賢者の石編
/* 015 - 同じ手の中に
出発を二日後に控えた夕方。
最後のコンクリートが流し込まれた。
空は朝から低い雲で覆われていた。
雨は降っていない。だが、湿気を孕んだ風が現場を吹き抜け、剥き出しの鉄骨へ触れるたびに低い音を鳴らしている。地面には幾筋もの轍が残り、その窪みへ溜まった濁り水が、重機の振動に合わせて細かく揺れていた。
生コンクリートを積んだ車両が、ゆっくりと現場を出ていく。回転していたドラムの音が遠ざかり、やがて道路の騒音へ紛れて聞こえなくなった。
イザークは打設を終えた基礎の前へ立っていた。
灰色のコンクリートはまだ水分を含み、鈍い光を帯びている。表面を均した跡が幾筋も残り、その下には、自分達が組み上げた鉄筋が沈んでいた。
外からはもう見えない。だが確かにそこにある。
土を掘り、型枠を組み、位置を測り、何度も修正した。一本でも配置がずれれば、後の工程へ影響する。建物が完成した後、その仕事を目にする者はいない。それでも、すべてはその上へ積み重なる。
「終わったな」
背後から声がした。
ハロルドだった。作業着の袖を肘まで捲り、泥に汚れた保護帽を脇へ抱えている。額には汗が浮かび、赤ら顔はいつも以上に疲れて見えた。
「ああ」
イザークは短く答えた。
工程表どおりだった。天候にも、資材にも、大きな遅れは出なかった。養生を終えれば、次の班が壁を立ち上げる。自分がいなくても仕事は進む。それを望んでいたはずだった。途中で投げ出さず、区切りまで見届ける。それさえできれば、何の未練もなく離れられると思っていた。だが、実際に終わってみれば、胸の内へ残ったのは安堵だけではなかった。
「不満そうな顔だな」
ハロルドが隣へ並ぶ。
「いつも通りだ」
「いつも以上だ」
「細けぇな」
「監督だからな」
便利な言葉だった。
イザークは鼻で笑い、まだ固まっていない基礎へ視線を戻した。
「明日は来るのか」
「片付けが残ってる」
「それは他の連中でもできる」
「オレが使った道具だ」
「律儀な男だな」
「フン……今さら気付いたのか」
ハロルドは答えず、基礎の向こうへ目を向ける。現場では作業員達が道具を洗い、型枠の周囲へ立入禁止の柵を設けていた。水の流れる音。金属製の道具がぶつかる音。誰かの怒鳴り声。それに応じる笑い声。
十年間、聞き続けてきた音だった。
最初は騒がしいとしか思わなかった。
魔法使いの仕事は、もっと静かだった。杖を振る。呪文を唱える。光が走る。標的が倒れる。必要であれば痕跡を消し、その場を離れる。
ここでは、一つの仕事へ何人もの人間が関わる。誰かが土を掘り、誰かが資材を運び、誰かが寸法を測る。一人で完結するものはほとんどない。声を掛け確認し、失敗すれば直す。同じ作業を何度も繰り返す。
非効率だと思っていた。
今でも、魔法を使えば早いと思う。それでも、嫌いではなかった。
「イザークさん!」
遠くから声が飛んでくる。
顔を上げると、栗色の髪の若者が手を振っていた。保護帽を被ったまま、こちらへ走ってくる。その後ろには、数人の作業員が続いていた。
「走るな!」
反射的に怒鳴る。若者は慌てて速度を落とした。
濡れた地面へ足を取られかけ、両腕を広げて体勢を立て直す。
「最後まで世話の焼ける奴だな」
「最後って言わないでくださいよ」
若者の顔が僅かに曇る。
イザークは眉を寄せた。別れを惜しむような声を出されるとは思っていなかった。いや、考えないようにしていた。
若者の後ろから、作業員達が次々と集まってくる。
年齢も、体格も違う。十年前から知る者もいれば、働き始めて数か月しか経っていない者もいる。皆、作業着や顔を泥で汚したままだった。
「何だ」
イザークは彼らを見回した。
「仕事は終わってねぇが?」
「終わりましたよ」
「片付けが残ってる」
「監督が今日はいいって」
若者がハロルドを見る。
ハロルドは何食わぬ顔で、口笛を吹く真似をした。
「勝手なことをするな」
「監督だからな」
「その言葉を使えば何でも許されると思ってるだろ」
「違うのか?」
否定するのも面倒だった。
イザークは集まった男達へ視線を戻す。
一人が、背中へ隠していたものを差し出した。
細長い木箱だった。新品ではない。表面には幾つもの傷があり、金属製の留め具は少し錆びている。現場で工具を入れるために使われていたものだ。
「何だ、これは」
「餞別だ」
差し出した男が言う。
「いらねぇ」
「開けてから言え」
「開けてもいらねぇ」
「いいから開けろ」
周囲から声が上がる。
イザークは露骨に顔を顰めた。
こういうことが嫌いだった。誰かのために集まり、物を渡し、感謝や別れの言葉を交わす。受け取った側には、それへ相応しい反応を返すことが求められる。何を言えばいいのか分からない。嬉しい顔をするべきなのか。礼を言うべきなのか。逃げることも考えた。だが、目の前には十人近い男がいる。走れば追われるだろう。実に面倒な連中だった。
イザークは木箱を受け取る。
思ったより重い。留め具を外し、蓋を持ち上げた。中には、一本の金槌が入っていた。長年使われていたものらしい。木製の柄は黒ずみ、握る箇所だけが滑らかに擦れている。鉄の頭には、小さな傷が無数に刻まれていた。新品を買う金がなかったわけではなく、わざわざ使い込まれた道具を選んだのだ。
イザークは金槌を持ち上げる。
手へ馴染む重さだった。
「新しいのにしようって言ったんですけど」
若者が口を開く。
「ハロルドさんが、あいつにはこっちの方がいいって」
「新品は似合わん」
「喧嘩を売ってるのか」
「褒めてるんだ」
ハロルドは平然と答える。
柄の側面へ、何かが刻まれていた。
不揃いな文字だった。I・C――イザーク・クレイヴン。
自分の名の頭文字だった。
「誰が彫った」
「俺です」
若者が手を上げる。
「下手くそだな」
「頑張ったんですよ」
「曲がってる」
「手作り感です」
「便利な言葉を覚えやがって」
若者は笑う。
他の作業員達もつられて笑った。
イザークは金槌を見つめる。
ホグワーツで使うことはない。教室で釘を打つ予定も、建物を修理する予定もない。魔法を使えば、大抵のものは直せる。持っていく意味などなかった。
それでも、箱へ戻す気にはならない。
「向こうでも使えよ」
「何にだ」
「子供が言うことを聞かなかった時に」
「教師へ凶器を渡すな」
「お前なら素手でも同じだろう」
「違いねぇ」
誰かが言い、再び笑いが起きる。
イザークは小さく息を吐いた。金槌を箱へ戻し、蓋を閉める。
「……受け取っておく」
「礼は?」
「調子に乗るな」
「一言くらい言ってもいいでしょう」
「さっき言った」
「何をです?」
「受け取ると」
「それは礼じゃないですよ」
若者が不満そうに頬を膨らませる。
イザークは木箱を片手へ持ち替え、空いた手でその保護帽を叩いた。
「痛い!」
「それで十分だ」
「全然分かりません」
「分からなくていい」
言葉にすれば、何かが崩れる気がした。
十年間、世話になった。
何も聞かずに受け入れられた。
仕事を教えられ、怒鳴られ、酒を飲み、時には殴り合いに近い喧嘩もした。怪我をすれば病院へ行けと命じられ、無茶をすれば仕事から外された。
誰も自分の過去を知らない。
それでも、イザーク・クレイヴンという名前で働くことを許された。感謝している。そんな言葉を、どう口にすればいいのか分からなかった。
「一年だけだ」
代わりに、そう告げた。
皆の表情が僅かに変わる。イザークは続ける。
「一年経って、まだここに仕事があれば戻る。なけりゃ別を探す」
「戻ってくるんですね」
若者が言う。
「聞いてなかったのか。仕事があればだ」
「戻るつもりはあるんでしょう?」
「……今のところはな」
若者の顔が明るくなる。
イザークは視線を逸らした。
「それに、オレがいない間に現場を潰されたら困る」
「誰が潰すんですか」
「主にお前だ」
「俺ですか?」
「上を見ろ。走るな。分からないことがあれば聞け。勝手な判断をするな」
「それ、全部いつも言われてることです」
「なら覚えろ」
若者は背筋を伸ばす。
「はい」
今度の返事は、先ほどまでより真面目だった。
イザークは一度だけ頷く。それ以上、言うことはなかった。
ハロルドが手を叩く。
「湿っぽい話は終わりだ。明日も片付けに来る奴は働け。来ない奴は帰れ」
「明日も来るんですか、イザークさん」
「来ると言っただろ」
「最後の日くらい休めばいいのに」
「お前に道具の管理を任せられるか」
「信用ないなあ」
「昨日死にかけた奴を、どう信用しろってんだ」
若者が何か言い返す。
周囲の男達が笑いながら散っていく。
特別な別れは、それで終わった。
誰も抱きつかなかった。涙を流す者もいない。また明日と言うように、それぞれが持ち場へ戻っていく。それでよかった。
イザークは木箱を抱え、彼らの背中を見送った。
胸の奥へ、名の分からない感情が沈んでいる。
寂しいというほど柔らかくはない。悲しいとも違う。ただ、この場に自分の一部が残されるような感覚だった。
魔法界を去った時には、何も感じなかった。
我が君は消え、組織は崩れた。戻る場所も、別れを告げる相手もいなかった。誰にも何も言わず、森を抜けた。
今は違う。
立ち去ることを知る者がいる。
戻る可能性を待つ者がいる。
自分の名を道具へ刻む者がいる。
それが、思っていた以上に重かった。
***
翌日の夕方。
イザークは最後の工具を倉庫へ戻した。棚へ並ぶ金槌、鋸、水平器。一つずつ数を確かめ、記録へ印を付ける。作業用手袋を外し、土埃を払った。革は汗と油を吸い込み、すっかり手の形へ変わっている。
捨てるつもりはなかった。
腰の後ろへ差し込む。
「忘れ物はないか」
倉庫の入口からハロルドが尋ねる。
「ない」
「本当に?」
「ガキじゃねぇ」
「今度からガキの相手をするんだろ」
「まだ言うか」
「一生言う」
ハロルドは笑う。
イザークは倉庫の鍵を掛けた。
鍵を差し出す。
ハロルドは受け取らず、イザークの手を見た。
「それは、お前が持ってろ」
「何故だ」
「戻ってきた時に必要になる」
「鍵を替えるかもしれねぇだろ」
「その時は笑ってやる」
イザークは眉を寄せる。
結局、鍵をポケットへ戻した。
現場には、もうほとんど人が残っていない。
金属製の柵は半分閉じられ、重機も沈黙している。昼間は絶えず響いていた騒音が消えたことで、空間だけが異様に広く感じられた。
イザークは基礎の前へ立つ。
表面は既に硬さを増し、昨日より色が薄くなっていた。あと数日もすれば、その上へ新たな構造物が組み上げられる。
完成を見ることはない。
一年後に戻った時には、建物は既に使われているかもしれない。
誰がこの基礎を造ったのか、住む者は知らないだろう。それでいい。見えなくなるからといって、なくなるわけではない。
イザークは作業着のポケットから煙草を取り出す。
一本を口端へ咥え、火をつけた。赤い先端が夕暮れの中で小さく灯る。
深く吸い込む。
煙を吐きながら、現場を見渡した。
「行くのか」
ハロルドが背後から問う。
「明日だったな」
「ああ。昼までには出る」
「どうやって行く」
「自分で行く」
「学校の場所は分かるのか」
「忘れるほど耄碌しちゃいねぇ」
短いやり取りだった。
ハロルドは右手を差し出した。
汚れた、大きな手だった。イザークはしばらくそれを見つめる。
「何だ」
「握手だ」
「見りゃ分かる」
「なら早くしろ」
イザークは煙草を口端へ咥え直し、右手を伸ばした。
掌が重なる。
ハロルドの手は硬く、温かかった。十年間、何度も資材を運び、道具を握ってきた手だった。強く握られる。イザークも同じだけ力を返した。
「達者でな、先生」
「その呼び方はやめろ」
「嫌だね」
「戻ったら最初に殴る」
「一年後も忘れてなければな」
手が離れる。
ハロルドはそれ以上何も言わなかった。
イザークも同じだった。
現場の門を出る。
振り返らないつもりだった。だが、数歩進んだところで足が止まる。肩越しに、背後へ視線を向けた。ハロルドはまだそこにいた。片手を作業着のポケットへ入れ、もう片方の手を軽く上げる。イザークも、僅かに手を持ち上げた。
それだけだった。
***
部屋へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
持ち帰った木箱を机へ置く。蓋を開け、金槌を取り出した。裸電球の下で、不揃いな文字が影を作っている。
I・C。指先で刻まれた溝をなぞる。
粗雑な仕事だった。深さも、幅も揃っていない。職人が見れば笑うだろう。それでも消す気にはならなかった。
イザークは金槌を木箱へ戻す。
そのまま寝台の下へ手を伸ばした。
奥に、一つの細長い箱がある。
十年間、取り出すことのなかった箱だった。
埃はほとんど付いていない。使わなくとも、時折布で拭いていた。何故そうしていたのかは、自分でも分からない。
床の上へ引き出す。木製の蓋へ指を掛ける。
一瞬だけ、動きが止まった。この箱を開ければ、十年前の自分が戻ってくるわけではない。杖は杖だ。過去も、忠誠も、奪った命も、それ自体へ宿っているわけではない。そうイザークは分かっている。それでも、蓋の向こうに眠るものは、金槌より遥かに重く感じられた。
イザークはゆっくりと箱を開ける。
黒い布の上へ、一本の杖が横たわっていた。黒檀。黒く、細い木肌には、幾つもの小さな傷が残っている。十年前、最後に手入れをした時と変わらない。指先を伸ばす。杖へ触れる直前で、僅かに躊躇した。
森の夜が脳裏を過ぎる。
緑の閃光。倒れる身体。燃える孤児院。青白い燭台。石床へ横たわる男。
そのすべてを、この杖は知っている。いや、杖が知っているのではない。イザーク自身が覚えている。
イザークは杖を掴んだ。
掌へ収まる。十年という時間など存在しなかったかのように、指は自然と正しい位置へ落ち着いた。重心。握り。杖先の向き。身体はすべて覚えている。
胸の奥で、何かが僅かにざわめいた。
懐かしさではない。安心とも違う。失ったはずの身体の一部が、戻ってきたような感覚だった。
イザークは杖を持ち上げる。
室内には、点けたままの裸電球。流し台には朝使ったカップ。窓は閉じられカーテンが夜風もなく静かに垂れている。
試すだけなら、何でもよかった。
カップを浮かせる。電灯を消す。窓を開ける。
呪文は、喉の奥まで出かかった。だが、唱えなかった。
イザークは杖を下ろす。壁際へ歩き、電灯のスイッチへ手を伸ばした。指先で押す。小さな音とともに、裸電球が消えた。部屋が暗闇へ沈む。窓の外から差し込む街灯の光だけが、杖と金槌を淡く照らしていた。
一方は、人を殺すために振るった。
一方は、家を造るために握った。
どちらも、自分の手に馴染んでいる。
イザークは暗闇の中で、二つをしばらく見つめた。
やがて杖を箱へ戻すことなく、机の上へ置く。金槌の隣へ。
明後日、持っていく。
どちらも。十年前の自分も。十年間生きてきた自分も。
片方だけを置いていくつもりはなかった。
出発を二日後に控えた夕方。
最後のコンクリートが流し込まれた。
空は朝から低い雲で覆われていた。
雨は降っていない。だが、湿気を孕んだ風が現場を吹き抜け、剥き出しの鉄骨へ触れるたびに低い音を鳴らしている。地面には幾筋もの轍が残り、その窪みへ溜まった濁り水が、重機の振動に合わせて細かく揺れていた。
生コンクリートを積んだ車両が、ゆっくりと現場を出ていく。回転していたドラムの音が遠ざかり、やがて道路の騒音へ紛れて聞こえなくなった。
イザークは打設を終えた基礎の前へ立っていた。
灰色のコンクリートはまだ水分を含み、鈍い光を帯びている。表面を均した跡が幾筋も残り、その下には、自分達が組み上げた鉄筋が沈んでいた。
外からはもう見えない。だが確かにそこにある。
土を掘り、型枠を組み、位置を測り、何度も修正した。一本でも配置がずれれば、後の工程へ影響する。建物が完成した後、その仕事を目にする者はいない。それでも、すべてはその上へ積み重なる。
「終わったな」
背後から声がした。
ハロルドだった。作業着の袖を肘まで捲り、泥に汚れた保護帽を脇へ抱えている。額には汗が浮かび、赤ら顔はいつも以上に疲れて見えた。
「ああ」
イザークは短く答えた。
工程表どおりだった。天候にも、資材にも、大きな遅れは出なかった。養生を終えれば、次の班が壁を立ち上げる。自分がいなくても仕事は進む。それを望んでいたはずだった。途中で投げ出さず、区切りまで見届ける。それさえできれば、何の未練もなく離れられると思っていた。だが、実際に終わってみれば、胸の内へ残ったのは安堵だけではなかった。
「不満そうな顔だな」
ハロルドが隣へ並ぶ。
「いつも通りだ」
「いつも以上だ」
「細けぇな」
「監督だからな」
便利な言葉だった。
イザークは鼻で笑い、まだ固まっていない基礎へ視線を戻した。
「明日は来るのか」
「片付けが残ってる」
「それは他の連中でもできる」
「オレが使った道具だ」
「律儀な男だな」
「フン……今さら気付いたのか」
ハロルドは答えず、基礎の向こうへ目を向ける。現場では作業員達が道具を洗い、型枠の周囲へ立入禁止の柵を設けていた。水の流れる音。金属製の道具がぶつかる音。誰かの怒鳴り声。それに応じる笑い声。
十年間、聞き続けてきた音だった。
最初は騒がしいとしか思わなかった。
魔法使いの仕事は、もっと静かだった。杖を振る。呪文を唱える。光が走る。標的が倒れる。必要であれば痕跡を消し、その場を離れる。
ここでは、一つの仕事へ何人もの人間が関わる。誰かが土を掘り、誰かが資材を運び、誰かが寸法を測る。一人で完結するものはほとんどない。声を掛け確認し、失敗すれば直す。同じ作業を何度も繰り返す。
非効率だと思っていた。
今でも、魔法を使えば早いと思う。それでも、嫌いではなかった。
「イザークさん!」
遠くから声が飛んでくる。
顔を上げると、栗色の髪の若者が手を振っていた。保護帽を被ったまま、こちらへ走ってくる。その後ろには、数人の作業員が続いていた。
「走るな!」
反射的に怒鳴る。若者は慌てて速度を落とした。
濡れた地面へ足を取られかけ、両腕を広げて体勢を立て直す。
「最後まで世話の焼ける奴だな」
「最後って言わないでくださいよ」
若者の顔が僅かに曇る。
イザークは眉を寄せた。別れを惜しむような声を出されるとは思っていなかった。いや、考えないようにしていた。
若者の後ろから、作業員達が次々と集まってくる。
年齢も、体格も違う。十年前から知る者もいれば、働き始めて数か月しか経っていない者もいる。皆、作業着や顔を泥で汚したままだった。
「何だ」
イザークは彼らを見回した。
「仕事は終わってねぇが?」
「終わりましたよ」
「片付けが残ってる」
「監督が今日はいいって」
若者がハロルドを見る。
ハロルドは何食わぬ顔で、口笛を吹く真似をした。
「勝手なことをするな」
「監督だからな」
「その言葉を使えば何でも許されると思ってるだろ」
「違うのか?」
否定するのも面倒だった。
イザークは集まった男達へ視線を戻す。
一人が、背中へ隠していたものを差し出した。
細長い木箱だった。新品ではない。表面には幾つもの傷があり、金属製の留め具は少し錆びている。現場で工具を入れるために使われていたものだ。
「何だ、これは」
「餞別だ」
差し出した男が言う。
「いらねぇ」
「開けてから言え」
「開けてもいらねぇ」
「いいから開けろ」
周囲から声が上がる。
イザークは露骨に顔を顰めた。
こういうことが嫌いだった。誰かのために集まり、物を渡し、感謝や別れの言葉を交わす。受け取った側には、それへ相応しい反応を返すことが求められる。何を言えばいいのか分からない。嬉しい顔をするべきなのか。礼を言うべきなのか。逃げることも考えた。だが、目の前には十人近い男がいる。走れば追われるだろう。実に面倒な連中だった。
イザークは木箱を受け取る。
思ったより重い。留め具を外し、蓋を持ち上げた。中には、一本の金槌が入っていた。長年使われていたものらしい。木製の柄は黒ずみ、握る箇所だけが滑らかに擦れている。鉄の頭には、小さな傷が無数に刻まれていた。新品を買う金がなかったわけではなく、わざわざ使い込まれた道具を選んだのだ。
イザークは金槌を持ち上げる。
手へ馴染む重さだった。
「新しいのにしようって言ったんですけど」
若者が口を開く。
「ハロルドさんが、あいつにはこっちの方がいいって」
「新品は似合わん」
「喧嘩を売ってるのか」
「褒めてるんだ」
ハロルドは平然と答える。
柄の側面へ、何かが刻まれていた。
不揃いな文字だった。I・C――イザーク・クレイヴン。
自分の名の頭文字だった。
「誰が彫った」
「俺です」
若者が手を上げる。
「下手くそだな」
「頑張ったんですよ」
「曲がってる」
「手作り感です」
「便利な言葉を覚えやがって」
若者は笑う。
他の作業員達もつられて笑った。
イザークは金槌を見つめる。
ホグワーツで使うことはない。教室で釘を打つ予定も、建物を修理する予定もない。魔法を使えば、大抵のものは直せる。持っていく意味などなかった。
それでも、箱へ戻す気にはならない。
「向こうでも使えよ」
「何にだ」
「子供が言うことを聞かなかった時に」
「教師へ凶器を渡すな」
「お前なら素手でも同じだろう」
「違いねぇ」
誰かが言い、再び笑いが起きる。
イザークは小さく息を吐いた。金槌を箱へ戻し、蓋を閉める。
「……受け取っておく」
「礼は?」
「調子に乗るな」
「一言くらい言ってもいいでしょう」
「さっき言った」
「何をです?」
「受け取ると」
「それは礼じゃないですよ」
若者が不満そうに頬を膨らませる。
イザークは木箱を片手へ持ち替え、空いた手でその保護帽を叩いた。
「痛い!」
「それで十分だ」
「全然分かりません」
「分からなくていい」
言葉にすれば、何かが崩れる気がした。
十年間、世話になった。
何も聞かずに受け入れられた。
仕事を教えられ、怒鳴られ、酒を飲み、時には殴り合いに近い喧嘩もした。怪我をすれば病院へ行けと命じられ、無茶をすれば仕事から外された。
誰も自分の過去を知らない。
それでも、イザーク・クレイヴンという名前で働くことを許された。感謝している。そんな言葉を、どう口にすればいいのか分からなかった。
「一年だけだ」
代わりに、そう告げた。
皆の表情が僅かに変わる。イザークは続ける。
「一年経って、まだここに仕事があれば戻る。なけりゃ別を探す」
「戻ってくるんですね」
若者が言う。
「聞いてなかったのか。仕事があればだ」
「戻るつもりはあるんでしょう?」
「……今のところはな」
若者の顔が明るくなる。
イザークは視線を逸らした。
「それに、オレがいない間に現場を潰されたら困る」
「誰が潰すんですか」
「主にお前だ」
「俺ですか?」
「上を見ろ。走るな。分からないことがあれば聞け。勝手な判断をするな」
「それ、全部いつも言われてることです」
「なら覚えろ」
若者は背筋を伸ばす。
「はい」
今度の返事は、先ほどまでより真面目だった。
イザークは一度だけ頷く。それ以上、言うことはなかった。
ハロルドが手を叩く。
「湿っぽい話は終わりだ。明日も片付けに来る奴は働け。来ない奴は帰れ」
「明日も来るんですか、イザークさん」
「来ると言っただろ」
「最後の日くらい休めばいいのに」
「お前に道具の管理を任せられるか」
「信用ないなあ」
「昨日死にかけた奴を、どう信用しろってんだ」
若者が何か言い返す。
周囲の男達が笑いながら散っていく。
特別な別れは、それで終わった。
誰も抱きつかなかった。涙を流す者もいない。また明日と言うように、それぞれが持ち場へ戻っていく。それでよかった。
イザークは木箱を抱え、彼らの背中を見送った。
胸の奥へ、名の分からない感情が沈んでいる。
寂しいというほど柔らかくはない。悲しいとも違う。ただ、この場に自分の一部が残されるような感覚だった。
魔法界を去った時には、何も感じなかった。
我が君は消え、組織は崩れた。戻る場所も、別れを告げる相手もいなかった。誰にも何も言わず、森を抜けた。
今は違う。
立ち去ることを知る者がいる。
戻る可能性を待つ者がいる。
自分の名を道具へ刻む者がいる。
それが、思っていた以上に重かった。
***
翌日の夕方。
イザークは最後の工具を倉庫へ戻した。棚へ並ぶ金槌、鋸、水平器。一つずつ数を確かめ、記録へ印を付ける。作業用手袋を外し、土埃を払った。革は汗と油を吸い込み、すっかり手の形へ変わっている。
捨てるつもりはなかった。
腰の後ろへ差し込む。
「忘れ物はないか」
倉庫の入口からハロルドが尋ねる。
「ない」
「本当に?」
「ガキじゃねぇ」
「今度からガキの相手をするんだろ」
「まだ言うか」
「一生言う」
ハロルドは笑う。
イザークは倉庫の鍵を掛けた。
鍵を差し出す。
ハロルドは受け取らず、イザークの手を見た。
「それは、お前が持ってろ」
「何故だ」
「戻ってきた時に必要になる」
「鍵を替えるかもしれねぇだろ」
「その時は笑ってやる」
イザークは眉を寄せる。
結局、鍵をポケットへ戻した。
現場には、もうほとんど人が残っていない。
金属製の柵は半分閉じられ、重機も沈黙している。昼間は絶えず響いていた騒音が消えたことで、空間だけが異様に広く感じられた。
イザークは基礎の前へ立つ。
表面は既に硬さを増し、昨日より色が薄くなっていた。あと数日もすれば、その上へ新たな構造物が組み上げられる。
完成を見ることはない。
一年後に戻った時には、建物は既に使われているかもしれない。
誰がこの基礎を造ったのか、住む者は知らないだろう。それでいい。見えなくなるからといって、なくなるわけではない。
イザークは作業着のポケットから煙草を取り出す。
一本を口端へ咥え、火をつけた。赤い先端が夕暮れの中で小さく灯る。
深く吸い込む。
煙を吐きながら、現場を見渡した。
「行くのか」
ハロルドが背後から問う。
「明日だったな」
「ああ。昼までには出る」
「どうやって行く」
「自分で行く」
「学校の場所は分かるのか」
「忘れるほど耄碌しちゃいねぇ」
短いやり取りだった。
ハロルドは右手を差し出した。
汚れた、大きな手だった。イザークはしばらくそれを見つめる。
「何だ」
「握手だ」
「見りゃ分かる」
「なら早くしろ」
イザークは煙草を口端へ咥え直し、右手を伸ばした。
掌が重なる。
ハロルドの手は硬く、温かかった。十年間、何度も資材を運び、道具を握ってきた手だった。強く握られる。イザークも同じだけ力を返した。
「達者でな、先生」
「その呼び方はやめろ」
「嫌だね」
「戻ったら最初に殴る」
「一年後も忘れてなければな」
手が離れる。
ハロルドはそれ以上何も言わなかった。
イザークも同じだった。
現場の門を出る。
振り返らないつもりだった。だが、数歩進んだところで足が止まる。肩越しに、背後へ視線を向けた。ハロルドはまだそこにいた。片手を作業着のポケットへ入れ、もう片方の手を軽く上げる。イザークも、僅かに手を持ち上げた。
それだけだった。
***
部屋へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
持ち帰った木箱を机へ置く。蓋を開け、金槌を取り出した。裸電球の下で、不揃いな文字が影を作っている。
I・C。指先で刻まれた溝をなぞる。
粗雑な仕事だった。深さも、幅も揃っていない。職人が見れば笑うだろう。それでも消す気にはならなかった。
イザークは金槌を木箱へ戻す。
そのまま寝台の下へ手を伸ばした。
奥に、一つの細長い箱がある。
十年間、取り出すことのなかった箱だった。
埃はほとんど付いていない。使わなくとも、時折布で拭いていた。何故そうしていたのかは、自分でも分からない。
床の上へ引き出す。木製の蓋へ指を掛ける。
一瞬だけ、動きが止まった。この箱を開ければ、十年前の自分が戻ってくるわけではない。杖は杖だ。過去も、忠誠も、奪った命も、それ自体へ宿っているわけではない。そうイザークは分かっている。それでも、蓋の向こうに眠るものは、金槌より遥かに重く感じられた。
イザークはゆっくりと箱を開ける。
黒い布の上へ、一本の杖が横たわっていた。黒檀。黒く、細い木肌には、幾つもの小さな傷が残っている。十年前、最後に手入れをした時と変わらない。指先を伸ばす。杖へ触れる直前で、僅かに躊躇した。
森の夜が脳裏を過ぎる。
緑の閃光。倒れる身体。燃える孤児院。青白い燭台。石床へ横たわる男。
そのすべてを、この杖は知っている。いや、杖が知っているのではない。イザーク自身が覚えている。
イザークは杖を掴んだ。
掌へ収まる。十年という時間など存在しなかったかのように、指は自然と正しい位置へ落ち着いた。重心。握り。杖先の向き。身体はすべて覚えている。
胸の奥で、何かが僅かにざわめいた。
懐かしさではない。安心とも違う。失ったはずの身体の一部が、戻ってきたような感覚だった。
イザークは杖を持ち上げる。
室内には、点けたままの裸電球。流し台には朝使ったカップ。窓は閉じられカーテンが夜風もなく静かに垂れている。
試すだけなら、何でもよかった。
カップを浮かせる。電灯を消す。窓を開ける。
呪文は、喉の奥まで出かかった。だが、唱えなかった。
イザークは杖を下ろす。壁際へ歩き、電灯のスイッチへ手を伸ばした。指先で押す。小さな音とともに、裸電球が消えた。部屋が暗闇へ沈む。窓の外から差し込む街灯の光だけが、杖と金槌を淡く照らしていた。
一方は、人を殺すために振るった。
一方は、家を造るために握った。
どちらも、自分の手に馴染んでいる。
イザークは暗闇の中で、二つをしばらく見つめた。
やがて杖を箱へ戻すことなく、机の上へ置く。金槌の隣へ。
明後日、持っていく。
どちらも。十年前の自分も。十年間生きてきた自分も。
片方だけを置いていくつもりはなかった。