ろには、黒いローブ姿の新入生達が一列になって続いていた。
それまでクレイヴンへ集まっていた生徒達の視線が、一斉に新入生へ向けられる。セブルスは僅かに息を吐いた。救われたように感じたことへ、すぐに不快感を覚える。たかが一人の男が近くへ座っただけだ。恐れる理由などない。今の自分は死喰い人ではない。闇の帝王の前へ膝をつく必要もない。あの時とは違う。そう言い聞かせながら、セブルスは新入生達を見た。
皆、同じような顔をしている。
緊張。不安。好奇心。今にも泣き出しそうな者もいれば、平静を装おうとして失敗している者もいた。教師席へ目を向ける余裕のある者は少なく、四つの長机へ座る上級生達の視線を浴びながら、覚束ない足取りで前へ進んでいく。
その列の中に、赤毛の少年がいた。
ウィーズリー家の子供だろう。顔立ちに見覚えがある。兄達と同じ、そばかすの浮いた白い顔。緊張した様子で隣を歩く少年へ、何か囁いていた。
その隣にいる少年を見た瞬間、セブルスの視線が止まった。
小柄だった。細い肩。ひどく痩せた身体。乱れた黒髪。丸い眼鏡。
そして、その奥にある緑色の瞳。
喉の奥が狭まる。
リリー。一瞬、そう見えた。
顔立ちは違う。髪も。表情も。眼鏡の奥から教師席を見上げる顔は、憎むべき男によく似ていた。ジェームズ・ポッター。傲慢で。愚かで。自分が正しいと信じて疑わなかった男そのものだった。
だが、瞳だけは違った。
リリーの目だった。十一年前と何一つ変わらない、鮮やかな緑色。
セブルスの指が、無意識に銀杯の脚を掴む。
力を入れすぎたのか、金属が僅かに軋んだ。
少年は教師席を見上げたまま、ゆっくりと視線を巡らせている。
ハグリッド。ダンブルドア。マクゴナガル。フリットウィック。クレイヴン。クィレル――そして、セブルス。
視線が重なった。少年の表情に、僅かな戸惑いが浮かぶ。
その額を、乱れた前髪が覆っていた。風か、動いた拍子か。髪の隙間から、稲妻の形をした傷痕が覗く。セブルスの胃の奥が冷たくなる。予言。闇の帝王。リリーの死。十一年もの間、押し込めてきたものが、一度に蘇る。
少年はすぐに視線を逸らした。
だが、セブルスは目を離すことができなかった。
ポッターの息子。リリーが命を賭けて守った子供。
自分が闇の帝王へ伝えた予言によって、殺されかけた少年。
生き残った男の子。それが今、ホグワーツの大広間に立っている。
隣で、椅子が僅かに軋んだ。
セブルスの意識が現実へ引き戻される。クレイヴンが姿勢を変えたのだ。それまで気怠そうに頬杖をついていた男が、僅かに身体を起こしている。灰色の瞳は、新入生の列へ向けられていた。誰を見ているのか。確かめるまでもなかった。ハリー・ポッター。クレイヴンもまた、あの少年を見ていた。
表情に驚きはない。
目を見開くことも。眉を動かすこともなかった。
ただ、煙草を咥えていた時と同じように、静かに見ている。
セブルスは胸の奥が強張るのを感じた。
クレイヴンは全てを知っている。予言のことをどこまで知っていたかは分からない。だが、セブルスがリリーの命を乞うたことは知っている。そして、今その息子が目の前にいる。クレイヴンの視線が、少年からセブルスへ移るのではないかと思った。あの夜と今を結びつけるように。お前が救いたかった女の息子だと――無言で告げるように。
だが、クレイヴンはセブルスを見なかった。
視線は新入生へ向けられたままだった。セブルスの存在など、初めから意識していないように。
マクゴナガルが新入生達を長卓の前へ並ばせる。
古びた四脚椅子が中央へ置かれ、その上に汚れた組分け帽子が載せられた。縫い目の一部が口のように裂ける。歌が始まった。
毎年、毎年よくもこれほど長々と歌う内容を思いつくものだと、セブルスは思う。帽子の歌へ耳を傾けながらも、意識の半分は隣へ向いていた。
クレイヴンは組分け帽子を眺めている。
懐かしんでいるようには見えない。自らもかつて、あの椅子へ座ったことがあるはずだった。だが、その記憶へ何の感慨も抱いていないかのように、退屈そうな顔で煙草の代わりに自分の指先を眺めている。
歌が終わる。大広間から拍手が起きた。
クレイヴンは拍手をしなかった。セブルスも同じだった。
マクゴナガルが羊皮紙を広げる。
新入生達の名が、順に読み上げられていった。
「アボット、ハンナ!」
金髪の少女が進み出る。
帽子が頭へ載せられ、短い沈黙の後、ハッフルパフの名が叫ばれた。
歓声。拍手。
少女は安堵した様子で卓へ向かう。
次々に名が呼ばれていく。
ボーンズ。ブート。ブロックルハースト。ブラウン。フィンチ=フレッチリー。生徒達は一人ずつ四つの寮へ振り分けられていった。
クレイヴンは初めの数人を見た後、興味を失ったらしい。長机の上に置かれた銀のナイフを手に取り、刃先へ映る蝋燭の光を眺めていた。指先で柄を転がし、刃を裏返す。その仕草に、クィレルが落ち着かない様子で何度も横目を向けている。クレイヴンは気付いているはずだった。それでも何も言わない。
やがて、マクゴナガルの声が大広間へ響いた。
「マルフォイ、ドラコ!」
スリザリンの長机がざわつく。
白金色の髪をした少年が、新入生の列から進み出た。迷いのない足取りだった。自分がどこへ入るのか、初めから知っている者の歩き方。帽子は少年の頭へ触れたか触れないかのうちに叫んだ。
「スリザリン!」
歓声が上がる。
ドラコ・マルフォイは満足そうに笑い、スリザリンの卓へ向かった。
その途中、教師席へ目を向ける。
視線は真っ直ぐ、クレイヴンへ向けられていた。セブルスはそのことに気付いた。クレイヴンも気付いたらしい。灰色の瞳が、ほんの僅かに少年へ向けられる。だが、反応はそれだけだった。
手を上げることも。笑うことも。頷くことさえない。
ドラコは一瞬だけ足を緩めたが、すぐにスリザリンの卓へ座った。その顔には、僅かな不満が浮かんでいる。何かあったのか。セブルスには分からない。だが、クレイヴンとルシウスがかつて親しかったことは知っていた。その息子と、既にどこかで接触していたのかもしれない。
考えている間にも、組分けは続いた。
「ポッター、ハリー!」
その名が呼ばれた瞬間、大広間の空気が変わった。
囁きが走る。あの子か。傷を見ろ。本当にいる。生き残った男の子。
四つの長机から注がれる視線の中、ハリー・ポッターは前へ進んだ。
緊張を隠せていない。
肩は強張り、両手は身体の脇へ不自然に添えられている。
それでも逃げ出さず、椅子へ座った。
組分け帽子が頭へ載せられる。
帽子の縁が眼鏡まで覆い隠し、少年の顔が見えなくなった。
沈黙が続く。
他の生徒より長い。大広間の誰もが、息を詰めて待っている。
セブルスもまた、帽子を見つめていた。
どこへ入る。グリフィンドールか。父親と同じように。
あるいは、別の寮か。
隣から、小さな音がした。
クレイヴンが銀のナイフを卓へ置いた。刃が皿の縁へ触れ、乾いた音を立てる。セブルスはそちらを見なかった。だが、クレイヴンが先ほどまでの無関心を失っていることは分かった。長い沈黙の後、帽子が叫ぶ。
「グリフィンドール!」
歓声が爆発した。
グリフィンドールの長机から生徒達が立ち上がり、手を叩き、名を呼ぶ。
ハリー・ポッターは帽子を脱ぐと、安堵したように息を吐いた。
そのままグリフィンドールの卓へ向かう。
途中で一度、教師席へ顔を向けた。視線はセブルスの方角を掠める。そしてその隣。クレイヴンへ止まった。少年の足が、僅かに遅くなる。
列車で見たことがあるのだろうか。
クレイヴンの方にも、少年を知っている様子があった。
だが、互いに何も言わない。
ハリーはすぐに前へ向き直り、赤毛の少年の隣へ座った。
グリフィンドールの生徒達がその肩を叩き、歓迎する。
クレイヴンはそれを見届けると、椅子の背へ再び身体を預けた。
興味を失ったように。
だが、セブルスには分かった。少なくとも、完全な無関心ではない。
その視線には、何かを確かめるような静けさがあった。
何を見た。何を考えた。問いかけたいとは思わなかった。
答えを聞くことが恐ろしかった。
最後の新入生が組分けを終える。
マクゴナガルが羊皮紙を巻き、椅子と組分け帽子を片付けた。
ダンブルドアが立ち上がる。
大広間が静まる。青い瞳が、生徒達をゆっくりと見渡した。
「歓迎しよう」
両腕を広げる。
「新入生諸君には、ホグワーツへ。上級生諸君には、再び我が校へ戻ってきたことを嬉しく思う」
いつもの挨拶だった。
セブルスは聞き流す。
禁止されている森。廊下。規則。フィルチからの伝言。毎年、内容はほとんど変わらない。今年だけ異なるのは、その後だった。
「そして、食事を始める前に、皆へ新しい教授を紹介しておこう」
大広間がざわめく。
生徒達の視線が、一斉にクレイヴンへ集まった。クレイヴンは動かない。立ち上がる気配さえない。ダンブルドアは気にする様子もなく続ける。
「空席になっておったマグル学じゃが、嬉しいことにイザーク・クレイヴン教授が教鞭を執ることになった。皆拍手!」
一拍。それから、困惑の混じった拍手が起こった。
まずはハッフルパフ。次に、グリフィンドール。レイブンクローの生徒達も続く。スリザリンの卓だけは、反応が遅れた。マグル学――その言葉を聞いた瞬間、何人かの顔へ露骨な失望が浮かぶ。純血の家に生まれた生徒達にとってマグル学は、取るに足らない科目だった。
クレイヴンの外見から、闇の魔術か、決闘術か、少なくともより危険な何かを教える人物だと期待していたのだろう。実に浅薄だった。見た目だけで相手を判断し、都合の良い役割を押し付ける。だが、セブルスも他人のことは言えなかった。クレイヴンがマグル学を教える。数週間前に聞かされた時も、未だに現実味がなかった。闇の帝王のもとで人を殺していた男が。純血主義を掲げマグルを虐殺していたような男が。今度は子供達へ、マグルについて教える。
皮肉という言葉では足りない。
それは罰なのか。贖罪なのか。
あるいは、ただ仕事として引き受けただけなのか。
クレイヴンはようやく椅子から立ち上がった。
拍手が少しだけ大きくなる。
銀髪の男は、生徒達を見渡した。
表情は変わらない。愛想の良い笑みも。歓迎へ応える仕草もない。
数秒、四つの長机へ視線を向けた後、低い声で言った。
「興味がある奴だけ来い」
それだけだった。
再び椅子へ座る。大広間に、妙な沈黙が落ちた。
ダンブルドアだけが愉快そうに笑っている。フリットウィックは目を丸くし、スプラウトは困ったような笑みを浮かべていた。
生徒達は互いの顔を見合わせる。
やがて、グリフィンドールのどこかから小さな笑い声が上がった。
それをきっかけに、拍手が疎らに続く。
セブルスは横目でクレイヴンを見た。
本人は既に紹介が終わったものとして、空の皿へ目を向けている。
十年前と変わらない。他人からどう見られるかについて、恐ろしいほど興味がない。だが、以前とは違う。かつてのクレイヴンなら、無関心の裏側には怒りがあった。今は、何も期待していないだけに見える。
ダンブルドアが両手を打ち合わせた。
「では、食事にしよう」
次の瞬間、空だった黄金の皿へ料理が現れた。
焼かれた肉。茹でた野菜。山のようなジャガイモ。パン。濃い色のグレイビーソース。大広間を香ばしい匂いが満たし、生徒達から歓声が上がる。つい先ほどまでの緊張は、食欲の前へあっけなく押し流された。
セブルスは目の前へ現れた料理を見た。
だが、食欲はなかった。銀杯には赤葡萄酒が満たされている。
それを手に取り、一口含む。
隣では、クィレルが震える手で料理を皿へ取っていた。
その向こうで、クレイヴンがパンを一切れ手に取る。ナイフを使わず、指で二つに割った。何気ない仕草だった。それでも、セブルスの目には妙に異質に映った。魔法使いの食卓へ戻ってきたというのに、クレイヴンの動作にはマグル界で過ごした十年が残っているように見えた。手を使うことを厭わない。装飾された銀器より、自分の指の方を信用している。
クレイヴンはパンを口へ運び、無言で咀嚼した。
セブルスの方は一度も見ない。まるで、本当に何もなかったように。
セブルスは銀杯を置いた。
これで良い。今夜、話す必要はない。明日も。その次の日も。授業と校務に必要なこと以外、言葉を交わす理由などない。同じ城にいようと、互いに関わらず過ごすことはできる。そう考えた。だが、クレイヴンがパンへ手を伸ばした時、その左袖が僅かに捲れた。日焼けした手首。その上に、黒い痕が覗く。闇の印。薄れてはいる。それでも消えてはいない。
セブルスの左腕が、ローブの下で疼いた。
同じ印。同じ主人へ仕えた証。
十年の歳月も、マグル界での生活も、消すことのできなかった過去。
クレイヴンは袖を直した。セブルスを見ないまま。
そして何事もなかったように、再び食事を続けた。
その夜、大広間には数百人がいた。
笑い声があり。皿の触れ合う音があり。新しい一年の始まりを祝う声があった。それでもセブルスには、自分とクレイヴンの間にだけ、十年前から続く沈黙が横たわっているように思えた。