NAMELESS
×××2
耳に押し当てていた携帯を、ゆっくりと離す。
画面はすぐに暗転し、俺――グレーンの顔を曖昧に映し返した。灰色の瞳が、黒い液晶の奥でぼやけている。
静寂が戻る。だがそれは、先ほどまでの何もない静けさではなかった。
空気の奥に、見えない圧が沈んでいる。時間が、細く絞られている。
三十分。その数字だけが、頭の中で乾いた音を立てた。
俺は携帯をテーブルへ置き、視線を落とす。
そこにある拳銃は、先ほどと同じ形でそこにあった。だが、見え方が違う。さっきまでは“状況”だったものが、今は“道具”としてそこにある。
指先が、無意識にスライドの縁を撫でた。冷たい。硬い。確かな輪郭。
その感触に、身体の奥が僅かに落ち着く。俺は息を吐いた。
床に落ちた光の帯を踏み越え、クローゼットへ向かう。
取っ手に触れる。冷えた金属が、指の温度を吸った。開ける。整然と並んだ衣服が、暗がりの中で静かに輪郭を浮かべる。黒。そして白。色の選択に迷いはない。むしろ、迷う余地が削ぎ落とされている。
俺は手を伸ばした。
最初に掴んだのは、防弾チョッキだった。ケブラー繊維の硬質な感触が、布越しに指へ伝わる。しなやかで、しかし芯がある。折れない素材の感触。それを持ち上げる。軽くはない。だが、重すぎることもない。
身体はその重さを知っていた。
インナーの上から、チョッキを被る。肩に乗る重み。胸を覆う圧。ベルクロを締めると、身体の輪郭が僅かに制限される。呼吸が、少しだけ浅くなる。だが不快ではなかった。むしろ――守られている、という感覚があった。
次に、ワイシャツを手に取る。白い布は、無機質なほどに整っている。袖を通す。腕が滑り込む。布が皮膚を撫でる。ボタンを一つずつ留めるたび、外界との距離が整えられていく。襟元を指で正す。
そのまま黒のスーツを取り出す。ジャケットの重みが、肩へと落ちる。布地は滑らかで、無駄な皺がない。腕を通し、肩を回す。ぴたりと合う。あつらえたように、ではない。そうなるべくしてなっているような合い方だった。
ネクタイを取る。それも、黒色。さながら喪服のようだ。
指先が、結び方を覚えている。巻く。折る。通す。引く。鏡を見ずとも、形が整う。喉元に締まる感触。圧迫と、安定。
俺は、一瞬だけ指を止めた。
その動作があまりにも自然だったからだ。だが、すぐに手を離す。
クローゼットの下に置かれた引き出しを開ける。
中にはサングラスが入っていた。指で、軽く埃を払う。殆ど付いていない。常用していたらしい。胸ポケットに忍ばせ、小さく息を吐く。
机へ戻り、拳銃を手に取る。
グリップが掌に吸い付く。確認するまでもない。安全装置、装填、状態――すべて、分かっている。胸の内側へ手を差し入れる。
ホルスターの位置を確かめた。そこへ、滑り込ませる。
収まる。音はしない。だが、確かに収まったという感覚がある。
その瞬間、身体の重心が僅かに変わる。左右のバランスが、自然に調整されていく。俺は目を細めた。
机の端に置かれていたパソコンへ手を伸ばす。薄型の機体。指先に伝わる硬質な輪郭。それを掴み、脇に抱える。次に携帯電話を拾う。さっきまでとは違う重みを感じた。それをポケットへ滑り込ませる。視線が、部屋を一巡する。
ベッド。机。椅子。どれも変わらない。
だが、もう戻る場所としての温度はなかった。
俺は玄関へ向かう。
靴を履く。革が足に馴染む。紐を締める。結び目が自然と整う。壁のフックから鍵を取る。車のキー。金属の重みが掌に転がった。
ドアノブに手を掛ける。
一瞬だけ、動きが止まった。何かを思い出そうとしたわけではない。ただ、ほんの僅かに――ここにいた自分の輪郭を、探した。
だが、何もない。空白だけが、静かにそこにあった。
俺は目を細め、ドアを開ける。冷たい外気が、頬を撫でた。外は夜だった。空気は乾いていて、遠くで、車の走る音が低く響いていた。
外灯の白が、コンクリートを薄く濡らしていた。アスファルトは昼の熱を失い、硬質な冷たさを返している。夜気は澄んでいるが、どこか油の匂いが混じっていた。駐車場。整然と並んだ車列が、静かに沈んでいる。
俺は、はたと足を止めた。
視線が、ゆっくりと横へ流れる。黒。白。銀。似たような車体が、同じ向きで並んでいる。どれもそれらしい。だが、どれもこれだとは言えない。
鍵は、手の中にある。
それでも、対応する“記憶”がない。どの車に向かえばいいのか、それだけが空白のままだった。俺は無言で、キーを軽く押した。
――ピッ。乾いた電子音が、夜の空気に小さく弾ける。
同時に、橙色の光がひとつ、短く瞬いた。右手奥。酷くクラシカルな印象のセダン車。黒い車体が、ウィンカーを二度、規則正しく点滅させる。その光だけが、他の車列から僅かに浮いて見えた。足音が、コンクリートに鈍く返る。近づくにつれ、車体の輪郭がはっきりしていく。黒い塗装は光を吸い込み、周囲の景色を曖昧に映していた。手を伸ばす。ドアノブに触れる。冷たい金属。
開けると、密閉されていた空気が、僅かに外へ流れた。
革と機械の匂いが、鼻腔に触れる。見慣れているはずの空間。
だが、やはり記憶にはない。
俺は身体を滑り込ませた。
シートが、体重を受け止める。背中に沿う硬さ。腰を支える感触。ドアを閉めると、外界の音が一段、遠のいた。脇に抱えていたパソコンを、助手席へ放る。軽い衝撃音が、静かな車内に小さく響く。
キーを差し込む。回す。エンジンが、低く唸った。
振動が、シートを通して背骨へ伝わる。生き物のように、車が目を覚ます。俺の手が、自然にギアへ伸びた。迷いはない。位置も、感触も、すべて身体が覚えている。入れる。ブレーキを緩める。車体が、静かに前へ滑った。駐車場を抜ける。外灯の光が、ボンネットの上を流れていく。夜の街へ出る。アスファルトが、連続した黒の帯となって伸びている。街灯が等間隔に並び、白い光がフロントガラスを掠めるたび、視界が一瞬だけ明滅する。
光。闇。光。闇。リズムのように、それが繰り返される。
俺はハンドルを握ったまま、前方を見据える。運転は自然だった。
視線の配り方も、速度の調整も、ブレーキの踏み方も、何一つ考えていない。それでも、すべてが適切な位置に収まっている。
身体が知っている。それだけが、確かな事実だった。
信号が赤に変わる。ブレーキを踏み込み、車が静かに減速する。エンジンの振動だけが、僅かに残る。外では、遠くの車が通り過ぎる音が流れていた。
俺は助手席へ手を伸ばした。
放っていたパソコンを引き寄せる。膝の上に置き、起動する。液晶が、白く立ち上がる。暗い車内に、冷たい光が広がった。
ログイン画面。俺は一瞬だけ、指を止めた。
知らない。当然だ。だが、次の瞬間には視線が下へ落ちていた。パソコンを裏返す。貼られている。小さな付箋。端が僅かに剥がれかけた、安っぽい紙片。そこに、無造作に文字列が書かれていた。俺は、目を細める。
「……前の俺は、セキュリティ意識に欠けてるな……」
低く呟く。だが、躊躇はない。
その文字列を、そのまま打ち込む。Enterキーが、乾いた音を立てた。一瞬の間。画面が暗転し、次いで静かに切り替わる。
デスクトップが開いた。
無駄のない配置だった。壁紙は単色。アイコンは最小限。整然と並べられているが、几帳面というより必要なものしか置かない配置だ。視線がすぐに左上へ滑る。メール。未読の数字が、小さく赤く浮かんでいた。
カーソルを動かし、画面が切り替わる。一覧が開いた。
送信時刻。差出人。件名。いくつかの行が並んでいる。だが、その中で一つだけ異質なものがあった。件名が、ない。送信元も、ただの記号の羅列。意味を持たない文字列。だが、意味を隠していることだけは、はっきりと分かる。
指が止まる。
その行を見ているだけで、僅かに喉の奥が乾いた。
「……どれどれ。これだな、資料ってのは」
資料が展開される。白地に、黒い文字列。無機質なレイアウトだった。
装飾は一切ない。余白が多い。情報だけが、冷たく並べられている。
――場所:横浜湾港倉庫街
――対象:当該拠点関係者
――情報漏洩につき、漏洩元を粛清
「粛清って……おいおい。これだけか」
俺は、しばらく放心したように画面を見ていた。
曖昧だ。あまりにも曖昧だった。対象の人数も、範囲も、方法も書かれていない。だが、それを補うように、下に一行だけ追加されていた。
――現地判断。指先が、僅かに止まる。
現地判断。つまり、決めろということだ。何を、どこまで。どこからが対象で、どこまでが対象外なのか。決める基準は、書かれていない。
「まいったな……記憶もないのにどうしろと」
俺は小さく舌打ちした。
次の瞬間、膝の上のパソコンを助手席へ放り投げる。硬い音が、車内に鈍く跳ねた。そのまま、苛立ちを押し殺すようにダッシュボードへ手を伸ばす。躊躇はなかった。勢い良く開け放ち、指先が、中を探る。目は前を向いたまま。視線を落とさない。だが、手だけがそこにあるはずのものを知っていた。
触れた。紙の箱。薄い感触。
取り出す。一本引き抜く。咥える。それは、あまりにも自然な一連だった。思い出したわけではない。考えたわけでもない。ただ、身体がやっている。
ダッシュボードから取り出したライターを弾く。
ゆらりと火が灯る。橙の小さな揺らぎが、暗い車内で一瞬だけ生き物のように跳ねた。煙草の先が、赤く染まる。肺へ落ちる熱。乾いた煙が、内側を撫でる。紫煙が、ゆっくりと前方へ流れていく。
そのとき。信号が、変わった。赤から、青へ。
前方の車列が、僅かに動き出す。直進の流れが、静かにほどける。
俺は、ハンドルを切った。
直進ではない。右へ。車体が、滑るように進路を変える。遠心力が、僅かに身体を外へ引く。街灯の光が、斜めに流れる。フロントガラスに映る白が、曲線を描いて歪んだ。煙が、それに追従する。
紫煙は、細く引き延ばされ、夜の空気に溶けていく。
何も言わない。ただ、前を見る。
その横で、煙だけが形を変えながら、静かに消えていった。
耳に押し当てていた携帯を、ゆっくりと離す。
画面はすぐに暗転し、俺――グレーンの顔を曖昧に映し返した。灰色の瞳が、黒い液晶の奥でぼやけている。
静寂が戻る。だがそれは、先ほどまでの何もない静けさではなかった。
空気の奥に、見えない圧が沈んでいる。時間が、細く絞られている。
三十分。その数字だけが、頭の中で乾いた音を立てた。
俺は携帯をテーブルへ置き、視線を落とす。
そこにある拳銃は、先ほどと同じ形でそこにあった。だが、見え方が違う。さっきまでは“状況”だったものが、今は“道具”としてそこにある。
指先が、無意識にスライドの縁を撫でた。冷たい。硬い。確かな輪郭。
その感触に、身体の奥が僅かに落ち着く。俺は息を吐いた。
床に落ちた光の帯を踏み越え、クローゼットへ向かう。
取っ手に触れる。冷えた金属が、指の温度を吸った。開ける。整然と並んだ衣服が、暗がりの中で静かに輪郭を浮かべる。黒。そして白。色の選択に迷いはない。むしろ、迷う余地が削ぎ落とされている。
俺は手を伸ばした。
最初に掴んだのは、防弾チョッキだった。ケブラー繊維の硬質な感触が、布越しに指へ伝わる。しなやかで、しかし芯がある。折れない素材の感触。それを持ち上げる。軽くはない。だが、重すぎることもない。
身体はその重さを知っていた。
インナーの上から、チョッキを被る。肩に乗る重み。胸を覆う圧。ベルクロを締めると、身体の輪郭が僅かに制限される。呼吸が、少しだけ浅くなる。だが不快ではなかった。むしろ――守られている、という感覚があった。
次に、ワイシャツを手に取る。白い布は、無機質なほどに整っている。袖を通す。腕が滑り込む。布が皮膚を撫でる。ボタンを一つずつ留めるたび、外界との距離が整えられていく。襟元を指で正す。
そのまま黒のスーツを取り出す。ジャケットの重みが、肩へと落ちる。布地は滑らかで、無駄な皺がない。腕を通し、肩を回す。ぴたりと合う。あつらえたように、ではない。そうなるべくしてなっているような合い方だった。
ネクタイを取る。それも、黒色。さながら喪服のようだ。
指先が、結び方を覚えている。巻く。折る。通す。引く。鏡を見ずとも、形が整う。喉元に締まる感触。圧迫と、安定。
俺は、一瞬だけ指を止めた。
その動作があまりにも自然だったからだ。だが、すぐに手を離す。
クローゼットの下に置かれた引き出しを開ける。
中にはサングラスが入っていた。指で、軽く埃を払う。殆ど付いていない。常用していたらしい。胸ポケットに忍ばせ、小さく息を吐く。
机へ戻り、拳銃を手に取る。
グリップが掌に吸い付く。確認するまでもない。安全装置、装填、状態――すべて、分かっている。胸の内側へ手を差し入れる。
ホルスターの位置を確かめた。そこへ、滑り込ませる。
収まる。音はしない。だが、確かに収まったという感覚がある。
その瞬間、身体の重心が僅かに変わる。左右のバランスが、自然に調整されていく。俺は目を細めた。
机の端に置かれていたパソコンへ手を伸ばす。薄型の機体。指先に伝わる硬質な輪郭。それを掴み、脇に抱える。次に携帯電話を拾う。さっきまでとは違う重みを感じた。それをポケットへ滑り込ませる。視線が、部屋を一巡する。
ベッド。机。椅子。どれも変わらない。
だが、もう戻る場所としての温度はなかった。
俺は玄関へ向かう。
靴を履く。革が足に馴染む。紐を締める。結び目が自然と整う。壁のフックから鍵を取る。車のキー。金属の重みが掌に転がった。
ドアノブに手を掛ける。
一瞬だけ、動きが止まった。何かを思い出そうとしたわけではない。ただ、ほんの僅かに――ここにいた自分の輪郭を、探した。
だが、何もない。空白だけが、静かにそこにあった。
俺は目を細め、ドアを開ける。冷たい外気が、頬を撫でた。外は夜だった。空気は乾いていて、遠くで、車の走る音が低く響いていた。
外灯の白が、コンクリートを薄く濡らしていた。アスファルトは昼の熱を失い、硬質な冷たさを返している。夜気は澄んでいるが、どこか油の匂いが混じっていた。駐車場。整然と並んだ車列が、静かに沈んでいる。
俺は、はたと足を止めた。
視線が、ゆっくりと横へ流れる。黒。白。銀。似たような車体が、同じ向きで並んでいる。どれもそれらしい。だが、どれもこれだとは言えない。
鍵は、手の中にある。
それでも、対応する“記憶”がない。どの車に向かえばいいのか、それだけが空白のままだった。俺は無言で、キーを軽く押した。
――ピッ。乾いた電子音が、夜の空気に小さく弾ける。
同時に、橙色の光がひとつ、短く瞬いた。右手奥。酷くクラシカルな印象のセダン車。黒い車体が、ウィンカーを二度、規則正しく点滅させる。その光だけが、他の車列から僅かに浮いて見えた。足音が、コンクリートに鈍く返る。近づくにつれ、車体の輪郭がはっきりしていく。黒い塗装は光を吸い込み、周囲の景色を曖昧に映していた。手を伸ばす。ドアノブに触れる。冷たい金属。
開けると、密閉されていた空気が、僅かに外へ流れた。
革と機械の匂いが、鼻腔に触れる。見慣れているはずの空間。
だが、やはり記憶にはない。
俺は身体を滑り込ませた。
シートが、体重を受け止める。背中に沿う硬さ。腰を支える感触。ドアを閉めると、外界の音が一段、遠のいた。脇に抱えていたパソコンを、助手席へ放る。軽い衝撃音が、静かな車内に小さく響く。
キーを差し込む。回す。エンジンが、低く唸った。
振動が、シートを通して背骨へ伝わる。生き物のように、車が目を覚ます。俺の手が、自然にギアへ伸びた。迷いはない。位置も、感触も、すべて身体が覚えている。入れる。ブレーキを緩める。車体が、静かに前へ滑った。駐車場を抜ける。外灯の光が、ボンネットの上を流れていく。夜の街へ出る。アスファルトが、連続した黒の帯となって伸びている。街灯が等間隔に並び、白い光がフロントガラスを掠めるたび、視界が一瞬だけ明滅する。
光。闇。光。闇。リズムのように、それが繰り返される。
俺はハンドルを握ったまま、前方を見据える。運転は自然だった。
視線の配り方も、速度の調整も、ブレーキの踏み方も、何一つ考えていない。それでも、すべてが適切な位置に収まっている。
身体が知っている。それだけが、確かな事実だった。
信号が赤に変わる。ブレーキを踏み込み、車が静かに減速する。エンジンの振動だけが、僅かに残る。外では、遠くの車が通り過ぎる音が流れていた。
俺は助手席へ手を伸ばした。
放っていたパソコンを引き寄せる。膝の上に置き、起動する。液晶が、白く立ち上がる。暗い車内に、冷たい光が広がった。
ログイン画面。俺は一瞬だけ、指を止めた。
知らない。当然だ。だが、次の瞬間には視線が下へ落ちていた。パソコンを裏返す。貼られている。小さな付箋。端が僅かに剥がれかけた、安っぽい紙片。そこに、無造作に文字列が書かれていた。俺は、目を細める。
「……前の俺は、セキュリティ意識に欠けてるな……」
低く呟く。だが、躊躇はない。
その文字列を、そのまま打ち込む。Enterキーが、乾いた音を立てた。一瞬の間。画面が暗転し、次いで静かに切り替わる。
デスクトップが開いた。
無駄のない配置だった。壁紙は単色。アイコンは最小限。整然と並べられているが、几帳面というより必要なものしか置かない配置だ。視線がすぐに左上へ滑る。メール。未読の数字が、小さく赤く浮かんでいた。
カーソルを動かし、画面が切り替わる。一覧が開いた。
送信時刻。差出人。件名。いくつかの行が並んでいる。だが、その中で一つだけ異質なものがあった。件名が、ない。送信元も、ただの記号の羅列。意味を持たない文字列。だが、意味を隠していることだけは、はっきりと分かる。
指が止まる。
その行を見ているだけで、僅かに喉の奥が乾いた。
「……どれどれ。これだな、資料ってのは」
資料が展開される。白地に、黒い文字列。無機質なレイアウトだった。
装飾は一切ない。余白が多い。情報だけが、冷たく並べられている。
――場所:横浜湾港倉庫街
――対象:当該拠点関係者
――情報漏洩につき、漏洩元を粛清
「粛清って……おいおい。これだけか」
俺は、しばらく放心したように画面を見ていた。
曖昧だ。あまりにも曖昧だった。対象の人数も、範囲も、方法も書かれていない。だが、それを補うように、下に一行だけ追加されていた。
――現地判断。指先が、僅かに止まる。
現地判断。つまり、決めろということだ。何を、どこまで。どこからが対象で、どこまでが対象外なのか。決める基準は、書かれていない。
「まいったな……記憶もないのにどうしろと」
俺は小さく舌打ちした。
次の瞬間、膝の上のパソコンを助手席へ放り投げる。硬い音が、車内に鈍く跳ねた。そのまま、苛立ちを押し殺すようにダッシュボードへ手を伸ばす。躊躇はなかった。勢い良く開け放ち、指先が、中を探る。目は前を向いたまま。視線を落とさない。だが、手だけがそこにあるはずのものを知っていた。
触れた。紙の箱。薄い感触。
取り出す。一本引き抜く。咥える。それは、あまりにも自然な一連だった。思い出したわけではない。考えたわけでもない。ただ、身体がやっている。
ダッシュボードから取り出したライターを弾く。
ゆらりと火が灯る。橙の小さな揺らぎが、暗い車内で一瞬だけ生き物のように跳ねた。煙草の先が、赤く染まる。肺へ落ちる熱。乾いた煙が、内側を撫でる。紫煙が、ゆっくりと前方へ流れていく。
そのとき。信号が、変わった。赤から、青へ。
前方の車列が、僅かに動き出す。直進の流れが、静かにほどける。
俺は、ハンドルを切った。
直進ではない。右へ。車体が、滑るように進路を変える。遠心力が、僅かに身体を外へ引く。街灯の光が、斜めに流れる。フロントガラスに映る白が、曲線を描いて歪んだ。煙が、それに追従する。
紫煙は、細く引き延ばされ、夜の空気に溶けていく。
何も言わない。ただ、前を見る。
その横で、煙だけが形を変えながら、静かに消えていった。