NAMELESS
×××5
倉庫の裏手で、何かが軋んだ。
ほんの微かな音。だが、さっきまでの静寂の中では異様に際立つ。三人の男は気付いていない。ただ俺だけが、その違和感を拾う。
遅いな、と心の何処かで思う。
罠にしては、間が空きすぎている。普通なら、俺が三人を制圧した瞬間に動くはずだ。あるいは、その前に。焦らしているのか――それとも、様子を見ているのか。どちらにせよ、性格が悪い。
俺は銃口を保ったまま、僅かに身体の向きをずらす。
正面は崩さない。だが、視界の端で倉庫全体を拾う。影が濃い場所。死角。光の届かない角。そこに何かがいる気配。
「……で、その“ある男”は何て言った」
視線は三人から外さないまま、問いを投げる。
時間を稼ぐための言葉。だが、男たちにはそうは聞こえない。
「え……あ、ああ……」
指名された男が慌てて口を開く。
「“グレーンは必ず来る”って……それで来たところを、囲めばいいって……」
――その時。風に混じって、抑えられた破裂音が響いた。
さっきまで倉庫を抜けていた潮風が、唐突に途切れる。空気が淀む。音が、ひとつ消える。代わりに。靴底がコンクリートを踏む、乾いた音。
ひとつ。またひとつ。規則正しく、迷いのない足取り。
三人の男の顔色が変わる。今度は、恐怖の質が違う。俺に向けていたものじゃない。もっと根の深い、逃げ場のない種類の震え。
俺はゆっくりと視線だけを動かした。
倉庫の裏手。積み上げられた木箱の陰。
闇が、ひとつ剥がれた。月明かりの境界線を踏み越えた瞬間、その輪郭がはっきりと浮かび上がる。
黒のトレンチコート。夜を切り裂くような銀髪が、風もないのに僅かに揺れている。整いすぎた立ち姿。無駄を削ぎ落とした歩幅。重心の置き方が、異様なほど静かだ。戦い慣れている、なんて言葉では足りない。それが日常に組み込まれている動きだ。そして、その手。何かを引き摺っている。コンクリートに擦れる音が、耳障りなほどはっきり響く。フードを被った人影。男が言っていた奴だろうか。力なく垂れた腕が、引きずられるたび、鈍く跳ねる。
――死んでいる。
それは確信として分かった。
男は俺の正面まで来ると、躊躇いなくそれを放り投げた。
床に転がる。乾いた音。遅れて、衣擦れの鈍い余韻。
「グレーン……テメェ、何ちんたらやってやがる」
低い声。その声に、ハッと我に返る。電話の声。
深緑色の瞳が、こちらを鋭く射抜いていた。
「……お前か。この男は」
「テメェを捕らえようと躍起になってた公安の男だ。人数揃えて呑気にテメェを待ってたところを、オレが処理した……」
銀髪の男が、転がったフードの男を革靴の先で無造作に小突く。
鈍い音。反応はない。さっきまでかろうじて残っていた生の気配が、完全に途切れていることを、嫌でも理解させられる。
気になることがある――そう言っていた。それが、この罠。
点だったものが、ゆっくりと線になる。ばらばらだった情報が、ひとつの形を持ち始める。唆された三人。漏れた情報。粛清に来る俺を誘き出すための餌。そのために三人は用意された。そしてこの男は、それを阻止した。
理解は、遅れてやってくるくせに妙に正確だ。
銀髪の男は、何事もなかったかのように銃を持ち上げた。サイレンサーの付いた黒い銃口が、逃げ場を探していた三人へと静かに向けられる。
「……で、漏洩元はどいつだ」
声は低い。だが、先ほどまでの軽さはない。
空気が凍る。三人の男が、ほぼ同時に息を呑む。視線が揺れ、互いを見合う。だが今度は、さっきのように押し付け合う余裕すらない。
ただ、怯えている。俺に対してではない。
目の前の、この男に対してだ。
「……この男だ。残りの二人は、使われただけのようだ」
その返答に、鼻を鳴らした銀髪の男が、僅かに口元を歪める。
その表情は笑みに近い。だが、そこに温度はない。薄氷のように、触れれば切れる冷たさだけがある。指が、静かに引き金へ掛かる。その動きはあまりにも自然で、呼吸と同じくらい無意識に見えた。だからこそ、止める間もない。
最後の男が、それに気づく。目が見開かれ、喉がひきつる。
両手を前に突き出す。命乞いの形。遅すぎる理解。
「まっ、待ってくれ! ジン! おれはただ――」
言葉は、最後まで届かない。
抑えられた破裂音が、連続して空気を震わせた。火薬の匂いが、遅れて鼻腔に入り込む。音は小さい。だが、鼓膜の奥に鈍く残る。
男の身体が、糸を切られた人形のように崩れる。
ひとり。もうひとり。そして、最後のひとり。順番に、音もなく床へ沈んでいく。コンクリートに触れる鈍い衝撃と、衣擦れの微かな音だけが残る。動かない。もう、二度と。倉庫の外に、奇妙な静寂が落ちる。さっきまで確かにあった恐怖の気配が、一瞬で消え失せる。残るのは、ただの空白だけ。
俺は、冷や汗を垂らし、息を呑んでいた。
胸の奥で、空気が引っ掛かる。粛清。その言葉が、遅れて浮かぶ。漏洩元だけを処理すればいい。そう思っていた。だが、違う。この銀髪の男――ジンにとって、この世界にとって、それは関わった時点で、終わりだ。使われたかどうかなんて、関係ない。線に触れた瞬間、もう外側には戻れない。
それが、この世界のやり方。
理解はしている。しているが――僅かに、歯噛みする感覚が残る。
ジンは、撃ち終えた銃をゆっくりと下ろした。
手首の角度すら無駄がない。撃った直後とは思えないほど、静かな動作。硝煙が、ほんの僅かに漂う。潮の匂いと混ざり、湿った空気に溶けていく。
「……何だ、その顔は」
視線だけが、こちらへ向けられる。
鋭い。だが、責める色はない。ただ、観察している。
俺は小さく息を吐く。胸に残った引っかかりを、押し殺すように。
「無駄が多い」
低く言う。短く、吐き捨てるように。
自分でも分かっている。それが合理じゃないことくらい。だが、それでも、口に出さずにはいられなかった。
ジンは、一瞬だけ沈黙する。
それから、ゆっくりと視線を死体へ落とした。革靴の先で、ひとりの肩を軽く転がす。反応はない。
「フン……可能性を残す方が、よっぽど無駄だぜ……」
淡々とした口調。そこに感情はない。ただ、結果だけを見ている。
倉庫の天井から垂れ下がる鉄骨の影が、微かに揺れる。
何処かで、風が動いたらしい。
俺は、何も言い返さない。
言えない、ではなく。言う意味がない。理解はしている。ひとりでも逃げれば情報は流れる。痕跡が繋がり、やがてこちらに辿り着く。だから、消す。関わったものを、すべて。それが、最も無駄がない。理屈としては、完璧だ。
胸の奥で、何かが鈍く沈む。
納得ではない。ただ、受け入れるしかない現実。
――だが。俺はひとつ、思った。
|俺は《・・》、人を殺したくない。そう、思った。この世界にいる以上、それは無理かもしれない。でも、それでも、そう思ってしまった。
ジンは、それ以上何も言わなかった。
興味を失ったように視線を外し、倉庫の奥へ目を向ける。
外から吹き込む夜風が、ようやく戻ってくる。止まっていた空気が、ゆっくりと流れ出す。潮の匂いが、俺の黒髪を攫っていった。
倉庫の裏手で、何かが軋んだ。
ほんの微かな音。だが、さっきまでの静寂の中では異様に際立つ。三人の男は気付いていない。ただ俺だけが、その違和感を拾う。
遅いな、と心の何処かで思う。
罠にしては、間が空きすぎている。普通なら、俺が三人を制圧した瞬間に動くはずだ。あるいは、その前に。焦らしているのか――それとも、様子を見ているのか。どちらにせよ、性格が悪い。
俺は銃口を保ったまま、僅かに身体の向きをずらす。
正面は崩さない。だが、視界の端で倉庫全体を拾う。影が濃い場所。死角。光の届かない角。そこに何かがいる気配。
「……で、その“ある男”は何て言った」
視線は三人から外さないまま、問いを投げる。
時間を稼ぐための言葉。だが、男たちにはそうは聞こえない。
「え……あ、ああ……」
指名された男が慌てて口を開く。
「“グレーンは必ず来る”って……それで来たところを、囲めばいいって……」
――その時。風に混じって、抑えられた破裂音が響いた。
さっきまで倉庫を抜けていた潮風が、唐突に途切れる。空気が淀む。音が、ひとつ消える。代わりに。靴底がコンクリートを踏む、乾いた音。
ひとつ。またひとつ。規則正しく、迷いのない足取り。
三人の男の顔色が変わる。今度は、恐怖の質が違う。俺に向けていたものじゃない。もっと根の深い、逃げ場のない種類の震え。
俺はゆっくりと視線だけを動かした。
倉庫の裏手。積み上げられた木箱の陰。
闇が、ひとつ剥がれた。月明かりの境界線を踏み越えた瞬間、その輪郭がはっきりと浮かび上がる。
黒のトレンチコート。夜を切り裂くような銀髪が、風もないのに僅かに揺れている。整いすぎた立ち姿。無駄を削ぎ落とした歩幅。重心の置き方が、異様なほど静かだ。戦い慣れている、なんて言葉では足りない。それが日常に組み込まれている動きだ。そして、その手。何かを引き摺っている。コンクリートに擦れる音が、耳障りなほどはっきり響く。フードを被った人影。男が言っていた奴だろうか。力なく垂れた腕が、引きずられるたび、鈍く跳ねる。
――死んでいる。
それは確信として分かった。
男は俺の正面まで来ると、躊躇いなくそれを放り投げた。
床に転がる。乾いた音。遅れて、衣擦れの鈍い余韻。
「グレーン……テメェ、何ちんたらやってやがる」
低い声。その声に、ハッと我に返る。電話の声。
深緑色の瞳が、こちらを鋭く射抜いていた。
「……お前か。この男は」
「テメェを捕らえようと躍起になってた公安の男だ。人数揃えて呑気にテメェを待ってたところを、オレが処理した……」
銀髪の男が、転がったフードの男を革靴の先で無造作に小突く。
鈍い音。反応はない。さっきまでかろうじて残っていた生の気配が、完全に途切れていることを、嫌でも理解させられる。
気になることがある――そう言っていた。それが、この罠。
点だったものが、ゆっくりと線になる。ばらばらだった情報が、ひとつの形を持ち始める。唆された三人。漏れた情報。粛清に来る俺を誘き出すための餌。そのために三人は用意された。そしてこの男は、それを阻止した。
理解は、遅れてやってくるくせに妙に正確だ。
銀髪の男は、何事もなかったかのように銃を持ち上げた。サイレンサーの付いた黒い銃口が、逃げ場を探していた三人へと静かに向けられる。
「……で、漏洩元はどいつだ」
声は低い。だが、先ほどまでの軽さはない。
空気が凍る。三人の男が、ほぼ同時に息を呑む。視線が揺れ、互いを見合う。だが今度は、さっきのように押し付け合う余裕すらない。
ただ、怯えている。俺に対してではない。
目の前の、この男に対してだ。
「……この男だ。残りの二人は、使われただけのようだ」
その返答に、鼻を鳴らした銀髪の男が、僅かに口元を歪める。
その表情は笑みに近い。だが、そこに温度はない。薄氷のように、触れれば切れる冷たさだけがある。指が、静かに引き金へ掛かる。その動きはあまりにも自然で、呼吸と同じくらい無意識に見えた。だからこそ、止める間もない。
最後の男が、それに気づく。目が見開かれ、喉がひきつる。
両手を前に突き出す。命乞いの形。遅すぎる理解。
「まっ、待ってくれ! ジン! おれはただ――」
言葉は、最後まで届かない。
抑えられた破裂音が、連続して空気を震わせた。火薬の匂いが、遅れて鼻腔に入り込む。音は小さい。だが、鼓膜の奥に鈍く残る。
男の身体が、糸を切られた人形のように崩れる。
ひとり。もうひとり。そして、最後のひとり。順番に、音もなく床へ沈んでいく。コンクリートに触れる鈍い衝撃と、衣擦れの微かな音だけが残る。動かない。もう、二度と。倉庫の外に、奇妙な静寂が落ちる。さっきまで確かにあった恐怖の気配が、一瞬で消え失せる。残るのは、ただの空白だけ。
俺は、冷や汗を垂らし、息を呑んでいた。
胸の奥で、空気が引っ掛かる。粛清。その言葉が、遅れて浮かぶ。漏洩元だけを処理すればいい。そう思っていた。だが、違う。この銀髪の男――ジンにとって、この世界にとって、それは関わった時点で、終わりだ。使われたかどうかなんて、関係ない。線に触れた瞬間、もう外側には戻れない。
それが、この世界のやり方。
理解はしている。しているが――僅かに、歯噛みする感覚が残る。
ジンは、撃ち終えた銃をゆっくりと下ろした。
手首の角度すら無駄がない。撃った直後とは思えないほど、静かな動作。硝煙が、ほんの僅かに漂う。潮の匂いと混ざり、湿った空気に溶けていく。
「……何だ、その顔は」
視線だけが、こちらへ向けられる。
鋭い。だが、責める色はない。ただ、観察している。
俺は小さく息を吐く。胸に残った引っかかりを、押し殺すように。
「無駄が多い」
低く言う。短く、吐き捨てるように。
自分でも分かっている。それが合理じゃないことくらい。だが、それでも、口に出さずにはいられなかった。
ジンは、一瞬だけ沈黙する。
それから、ゆっくりと視線を死体へ落とした。革靴の先で、ひとりの肩を軽く転がす。反応はない。
「フン……可能性を残す方が、よっぽど無駄だぜ……」
淡々とした口調。そこに感情はない。ただ、結果だけを見ている。
倉庫の天井から垂れ下がる鉄骨の影が、微かに揺れる。
何処かで、風が動いたらしい。
俺は、何も言い返さない。
言えない、ではなく。言う意味がない。理解はしている。ひとりでも逃げれば情報は流れる。痕跡が繋がり、やがてこちらに辿り着く。だから、消す。関わったものを、すべて。それが、最も無駄がない。理屈としては、完璧だ。
胸の奥で、何かが鈍く沈む。
納得ではない。ただ、受け入れるしかない現実。
――だが。俺はひとつ、思った。
|俺は《・・》、人を殺したくない。そう、思った。この世界にいる以上、それは無理かもしれない。でも、それでも、そう思ってしまった。
ジンは、それ以上何も言わなかった。
興味を失ったように視線を外し、倉庫の奥へ目を向ける。
外から吹き込む夜風が、ようやく戻ってくる。止まっていた空気が、ゆっくりと流れ出す。潮の匂いが、俺の黒髪を攫っていった。