賢者の石編
/* 013 - 五分間の契約
部屋は狭かった。
扉を閉めれば、廊下から差し込んでいた光は途絶え、天井から吊るされた裸電球の橙色だけが室内を照らした。壁際には鉄製の寝台。窓の下には小さな机と椅子が一脚。反対側には流し台と、古びた調理台が押し込まれている。家具と呼べるものは、それだけだった。
飾りらしい飾りはない。
写真も、絵画も、魔法道具も見当たらない。
机の上には新聞と灰皿。半分ほど残された食事。壁際の棚には、幾冊かの本と酒瓶が並んでいる。どれも使い込まれていたが、部屋はよく片付いていた。生活に必要なものだけを残し、不要なものは最初から持ち込まない。十年前のイザーク・クレイヴンを知る者ならば、酷く彼らしい部屋だと思っただろう。
ダンブルドアは室内へ足を踏み入れたまま、立ち止まった。
「座れ」
背後から低い声が落ちる。
振り返ると、イザークは扉の前に立ったまま、顎で椅子を示していた。
「君はどうするのかね」
「立ってる」
「では、わしも立っておこう」
「好きにしろ」
イザークは壁へ背を預け、腕を組む。先ほど灰皿へ押し付けた煙草の残り香が、薄い部屋の空気へ漂っていた。濡れた銀髪は額へ数筋落ちたまま。灰色の瞳には、客を迎え入れた者の柔らかさなど一片もない。
ダンブルドアは椅子へ座らなかった。
机の脇へ立ち、部屋を眺めることもやめた。これ以上、勝手に生活を値踏みされることをイザークは望んでいない。既に一日、十分すぎるほど見てきた。
壁へ掛けられた時計が、小さく秒を刻んでいる。
針は午後七時十二分を指していた。イザークが視線だけを時計へ向ける。
「五分だ」
「承知しておる」
「もう始まってる」
「これは失礼した」
ダンブルドアはローブではなく、背広の内側へ手を入れた。
イザークの身体が僅かに強張る。腕を組んだ姿勢は崩さない。だが、右手の指先だけが、左の脇腹近くへ寄った。そこに杖があるのだろう。
ダンブルドアが取り出したのは、一枚の羊皮紙だった。
机の上へ置く。紙面には、幾つかの条件が簡潔に記されている。イザークは近付かなかった。壁へ寄り掛かったまま、灰色の瞳だけを羊皮紙へ落とす。
「契約書か」
「提案書と言った方が近いかのう」
「同じようなもんだ」
「内容を読んでから決めても遅くはあるまい」
イザークは鼻で小さく笑った。
「手紙を三通返した意味が分からなかったらしいな」
「手紙は読まれなかった。じゃが今、君はわしを部屋へ入れた」
「五分だけだ」
「その五分を、無駄にするつもりはない」
ダンブルドアは穏やかに告げた。
イザークは答えない。時計の秒針だけが動く。
「まず、わしは君へ、過去を償うためホグワーツへ来いと言うつもりはない」
「……随分と都合のいい始まりだな」
「君がそれを望んでおらんからじゃ」
イザークの眉が僅かに動く。
「贖罪は他人が命じるものではない。まして、教職を罰として与えるべきでもない。教師となる者が、自らを罰するために子供達を利用してはならん」
イザークは腕を組んだまま、ダンブルドアを見つめている。
「なら何だ。オレが立派な教師になれるとでも言うつもりか」
「立派である必要はない」
「校長が言う台詞じゃねぇな」
「立派に見える教師が、必ずしも良い教師とは限らんのでな」
僅かに、イザークの口元が歪んだ。
笑ったわけではない。呆れただけだろう。
「教えてほしいのは、マグルの機械の名称や、貨幣の使い方だけではない」
「それすら教えられる保証はねぇぞ」
「十年暮らしておいてかね」
「暮らすのと教えるのは別だ」
「その通りじゃ」
あまりにもあっさり肯定され、イザークが僅かに目を細める。
「君には教師としての経験がない。子供との接し方も知らん。授業計画を立てたこともなければ、試験問題を作ったこともないじゃろう」
「喧嘩を売りに来たのか?」
「事実を並べておるだけじゃよ」
ダンブルドアは微笑む。
イザークは笑わなかった。
「それでも、君にしか教えられぬものがある」
部屋の空気が僅かに変わる。
イザークの灰色の瞳から、薄い苛立ちが消えた。
代わりに浮かんだのは警戒だった。
「また聞こえのいい話か」
「いいや。むしろ、あまり聞こえのよくない話じゃ」
ダンブルドアは机上の新聞へ視線を落とす。
マグルの新聞。その下から覗く、魔法界の紙面。
「魔法使いの多くは、マグルを知らん。知らぬまま恐れ、知らぬまま見下し、知らぬまま憐れむ」
イザークは何も言わない。
「マグル生まれの子供ですら、魔法界へ入れば、いつしか自分が生まれた世界を説明する言葉を失うことがある。純血の子供達は、電気も、機械も、マグルの労働も知らん。それでいて、自分達の方が優れておると教えられて育つ」
「今さら驚く話じゃねぇ」
「そうじゃ。今さらじゃ」
ダンブルドアの声音から、僅かに笑みが消えた。
「そして、その今さらを放置した結果、多くの若者がヴォルデモートの言葉へ惹かれた」
イザークの瞳が冷えた。
「説教なら帰れ」
「君を責めておるのではない」
「同じことだ」
「違う」
穏やかな声だった。
だが、明確な否定だった。イザークが僅かに顎を上げる。
「わしは、君が何故死喰い人になったのかを聞いておらん。報告書にも、セブルスの話にも、その答えはなかった」
「答えるつもりもねぇ」
「それでよい」
ダンブルドアは頷いた。
「じゃが、血筋で人の価値が決まる世界を、君が好んでいなかったことくらいは想像できる」
イザークの表情が止まった。
時計の針が、一秒進む。また一秒。
「……何を根拠に」
「君は孤児院で育った。家名も、後ろ盾もない。にもかかわらず、純血の名家が多く集まる組織へ入り、その中で実力だけを頼りに立場を得た」
ダンブルドアは言葉を選びながら続ける。
「君が求めたのは純血の支配ではない。生まれではなく、力によって価値が決まる場所だったのではないかね」
イザークの腕が解けた。
壁へ寄せていた肩が、ゆっくりと離れる。
表情は変わらない。
だが、それまでよりも重い沈黙が部屋へ落ちた。
「……勝手な想像だ」
「そうかもしれん」
ダンブルドアは否定しない。
「じゃが、もしそうならば。君が求めた世界と、ヴォルデモートが作ろうとした世界は、最初から同じではなかった」
「黙れ」
低い声だった。怒鳴り声ではない。
それでも、秒針の音が一瞬遠退いたように感じられた。
イザークの右手が握られている。
掌へ爪が食い込むほど強く。
「お前に、何が分かる」
「分からん」
即答だった。
イザークの目が僅かに見開かれる。
「君が何を信じ、何を見て、それを失ったのか。わしには分からん。分かったような顔をするつもりもない」
ダンブルドアは青い瞳を逸らさなかった。
「じゃが、君が十年間、魔法を使わず働いたことは知っておる。人を殺すために使っていた手で、家の基礎を造り続けたことも」
「それが何だ」
「何でもないのかもしれん」
イザークの眉が寄る。
「君にとっては、ただ働いただけなのじゃろう。生きるために必要だった。金を得るために土を掘った。それだけかもしれん」
ダンブルドアは机の上へ置いた羊皮紙へ指先を添えた。
「じゃが、その十年を、何も知らぬ子供達へ見せる価値はある」
「見せ物になれってか」
「生き方を語れとは言わん」
ダンブルドアは静かに首を横へ振る。
「君が何者だったかを、公にするつもりもない。過去を話すかどうかも、君が決めればよい。授業で求めるのは、マグルが杖を持たず、どのように生活を築いているのか。それを教えることじゃ」
「本なら読める」
「本には汗の重さは書かれておらん」
イザークは黙った。
「鉄筋を一本運ぶ重さも。朝、働くために起きる理由も。魔法を使わず一つの家が出来上がるまで、どれほど多くの人間が関わるかも。本の上では、ただの工程になる。じゃが――君は、それを知っておる」
イザークは時計へ視線を向けた。
四分が過ぎようとしている。
「残り一分だ」
「では、一番大切な話をしよう」
「今までのは何だったんだ」
「前置きじゃな」
「長ぇ前置きだ」
イザークは苛立ったように息を吐く。
だが、追い出そうとはしなかった。
ダンブルドアは羊皮紙を裏返した。
そこには、先ほどまで隠れていた条件が記されていた。
「任期は一年」
「……何?」
「一年だけ、ホグワーツへ来てほしい」
イザークの視線が羊皮紙へ落ちる。
「一年を終え、戻りたいと思えなければ、この町へ帰ればよい。途中で辞めることも認める。学校外の任務へ参加する義務もない。ヴォルデモートに関する情報を提供するかどうかも、君が決める」
「随分と都合のいい条件だな」
「君に来てもらうために考えた条件じゃからな」
「隠す気もねぇのか」
「隠したところで、君は余計に疑うじゃろう」
それは否定できないのか、イザークは何も言わなかった。
「給与は出る。住居と食事は学校が用意する。今の部屋は、そのまま残しておけばよい。家賃の一部はホグワーツが負担しよう」
「いらねぇ」
「戻る場所を残すためじゃ」
イザークの視線が鋭くなる。
ダンブルドアは続けた。
「君に帰る場所を捨てろと言うつもりはない」
時計の針が一つ進んだ。
部屋の外で、階段を上る足音が聞こえる。
誰かが隣室の扉を開け、短い会話を交わす。鍵が回る。やがて静かになる。
イザークは羊皮紙を見つめていた。
手には取らない。
「……話は終わりか」
「最後に一つだけ」
「五分は過ぎた」
「分かっておる」
「なら帰れ」
「セブルスが、君を信用できないと言っておった」
イザークの目が持ち上がる。
ダンブルドアは穏やかな顔をしていた。
だが、その言葉だけは意図的に選ばれたものだった。
「……何だと」
「十年大人しく暮らしただけで、信用に値するとは思えんそうじゃ」
イザークの口元が、ゆっくりと歪む。
笑みではない。ひどく不愉快なものを聞いた時の顔だった。
「あの野郎……自分のことを棚に上げやがって」
「わしも同じことを言った」
「余計なことをする爺だな」
「君なら、彼へ何と答えるかね」
イザークはダンブルドアを睨んだ。
「挑発してるつもりか」
「否定はせん」
数秒の沈黙。
壁の時計が、午後七時十七分を告げる。
五分は、確かに終わっていた。
ダンブルドアは机上の羊皮紙から手を離した。
「時間じゃな」
そう告げ、扉へ向かう。
イザークは止めなかった。ダンブルドアは一歩、二歩と歩き、扉の取っ手へ手を掛ける。背後から声はない。これ以上言葉を重ねれば、約束を破ることになる。五分だけ。それが条件だった。取っ手を回す。扉を僅かに開く。廊下の冷えた空気が、細い隙間から室内へ流れ込んだ。
「……待て」
低い声が背中へ届く。
ダンブルドアは振り返らなかった。
扉へ手を掛けたまま、静かに返す。
「まだ何かあるかね」
「その紙を置いていけ」
ダンブルドアの口元へ、ごく僅かな笑みが浮かぶ。
だが、それを見せぬよう、扉の方を向いたまま答えた。
「読んでくれるのかね」
「条件を確認するだけだ。行くとは言ってねぇ」
「無論じゃ」
ダンブルドアは手を離した。
扉が静かに閉じる。
振り返ると、イザークは机の前へ立っていた。
羊皮紙を手に取り、険しい顔で文字を追っている。眉間には深い皺が刻まれ今にも紙を破り捨てそうな表情だった。
「一年だけだな」
「一年じゃ」
「外の任務は断れる」
「断れる」
「途中で辞めても、この町へ戻れる」
「誰にも止めさせん」
「魔法省には」
「居場所は知らせぬ。ホグワーツへ来るなら、必要な手続きはこちらで行う」
イザークは羊皮紙を下ろした。
灰色の瞳が、真っ直ぐダンブルドアを捉える。
「スネイプは、オレが来ることを知ってるのか」
「まだ決まったとは伝えておらん」
「反対してるんだろ」
「強くのう」
イザークは鼻で笑った。
十年前と変わらぬ、獰猛さを帯びた笑いだった。
「……なら、面白ぇ」
ダンブルドアは何も言わない。
「一年だけだ」
イザークは羊皮紙を二つに折る。
破るのではなく、机の端へ置いた。
「一年で、お前の言ってることが下らねぇと分かったら、すぐに戻る。ガキの世話も、戦争ごっこも二度と御免だ」
「承知した」
「それと」
イザークは目を細める。
「オレを駒として使おうとした時点で、契約は終わりだ」
「約束しよう」
「約束なんざ信用しねぇ」
「では、行動で示すほかないのう」
長い沈黙の後、イザークは深く息を吐いた。
「……いつからだ」
「新学期は九月一日じゃ」
「二週間もねぇじゃねぇか」
「善は急げと言うからのう」
「お前の都合だろうが」
「それも否定はできんな」
イザークは額へ手を当てる。
明らかに後悔し始めている顔だった。
「……どうしてこうなった」
「君が話を聞いてくれたからじゃよ」
「聞かなきゃよかったぜ」
吐き捨てるように言いながらも、羊皮紙を捨てようとはしなかった。
机の上では、マグルと魔法界、二つの新聞が重なっている。その隣へ置かれた一枚の契約書が、十年間隔てられていた二つの世界を結び始めていた。
部屋は狭かった。
扉を閉めれば、廊下から差し込んでいた光は途絶え、天井から吊るされた裸電球の橙色だけが室内を照らした。壁際には鉄製の寝台。窓の下には小さな机と椅子が一脚。反対側には流し台と、古びた調理台が押し込まれている。家具と呼べるものは、それだけだった。
飾りらしい飾りはない。
写真も、絵画も、魔法道具も見当たらない。
机の上には新聞と灰皿。半分ほど残された食事。壁際の棚には、幾冊かの本と酒瓶が並んでいる。どれも使い込まれていたが、部屋はよく片付いていた。生活に必要なものだけを残し、不要なものは最初から持ち込まない。十年前のイザーク・クレイヴンを知る者ならば、酷く彼らしい部屋だと思っただろう。
ダンブルドアは室内へ足を踏み入れたまま、立ち止まった。
「座れ」
背後から低い声が落ちる。
振り返ると、イザークは扉の前に立ったまま、顎で椅子を示していた。
「君はどうするのかね」
「立ってる」
「では、わしも立っておこう」
「好きにしろ」
イザークは壁へ背を預け、腕を組む。先ほど灰皿へ押し付けた煙草の残り香が、薄い部屋の空気へ漂っていた。濡れた銀髪は額へ数筋落ちたまま。灰色の瞳には、客を迎え入れた者の柔らかさなど一片もない。
ダンブルドアは椅子へ座らなかった。
机の脇へ立ち、部屋を眺めることもやめた。これ以上、勝手に生活を値踏みされることをイザークは望んでいない。既に一日、十分すぎるほど見てきた。
壁へ掛けられた時計が、小さく秒を刻んでいる。
針は午後七時十二分を指していた。イザークが視線だけを時計へ向ける。
「五分だ」
「承知しておる」
「もう始まってる」
「これは失礼した」
ダンブルドアはローブではなく、背広の内側へ手を入れた。
イザークの身体が僅かに強張る。腕を組んだ姿勢は崩さない。だが、右手の指先だけが、左の脇腹近くへ寄った。そこに杖があるのだろう。
ダンブルドアが取り出したのは、一枚の羊皮紙だった。
机の上へ置く。紙面には、幾つかの条件が簡潔に記されている。イザークは近付かなかった。壁へ寄り掛かったまま、灰色の瞳だけを羊皮紙へ落とす。
「契約書か」
「提案書と言った方が近いかのう」
「同じようなもんだ」
「内容を読んでから決めても遅くはあるまい」
イザークは鼻で小さく笑った。
「手紙を三通返した意味が分からなかったらしいな」
「手紙は読まれなかった。じゃが今、君はわしを部屋へ入れた」
「五分だけだ」
「その五分を、無駄にするつもりはない」
ダンブルドアは穏やかに告げた。
イザークは答えない。時計の秒針だけが動く。
「まず、わしは君へ、過去を償うためホグワーツへ来いと言うつもりはない」
「……随分と都合のいい始まりだな」
「君がそれを望んでおらんからじゃ」
イザークの眉が僅かに動く。
「贖罪は他人が命じるものではない。まして、教職を罰として与えるべきでもない。教師となる者が、自らを罰するために子供達を利用してはならん」
イザークは腕を組んだまま、ダンブルドアを見つめている。
「なら何だ。オレが立派な教師になれるとでも言うつもりか」
「立派である必要はない」
「校長が言う台詞じゃねぇな」
「立派に見える教師が、必ずしも良い教師とは限らんのでな」
僅かに、イザークの口元が歪んだ。
笑ったわけではない。呆れただけだろう。
「教えてほしいのは、マグルの機械の名称や、貨幣の使い方だけではない」
「それすら教えられる保証はねぇぞ」
「十年暮らしておいてかね」
「暮らすのと教えるのは別だ」
「その通りじゃ」
あまりにもあっさり肯定され、イザークが僅かに目を細める。
「君には教師としての経験がない。子供との接し方も知らん。授業計画を立てたこともなければ、試験問題を作ったこともないじゃろう」
「喧嘩を売りに来たのか?」
「事実を並べておるだけじゃよ」
ダンブルドアは微笑む。
イザークは笑わなかった。
「それでも、君にしか教えられぬものがある」
部屋の空気が僅かに変わる。
イザークの灰色の瞳から、薄い苛立ちが消えた。
代わりに浮かんだのは警戒だった。
「また聞こえのいい話か」
「いいや。むしろ、あまり聞こえのよくない話じゃ」
ダンブルドアは机上の新聞へ視線を落とす。
マグルの新聞。その下から覗く、魔法界の紙面。
「魔法使いの多くは、マグルを知らん。知らぬまま恐れ、知らぬまま見下し、知らぬまま憐れむ」
イザークは何も言わない。
「マグル生まれの子供ですら、魔法界へ入れば、いつしか自分が生まれた世界を説明する言葉を失うことがある。純血の子供達は、電気も、機械も、マグルの労働も知らん。それでいて、自分達の方が優れておると教えられて育つ」
「今さら驚く話じゃねぇ」
「そうじゃ。今さらじゃ」
ダンブルドアの声音から、僅かに笑みが消えた。
「そして、その今さらを放置した結果、多くの若者がヴォルデモートの言葉へ惹かれた」
イザークの瞳が冷えた。
「説教なら帰れ」
「君を責めておるのではない」
「同じことだ」
「違う」
穏やかな声だった。
だが、明確な否定だった。イザークが僅かに顎を上げる。
「わしは、君が何故死喰い人になったのかを聞いておらん。報告書にも、セブルスの話にも、その答えはなかった」
「答えるつもりもねぇ」
「それでよい」
ダンブルドアは頷いた。
「じゃが、血筋で人の価値が決まる世界を、君が好んでいなかったことくらいは想像できる」
イザークの表情が止まった。
時計の針が、一秒進む。また一秒。
「……何を根拠に」
「君は孤児院で育った。家名も、後ろ盾もない。にもかかわらず、純血の名家が多く集まる組織へ入り、その中で実力だけを頼りに立場を得た」
ダンブルドアは言葉を選びながら続ける。
「君が求めたのは純血の支配ではない。生まれではなく、力によって価値が決まる場所だったのではないかね」
イザークの腕が解けた。
壁へ寄せていた肩が、ゆっくりと離れる。
表情は変わらない。
だが、それまでよりも重い沈黙が部屋へ落ちた。
「……勝手な想像だ」
「そうかもしれん」
ダンブルドアは否定しない。
「じゃが、もしそうならば。君が求めた世界と、ヴォルデモートが作ろうとした世界は、最初から同じではなかった」
「黙れ」
低い声だった。怒鳴り声ではない。
それでも、秒針の音が一瞬遠退いたように感じられた。
イザークの右手が握られている。
掌へ爪が食い込むほど強く。
「お前に、何が分かる」
「分からん」
即答だった。
イザークの目が僅かに見開かれる。
「君が何を信じ、何を見て、それを失ったのか。わしには分からん。分かったような顔をするつもりもない」
ダンブルドアは青い瞳を逸らさなかった。
「じゃが、君が十年間、魔法を使わず働いたことは知っておる。人を殺すために使っていた手で、家の基礎を造り続けたことも」
「それが何だ」
「何でもないのかもしれん」
イザークの眉が寄る。
「君にとっては、ただ働いただけなのじゃろう。生きるために必要だった。金を得るために土を掘った。それだけかもしれん」
ダンブルドアは机の上へ置いた羊皮紙へ指先を添えた。
「じゃが、その十年を、何も知らぬ子供達へ見せる価値はある」
「見せ物になれってか」
「生き方を語れとは言わん」
ダンブルドアは静かに首を横へ振る。
「君が何者だったかを、公にするつもりもない。過去を話すかどうかも、君が決めればよい。授業で求めるのは、マグルが杖を持たず、どのように生活を築いているのか。それを教えることじゃ」
「本なら読める」
「本には汗の重さは書かれておらん」
イザークは黙った。
「鉄筋を一本運ぶ重さも。朝、働くために起きる理由も。魔法を使わず一つの家が出来上がるまで、どれほど多くの人間が関わるかも。本の上では、ただの工程になる。じゃが――君は、それを知っておる」
イザークは時計へ視線を向けた。
四分が過ぎようとしている。
「残り一分だ」
「では、一番大切な話をしよう」
「今までのは何だったんだ」
「前置きじゃな」
「長ぇ前置きだ」
イザークは苛立ったように息を吐く。
だが、追い出そうとはしなかった。
ダンブルドアは羊皮紙を裏返した。
そこには、先ほどまで隠れていた条件が記されていた。
「任期は一年」
「……何?」
「一年だけ、ホグワーツへ来てほしい」
イザークの視線が羊皮紙へ落ちる。
「一年を終え、戻りたいと思えなければ、この町へ帰ればよい。途中で辞めることも認める。学校外の任務へ参加する義務もない。ヴォルデモートに関する情報を提供するかどうかも、君が決める」
「随分と都合のいい条件だな」
「君に来てもらうために考えた条件じゃからな」
「隠す気もねぇのか」
「隠したところで、君は余計に疑うじゃろう」
それは否定できないのか、イザークは何も言わなかった。
「給与は出る。住居と食事は学校が用意する。今の部屋は、そのまま残しておけばよい。家賃の一部はホグワーツが負担しよう」
「いらねぇ」
「戻る場所を残すためじゃ」
イザークの視線が鋭くなる。
ダンブルドアは続けた。
「君に帰る場所を捨てろと言うつもりはない」
時計の針が一つ進んだ。
部屋の外で、階段を上る足音が聞こえる。
誰かが隣室の扉を開け、短い会話を交わす。鍵が回る。やがて静かになる。
イザークは羊皮紙を見つめていた。
手には取らない。
「……話は終わりか」
「最後に一つだけ」
「五分は過ぎた」
「分かっておる」
「なら帰れ」
「セブルスが、君を信用できないと言っておった」
イザークの目が持ち上がる。
ダンブルドアは穏やかな顔をしていた。
だが、その言葉だけは意図的に選ばれたものだった。
「……何だと」
「十年大人しく暮らしただけで、信用に値するとは思えんそうじゃ」
イザークの口元が、ゆっくりと歪む。
笑みではない。ひどく不愉快なものを聞いた時の顔だった。
「あの野郎……自分のことを棚に上げやがって」
「わしも同じことを言った」
「余計なことをする爺だな」
「君なら、彼へ何と答えるかね」
イザークはダンブルドアを睨んだ。
「挑発してるつもりか」
「否定はせん」
数秒の沈黙。
壁の時計が、午後七時十七分を告げる。
五分は、確かに終わっていた。
ダンブルドアは机上の羊皮紙から手を離した。
「時間じゃな」
そう告げ、扉へ向かう。
イザークは止めなかった。ダンブルドアは一歩、二歩と歩き、扉の取っ手へ手を掛ける。背後から声はない。これ以上言葉を重ねれば、約束を破ることになる。五分だけ。それが条件だった。取っ手を回す。扉を僅かに開く。廊下の冷えた空気が、細い隙間から室内へ流れ込んだ。
「……待て」
低い声が背中へ届く。
ダンブルドアは振り返らなかった。
扉へ手を掛けたまま、静かに返す。
「まだ何かあるかね」
「その紙を置いていけ」
ダンブルドアの口元へ、ごく僅かな笑みが浮かぶ。
だが、それを見せぬよう、扉の方を向いたまま答えた。
「読んでくれるのかね」
「条件を確認するだけだ。行くとは言ってねぇ」
「無論じゃ」
ダンブルドアは手を離した。
扉が静かに閉じる。
振り返ると、イザークは机の前へ立っていた。
羊皮紙を手に取り、険しい顔で文字を追っている。眉間には深い皺が刻まれ今にも紙を破り捨てそうな表情だった。
「一年だけだな」
「一年じゃ」
「外の任務は断れる」
「断れる」
「途中で辞めても、この町へ戻れる」
「誰にも止めさせん」
「魔法省には」
「居場所は知らせぬ。ホグワーツへ来るなら、必要な手続きはこちらで行う」
イザークは羊皮紙を下ろした。
灰色の瞳が、真っ直ぐダンブルドアを捉える。
「スネイプは、オレが来ることを知ってるのか」
「まだ決まったとは伝えておらん」
「反対してるんだろ」
「強くのう」
イザークは鼻で笑った。
十年前と変わらぬ、獰猛さを帯びた笑いだった。
「……なら、面白ぇ」
ダンブルドアは何も言わない。
「一年だけだ」
イザークは羊皮紙を二つに折る。
破るのではなく、机の端へ置いた。
「一年で、お前の言ってることが下らねぇと分かったら、すぐに戻る。ガキの世話も、戦争ごっこも二度と御免だ」
「承知した」
「それと」
イザークは目を細める。
「オレを駒として使おうとした時点で、契約は終わりだ」
「約束しよう」
「約束なんざ信用しねぇ」
「では、行動で示すほかないのう」
長い沈黙の後、イザークは深く息を吐いた。
「……いつからだ」
「新学期は九月一日じゃ」
「二週間もねぇじゃねぇか」
「善は急げと言うからのう」
「お前の都合だろうが」
「それも否定はできんな」
イザークは額へ手を当てる。
明らかに後悔し始めている顔だった。
「……どうしてこうなった」
「君が話を聞いてくれたからじゃよ」
「聞かなきゃよかったぜ」
吐き捨てるように言いながらも、羊皮紙を捨てようとはしなかった。
机の上では、マグルと魔法界、二つの新聞が重なっている。その隣へ置かれた一枚の契約書が、十年間隔てられていた二つの世界を結び始めていた。