賢者の石編

/* 016 - 境界を越える朝


 夜明け前の街は、まだ眠っていた。薄く雲のかかった空は群青色を残し、東の空だけが僅かに白み始めている。街灯は消えず、人気のない道路を橙色に照らしていた。遠くから新聞配達のバイクが近付き、アパートの前を通り過ぎていく。やがて、その音も静けさの中へ溶けていった。

 イザークは目を開ける。
 目覚まし時計が鳴るより早かった。いつものことだった。現場仕事を始めてから十年間、一度として寝坊したことはない。身体は時刻を覚えている。休日であろうと、雨の日であろうと、同じ時間になれば自然と目が覚めた。

 寝台から起き上がる。
 部屋は静かだった。昨夜、机へ並べたままの金槌と杖が、窓から差し込む淡い朝の光を受けている。イザークはそれをしばらく眺めた。

 どちらも、自分の人生を支えてきた道具だった。
 一方は、人を殺すために。一方は、家を造るために。
 どちらも、今日から再び持ち歩く。

 イザークは立ち上がった。
 流し台で顔を洗う。冷たい水が頬を打つ。鏡へ目を向けると、銀髪を後ろへ流した男が、無言でこちらを見返していた。灰色の瞳。それを割るように走る古い傷痕。十年前と変わらない顔だった。だが、身体は違う。肩は広くなり、腕には土木仕事で鍛えられた厚みがある。掌には、鉄筋を運び、木材を担ぎ、工具を握り続けてきた硬い皮が幾重にも重なっていた。

 鏡から目を逸らす。
 イザークは部屋の隅へ掛けてあったスーツを手に取った。黒いシャツに、黒いスラックス、そして黒いジャケット。余計な装飾はない。十年前、死喰い人だった頃から変わらない服装だった。ハンガーから外す。長い間袖を通していなかったはずだが、皺一つない。昨夜のうちに手入れを済ませてある。癖だった。着る予定がなくとも、季節が変わるたびに風を通し、布を払う。もう必要になることはないと思いながら、それだけは止められなかった。

 シャツへ腕を通す。袖が肌を滑る感触は、作業着とはまるで違う。厚手の生地が腕へ纏わり付くこともなければ、汗を吸い込んだ綿特有の重さもない。軽い。軽すぎた。ボタンを一つずつ留める。指先は迷わない。十年という歳月は思ったほど、多くを忘れさせてはくれなかった。

 ネクタイを首へ回す。鏡を見ずとも結べる。
 一度輪を作り、太い方を折り返し、結び目を締める。喉元へ収まった黒い結び目を指先で僅かに整え、その上からジャケットを羽織った。布地が肩へ落ち着く。その重みだけは、昔と変わらなかった。

 イザークは鏡の中の自分を見つめる。懐かしいとは思わない。戻ってきたとも思わない。ただ、柄にもなく窮屈だなとだけ思った。喉元へ指を差し込み、ネクタイをほんの僅かに緩める。その方が自分らしかった。

 視線を机へ向ける。
 金槌と杖が、朝の光を浴びながら静かに並んでいる。

 イザークは煙草を一本取り出した。
 ライターを鳴らす。小さな炎が揺れ、紫煙が細く立ち上る。一口吸い込むと肺の奥へ熱が落ちていった。ゆっくりと煙を吐き出す。部屋の中を漂う白い煙は、窓から差し込む朝日に照らされ、淡く輪郭を浮かび上がらせていた。

 煙が消えるまで待ってから、イザークは煙草を灰皿へ押し付ける。
 イザークは静かに鞄を引き寄せた。

 使い込まれたキャンバス地の旅行鞄だった。角は擦り切れ、革の持ち手には幾重もの皺が刻まれている。十年前、魔法界を去る時に持っていた物ではない。現場仕事を始めてから買った、ごくありふれた鞄だった。

 口を開く。替えのシャツを二枚。下着を数着。財布。煙草を一箱。予備のライター。歯ブラシ。必要な物だけを、一つずつ確かめながら収めていく。荷物は驚くほど少なかった。十年も暮らした部屋だというのに、持ち出したい物はほとんどない。机の引き出しを開ける。中には古びた手帳と、何本かのボールペン。それから建材店の領収書が束になって輪ゴムで留められていた。

 どれも置いていく。
 必要になれば、また戻ってくればいい。そう思えた。

 引き出しを閉じると、部屋は再び静寂を取り戻した。
 イザークの視線が、壁際へ置かれた工具箱へ移る。蓋には細かな傷が幾つも刻まれていた。金属製の留め具は塗装が剥げ、銀色の地肌を覗かせている。毎日開き、毎日閉じた。十年間、その繰り返しだった。

 近付き、留め具へ指を掛ける。
 僅かな金属音を立てて蓋が開いた。中には墨壺、差し金、水平器、釘袋。仕事で使う道具が几帳面に並んでいる。どれも持ってはいかない。

 一年だけだ。そのつもりでいる。
 蓋を閉じる。留め具が噛み合う乾いた音が、小さく部屋へ響いた。

 今度は机へ歩み寄る。
 木箱へ納められた金槌を両手で持ち上げた。昨日、若い連中から渡された餞別だった。新品ではない。柄には無数の擦り傷があり、頭には打痕が残っている。だが、そのどれもが十年間という時間より重かった。

 柄へ視線を落とす。刻まれた二文字。
 思わず口元が僅かに緩む。笑ったというほどではない。
 それでも、昨夜よりは自然な表情だった。

 木箱ごと鞄へ収める。隙間へ衣類を詰め、動かないよう押さえた。
 最後に残ったのは、一本の杖だった。黒檀の木肌は朝の光を鈍く映し、ドラゴンの心臓の琴線を宿した芯は、その内側へ何事もなかったかのように眠っている。十年前なら、外出する時に杖を持つことなど意識もしなかった。服を着るのと同じだった。今は違う。その一本が、ひどく異物に思えた。

 イザークは杖を手に取る。重さを確かめるように一度だけ握り直し、ゆっくりとジャケットの内側へ差し込んだ。脇腹へ沿う感触が戻ってくる。居心地が悪い。それなのに、身体だけはその収まりを覚えていた。

 鞄の口を閉じる。
 金具を留める乾いた音が、静まり返った部屋へ小さく響いた。

 準備は終わった。
 そう思っても、すぐには足が動かなかった。

 鞄の脇へ立ったまま、イザークは静かに部屋を見渡す。
 六畳ほどの狭い一室だった。白かったはずの壁紙は、年月と煙草の煙で薄く黄ばんでいる。天井の隅には細い亀裂が走り、窓枠の塗装は所々剥がれて木肌を覗かせていた。流し台の蛇口は少し強く締めなければ水が止まらない。寝台の軋みも、冬になると隙間風が入る窓も、最初は不便で仕方がなかった。

 それがいつしか、当たり前になっていた。
 便利ではない。快適でもない。それでも、この部屋はよく働いてくれた。雨の日も、雪の日も、仕事で泥だらけになって帰ってきた夜も。煙草を燻らせながら朝を迎えた日も。何も言わず、そこにあり続けた。

 イザークは視線を落とす。
 床板には、細かな傷が無数に残っていた。工具箱を引きずった跡。金槌を落とした跡。椅子を動かした跡。どれがいつ付いたものか、もう思い出せない。十年という時間は、こういう形でしか残らないのだろう。

 ふと、壁際の灰皿が目に入る。吸い殻は一本だけだった。昨夜、最後に吸った煙草。何となく流し台へ持っていき、水を流す。灰は渦を巻き、小さな音を立てながら排水口へ吸い込まれていった。蛇口を閉める。雫が一滴。また一滴。金属の流しへ落ちる音が、静かな部屋へ小さく響く。そして、蛇口をもう一度強く締めた。音は止んだ。それだけ確認すると、ようやく玄関へ向かう。

 壁へ掛けられた鍵を外す。
 手の中で鳴る金属音は、毎朝聞いてきた音だった。右手で鞄を持ち上げる。左手でドアノブを握る。冷えた真鍮の感触が掌へ伝わった。そのまま僅かに力を込める。蝶番が小さく軋み、扉がゆっくりと開いた。

 夜気を残した朝の空気が部屋へ流れ込んでくる。
 湿り気を含んだ冷たい風だった。
 煙草と木材の匂いが残る室内へ、新しい空気が静かに混ざっていく。

 イザークは敷居を跨いだ。そして、振り返る。
 部屋を見ようとしたわけではない。鍵を掛けるためだ――そう自分へ言い聞かせるように、扉を静かに閉める。カチリ、と。鍵が回る音は短く、それでいて妙に耳へ残った。鍵を抜く。掌へ転がす。ポケットへしまうと、昨日ハロルドから受け取った倉庫の鍵と軽く触れ合った。乾いた金属音が、小さく鳴る。イザークはその音だけを聞き、階段へ足を向けた。

 古びた木の階段は、一段降りるたびに軋んだ。十年間聞き慣れた音だった。その音を背中へ残したまま、イザークは一階へ降り立つ。アパートの扉を押し開けると、東の空は先ほどより幾分明るさを増していた。

 朝が来る。街が目を覚ます。
 その前に、イザークは静かに歩き始めた。

 吐く息はまだ白くならない。
 それでも朝の空気には夜の冷たさが残っていた。湿った風が頬を撫で、開きかけたシャツの襟元から忍び込んでくる。ジャケットの裾が小さく揺れた。

 イザークは胸ポケットから煙草を一本取り出した。
 ライターを打ち鳴らす。乾いた金属音に続き、小さな炎が揺れる。火を移す。煙を肺へ落とし込み、ゆっくりと吐き出した。白い紫煙は朝靄へ溶け、街灯の明かりを淡く霞ませながら消えていく。

 歩き慣れた道だった。
 アパートを出て最初の角。錆びた郵便ポスト。古びたレンガ造りの酒場。まだシャッターの下りた肉屋。どれも十年間、毎朝見てきた景色だった。

 交差点へ差しかかる。
 信号はまだ黄色く点滅している。車は一台も来ない。横断歩道を渡る。その先で道は二つに分かれていた。右へ行けば建設現場。左へ行けば駅。イザークの足は何も考えず右へ向きかける。身体が覚えていた。十年間、一度として迷わなかった道だった。右足が半歩だけ前へ出る。そこで止まる。

 煙草を一口吸う。
 肺へ熱が落ちていくのを待ってから、小さく鼻で笑った。身体というものは存外融通が利かない。踵を返す。今度は左へ。革靴の踵がアスファルトを軽く叩き、乾いた音を立てた。それだけだった。決意らしい決意もない。未練らしい未練もない。ただ今日だけは、向かう場所が違う。それだけだった。

 空はゆっくりと白み始めている。
 パン屋の裏口が開き、焼き立ての生地の匂いが風へ乗った。牛乳瓶を積んだ配送車が静かに交差点を曲がっていく。新聞を小脇へ抱えた老人が犬を連れて歩いていた。街は少しずつ目を覚まし始めていた。その中を、イザークは一定の歩幅で歩き続ける。急ぐ理由はない。ホグワーツ特急が発車するのは午前十一時。時間は十分にある。だから彼は歩く。十年間、この街で暮らした一人の男として。魔法使いではなく、ただの土建屋として過ごした最後の朝を、噛み締めるでも惜しむでもなく、いつもと同じ速度で歩き続けた。

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