NAMELESS

×××6


「目当ての品は回収した。グレーン、処理班に連絡しておけ」

 そう言ってUSBメモリをチラつかせ、ジンはそそくさと歩き出した。
 背中を数秒眺めたあと、俺もそれに続く。

 倉庫を出ると、夜の空気が肺の奥まで滑り込んできた。
 湿っている。海が近いせいか、潮の匂いが僅かに混じっていた。さっきまで浴びていた硝煙の残り香を、ゆっくりと洗い流していくような冷たさだ。

 足を止めることなく、俺はポケットから端末を取り出した。
 画面の白い光が、指先と視界の一部だけを淡く照らした。暗闇に慣れた目にとってそれは、眩しいものだった。電話帳を開き、何度か指を滑らせる。登録されていた連絡先は、かなりの数だった。だが、前の俺は律儀にも、所属班と名前を登録していたらしい。処理班の連絡先は、すぐに分かった。

「処理を頼む」

 声は出来るだけ低く、短く落とした。
 必要最低限の言葉だけ。余計な情報は必要ない。位置も、状況も、おそらく既に共有されている。向こうも、このやり取りには慣れているはずだ。

 数秒の沈黙のあと、受領の返答だけが返ってくる。
 それで終わりだ。画面を消し、端末を仕舞い込む。

 ふと横を見ると、ジンが同じように歩いていた。
 足音が妙に静かだ。アスファルトを踏んでいるはずなのに、殆ど響かない。銀髪が、夜気に僅かに揺れる。風なんて殆どないはずなのに、何故かコイツの周りだけ空気が動いているみたいに見える。

 倉庫の裏手に回り込むと、視界が僅かに開けた。
 街灯は遠い。光は弱く、輪郭を辛うじてなぞる程度だ。それでも、地面に転がる何かの異様さは、嫌でも目に入った。人だ。いや、元は。数人分の身体が無造作に積み上がっている。首の向きがおかしいもの、腕があり得ない方向に折れているもの、脚が不自然に絡まったまま止まっているもの。どれも、もう動かない。息はない。それだけは、遠目でもはっきり分かる。

 血の匂いが、遅れて鼻についた。湿った空気に溶けて、鈍く残る。
 ――これを、一人で。思考が、そこで一瞬止まる。
 恐怖が先に来るはずだった。だが同時に、別の感情が顔を出す。妙に整っている。無駄がない。抵抗の痕跡すら、ほとんど見えない。まるで決められた動きをなぞるだけの、単なる作業みたいに処理されている。

 自分の中に浮かんだ感心を、内側で踏み潰す。
 視線を切る。これ以上見ても、得るものはない。

 革靴の底が、アスファルトを踏む。
 乾いた音が、静まり返った倉庫街に小さく響いた。そのまま歩を進める。

 倉庫の影に紛れるようにして、一台の車が停まっていた。黒のセダン。余計な主張はない。だが、古びた印象もない。手入れが行き届いているのが、月明かりの反射だけで分かる。闇の中で、そこだけが僅かに形を持っていた。

「拠点まで乗せろ」

 その一言が、夜気の中に沈んだ。軽い調子でも、確認でもない。ただ当然のように置かれた言葉。その響きが妙に重かった。足が止まる。自分でも分かるほど不自然な間。拠点。頭の中で、その言葉だけが浮く。

 ――知らない。
 乾いた事実が、即座に突きつけられる。
 場所も経路も、何も。地図のように広がるはずの情報は、どこにもない。白紙だ。何も書かれていない。当然だ。俺は、記憶を失っている。分かりきっていることなのに、その現実が、この瞬間だけ妙に生々しく感じられた。

 喉の奥が、僅かに渇く。呼吸が、ほんの一拍だけ浅くなる。
 悟られるとまずい。反射的に、思考が切り替わる。どうにかしろ。このまま運転席に座れば、終わる。ハンドルを握れば、ボロが出る。

 なら、やることは一つ。
 どうにかして、コイツに運転させる。それ以外に選択肢はない。

 視線を上げる。ジンは、もう歩き出していた。
 迷いのない足取り。振り返ることもない。そのまま車へ向かい、自然な流れで助手席側へ回り込む。

 胸の奥で、焦りが膨らんだ。足が、無意識に速くなる。
 アスファルトを踏む音が、さっきより僅かに強く響いた。静まり返った倉庫街に、その差がやけに目立つ。

 距離を詰める。黒い車体が、すぐ目の前に迫る。
 月明かりを弾くボディ。その前で、ジンが足を止める。助手席のドアに手をかける。迷いのない動き。そのまま、引く。金属の擦れる音。

 間に合わない。思考より先に、身体が動いた。
 手を伸ばす。ジンの肩を掴む。押さえる。軽く。だが、確実に動きを止めるだけの力で。自分でも驚くほど、自然な動作だった。反射だった。

 ジンの動きが、止まる。
 ドアは半分ほど開いたまま。隙間から、車内の暗い影が覗く。

 時間が、僅かに伸びる。
 静寂が、張り付く。

 ジンが、ゆっくりと振り向いた。
 その動きには、一切の無駄がない。振り向く、というより、視線だけが先にこちらを捉え、そのあとで身体が追いつくような感覚。深緑色の瞳。夜の中でもはっきりと分かる色。光を弾かず、吸い込むような色。細く絞られている。鋭い。ただ見られているだけなのに、空気が削られる。皮膚の上を、冷たい刃がなぞるみたいな感覚だ。無言の圧が、じわじわと押し寄せてくる。

 遅れて、現実が追いつく。
 距離が近い。近すぎる。この男の間合いに、踏み込んでいる。下手な言葉を並べれば、すぐにひっくり返る距離。それでも、手は離さない。離した瞬間、主導権が完全に向こうに戻る。そう直感した。

 指先に、布越しの硬さが伝わる。筋肉の動きが、僅かに分かる。
 無駄がない身体。力を入れれば、簡単に振り払われる。

 だが、まだ動かない。
 その間が、余計に怖い。

 口元を、ゆっくりと緩める。笑みを作る。自然に見えるように。余計な緊張が出ないように、呼吸を整える。喉の奥に残る乾きを、意識の外に押し出す。

 何か言え。繋げ。誤魔化せ。頭の中で、言葉が散らばる。
 どれも決定打にならない。だが、黙っている方が危険だ。

「……なんだ。グレーン」

 一拍。ほんの僅かな、間。
 その間に、ジンの視線が動く。俺の手。肩。そこから、顔へ。なぞるように。測るように。削ぎ落とすみたいに。嘘があるかどうかを、探っている。

「ジン……」

 逃げ場はない。それでも、口を開く。
 声が、僅かに低く落ちる。
 無理に軽くしない。変に飾らない。自然に、流す。

「……拠点に行くんなら、お前が運転しろ」

 言い切った。短く。それ以上は付け足さない。

 夜気が、二人の間をすり抜けた。
 どこか遠くで、エンジン音が微かに鳴る。処理班の車だろう。
 だが、その音すら遠い。

 ジンは、何も言わない。ただ、こちらを見ている。
 その沈黙が、やけに長く感じられた。

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