賢者の石編

/* 011 - 選び続けた男


 姿現しの圧迫感が解けると同時に、ダンブルドアの耳へ低い轟音が飛び込んできた。何か巨大なものが地面を削る音だった。唸るような機械音。金属同士がぶつかり合う甲高い響き。一定の間隔で鳴る警告音。そのすべてが重なり合い、朝の空気を絶え間なく震わせている。

 足元は黒く固められた道路だった。
 昨夜に雨が降ったらしく、舗装の窪みには浅い水溜りが幾つも残っている。通り過ぎる自動車の車輪が水を跳ね上げ、排気ガスと湿った土の匂いを辺りへ撒き散らしていた。ダンブルドアは静かに周囲を見渡した。

 ロンドンから離れた、小さな工業都市だった。
 煉瓦造りの工場。煤で黒ずんだ煙突。道沿いへ並ぶ古い集合住宅。遠くには幾本もの鉄塔が立ち、その間を電線が蜘蛛の巣のように渡っている。朝日は既に昇っていたが、空は薄い雲へ覆われ、街全体が白く濁った光へ沈んでいた。

 通りを歩く人々は、誰もダンブルドアへ目を向けない。
 それもそのはずだった。今のダンブルドアは、星と月を散りばめた長衣も、先の尖った帽子も身に着けてはいない。濃い灰色の背広。白いシャツ。落ち着いた色のネクタイ。長い銀髪と髭だけは隠しようがなかったが、それでも少々風変わりな老人に見える程度だろう。

 もっとも、半月形の眼鏡だけは変えなかった。
 あれがなければ、どうにも落ち着かなかった。

 道を挟んだ先には、高い金属製の柵が巡らされていた。
 その向こうに、建設途中の建物がある。

 まだ壁はない。
 剥き出しの鉄骨が幾重にも組み上げられ、灰色の空へ向かって伸びている。地面は深く掘り返され、泥と砂利が入り混じり、巨大な車輪の跡が幾筋も刻まれていた。黄色い重機が低い唸り声を上げながら土を運び、作業服を着た男達がその間を慌ただしく行き交っている。

 誰も杖を持っていない。呪文を唱える者もいない。
 それでも、建物は少しずつ形を成していた。

 ダンブルドアは柵から少し離れた場所へ立ち、現場を眺める。
 手元にある住所が正しければ、イザーク・クレイヴンはこの中にいる。

 何人もの男がいた。
 色褪せた作業着。泥に汚れた長靴。頭には硬質な帽子を被り、それぞれが重い資材を抱えて歩いている。顔の半分を布で覆っている者もいれば、袖で額の汗を拭う者もいる。遠目では、その中から一人を見つけ出すことは容易ではなかった。だが、ほどなくして、ダンブルドアの視線が一か所で止まった。

 鉄筋の束を肩へ担ぎ、足場の間を歩く一人の男。
 周囲の作業員より頭一つ分ほど背が高い。銀色の髪は後ろへ撫で付けられていたが、汗と埃によって幾筋か額へ落ちている。日に焼けた顔には古い傷が走り、灰色の作業着の袖から伸びる腕は、十年前よりも太く逞しくなっていた。

 イザーク・クレイヴンだった。
 十年という歳月は、人の姿を変える。
 それでも、見間違えるはずがなかった。

 立ち姿。周囲へ向ける視線。足場へ足を掛ける前に、一瞬だけ安全を確かめる癖。誰かから呼び掛けられた時、顔ではなく目だけを先に向ける仕草。

 魔法界から姿を消した青年が、そこにいた。

 イザークは肩へ担いだ鉄筋を、地面へ敷かれた木材の上へ静かに下ろした。
 金属がぶつかり合い、耳障りな音を立てる。近くにいた若い作業員が何かを口にした。機械音に遮られ、内容までは聞き取れない。

 イザークは相手へ顔を向ける。
 一言、二言、短く答えたようだった。

 若い男が笑う。
 イザークは笑わなかった。だが、肩を竦め、作業用の手袋を外した手で相手の頭を軽く叩いた。若い男は何か言い返し、すぐに別の作業へ戻っていく。

 そのやり取りを見て、ダンブルドアは僅かに目を細めた。

 報告書には書かれていなかった姿だった。
 職場の人間と口論することがある。仕事の後に酒を飲むこともある。それだけは記されていた。だが文字からはその場に流れる空気までは読み取れない。イザークは孤立していなかった。少なくとも、この場所では。

 誰も彼が魔法使いだとは知らない。
 かつて死喰い人だったことも。何人もの命を奪ったことも。闇の帝王へ忠誠を誓い、英国中を駆け回っていたことも。

 彼らが知っているのは、同じ現場で働くイザークだけだ。
 夜明け前に現れ、誰よりも重いものを持ち、危険な作業を黙って引き受ける男。言葉は荒く、愛想はない。だが、足場の留め具が緩んでいれば何も言わずに締め直し、慣れない若者がいれば目を離さない。おそらく彼らにとっては、それだけで十分なのだろう。

 ダンブルドアは杖へ手を伸ばさなかった。
 姿を隠す魔法も、周囲の声を拾う呪文も使わない。ただ道路の向こう側から一人の男が働く姿を静かに眺めていた。

 イザークは空になった運搬車を押し、泥の中を進む。
 車輪が深く沈み、そのたびに足を止めて力を込める。作業着の背中が汗で濃く変色していた。額から流れた汗が顎先へ伝い、地面へ落ちる。

 魔法を使えば、運搬車へ触れる必要すらない。
 鉄筋も。砂利も。木材も。
 杖を一振りすれば、指一本動かすことなく空中へ浮かび上がる。

 それでも、イザークは両手で押していた。

 運搬車が泥を越える。
 近くにいた男が手を貸そうと歩み寄った。イザークは何かを言い、顎で別の場所を示す。男は一瞬だけ迷ったが、すぐに指示された方角へ走っていった。

 その直後だった。
 組み上げられた足場の上で、資材の束が僅かに傾いた。

 固定が甘かったのだろう。木材が滑り、一本が足場の端から外れる。下には先ほどの若い作業員がいた。気付いていない。木材はゆっくりと傾き、やがて重力へ引かれるように落下を始めた。ダンブルドアの右手が、反射的に上着の内側へ動く。だが、それより先にイザークが動いた。

「下がれ!」

 現場の騒音を貫く怒声だった。
 若い作業員が顔を上げる。イザークは運搬車から手を離し、一気に距離を詰めた。男の肩を掴み、乱暴に後ろへ引き倒す。二人の身体が泥の中へ転がる。その直後、木材が地面へ叩き付けられた。

 重い音が響いた。
 周囲の作業員達が一斉に振り返る。

 土埃が薄く舞い上がる。
 イザークは片膝をつき、若い男の襟首を掴んだまま何かを怒鳴った。顔には明らかな苛立ちが浮かんでいる。若い男は青ざめたまま何度も頷いた。

 怪我がないことを確認すると、イザークは手を放す。
 泥へ倒れ込んだ拍子に打ったのか、自らの左肩を一度だけ回した。苦痛らしい表情は見せない。すぐに立ち上がり、落下した木材へ歩み寄る。

 誰かが現場の責任者を呼ぶ。
 別の者が足場へ駆け上がる。
 止まっていた機械が再び動き始めた。

 数分も経たぬうちに、現場は元の騒音を取り戻していく。
 イザークもまた、何事もなかったかのように作業へ戻った。

 ダンブルドアは上着の内側から手を離す。
 杖を使う必要はなかった。

 十年前のイザーク・クレイヴンなら、同じように男を救っただろうか。
 答えは分からない。必要な人材であれば助けたかもしれない。任務へ支障が出ると判断すれば、迷わず手を伸ばしただろう。だが今、彼は命令を受けていなかった。得られる報酬もない。若い男を助けたところで、イザーク自身の仕事が増えるだけだった。それでも身体が動いた。

 ダンブルドアは静かに息を吐く。
 セブルスへ語った言葉が、脳裏を過ぎった。

 罪を犯した者が、その後どう生きるか。
 それだけは、自ら選ぶことができる。

 目の前の男は、十年間それを選び続けてきたのだろう。

 それを贖罪と呼ぶべきか。
 善意と呼ぶべきか。
 あるいは、ただの日常と呼ぶべきか。

 名を与える必要はないのかもしれなかった。
 イザーク自身は、おそらく何も考えていない。落下する木材を見た。下に人がいた。だから引き倒した。ただ、それだけだと答えるだろう。しかし、人間が何者であるかは、考えていることだけでは決まらない。咄嗟に伸ばした手が時として本人よりも正確に、その人間を語る。

 午前の作業は続いた。やがて雲の隙間から陽が差し、濡れていた地面から白い蒸気が薄く立ち上り始める。イザークは休憩時間になると、他の作業員達から少し離れた木箱へ腰を下ろした。

 水筒の蓋を開け、一口だけ飲む。隣へ、先ほど助けられた若い男が座った。紙へ包まれた何かを差し出す。イザークは一度断ったようだった。だが若い男が引かない。最後には根負けしたのか、包みからパンを一つ取り出した。

 何かを言う。若い男が笑う。
 今度は、イザークもほんの僅かに口元を緩めた。

 それは一瞬だった。
 見間違いだったと言われれば、そう思えたかもしれない。

 だが、ダンブルドアは確かに見た。
 死の呪文だけを灰色の瞳へ映していた男が、夏の光の下で、ごくありふれた笑みを浮かべている。その事実へ、胸の奥が僅かに温かくなる。同時に、迷いも生まれた。この生活へ、自分は踏み込むべきなのか。

 イザークは魔法界を求めていない。
 ホグワーツへ戻りたいとも、過去を清算したいとも言っていない。彼は既に自分の居場所を見つけているのかもしれない。マグル学の教授という席は、確かに彼へ相応しい。ヴォルデモートが再び力を取り戻しつつある今、イザークの力も必要になるだろう。だが、それはイザークのためなのか。それとも、ダンブルドア自身の都合なのか。答えを出せぬまま、時間だけが過ぎていった。

 昼を過ぎても、ダンブルドアは町を去らなかった。
 現場から少し離れた喫茶店へ入り、窓際の席から往来を眺めた。
 紅茶を三杯。店主から勧められた焼き菓子を二つ。新聞を一部買い、文字を追うふりをしながら、時折建設現場へ視線を向ける。

 陽が傾くにつれ、工事の音は少しずつ減っていった。
 一台。また一台と重機が動きを止める。作業員達が道具を片付け、資材へ覆いを掛け始める。やがて、金属製の柵が閉じられた。

 イザークは最後まで現場に残っていた。
 工具箱を抱えた若い男と何か言葉を交わし、肩を軽く叩く。その後、作業着の上着を脱いで片腕へ掛け、道路へ出てきた。

 白いシャツは汗と埃で薄く汚れている。袖を肘まで捲り上げ、緩めた襟元からは日に焼けていない肌が僅かに覗いていた。銀髪は朝よりも乱れ、額へ何筋も落ちている。それでも歩き方は変わらない。背筋は伸び、視線は前へ向けられ、疲労を見せることを拒むように一定の歩調を保っている。

 ダンブルドアは代金を卓上へ置き、店を出た。

 距離を保ったまま、イザークの後を追う。
 本人に知られぬよう魔法を使うことも考えた。だが、やめた。十年間魔法を使わず暮らしてきた男を訪ねながら、自分だけが魔法へ頼って後をつけることに、僅かな後ろめたさを覚えたからだった。

 イザークは途中、小さな食料品店へ立ち寄った。
 紙袋を一つ手に提げて出てくる。
 中にはパンと、瓶詰めの保存食。それに新聞が一部入っていた。

 その後、通りの角にある酒場の前で一度だけ足を止めた。
 扉の向こうから笑い声が漏れている。中にいた誰かが、硝子越しにイザークへ手を上げた。イザークも片手を軽く持ち上げる。

 だが、店には入らなかった。
 そのまま歩き続ける。

 細い路地を二つ曲がり、古びた集合住宅の前で足を止めた。
 三階建ての煉瓦造りだった。外壁は煤で黒ずみ、窓枠の塗装も所々剥がれている。玄関脇には住人達の名前が小さな札へ記されていた。

 二階の一室。I・クレイヴン。名前を変えていない。
 その事実を、ダンブルドアは改めて不思議に思った。

 過去を隠していないわけではない。
 誰にも語らず、魔法界とも関わらず暮らしている。

 それでも、別人にはならなかった。
 何故、イザーク・クレイヴンとして犯した罪を捨て、自分だけ新しい名で生きることを選ばなかったのだろうか。

 男は玄関の鍵を開け、建物の中へ消えた。
 やがて、二階の窓に灯りがつく。橙色の淡い光だった。

 ダンブルドアは通りの向かい側へ立ち、その窓を見上げる。
 カーテン越しに人影が動く。紙袋を机へ置き、上着を脱いでいるのだろう。しばらくすると、窓が僅かに開けられた。室内に籠もった熱を逃がすように、薄いカーテンが夜風を受けて揺れる。窓の灯りを見つめながら、ダンブルドアは十年前の報告書を思い出していた。

 消息不明。
 その四文字の向こうで、イザークは毎日、この部屋へ帰っていたのだ。朝になれば仕事へ向かい、夜になれば戻る。食事をし、眠り、再び朝を迎える。

 誰かにとっては何の価値もない、ありふれた生活。
 だが、十年前の彼には存在しなかったものだった。

 帰る場所。それを、彼は自分で築いたのだろう。
 ならば、なおさら。その扉を叩く資格が、自分にあるのか。
 ダンブルドアはしばらく動かなかった。

 夜はゆっくりと町へ降り始めている。
 通りの街灯が一つずつ灯り、自動車の前照灯が濡れた路面を白く照らして通り過ぎる。仕事を終えた人々が家路を急ぎ、開いた窓の向こうから食器の触れ合う音や、ラジオの音が微かに聞こえてきた。

 イザークの部屋の灯りは消えない。
 四通目の手紙を書くことは、もうしないと決めた。だから、ここまで来た。何も告げずに帰れば、イザークの選択を尊重したことになるのかもしれない。同時に、それは自分が拒絶されることを恐れ、会う前から諦めただけなのかもしれなかった。

 ダンブルドアは静かに息を吐く。
 やがて通りを渡り、集合住宅の前へ立った。

 玄関扉を押し開ける。
 狭い廊下には、煮込んだ豆と古い木材の匂いが漂っていた。階段は人が通るたびに軋み、壁紙は所々浮き上がっている。

 一段ずつ、階段を上る。
 足音を忍ばせることはしなかった。

 二階へ辿り着く。
 廊下の最奥。薄い木製の扉へ、小さな金属板が取り付けられていた。

 I・クレイヴン。
 ダンブルドアはその文字をしばらく見つめる。

 扉の向こうから、微かな生活音が聞こえた。
 椅子が床を擦る音。食器を置く音。紙を捲る音。十年間、誰にも命じられず築かれた時間が、薄い扉一枚の向こうにある。

 ダンブルドアは右手を持ち上げた。
 一瞬だけ、動きが止まる。

 それから指を曲げ、扉を三度叩いた。

 一度目は控えめに。
 二度目は少し強く。
 三度目には、返事を待つ意志を込めて。

3/18ページ
スキ