賢者の石編

/* 015 - 同じ手の中に


 出発を二日後に控えた夕方。
 最後のコンクリートが流し込まれた。

 空は朝から低い雲で覆われていた。
 雨は降っていない。だが、湿気を孕んだ風が現場を吹き抜け、剥き出しの鉄骨へ触れるたびに低い音を鳴らしている。地面には幾筋もの轍が残り、その窪みへ溜まった濁り水が、重機の振動に合わせて細かく揺れていた。

 生コンクリートを積んだ車両が、ゆっくりと現場を出ていく。回転していたドラムの音が遠ざかり、やがて道路の騒音へ紛れて聞こえなくなった。

 イザークは打設を終えた基礎の前へ立っていた。
 灰色のコンクリートはまだ水分を含み、鈍い光を帯びている。表面を均した跡が幾筋も残り、その下には、自分達が組み上げた鉄筋が沈んでいた。

 外からはもう見えない。だが確かにそこにある。
 土を掘り、型枠を組み、位置を測り、何度も修正した。一本でも配置がずれれば、後の工程へ影響する。建物が完成した後、その仕事を目にする者はいない。それでも、すべてはその上へ積み重なる。

「終わったな」

 背後から声がした。
 ハロルドだった。作業着の袖を肘まで捲り、泥に汚れた保護帽を脇へ抱えている。額には汗が浮かび、赤ら顔はいつも以上に疲れて見えた。

「ああ」

 イザークは短く答えた。
 工程表どおりだった。天候にも、資材にも、大きな遅れは出なかった。養生を終えれば、次の班が壁を立ち上げる。自分がいなくても仕事は進む。それを望んでいたはずだった。途中で投げ出さず、区切りまで見届ける。それさえできれば、何の未練もなく離れられると思っていた。だが、実際に終わってみれば、胸の内へ残ったのは安堵だけではなかった。

「不満そうな顔だな」

 ハロルドが隣へ並ぶ。

「いつも通りだ」
「いつも以上だ」
「細けぇな」
「監督だからな」

 便利な言葉だった。
 イザークは鼻で笑い、まだ固まっていない基礎へ視線を戻した。

「明日は来るのか」
「片付けが残ってる」
「それは他の連中でもできる」
「オレが使った道具だ」
「律儀な男だな」
「フン……今さら気付いたのか」

 ハロルドは答えず、基礎の向こうへ目を向ける。現場では作業員達が道具を洗い、型枠の周囲へ立入禁止の柵を設けていた。水の流れる音。金属製の道具がぶつかる音。誰かの怒鳴り声。それに応じる笑い声。

 十年間、聞き続けてきた音だった。

 最初は騒がしいとしか思わなかった。
 魔法使いの仕事は、もっと静かだった。杖を振る。呪文を唱える。光が走る。標的が倒れる。必要であれば痕跡を消し、その場を離れる。

 ここでは、一つの仕事へ何人もの人間が関わる。誰かが土を掘り、誰かが資材を運び、誰かが寸法を測る。一人で完結するものはほとんどない。声を掛け確認し、失敗すれば直す。同じ作業を何度も繰り返す。

 非効率だと思っていた。
 今でも、魔法を使えば早いと思う。それでも、嫌いではなかった。

「イザークさん!」

 遠くから声が飛んでくる。
 顔を上げると、栗色の髪の若者が手を振っていた。保護帽を被ったまま、こちらへ走ってくる。その後ろには、数人の作業員が続いていた。

「走るな!」

 反射的に怒鳴る。若者は慌てて速度を落とした。
 濡れた地面へ足を取られかけ、両腕を広げて体勢を立て直す。

「最後まで世話の焼ける奴だな」
「最後って言わないでくださいよ」

 若者の顔が僅かに曇る。
 イザークは眉を寄せた。別れを惜しむような声を出されるとは思っていなかった。いや、考えないようにしていた。

 若者の後ろから、作業員達が次々と集まってくる。
 年齢も、体格も違う。十年前から知る者もいれば、働き始めて数か月しか経っていない者もいる。皆、作業着や顔を泥で汚したままだった。

「何だ」

 イザークは彼らを見回した。

「仕事は終わってねぇが?」
「終わりましたよ」
「片付けが残ってる」
「監督が今日はいいって」

 若者がハロルドを見る。
 ハロルドは何食わぬ顔で、口笛を吹く真似をした。

「勝手なことをするな」
「監督だからな」
「その言葉を使えば何でも許されると思ってるだろ」
「違うのか?」

 否定するのも面倒だった。
 イザークは集まった男達へ視線を戻す。

 一人が、背中へ隠していたものを差し出した。
 細長い木箱だった。新品ではない。表面には幾つもの傷があり、金属製の留め具は少し錆びている。現場で工具を入れるために使われていたものだ。

「何だ、これは」
「餞別だ」

 差し出した男が言う。

「いらねぇ」
「開けてから言え」
「開けてもいらねぇ」
「いいから開けろ」

 周囲から声が上がる。
 イザークは露骨に顔を顰めた。

 こういうことが嫌いだった。誰かのために集まり、物を渡し、感謝や別れの言葉を交わす。受け取った側には、それへ相応しい反応を返すことが求められる。何を言えばいいのか分からない。嬉しい顔をするべきなのか。礼を言うべきなのか。逃げることも考えた。だが、目の前には十人近い男がいる。走れば追われるだろう。実に面倒な連中だった。

 イザークは木箱を受け取る。
 思ったより重い。留め具を外し、蓋を持ち上げた。中には、一本の金槌が入っていた。長年使われていたものらしい。木製の柄は黒ずみ、握る箇所だけが滑らかに擦れている。鉄の頭には、小さな傷が無数に刻まれていた。新品を買う金がなかったわけではなく、わざわざ使い込まれた道具を選んだのだ。

 イザークは金槌を持ち上げる。
 手へ馴染む重さだった。

「新しいのにしようって言ったんですけど」

 若者が口を開く。

「ハロルドさんが、あいつにはこっちの方がいいって」
「新品は似合わん」
「喧嘩を売ってるのか」
「褒めてるんだ」

 ハロルドは平然と答える。

 柄の側面へ、何かが刻まれていた。
 不揃いな文字だった。I・C――イザーク・クレイヴン。
 自分の名の頭文字だった。

「誰が彫った」
「俺です」

 若者が手を上げる。

「下手くそだな」
「頑張ったんですよ」
「曲がってる」
「手作り感です」
「便利な言葉を覚えやがって」

 若者は笑う。
 他の作業員達もつられて笑った。

 イザークは金槌を見つめる。
 ホグワーツで使うことはない。教室で釘を打つ予定も、建物を修理する予定もない。魔法を使えば、大抵のものは直せる。持っていく意味などなかった。

 それでも、箱へ戻す気にはならない。

「向こうでも使えよ」
「何にだ」
「子供が言うことを聞かなかった時に」
「教師へ凶器を渡すな」
「お前なら素手でも同じだろう」
「違いねぇ」

 誰かが言い、再び笑いが起きる。
 イザークは小さく息を吐いた。金槌を箱へ戻し、蓋を閉める。

「……受け取っておく」
「礼は?」
「調子に乗るな」
「一言くらい言ってもいいでしょう」
「さっき言った」
「何をです?」
「受け取ると」
「それは礼じゃないですよ」

 若者が不満そうに頬を膨らませる。
 イザークは木箱を片手へ持ち替え、空いた手でその保護帽を叩いた。

「痛い!」
「それで十分だ」
「全然分かりません」
「分からなくていい」

 言葉にすれば、何かが崩れる気がした。

 十年間、世話になった。
 何も聞かずに受け入れられた。
 仕事を教えられ、怒鳴られ、酒を飲み、時には殴り合いに近い喧嘩もした。怪我をすれば病院へ行けと命じられ、無茶をすれば仕事から外された。

 誰も自分の過去を知らない。
 それでも、イザーク・クレイヴンという名前で働くことを許された。感謝している。そんな言葉を、どう口にすればいいのか分からなかった。

「一年だけだ」

 代わりに、そう告げた。
 皆の表情が僅かに変わる。イザークは続ける。

「一年経って、まだここに仕事があれば戻る。なけりゃ別を探す」
「戻ってくるんですね」

 若者が言う。

「聞いてなかったのか。仕事があればだ」
「戻るつもりはあるんでしょう?」
「……今のところはな」

 若者の顔が明るくなる。
 イザークは視線を逸らした。

「それに、オレがいない間に現場を潰されたら困る」
「誰が潰すんですか」
「主にお前だ」
「俺ですか?」
「上を見ろ。走るな。分からないことがあれば聞け。勝手な判断をするな」
「それ、全部いつも言われてることです」
「なら覚えろ」

 若者は背筋を伸ばす。

「はい」

 今度の返事は、先ほどまでより真面目だった。
 イザークは一度だけ頷く。それ以上、言うことはなかった。

 ハロルドが手を叩く。

「湿っぽい話は終わりだ。明日も片付けに来る奴は働け。来ない奴は帰れ」
「明日も来るんですか、イザークさん」
「来ると言っただろ」
「最後の日くらい休めばいいのに」
「お前に道具の管理を任せられるか」
「信用ないなあ」
「昨日死にかけた奴を、どう信用しろってんだ」

 若者が何か言い返す。
 周囲の男達が笑いながら散っていく。

 特別な別れは、それで終わった。
 誰も抱きつかなかった。涙を流す者もいない。また明日と言うように、それぞれが持ち場へ戻っていく。それでよかった。

 イザークは木箱を抱え、彼らの背中を見送った。
 胸の奥へ、名の分からない感情が沈んでいる。
 寂しいというほど柔らかくはない。悲しいとも違う。ただ、この場に自分の一部が残されるような感覚だった。

 魔法界を去った時には、何も感じなかった。
 我が君は消え、組織は崩れた。戻る場所も、別れを告げる相手もいなかった。誰にも何も言わず、森を抜けた。

 今は違う。

 立ち去ることを知る者がいる。
 戻る可能性を待つ者がいる。
 自分の名を道具へ刻む者がいる。

 それが、思っていた以上に重かった。

***

 翌日の夕方。
 イザークは最後の工具を倉庫へ戻した。棚へ並ぶ金槌、鋸、水平器。一つずつ数を確かめ、記録へ印を付ける。作業用手袋を外し、土埃を払った。革は汗と油を吸い込み、すっかり手の形へ変わっている。

 捨てるつもりはなかった。
 腰の後ろへ差し込む。

「忘れ物はないか」

 倉庫の入口からハロルドが尋ねる。

「ない」
「本当に?」
「ガキじゃねぇ」
「今度からガキの相手をするんだろ」
「まだ言うか」
「一生言う」

 ハロルドは笑う。
 イザークは倉庫の鍵を掛けた。

 鍵を差し出す。
 ハロルドは受け取らず、イザークの手を見た。

「それは、お前が持ってろ」
「何故だ」
「戻ってきた時に必要になる」
「鍵を替えるかもしれねぇだろ」
「その時は笑ってやる」

 イザークは眉を寄せる。
 結局、鍵をポケットへ戻した。

 現場には、もうほとんど人が残っていない。
 金属製の柵は半分閉じられ、重機も沈黙している。昼間は絶えず響いていた騒音が消えたことで、空間だけが異様に広く感じられた。

 イザークは基礎の前へ立つ。
 表面は既に硬さを増し、昨日より色が薄くなっていた。あと数日もすれば、その上へ新たな構造物が組み上げられる。

 完成を見ることはない。

 一年後に戻った時には、建物は既に使われているかもしれない。
 誰がこの基礎を造ったのか、住む者は知らないだろう。それでいい。見えなくなるからといって、なくなるわけではない。

 イザークは作業着のポケットから煙草を取り出す。
 一本を口端へ咥え、火をつけた。赤い先端が夕暮れの中で小さく灯る。

 深く吸い込む。
 煙を吐きながら、現場を見渡した。

「行くのか」

 ハロルドが背後から問う。

「明日だったな」
「ああ。昼までには出る」
「どうやって行く」
「自分で行く」
「学校の場所は分かるのか」
「忘れるほど耄碌しちゃいねぇ」

 短いやり取りだった。

 ハロルドは右手を差し出した。
 汚れた、大きな手だった。イザークはしばらくそれを見つめる。

「何だ」
「握手だ」
「見りゃ分かる」
「なら早くしろ」

 イザークは煙草を口端へ咥え直し、右手を伸ばした。

 掌が重なる。
 ハロルドの手は硬く、温かかった。十年間、何度も資材を運び、道具を握ってきた手だった。強く握られる。イザークも同じだけ力を返した。

「達者でな、先生」
「その呼び方はやめろ」
「嫌だね」
「戻ったら最初に殴る」
「一年後も忘れてなければな」

 手が離れる。

 ハロルドはそれ以上何も言わなかった。
 イザークも同じだった。

 現場の門を出る。
 振り返らないつもりだった。だが、数歩進んだところで足が止まる。肩越しに、背後へ視線を向けた。ハロルドはまだそこにいた。片手を作業着のポケットへ入れ、もう片方の手を軽く上げる。イザークも、僅かに手を持ち上げた。

 それだけだった。

***

 部屋へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
 持ち帰った木箱を机へ置く。蓋を開け、金槌を取り出した。裸電球の下で、不揃いな文字が影を作っている。

 I・C。指先で刻まれた溝をなぞる。
 粗雑な仕事だった。深さも、幅も揃っていない。職人が見れば笑うだろう。それでも消す気にはならなかった。

 イザークは金槌を木箱へ戻す。
 そのまま寝台の下へ手を伸ばした。

 奥に、一つの細長い箱がある。
 十年間、取り出すことのなかった箱だった。
 埃はほとんど付いていない。使わなくとも、時折布で拭いていた。何故そうしていたのかは、自分でも分からない。

 床の上へ引き出す。木製の蓋へ指を掛ける。
 一瞬だけ、動きが止まった。この箱を開ければ、十年前の自分が戻ってくるわけではない。杖は杖だ。過去も、忠誠も、奪った命も、それ自体へ宿っているわけではない。そうイザークは分かっている。それでも、蓋の向こうに眠るものは、金槌より遥かに重く感じられた。

 イザークはゆっくりと箱を開ける。
 黒い布の上へ、一本の杖が横たわっていた。黒檀。黒く、細い木肌には、幾つもの小さな傷が残っている。十年前、最後に手入れをした時と変わらない。指先を伸ばす。杖へ触れる直前で、僅かに躊躇した。

 森の夜が脳裏を過ぎる。
 緑の閃光。倒れる身体。燃える孤児院。青白い燭台。石床へ横たわる男。
 そのすべてを、この杖は知っている。いや、杖が知っているのではない。イザーク自身が覚えている。

 イザークは杖を掴んだ。
 掌へ収まる。十年という時間など存在しなかったかのように、指は自然と正しい位置へ落ち着いた。重心。握り。杖先の向き。身体はすべて覚えている。

 胸の奥で、何かが僅かにざわめいた。
 懐かしさではない。安心とも違う。失ったはずの身体の一部が、戻ってきたような感覚だった。

 イザークは杖を持ち上げる。
 室内には、点けたままの裸電球。流し台には朝使ったカップ。窓は閉じられカーテンが夜風もなく静かに垂れている。

 試すだけなら、何でもよかった。
 カップを浮かせる。電灯を消す。窓を開ける。
 呪文は、喉の奥まで出かかった。だが、唱えなかった。

 イザークは杖を下ろす。壁際へ歩き、電灯のスイッチへ手を伸ばした。指先で押す。小さな音とともに、裸電球が消えた。部屋が暗闇へ沈む。窓の外から差し込む街灯の光だけが、杖と金槌を淡く照らしていた。

 一方は、人を殺すために振るった。
 一方は、家を造るために握った。
 どちらも、自分の手に馴染んでいる。

 イザークは暗闇の中で、二つをしばらく見つめた。
 やがて杖を箱へ戻すことなく、机の上へ置く。金槌の隣へ。

 明後日、持っていく。
 どちらも。十年前の自分も。十年間生きてきた自分も。
 片方だけを置いていくつもりはなかった。

7/18ページ
スキ