賢者の石編
/* 012 - 扉越しの交渉
三度目の音が消えたあとも、扉の向こうから返事はなかった。
ダンブルドアは右手を下ろし、静かに待った。
古びた廊下には、階下の部屋から漏れるラジオの音が微かに響いている。男の低い歌声。続いて、何かを炒める油の音。煮込まれた豆と香辛料の匂いが、浮き上がった壁紙の隙間へ染み込むように漂っていた。
扉の向こうでは、生活音が止まっている。
先ほどまで聞こえていた紙を捲る音も、食器が触れ合う音もない。誰かがいることは分かっているのだろう。向こうもまた、訪問者の存在を知っている。それでも、すぐには扉を開けようとしなかった。
ダンブルドアは急かさない。
もう一度叩くことも、声を掛けることもしなかった。三通の手紙を受け取らなかった男である。扉を三度叩いた程度で、素直に迎え入れてくれると期待する方が虫の良い話だった。
長い沈黙の後、室内で椅子が床を擦った。
鈍い音が一つ。続いて、ゆっくりと近づいてくる足音。重くはない。だが、迷いもなかった。一歩ごとの間隔は一定で、訪問者を警戒して忍び寄るというより、既に正体を知っている者の歩き方だった。
扉のすぐ向こうで足音が止まる。
鍵へ触れる音はしなかった。
金属が擦れ合う音も、鎖を外す音もない。
初めから施錠されていなかったらしい。
取っ手が静かに回る。
薄い木製の扉が、内側へゆっくりと開いていった。
最初に見えたのは、白い煙だった。
室内の橙色の灯りを受けながら、細く揺らめき、開いた扉の隙間から廊下へ流れ出てくる。その向こうに、一人の男が立っていた。
イザーク・クレイヴン。
シャツの襟元は大きく緩められ、袖は肘まで無造作に捲り上げられている。仕事を終えて風呂に入ったのだろう。肌に付着していた泥や埃は落とされていたが、銀髪はまだ僅かに湿り、後ろへ撫で付けた髪の幾筋かが額へ落ちていた。
日に焼けた顔を斜めに横切る古い傷。
十年前より厚みを増した肩。シャツ越しにも分かる腕の筋肉。
そして、薄く開かれた口端には、火のついた煙草が咥えられている。
灰色の瞳だけは、記憶の中と変わっていなかった。
冷たく。鋭く。目の前に立つ人間が、何を目的としてここへ来たのか。それを一目で見定めようとするような眼差しだった。
二人はしばらく何も言わなかった。
煙草の先端が赤く明滅する。イザークはゆっくりと煙を吸い込み、口端から煙草を離すこともなく、細い煙を鼻から吐き出した。白煙が二人の間へ垂れ込め、やがて廊下の淀んだ空気へ溶けていく。
先に口を開いたのは、イザークだった。
「朝から人の仕事を眺めて、随分と良い御身分だったな」
低く、掠れた声だった。
驚きはない。問い掛けですらない。ただ、とうに分かっていた事実を告げる声音だった。ダンブルドアは僅かに眉を上げる。
「気付いておったのかね」
「気付かれてねぇと思ってたのか?」
煙草が口端で小さく上下する。
イザークは扉の枠へ片肩を預け、片手をズボンのポケットへ差し込んだ。追い返そうとしているようにも、招き入れようとしているようにも見えない。少なくとも、歓迎している姿ではなかった。
「道路の向こうで朝から突っ立ってる白髪の爺がいりゃ、嫌でも目に入る。背広を着りゃマグルに見えるとでも思ったか」
「多少は馴染んでおったつもりなのじゃが」
「その髭でか?」
灰色の瞳が、ダンブルドアの胸元から足元までをゆっくりと往復する。
「目立って仕方ねぇ。現場の連中が、朝から何度もお前を見てたぜ。どこぞの会社の重役か、土地の持ち主じゃねぇかってな」
「それは困ったのう」
「困ってる顔には見えねぇが」
ダンブルドアは穏やかに微笑んだ。
イザークの眉間に皺が寄る。
「菓子に紅茶。随分と優雅な張り込みだったようじゃねぇか」
「そこまで見られておったとは、少々恥ずかしいのう」
「恥ずかしいと思う頭があるなら、朝のうちに声を掛けりゃよかっただろ」
言葉は荒い。だが、声を張り上げることはない。
怒っているというより、呆れている。あるいは、ダンブルドアがどこまで自分の生活へ踏み込むつもりなのか、測りかねているのだろう。
イザークは煙草を指先で摘まみ、灰を廊下へ落とさぬよう室内へ向けて軽く弾いた。扉の脇には、欠けた陶器の灰皿が置かれた小さな台がある。そこには既に何本もの吸い殻が積み重なっていた。
「三通も手紙を送り付けてきた挙げ句、今度は一日中人の後をつけ回す。ホグワーツの校長ってのは、随分と暇な仕事らしいな」
「新学期を前に、決して暇とは言えんのじゃが」
「なら帰れ。仕事があるんだろ」
即答だった。
イザークは扉を閉めようと、枠へ預けていた肩を離す。ダンブルドアは手を伸ばさなかった。ただ静かに、閉じ始めた扉の向こうへ言葉を落とす。
「セブルスは、今も君のことを覚えておるよ」
扉の動きが止まった。
ほんの僅かだった。木製の扉が、あと指二本ほどで閉じ切る位置に留まる。
室内から漂う煙草の匂いが、細い隙間を通って廊下へ流れ出てくる。
返事はない。
ダンブルドアは、それ以上言葉を重ねなかった。
三通目の手紙へセブルスの名を書いた。だが封は切られなかった。イザークは内容を知らない。今初めて、その名が本人の耳へ届いた。
長い沈黙の末、扉が再び開く。
イザークの顔から、先ほどまでの僅かな呆れは消えていた。
灰色の瞳は冷え切り、その奥を読み取ることはできない。
「……あいつの名前を使えば、オレが話を聞くとでも思ったか」
「そう考えたことは否定せん」
「正直な爺だな」
褒めてはいなかった。
イザークは煙草を唇へ戻し、深く吸い込む。赤い火が強く灯り、薄暗い廊下へ一瞬だけ頬の傷を浮かび上がらせた。
「スネイプがどうした」
「今は、ホグワーツで魔法薬学を教えておる」
「知ってる」
短い答えだった。
今度はダンブルドアの方が、僅かに目を細める。
「魔法界とは関わっておらんと聞いていたが」
「関わってねぇさ。だが新聞くらいは読む。お前らが思ってるほど、この町は世界から切り離されちゃいねぇ」
イザークは顎で室内を示した。
机の上には、先ほど買ったと思われるマグルの新聞が広げられている。その下から、別の紙面が僅かに覗いていた。動く写真。魔法界の新聞だった。
魔法を使わない。魔法界へ戻らない。
だが、何も知らずに目を閉ざしていたわけではない。
ダンブルドアはその事実を静かに受け止める。
「では、セブルスが教授になったことも」
「十年前から知ってる」
イザークは吐き捨てるように言った。
「闇の帝王を裏切って、お前の犬になったこともな」
冷えた言葉だった。
侮蔑なのか。失望なのか。あるいは、そのどちらでもないのか。
ダンブルドアには判別できなかった。
「本人へも、同じことを言うつもりかね」
「会うことがあるならな」
「その機会を作ろうとしておる」
「余計なお世話だ」
再び扉が閉じかける。
今度は完全に拒絶する動きだった。
「君をホグワーツへ招きたい」
ダンブルドアは静かに告げた。
扉が止まる。イザークは目を細めた。
「……何だと」
「マグル学の教授として、君を迎えたいと考えておる」
「断る」
「随分と早いのう」
「考える必要がねぇ」
イザークは煙草を灰皿へ押し付けた。
赤い火が潰れ、細い煙だけが暫く立ち上る。
「ガキの面倒を見る趣味はない。魔法界へ戻る気もない。それに――」
一度、言葉が途切れる。
灰色の瞳が、真っ直ぐダンブルドアを捉えた。
先ほどまでの無愛想さとは違う。明確な警戒だった。
「お前が、元死喰い人をガキの集まる城へ置きたがる理由が分からねぇ」
ダンブルドアは答えなかった。
すぐに用意した言葉を返せば、目の前の男には見抜かれるだろう。マグル界での経験が必要だから。十年間の生き方を評価しているから。ホグワーツで新たな役目を与えたいから。どれも嘘ではない。だが、すべてでもない。
「ヴォルデモートが、完全に消えたわけではない」
イザークの表情は変わらなかった。
その名へ驚く様子も、恐れる様子もない。
ただ、灰色の瞳の奥で何かが僅かに硬くなる。
「十年前の夜、肉体を失った。じゃが、生きておる」
「知ってる」
「それも新聞でかね」
「違う」
低い声だった。
イザークは扉から手を離す。腕を組み、壁へ背を預けた。シャツの袖から伸びた前腕には、古い傷とともに闇の印が描かれていた。
「印が消えなかった。たしかに薄くなった。疼くこともねぇ。だが、消えちゃいない。なら、あいつも消えてねぇ」
語調は平坦だった。
しかし、その言葉には十年間、一度も口にしなかった事実の重みがあった。
ダンブルドアは、静かに頷く。
「ならば、なおさら君の力が必要じゃ」
「それが本音か」
イザークは鼻で笑った。
「マグル学の教授。新しい役目。生き直す機会。聞こえのいい言葉を並べて、結局は戦える駒が欲しいだけだろ」
「否定はできん」
「……本当に正直な爺だな」
今度の言葉には、僅かな苛立ちが混じっていた。
「だが、君を駒として扱うつもりもない」
「駒を使う奴は、決まってそう言う」
即座に返された。
その一言へ、ダンブルドアは言葉を失う。
十年前、イザークが何を失ったのか。理想だけではない。
自分を必要としてくれたと思った主君に、道具として扱われていた。その事実によって、彼の人生は一度崩れたのだろう。その男へ、「君が必要だ」と告げること自体が、過去の支配を思い出させる。
ダンブルドアは杖を持っていない右手を、静かに身体の前で重ねた。
「では、言い方を改めよう。わしは、君に力を貸してほしいと思っておる。じゃが、それを選ぶのは君じゃ。断ったとしても、魔法省へ居場所を知らせるつもりはない。今の生活を壊すこともしない」
「信用しろってか」
「信用せよとは言わん」
ダンブルドアは穏やかに首を横へ振った。
「ただ、話を聞いてほしい。それだけじゃ」
イザークは黙り込んだ。
廊下の奥で、どこかの扉が開く音がする。幼い子供の笑い声。母親らしい女が早く部屋へ戻るよう注意する声。足音が階段を駆け下り、やがて遠ざかっていった。二人の間には、薄い煙草の残り香だけが漂っている。
イザークはしばらくダンブルドアを見つめていた。
その青い瞳に何があるのか。善意か。策略か。哀れみか。利用価値を測る冷静さか。おそらく、そのすべてなのだろう。
やがてイザークは、深く息を吐いた。
「……充分だ」
「何がかね」
「朝から見てたんだろ。オレがどこで働いて、誰と話して、何を買って、どこへ帰るか。人の生活を一日覗いて、それでもまだ話が足りねぇってのか」
「君が何をしておるかは見た。じゃが、何を考えておるかは分からん」
「分かる必要があるのか?」
低い問いだった。
ダンブルドアは答えるまでに、一拍置いた。
「わしには、ある」
イザークの目が僅かに細められる。
「君にはないかもしれん。だから、わしがここへ来たこと自体、身勝手であることは承知しておる」
嘘ではなかった。
それでも、許されるとは思っていない。
イザークは舌打ちする。
灰皿へ押し付けた煙草から、最後の煙が細く立ち上り、消えた。
「……五分だ」
ダンブルドアは瞬きを一つした。
「五分?」
「話を聞いてほしいんだろ。五分だけ聞く。それで納得できなきゃ帰れ。二度と手紙も寄越すな」
そう言うと、イザークは扉から身体を退けた。
招き入れる言葉はない。どうぞ、と手を差し出すこともない。ただ、一人分の隙間だけが開けられた。ダンブルドアは小さく頭を下げる。
「感謝するよ、イザーク」
「まだ礼を言うな。追い返す可能性の方が高ぇ」
薄暗い室内へ、一歩足を踏み入れる。
床板が低く軋んだ。
背後で扉が閉まる。廊下の光が細く狭まり、最後には完全に途絶えた。
十年間、魔法界を拒み続けた男の部屋へ。
アルバス・ダンブルドアは、ようやく足を踏み入れた。
三度目の音が消えたあとも、扉の向こうから返事はなかった。
ダンブルドアは右手を下ろし、静かに待った。
古びた廊下には、階下の部屋から漏れるラジオの音が微かに響いている。男の低い歌声。続いて、何かを炒める油の音。煮込まれた豆と香辛料の匂いが、浮き上がった壁紙の隙間へ染み込むように漂っていた。
扉の向こうでは、生活音が止まっている。
先ほどまで聞こえていた紙を捲る音も、食器が触れ合う音もない。誰かがいることは分かっているのだろう。向こうもまた、訪問者の存在を知っている。それでも、すぐには扉を開けようとしなかった。
ダンブルドアは急かさない。
もう一度叩くことも、声を掛けることもしなかった。三通の手紙を受け取らなかった男である。扉を三度叩いた程度で、素直に迎え入れてくれると期待する方が虫の良い話だった。
長い沈黙の後、室内で椅子が床を擦った。
鈍い音が一つ。続いて、ゆっくりと近づいてくる足音。重くはない。だが、迷いもなかった。一歩ごとの間隔は一定で、訪問者を警戒して忍び寄るというより、既に正体を知っている者の歩き方だった。
扉のすぐ向こうで足音が止まる。
鍵へ触れる音はしなかった。
金属が擦れ合う音も、鎖を外す音もない。
初めから施錠されていなかったらしい。
取っ手が静かに回る。
薄い木製の扉が、内側へゆっくりと開いていった。
最初に見えたのは、白い煙だった。
室内の橙色の灯りを受けながら、細く揺らめき、開いた扉の隙間から廊下へ流れ出てくる。その向こうに、一人の男が立っていた。
イザーク・クレイヴン。
シャツの襟元は大きく緩められ、袖は肘まで無造作に捲り上げられている。仕事を終えて風呂に入ったのだろう。肌に付着していた泥や埃は落とされていたが、銀髪はまだ僅かに湿り、後ろへ撫で付けた髪の幾筋かが額へ落ちていた。
日に焼けた顔を斜めに横切る古い傷。
十年前より厚みを増した肩。シャツ越しにも分かる腕の筋肉。
そして、薄く開かれた口端には、火のついた煙草が咥えられている。
灰色の瞳だけは、記憶の中と変わっていなかった。
冷たく。鋭く。目の前に立つ人間が、何を目的としてここへ来たのか。それを一目で見定めようとするような眼差しだった。
二人はしばらく何も言わなかった。
煙草の先端が赤く明滅する。イザークはゆっくりと煙を吸い込み、口端から煙草を離すこともなく、細い煙を鼻から吐き出した。白煙が二人の間へ垂れ込め、やがて廊下の淀んだ空気へ溶けていく。
先に口を開いたのは、イザークだった。
「朝から人の仕事を眺めて、随分と良い御身分だったな」
低く、掠れた声だった。
驚きはない。問い掛けですらない。ただ、とうに分かっていた事実を告げる声音だった。ダンブルドアは僅かに眉を上げる。
「気付いておったのかね」
「気付かれてねぇと思ってたのか?」
煙草が口端で小さく上下する。
イザークは扉の枠へ片肩を預け、片手をズボンのポケットへ差し込んだ。追い返そうとしているようにも、招き入れようとしているようにも見えない。少なくとも、歓迎している姿ではなかった。
「道路の向こうで朝から突っ立ってる白髪の爺がいりゃ、嫌でも目に入る。背広を着りゃマグルに見えるとでも思ったか」
「多少は馴染んでおったつもりなのじゃが」
「その髭でか?」
灰色の瞳が、ダンブルドアの胸元から足元までをゆっくりと往復する。
「目立って仕方ねぇ。現場の連中が、朝から何度もお前を見てたぜ。どこぞの会社の重役か、土地の持ち主じゃねぇかってな」
「それは困ったのう」
「困ってる顔には見えねぇが」
ダンブルドアは穏やかに微笑んだ。
イザークの眉間に皺が寄る。
「菓子に紅茶。随分と優雅な張り込みだったようじゃねぇか」
「そこまで見られておったとは、少々恥ずかしいのう」
「恥ずかしいと思う頭があるなら、朝のうちに声を掛けりゃよかっただろ」
言葉は荒い。だが、声を張り上げることはない。
怒っているというより、呆れている。あるいは、ダンブルドアがどこまで自分の生活へ踏み込むつもりなのか、測りかねているのだろう。
イザークは煙草を指先で摘まみ、灰を廊下へ落とさぬよう室内へ向けて軽く弾いた。扉の脇には、欠けた陶器の灰皿が置かれた小さな台がある。そこには既に何本もの吸い殻が積み重なっていた。
「三通も手紙を送り付けてきた挙げ句、今度は一日中人の後をつけ回す。ホグワーツの校長ってのは、随分と暇な仕事らしいな」
「新学期を前に、決して暇とは言えんのじゃが」
「なら帰れ。仕事があるんだろ」
即答だった。
イザークは扉を閉めようと、枠へ預けていた肩を離す。ダンブルドアは手を伸ばさなかった。ただ静かに、閉じ始めた扉の向こうへ言葉を落とす。
「セブルスは、今も君のことを覚えておるよ」
扉の動きが止まった。
ほんの僅かだった。木製の扉が、あと指二本ほどで閉じ切る位置に留まる。
室内から漂う煙草の匂いが、細い隙間を通って廊下へ流れ出てくる。
返事はない。
ダンブルドアは、それ以上言葉を重ねなかった。
三通目の手紙へセブルスの名を書いた。だが封は切られなかった。イザークは内容を知らない。今初めて、その名が本人の耳へ届いた。
長い沈黙の末、扉が再び開く。
イザークの顔から、先ほどまでの僅かな呆れは消えていた。
灰色の瞳は冷え切り、その奥を読み取ることはできない。
「……あいつの名前を使えば、オレが話を聞くとでも思ったか」
「そう考えたことは否定せん」
「正直な爺だな」
褒めてはいなかった。
イザークは煙草を唇へ戻し、深く吸い込む。赤い火が強く灯り、薄暗い廊下へ一瞬だけ頬の傷を浮かび上がらせた。
「スネイプがどうした」
「今は、ホグワーツで魔法薬学を教えておる」
「知ってる」
短い答えだった。
今度はダンブルドアの方が、僅かに目を細める。
「魔法界とは関わっておらんと聞いていたが」
「関わってねぇさ。だが新聞くらいは読む。お前らが思ってるほど、この町は世界から切り離されちゃいねぇ」
イザークは顎で室内を示した。
机の上には、先ほど買ったと思われるマグルの新聞が広げられている。その下から、別の紙面が僅かに覗いていた。動く写真。魔法界の新聞だった。
魔法を使わない。魔法界へ戻らない。
だが、何も知らずに目を閉ざしていたわけではない。
ダンブルドアはその事実を静かに受け止める。
「では、セブルスが教授になったことも」
「十年前から知ってる」
イザークは吐き捨てるように言った。
「闇の帝王を裏切って、お前の犬になったこともな」
冷えた言葉だった。
侮蔑なのか。失望なのか。あるいは、そのどちらでもないのか。
ダンブルドアには判別できなかった。
「本人へも、同じことを言うつもりかね」
「会うことがあるならな」
「その機会を作ろうとしておる」
「余計なお世話だ」
再び扉が閉じかける。
今度は完全に拒絶する動きだった。
「君をホグワーツへ招きたい」
ダンブルドアは静かに告げた。
扉が止まる。イザークは目を細めた。
「……何だと」
「マグル学の教授として、君を迎えたいと考えておる」
「断る」
「随分と早いのう」
「考える必要がねぇ」
イザークは煙草を灰皿へ押し付けた。
赤い火が潰れ、細い煙だけが暫く立ち上る。
「ガキの面倒を見る趣味はない。魔法界へ戻る気もない。それに――」
一度、言葉が途切れる。
灰色の瞳が、真っ直ぐダンブルドアを捉えた。
先ほどまでの無愛想さとは違う。明確な警戒だった。
「お前が、元死喰い人をガキの集まる城へ置きたがる理由が分からねぇ」
ダンブルドアは答えなかった。
すぐに用意した言葉を返せば、目の前の男には見抜かれるだろう。マグル界での経験が必要だから。十年間の生き方を評価しているから。ホグワーツで新たな役目を与えたいから。どれも嘘ではない。だが、すべてでもない。
「ヴォルデモートが、完全に消えたわけではない」
イザークの表情は変わらなかった。
その名へ驚く様子も、恐れる様子もない。
ただ、灰色の瞳の奥で何かが僅かに硬くなる。
「十年前の夜、肉体を失った。じゃが、生きておる」
「知ってる」
「それも新聞でかね」
「違う」
低い声だった。
イザークは扉から手を離す。腕を組み、壁へ背を預けた。シャツの袖から伸びた前腕には、古い傷とともに闇の印が描かれていた。
「印が消えなかった。たしかに薄くなった。疼くこともねぇ。だが、消えちゃいない。なら、あいつも消えてねぇ」
語調は平坦だった。
しかし、その言葉には十年間、一度も口にしなかった事実の重みがあった。
ダンブルドアは、静かに頷く。
「ならば、なおさら君の力が必要じゃ」
「それが本音か」
イザークは鼻で笑った。
「マグル学の教授。新しい役目。生き直す機会。聞こえのいい言葉を並べて、結局は戦える駒が欲しいだけだろ」
「否定はできん」
「……本当に正直な爺だな」
今度の言葉には、僅かな苛立ちが混じっていた。
「だが、君を駒として扱うつもりもない」
「駒を使う奴は、決まってそう言う」
即座に返された。
その一言へ、ダンブルドアは言葉を失う。
十年前、イザークが何を失ったのか。理想だけではない。
自分を必要としてくれたと思った主君に、道具として扱われていた。その事実によって、彼の人生は一度崩れたのだろう。その男へ、「君が必要だ」と告げること自体が、過去の支配を思い出させる。
ダンブルドアは杖を持っていない右手を、静かに身体の前で重ねた。
「では、言い方を改めよう。わしは、君に力を貸してほしいと思っておる。じゃが、それを選ぶのは君じゃ。断ったとしても、魔法省へ居場所を知らせるつもりはない。今の生活を壊すこともしない」
「信用しろってか」
「信用せよとは言わん」
ダンブルドアは穏やかに首を横へ振った。
「ただ、話を聞いてほしい。それだけじゃ」
イザークは黙り込んだ。
廊下の奥で、どこかの扉が開く音がする。幼い子供の笑い声。母親らしい女が早く部屋へ戻るよう注意する声。足音が階段を駆け下り、やがて遠ざかっていった。二人の間には、薄い煙草の残り香だけが漂っている。
イザークはしばらくダンブルドアを見つめていた。
その青い瞳に何があるのか。善意か。策略か。哀れみか。利用価値を測る冷静さか。おそらく、そのすべてなのだろう。
やがてイザークは、深く息を吐いた。
「……充分だ」
「何がかね」
「朝から見てたんだろ。オレがどこで働いて、誰と話して、何を買って、どこへ帰るか。人の生活を一日覗いて、それでもまだ話が足りねぇってのか」
「君が何をしておるかは見た。じゃが、何を考えておるかは分からん」
「分かる必要があるのか?」
低い問いだった。
ダンブルドアは答えるまでに、一拍置いた。
「わしには、ある」
イザークの目が僅かに細められる。
「君にはないかもしれん。だから、わしがここへ来たこと自体、身勝手であることは承知しておる」
嘘ではなかった。
それでも、許されるとは思っていない。
イザークは舌打ちする。
灰皿へ押し付けた煙草から、最後の煙が細く立ち上り、消えた。
「……五分だ」
ダンブルドアは瞬きを一つした。
「五分?」
「話を聞いてほしいんだろ。五分だけ聞く。それで納得できなきゃ帰れ。二度と手紙も寄越すな」
そう言うと、イザークは扉から身体を退けた。
招き入れる言葉はない。どうぞ、と手を差し出すこともない。ただ、一人分の隙間だけが開けられた。ダンブルドアは小さく頭を下げる。
「感謝するよ、イザーク」
「まだ礼を言うな。追い返す可能性の方が高ぇ」
薄暗い室内へ、一歩足を踏み入れる。
床板が低く軋んだ。
背後で扉が閉まる。廊下の光が細く狭まり、最後には完全に途絶えた。
十年間、魔法界を拒み続けた男の部屋へ。
アルバス・ダンブルドアは、ようやく足を踏み入れた。