賢者の石編
/* 014 - 帰る場所
目を覚ました瞬間、昨夜の出来事が夢であればいいと思った。
天井から吊り下げられた裸電球は消えている。薄いカーテンの向こうでは、夜明け前の空が青灰色へ沈んでいた。窓を僅かに開けたまま眠ったせいか、冷えた風が室内へ入り込み、煙草と古い木材の匂いを薄く攫っている。
寝台の上で、イザークは目を閉じ直した。
あと五分。そう思ったところで、壁際の時計が短い音を鳴らした。
午前四時半。身体は習慣に従い、意識より先に起き上がる。
鉄製の寝台が重みを失い、小さく軋んだ。床へ下ろした足裏へ、夜の冷たさが伝わってくる。眠気は残っていない。昨夜はほとんど眠れなかった。
机の上へ視線を向ける。
羊皮紙が一枚、二つに折られたまま置かれていた。マグルの新聞。魔法界の新聞。欠けた灰皿。その隣に、不釣り合いなほど上質な紙面がある。
見なかったことにはできない。
「……どうしてこうなった」
掠れた声が、誰もいない部屋へ落ちた。
昨夜も同じ言葉を口にした気がする。答えは分かっている。扉を開けたからだ。五分だけなら構わないと、あの老人を部屋へ入れた。話を聞いた。条件を確かめた。そして最後には、自分の口で一年だけだと告げた。誰かに命じられたわけではない。脅されたわけでもない。騙されたとも言い切れない。自分で選んだ。それが何よりも腹立たしかった。
イザークは両手で顔を覆う。
掌へ伸びた無精髭が擦れ、ざらついた感触が返ってきた。
ホグワーツ。マグル学教授。九月一日から、一年間。どれも現実味がない。
子供の頃に通った学校へ、今度は教師として戻る。まして、自分が教えるのはマグルについてだという。十年前まで、命令されるままマグルを殺していた男がだ。教育経験もなければ、子供を好いているわけでもない。教壇に立ったところで、何を話せばいいのかすら分からなかった。
鉄筋の組み方なら教えられる。
コンクリートを流し込む順番も、足場へ上がる時に確認すべき箇所も知っている。だが、それを子供とはいえ魔法使いへ教えて何になる。
「……正気じゃねぇな」
ダンブルドアが、ではない。あの老人が正気でないことなど、三通目の手紙が届いた時点で分かっていた。それを了承した自分の話だった。
イザークは寝台から立ち上がる。
流し台へ向かい、古い薬缶へ水を入れた。火へ掛ける。青い炎が底を舐め、やがて金属の内側から微かな振動が伝わり始める。
杖を使えば一瞬で湯は沸く。
十年間、そうしなかった。今日も同じだった。
棚から欠けた白いカップを取り出す。安い紅茶の葉を入れ、沸騰した湯を注ぐ。立ち昇った蒸気が顔へ触れた。眠気を覚ますには弱い。イザークは砂糖を入れず、そのまま一口飲んだ。熱い。舌が僅かに痺れた。
机の上に置かれた羊皮紙が、視界の端へ入り続ける。
昨夜、ダンブルドアが帰った後、三度読み直した。一度目は、老人が何か細工をしていないか疑いながら。二度目は条件を確かめるため。三度目は、何故自分がそれを受け入れたのか考えるためだった。結局、答えは出なかった。
条件が悪くなかった。現在の部屋は残せる。外の任務へ従う義務もない。
辞めたい時には辞められる。魔法省へ身柄を引き渡されることもない。
だが、それだけなら断ることもできた。
セブルス・スネイプ。
その名を聞いた瞬間、閉じかけた扉を止めた。
十年前、最後に見た男は、青白い燭台の下で闇の帝王へ頭を垂れていた。
自ら差し出した予言によって、愛した女へ死を運んだ男。夫と子の命は好きにしろと告げ、その女だけは助けてくれと縋っていた。
そして今は、ダンブルドアの下で教師をしている。
何を考えているのか。何を信じているのか。あの夜、自分へ当然だと言い切った忠誠を、今はどう見ているのか。知りたいと思った。認めたくはない。だが、そうでなければ羊皮紙を残した理由がつかない。
イザークは紅茶を飲み干した。
空になったカップを流し台へ置き、机の上の煙草へ手を伸ばす。一本を口端へ咥え、マッチを擦った。小さな炎が指先を照らす。煙草の先へ火を移し、深く吸い込んだ。白煙が肺を満たす。ゆっくりと吐き出すと、室内へ薄い膜のように広がった。何の変哲もない、いつもどおりの朝だった。
作業着へ袖を通す。
擦り切れた革のベルトを締め、厚い靴下を履く。寝台の下から安全靴を引き出し、紐を結ぶ。灰色の上着。作業用手袋。古びた弁当箱。水筒。
十年間、何千回と繰り返してきた支度だった。
身体は迷わず動く。ただ一つ違うのは、この生活を続ける日数が、残り僅かになったことだった。
イザークは手を止める。
扉脇へ掛けられた作業着。窓辺へ置かれた泥の乾いた靴。棚の端へ無造作に積まれた給与明細。灰皿へ溜まった吸い殻。仕事帰りに買った新聞。昨日まで意識を向ける価値もなかったものばかりだ。明日もそこにあり明後日も使う。そう思っていた。日常とは、見ようとしなければ輪郭を持たない。それが失われると知った途端、部屋の中の何もかもが、妙に鮮明に見え始めた。
「一年だけだ」
自分へ言い聞かせる。
戻ってくればいい。契約通りなら、この部屋も仕事も完全には失わない。ダンブルドアも、そう約束した。老人の約束など、信じるつもりはない。だが、少なくとも今は、その言葉へ乗ると決めた。
煙草を灰皿へ押し付ける。
作業用手袋を腰の後ろへ差し込み、弁当箱を持ち上げた。
部屋を出る前に、一度だけ振り返る。
羊皮紙は机の上へ残したままだった。
鍵を掛ける。
今朝は、確かに。
階段を下りる。
古い木材が足の下で一段ごとに軋んだ。階下の部屋からは、まだ誰の声も聞こえない。住人達が起き出すには早い時間だった。
玄関を出る。
夜明け前の町には、薄い霧が残っていた。街灯はまだ消えていない。橙色の光が濡れた路面へ落ち、長い影を作っている。遠くでは工場の煙突から白い煙が立ち昇り、低い機械音が既に街の底を震わせていた。
イザークはいつもの道を歩き始める。
食料品店の前を通る。酒場はまだ閉まっている。昨日、窓越しに手を上げてきた男の姿もない。通りの角では新聞配達の少年が自転車を止め、束ねた新聞を一軒ずつ扉の前へ置いていた。何も変わっていない。それなのに、すべてが少しずつ遠ざかっているように感じられた。くだらない感傷だった。
一年後には戻ってくる。
戻ろうと思えば、途中でも戻れる。そう契約した。
それでもイザークは、いつもより僅かに歩調を緩めていた。
建設現場へ着く頃には、空は明るさを増していた。金属製の柵の向こうで、数人の作業員が既に資材を運び始めている。重機のエンジンが掛かり、朝の静けさを押し退けるような唸り声が響いていた。
「遅いぞ、イザーク!」
門を潜った途端、野太い声が飛んできた。
顔を向ける。現場の奥から、腹の出た中年の男が歩いてくる。色褪せた作業着。赤ら顔。口元には短く切った髭。片手には紙のカップが握られていた。
現場監督のハロルドだった。
イザークは腕時計を見る。始業時刻まで、まだ二十分以上ある。
「遅刻はしてねぇ」
「俺より後に来た」
「お前が早すぎるだけだ」
「監督とは、誰より先に現場へ入るものだ」
「昨日はオレより遅かっただろ」
「あれは昨日だ。今日は今日だ」
実に都合のいい理屈だった。
イザークは鼻で笑い、その脇を通り過ぎようとする。
「肩はどうだ」
背後から声が掛かる。足を止めた。
昨日、若い作業員を引き倒した際に打った左肩は、まだ僅かに痛んでいる。腕を上げれば鈍い痛みが走る程度だ。仕事へ支障が出るほどではない。
「何ともねぇ」
「医者には」
「行っていない」
「行け」
「必要ねぇ」
「それを決めるのは医者だ」
イザークは振り返る。
ハロルドは紙のカップを口へ運びながら、こちらを睨んでいた。
「今日、痛みが強くなったら帰すぞ」
「お前にそんな権限があるのか?」
「ある。俺が監督だからな」
「便利な肩書きだな」
吐き捨てるように言うと、ハロルドは満足そうに頷いた。
それ以上、肩について口を出すつもりはないらしい。
イザークは資材置き場へ向かう。
作業用上着を脱ぎ、釘へ掛けた。手袋を嵌める。革は手の形へ馴染み、指を曲げれば柔らかく軋んだ。
昨日と同じ仕事が始まる。鉄筋の位置を確認する。足場の固定具を見回る。運搬車の車輪へ付着した泥を落とす。若い作業員達へ、その日の工程を簡潔に伝える。身体は動く。考える必要はない。だが、現場の一つ一つへ視線を向けるたび、頭の片隅で残りの日数を数えている自分がいた。
あと十日余り。
この基礎工事は、それまでに終わるだろうか。
鉄筋は今週中に組み上がる。天候さえ崩れなければ、コンクリートを流し込むところまでは見届けられる。養生の後は、次の班へ引き継げばいい。
途中で放り出すことにはならない。
そう考え、僅かに安堵した自分へ苛立った。
ホグワーツへ行くことより先に、工事の進み具合を気にしている。
だが当然だった。十年間、こちらが生活だった。教師になる話など、昨日突然現れた老人が持ち込んだだけに過ぎない。
「イザークさん!」
甲高い声に呼ばれる。
振り向くと、昨日助けた若い作業員が走ってきた。二十歳を過ぎたばかりの男だった。栗色の髪は寝癖が残り、保護帽の下から何本も跳ねている。
「昨日は……その、ありがとうございました」
「何の話だ」
「木材の」
「忘れた」
「俺は忘れられませんよ」
若い男は困ったように笑う。
イザークは足場へ視線を向けた。
「忘れろ。次から上を見ろ。それで済む」
「はい」
「返事だけはいいな」
「今日は絶対やらかしません」
「そう言う奴が一番やらかす」
イザークは若者の保護帽を指先で軽く叩いた。
硬い音が鳴る。若者は頭を押さえ、抗議するように顔を上げた。
「痛いですよ」
「帽子を叩いただけだ」
「首まで響きます」
「丈夫にできてる証拠だ」
若者が何か言い返そうと口を開く。
その前に、現場の奥からハロルドの怒声が飛んできた。
「喋ってないで働け!」
「ほら、監督が怒ってるぞ」
「イザークさんも喋ってたじゃないですか」
「オレはいい」
「何でです?」
「お前より長く働いてる」
「横暴だなあ」
ぶつぶつ言いながら、若者は持ち場へ戻っていく。
イザークはその背中を見送った。昨日までなら、何も思わなかったはずだった。足の運びが不安定だ。まだ周囲を見る余裕がない。しばらくは危険な場所へ一人で行かせない方がいい。それだけを考えただろう。
今朝は違った。
一年離れることを、あの男はどう思うだろうか。誰が代わりに目を配る。同じ失敗を繰り返さないか。次に木材が落ちた時、誰かが引き戻せるのか。
余計な心配だった。
イザークが来る前から現場は回っていた。離れた後も同じだ。一人欠けたところで、建物は完成する。それでも、胸の奥へ小さな引っ掛かりが残る。
「……面倒くせぇ」
誰にも聞こえない声で呟く。
鉄筋へ手を掛け、持ち上げた。
午前の作業は、いつも通り進んだ。
重機の音。金属の衝突。怒鳴り声。土と汗の匂い。雲の隙間から差し始めた陽光が、剥き出しの鉄骨を白く照らしている。
イザークは黙々と身体を動かした。
考えないようにしても、考えは消えなかった。
いつ、ハロルドへ話す。どう説明する。一年間、学校で教師をするなどと正直に言えば、まず笑われる。それ以前に、何故今さら教師なのかと問われるだろう。昔の知人から仕事を頼まれた――それで押し通すこともできる。だが、一年間も現場を離れる。曖昧な説明だけで納得する男ではない。
昼休みになっても、結論は出なかった。
作業員達は日陰へ集まり、弁当箱を開いている。誰かが新聞を広げ、昨夜のフットボールの結果について声を上げていた。別の男が野次を飛ばし、笑いが起きる。イザークは、いつもの木箱へ腰を下ろした。弁当箱を開く。冷えたパン。薄い肉。茹でた卵。それだけだった。一口齧る。味はしない。
「珍しいな」
頭上から声が落ちる。
ハロルドだった。
紙のカップを片手に、隣の木箱へ腰を下ろす。
その重みで木材が低く軋んだ。
「何がだ」
「お前が飯を食いながら考え事をしてる」
「いつもしてる」
「いつもは何も考えてない顔だ」
「喧嘩を売ってるのか?」
「事実を言っただけだ」
昨夜のダンブルドアと同じ言葉だった。
イザークは眉間へ皺を寄せる。今日はどうにも、老人から逃げられないらしい。ハロルドはカップの中身を啜り、現場へ目を向けた。
「何かあったのか」
「何もねぇ」
「そうか」
「ああ」
「なら、辞める話じゃないな」
パンを持つ手が止まった。
ハロルドは相変わらず現場を見ている。
こちらへ顔を向けようともしない。
「……何故そう思う」
「顔だ」
「さっきは何も考えてない顔だと言っただろ」
「十年も見てりゃ、多少は分かる」
イザークは黙った。
ハロルドは紙のカップを両手で包む。
しばらく何も言わなかった。
遠くで誰かが笑っている。
風が吹き、積み上げられた防水布の端が大きく鳴った。
「辞めるのか」
静かな問いだった。
イザークはパンを弁当箱へ戻す。
即座に否定することはできなかった。
「……一年だけだ。一年、離れる」
ハロルドがようやく顔を向ける。
驚いた様子はない。ただ、眉だけが僅かに持ち上がった。
「どこへ行く」
「北だ」
「随分と広いな」
「細かい場所を言っても分からねぇ」
「言えない、の間違いじゃないのか」
相変わらず、妙なところだけ鋭い男だった。
イザークは煙草へ手を伸ばしかけ、やめた。現場内では決められた場所でしか吸えない。以前は平気で破り、何度も怒鳴られた。今は一応守っている。
「昔の知り合いに、仕事を頼まれた」
「どんな仕事だ」
「……教師だ」
沈黙が落ちた。
ハロルドは瞬きを一度する。
もう一度する。それから、ゆっくりと顔を背けた。肩が震えている。
「笑うな」
「笑ってない」
「こっちを向け」
「無理だ」
「てめぇ……殺すぞ」
「教師が言っていい台詞じゃないな」
とうとう堪え切れなくなったのか、ハロルドは声を上げて笑い始めた。
周囲にいた作業員達が、一斉にこちらを見る。
イザークは本気で、この男の顎を殴るべきか考えた。
「お前が教師か」
ハロルドは目元を拭いながら繰り返す。
「子供に何を教えるつもりだ? 人の睨み方か。煙草の吸い方か。それとも、口答えする上司への脅し方か」
「全部お前より上手く教えられる」
「否定しないのか」
笑いは収まらない。
イザークは弁当箱の蓋を閉じた。
「話は終わりだ」
「待て待て。悪かった」
全く悪いと思っていない顔だった。
ハロルドは咳払いをし、どうにか表情を整える。
それでも口元は緩んだままだ。
「本当に教師なのか」
「ああ」
「どこの学校だ」
「寄宿学校だ」
「科目は」
「……世間一般についてだ」
「何だそれは」
「オレが聞きたい」
ハロルドは再び笑いかけたが、イザークの顔を見て思い直したらしい。
口元を手で覆い、息を整える。
「一年だけなんだな」
「ああ。合わなきゃ途中でも戻る」
「戻るつもりはあるのか」
イザークは答えなかった。
戻るつもりで部屋を残す。仕事も、可能なら籍を残してほしい。だが一年後、本当に戻ってくるのか。自分でも分からない。
ハロルドは返事を待たなかった。
紙のカップを足元へ置き、膝へ両肘を預ける。
「今の基礎が終わるまではいるんだろうな」
イザークは僅かに目を細める。
「当然だ」
「ならいい」
「……それだけか」
「他に何がある」
ハロルドは現場を顎で示した。
「お前がいなくなれば人手は減る。若い連中の面倒を見る奴も必要になる。面倒ではある。だが、一年くらいならどうにかなる」
「籍を残せるのか」
「残してほしいのか?」
即座に返され、イザークは言葉を失った。
自分から頼むつもりだった。だがいざ問われると、口に出すことが難しい。戻る場所を残してほしい。その一言は、助けを求めるよりも言いづらかった。
ハロルドはしばらく待った。
やがて、小さく鼻を鳴らす。
「一年経って戻ってきた時、仕事がある保証はできん」
「分かってる」
「同じ現場とも限らない」
「ああ」
「給料も上げない」
「下げたら殺す」
「だが、会社の名簿から消すつもりはない」
イザークはハロルドを見る。
男は現場へ視線を向けたままだった。
「お前が戻りたいと思った時に、話くらいは聞いてやる」
簡単な言葉だった。
大仰な約束ではない。必ず雇うとも、待っているとも言わない。ただ、戻った時に話を聞く。それだけだった。それだけで十分だった。
「……恩に着る」
声は、自分でも驚くほど低くなった。
ハロルドがこちらを見る。
その顔から、先ほどまでの笑みが消えていた。
「珍しいことを言うな」
「忘れろ」
「皆に話して回ろう」
「やはり今ここで殺す」
ハロルドは笑った。
今度の笑いは、先ほどよりも静かだった。
「若い連中には、自分で話せ」
「何故だ」
「お前の口から聞くべきだろう」
「面倒くせぇ」
「教師になるんだ。人前で話す練習だと思え」
「もう辞めたくなってきた」
「まだ始まってもいないぞ」
昼休みの終わりを告げる笛が鳴った。
作業員達が立ち上がり、それぞれの持ち場へ戻り始める。
ハロルドも腰を上げる。
紙のカップを握り潰し、近くの箱へ放り込んだ。
「イザーク」
呼ばれ、顔を上げる。
「向こうでクビになったら、なるべく早く戻ってこい」
「一年保たない前提で話すな」
「お前が子供相手に一か月保つと思うか?」
「……思わねぇな」
「俺もだ」
イザークは舌打ちする。
ハロルドは笑いながら歩き去っていった。
その背中を見送る。胸の奥へ残っていた重さが、ほんの僅かに薄れていた。同時に、別の重みが加わった気もする。帰る場所は、部屋だけではなかった。その事実へ、十年経って初めて気付いた。
目を覚ました瞬間、昨夜の出来事が夢であればいいと思った。
天井から吊り下げられた裸電球は消えている。薄いカーテンの向こうでは、夜明け前の空が青灰色へ沈んでいた。窓を僅かに開けたまま眠ったせいか、冷えた風が室内へ入り込み、煙草と古い木材の匂いを薄く攫っている。
寝台の上で、イザークは目を閉じ直した。
あと五分。そう思ったところで、壁際の時計が短い音を鳴らした。
午前四時半。身体は習慣に従い、意識より先に起き上がる。
鉄製の寝台が重みを失い、小さく軋んだ。床へ下ろした足裏へ、夜の冷たさが伝わってくる。眠気は残っていない。昨夜はほとんど眠れなかった。
机の上へ視線を向ける。
羊皮紙が一枚、二つに折られたまま置かれていた。マグルの新聞。魔法界の新聞。欠けた灰皿。その隣に、不釣り合いなほど上質な紙面がある。
見なかったことにはできない。
「……どうしてこうなった」
掠れた声が、誰もいない部屋へ落ちた。
昨夜も同じ言葉を口にした気がする。答えは分かっている。扉を開けたからだ。五分だけなら構わないと、あの老人を部屋へ入れた。話を聞いた。条件を確かめた。そして最後には、自分の口で一年だけだと告げた。誰かに命じられたわけではない。脅されたわけでもない。騙されたとも言い切れない。自分で選んだ。それが何よりも腹立たしかった。
イザークは両手で顔を覆う。
掌へ伸びた無精髭が擦れ、ざらついた感触が返ってきた。
ホグワーツ。マグル学教授。九月一日から、一年間。どれも現実味がない。
子供の頃に通った学校へ、今度は教師として戻る。まして、自分が教えるのはマグルについてだという。十年前まで、命令されるままマグルを殺していた男がだ。教育経験もなければ、子供を好いているわけでもない。教壇に立ったところで、何を話せばいいのかすら分からなかった。
鉄筋の組み方なら教えられる。
コンクリートを流し込む順番も、足場へ上がる時に確認すべき箇所も知っている。だが、それを子供とはいえ魔法使いへ教えて何になる。
「……正気じゃねぇな」
ダンブルドアが、ではない。あの老人が正気でないことなど、三通目の手紙が届いた時点で分かっていた。それを了承した自分の話だった。
イザークは寝台から立ち上がる。
流し台へ向かい、古い薬缶へ水を入れた。火へ掛ける。青い炎が底を舐め、やがて金属の内側から微かな振動が伝わり始める。
杖を使えば一瞬で湯は沸く。
十年間、そうしなかった。今日も同じだった。
棚から欠けた白いカップを取り出す。安い紅茶の葉を入れ、沸騰した湯を注ぐ。立ち昇った蒸気が顔へ触れた。眠気を覚ますには弱い。イザークは砂糖を入れず、そのまま一口飲んだ。熱い。舌が僅かに痺れた。
机の上に置かれた羊皮紙が、視界の端へ入り続ける。
昨夜、ダンブルドアが帰った後、三度読み直した。一度目は、老人が何か細工をしていないか疑いながら。二度目は条件を確かめるため。三度目は、何故自分がそれを受け入れたのか考えるためだった。結局、答えは出なかった。
条件が悪くなかった。現在の部屋は残せる。外の任務へ従う義務もない。
辞めたい時には辞められる。魔法省へ身柄を引き渡されることもない。
だが、それだけなら断ることもできた。
セブルス・スネイプ。
その名を聞いた瞬間、閉じかけた扉を止めた。
十年前、最後に見た男は、青白い燭台の下で闇の帝王へ頭を垂れていた。
自ら差し出した予言によって、愛した女へ死を運んだ男。夫と子の命は好きにしろと告げ、その女だけは助けてくれと縋っていた。
そして今は、ダンブルドアの下で教師をしている。
何を考えているのか。何を信じているのか。あの夜、自分へ当然だと言い切った忠誠を、今はどう見ているのか。知りたいと思った。認めたくはない。だが、そうでなければ羊皮紙を残した理由がつかない。
イザークは紅茶を飲み干した。
空になったカップを流し台へ置き、机の上の煙草へ手を伸ばす。一本を口端へ咥え、マッチを擦った。小さな炎が指先を照らす。煙草の先へ火を移し、深く吸い込んだ。白煙が肺を満たす。ゆっくりと吐き出すと、室内へ薄い膜のように広がった。何の変哲もない、いつもどおりの朝だった。
作業着へ袖を通す。
擦り切れた革のベルトを締め、厚い靴下を履く。寝台の下から安全靴を引き出し、紐を結ぶ。灰色の上着。作業用手袋。古びた弁当箱。水筒。
十年間、何千回と繰り返してきた支度だった。
身体は迷わず動く。ただ一つ違うのは、この生活を続ける日数が、残り僅かになったことだった。
イザークは手を止める。
扉脇へ掛けられた作業着。窓辺へ置かれた泥の乾いた靴。棚の端へ無造作に積まれた給与明細。灰皿へ溜まった吸い殻。仕事帰りに買った新聞。昨日まで意識を向ける価値もなかったものばかりだ。明日もそこにあり明後日も使う。そう思っていた。日常とは、見ようとしなければ輪郭を持たない。それが失われると知った途端、部屋の中の何もかもが、妙に鮮明に見え始めた。
「一年だけだ」
自分へ言い聞かせる。
戻ってくればいい。契約通りなら、この部屋も仕事も完全には失わない。ダンブルドアも、そう約束した。老人の約束など、信じるつもりはない。だが、少なくとも今は、その言葉へ乗ると決めた。
煙草を灰皿へ押し付ける。
作業用手袋を腰の後ろへ差し込み、弁当箱を持ち上げた。
部屋を出る前に、一度だけ振り返る。
羊皮紙は机の上へ残したままだった。
鍵を掛ける。
今朝は、確かに。
階段を下りる。
古い木材が足の下で一段ごとに軋んだ。階下の部屋からは、まだ誰の声も聞こえない。住人達が起き出すには早い時間だった。
玄関を出る。
夜明け前の町には、薄い霧が残っていた。街灯はまだ消えていない。橙色の光が濡れた路面へ落ち、長い影を作っている。遠くでは工場の煙突から白い煙が立ち昇り、低い機械音が既に街の底を震わせていた。
イザークはいつもの道を歩き始める。
食料品店の前を通る。酒場はまだ閉まっている。昨日、窓越しに手を上げてきた男の姿もない。通りの角では新聞配達の少年が自転車を止め、束ねた新聞を一軒ずつ扉の前へ置いていた。何も変わっていない。それなのに、すべてが少しずつ遠ざかっているように感じられた。くだらない感傷だった。
一年後には戻ってくる。
戻ろうと思えば、途中でも戻れる。そう契約した。
それでもイザークは、いつもより僅かに歩調を緩めていた。
建設現場へ着く頃には、空は明るさを増していた。金属製の柵の向こうで、数人の作業員が既に資材を運び始めている。重機のエンジンが掛かり、朝の静けさを押し退けるような唸り声が響いていた。
「遅いぞ、イザーク!」
門を潜った途端、野太い声が飛んできた。
顔を向ける。現場の奥から、腹の出た中年の男が歩いてくる。色褪せた作業着。赤ら顔。口元には短く切った髭。片手には紙のカップが握られていた。
現場監督のハロルドだった。
イザークは腕時計を見る。始業時刻まで、まだ二十分以上ある。
「遅刻はしてねぇ」
「俺より後に来た」
「お前が早すぎるだけだ」
「監督とは、誰より先に現場へ入るものだ」
「昨日はオレより遅かっただろ」
「あれは昨日だ。今日は今日だ」
実に都合のいい理屈だった。
イザークは鼻で笑い、その脇を通り過ぎようとする。
「肩はどうだ」
背後から声が掛かる。足を止めた。
昨日、若い作業員を引き倒した際に打った左肩は、まだ僅かに痛んでいる。腕を上げれば鈍い痛みが走る程度だ。仕事へ支障が出るほどではない。
「何ともねぇ」
「医者には」
「行っていない」
「行け」
「必要ねぇ」
「それを決めるのは医者だ」
イザークは振り返る。
ハロルドは紙のカップを口へ運びながら、こちらを睨んでいた。
「今日、痛みが強くなったら帰すぞ」
「お前にそんな権限があるのか?」
「ある。俺が監督だからな」
「便利な肩書きだな」
吐き捨てるように言うと、ハロルドは満足そうに頷いた。
それ以上、肩について口を出すつもりはないらしい。
イザークは資材置き場へ向かう。
作業用上着を脱ぎ、釘へ掛けた。手袋を嵌める。革は手の形へ馴染み、指を曲げれば柔らかく軋んだ。
昨日と同じ仕事が始まる。鉄筋の位置を確認する。足場の固定具を見回る。運搬車の車輪へ付着した泥を落とす。若い作業員達へ、その日の工程を簡潔に伝える。身体は動く。考える必要はない。だが、現場の一つ一つへ視線を向けるたび、頭の片隅で残りの日数を数えている自分がいた。
あと十日余り。
この基礎工事は、それまでに終わるだろうか。
鉄筋は今週中に組み上がる。天候さえ崩れなければ、コンクリートを流し込むところまでは見届けられる。養生の後は、次の班へ引き継げばいい。
途中で放り出すことにはならない。
そう考え、僅かに安堵した自分へ苛立った。
ホグワーツへ行くことより先に、工事の進み具合を気にしている。
だが当然だった。十年間、こちらが生活だった。教師になる話など、昨日突然現れた老人が持ち込んだだけに過ぎない。
「イザークさん!」
甲高い声に呼ばれる。
振り向くと、昨日助けた若い作業員が走ってきた。二十歳を過ぎたばかりの男だった。栗色の髪は寝癖が残り、保護帽の下から何本も跳ねている。
「昨日は……その、ありがとうございました」
「何の話だ」
「木材の」
「忘れた」
「俺は忘れられませんよ」
若い男は困ったように笑う。
イザークは足場へ視線を向けた。
「忘れろ。次から上を見ろ。それで済む」
「はい」
「返事だけはいいな」
「今日は絶対やらかしません」
「そう言う奴が一番やらかす」
イザークは若者の保護帽を指先で軽く叩いた。
硬い音が鳴る。若者は頭を押さえ、抗議するように顔を上げた。
「痛いですよ」
「帽子を叩いただけだ」
「首まで響きます」
「丈夫にできてる証拠だ」
若者が何か言い返そうと口を開く。
その前に、現場の奥からハロルドの怒声が飛んできた。
「喋ってないで働け!」
「ほら、監督が怒ってるぞ」
「イザークさんも喋ってたじゃないですか」
「オレはいい」
「何でです?」
「お前より長く働いてる」
「横暴だなあ」
ぶつぶつ言いながら、若者は持ち場へ戻っていく。
イザークはその背中を見送った。昨日までなら、何も思わなかったはずだった。足の運びが不安定だ。まだ周囲を見る余裕がない。しばらくは危険な場所へ一人で行かせない方がいい。それだけを考えただろう。
今朝は違った。
一年離れることを、あの男はどう思うだろうか。誰が代わりに目を配る。同じ失敗を繰り返さないか。次に木材が落ちた時、誰かが引き戻せるのか。
余計な心配だった。
イザークが来る前から現場は回っていた。離れた後も同じだ。一人欠けたところで、建物は完成する。それでも、胸の奥へ小さな引っ掛かりが残る。
「……面倒くせぇ」
誰にも聞こえない声で呟く。
鉄筋へ手を掛け、持ち上げた。
午前の作業は、いつも通り進んだ。
重機の音。金属の衝突。怒鳴り声。土と汗の匂い。雲の隙間から差し始めた陽光が、剥き出しの鉄骨を白く照らしている。
イザークは黙々と身体を動かした。
考えないようにしても、考えは消えなかった。
いつ、ハロルドへ話す。どう説明する。一年間、学校で教師をするなどと正直に言えば、まず笑われる。それ以前に、何故今さら教師なのかと問われるだろう。昔の知人から仕事を頼まれた――それで押し通すこともできる。だが、一年間も現場を離れる。曖昧な説明だけで納得する男ではない。
昼休みになっても、結論は出なかった。
作業員達は日陰へ集まり、弁当箱を開いている。誰かが新聞を広げ、昨夜のフットボールの結果について声を上げていた。別の男が野次を飛ばし、笑いが起きる。イザークは、いつもの木箱へ腰を下ろした。弁当箱を開く。冷えたパン。薄い肉。茹でた卵。それだけだった。一口齧る。味はしない。
「珍しいな」
頭上から声が落ちる。
ハロルドだった。
紙のカップを片手に、隣の木箱へ腰を下ろす。
その重みで木材が低く軋んだ。
「何がだ」
「お前が飯を食いながら考え事をしてる」
「いつもしてる」
「いつもは何も考えてない顔だ」
「喧嘩を売ってるのか?」
「事実を言っただけだ」
昨夜のダンブルドアと同じ言葉だった。
イザークは眉間へ皺を寄せる。今日はどうにも、老人から逃げられないらしい。ハロルドはカップの中身を啜り、現場へ目を向けた。
「何かあったのか」
「何もねぇ」
「そうか」
「ああ」
「なら、辞める話じゃないな」
パンを持つ手が止まった。
ハロルドは相変わらず現場を見ている。
こちらへ顔を向けようともしない。
「……何故そう思う」
「顔だ」
「さっきは何も考えてない顔だと言っただろ」
「十年も見てりゃ、多少は分かる」
イザークは黙った。
ハロルドは紙のカップを両手で包む。
しばらく何も言わなかった。
遠くで誰かが笑っている。
風が吹き、積み上げられた防水布の端が大きく鳴った。
「辞めるのか」
静かな問いだった。
イザークはパンを弁当箱へ戻す。
即座に否定することはできなかった。
「……一年だけだ。一年、離れる」
ハロルドがようやく顔を向ける。
驚いた様子はない。ただ、眉だけが僅かに持ち上がった。
「どこへ行く」
「北だ」
「随分と広いな」
「細かい場所を言っても分からねぇ」
「言えない、の間違いじゃないのか」
相変わらず、妙なところだけ鋭い男だった。
イザークは煙草へ手を伸ばしかけ、やめた。現場内では決められた場所でしか吸えない。以前は平気で破り、何度も怒鳴られた。今は一応守っている。
「昔の知り合いに、仕事を頼まれた」
「どんな仕事だ」
「……教師だ」
沈黙が落ちた。
ハロルドは瞬きを一度する。
もう一度する。それから、ゆっくりと顔を背けた。肩が震えている。
「笑うな」
「笑ってない」
「こっちを向け」
「無理だ」
「てめぇ……殺すぞ」
「教師が言っていい台詞じゃないな」
とうとう堪え切れなくなったのか、ハロルドは声を上げて笑い始めた。
周囲にいた作業員達が、一斉にこちらを見る。
イザークは本気で、この男の顎を殴るべきか考えた。
「お前が教師か」
ハロルドは目元を拭いながら繰り返す。
「子供に何を教えるつもりだ? 人の睨み方か。煙草の吸い方か。それとも、口答えする上司への脅し方か」
「全部お前より上手く教えられる」
「否定しないのか」
笑いは収まらない。
イザークは弁当箱の蓋を閉じた。
「話は終わりだ」
「待て待て。悪かった」
全く悪いと思っていない顔だった。
ハロルドは咳払いをし、どうにか表情を整える。
それでも口元は緩んだままだ。
「本当に教師なのか」
「ああ」
「どこの学校だ」
「寄宿学校だ」
「科目は」
「……世間一般についてだ」
「何だそれは」
「オレが聞きたい」
ハロルドは再び笑いかけたが、イザークの顔を見て思い直したらしい。
口元を手で覆い、息を整える。
「一年だけなんだな」
「ああ。合わなきゃ途中でも戻る」
「戻るつもりはあるのか」
イザークは答えなかった。
戻るつもりで部屋を残す。仕事も、可能なら籍を残してほしい。だが一年後、本当に戻ってくるのか。自分でも分からない。
ハロルドは返事を待たなかった。
紙のカップを足元へ置き、膝へ両肘を預ける。
「今の基礎が終わるまではいるんだろうな」
イザークは僅かに目を細める。
「当然だ」
「ならいい」
「……それだけか」
「他に何がある」
ハロルドは現場を顎で示した。
「お前がいなくなれば人手は減る。若い連中の面倒を見る奴も必要になる。面倒ではある。だが、一年くらいならどうにかなる」
「籍を残せるのか」
「残してほしいのか?」
即座に返され、イザークは言葉を失った。
自分から頼むつもりだった。だがいざ問われると、口に出すことが難しい。戻る場所を残してほしい。その一言は、助けを求めるよりも言いづらかった。
ハロルドはしばらく待った。
やがて、小さく鼻を鳴らす。
「一年経って戻ってきた時、仕事がある保証はできん」
「分かってる」
「同じ現場とも限らない」
「ああ」
「給料も上げない」
「下げたら殺す」
「だが、会社の名簿から消すつもりはない」
イザークはハロルドを見る。
男は現場へ視線を向けたままだった。
「お前が戻りたいと思った時に、話くらいは聞いてやる」
簡単な言葉だった。
大仰な約束ではない。必ず雇うとも、待っているとも言わない。ただ、戻った時に話を聞く。それだけだった。それだけで十分だった。
「……恩に着る」
声は、自分でも驚くほど低くなった。
ハロルドがこちらを見る。
その顔から、先ほどまでの笑みが消えていた。
「珍しいことを言うな」
「忘れろ」
「皆に話して回ろう」
「やはり今ここで殺す」
ハロルドは笑った。
今度の笑いは、先ほどよりも静かだった。
「若い連中には、自分で話せ」
「何故だ」
「お前の口から聞くべきだろう」
「面倒くせぇ」
「教師になるんだ。人前で話す練習だと思え」
「もう辞めたくなってきた」
「まだ始まってもいないぞ」
昼休みの終わりを告げる笛が鳴った。
作業員達が立ち上がり、それぞれの持ち場へ戻り始める。
ハロルドも腰を上げる。
紙のカップを握り潰し、近くの箱へ放り込んだ。
「イザーク」
呼ばれ、顔を上げる。
「向こうでクビになったら、なるべく早く戻ってこい」
「一年保たない前提で話すな」
「お前が子供相手に一か月保つと思うか?」
「……思わねぇな」
「俺もだ」
イザークは舌打ちする。
ハロルドは笑いながら歩き去っていった。
その背中を見送る。胸の奥へ残っていた重さが、ほんの僅かに薄れていた。同時に、別の重みが加わった気もする。帰る場所は、部屋だけではなかった。その事実へ、十年経って初めて気付いた。