NAMELESS
×××16
夜は、静かだった。通りに人影はない。
街灯が、一定の間隔で並んでいる。光は弱い。地面に落ちた色も薄い。照らしているというより、そこにあることを示しているだけの灯りだ。
足音が、一つ。
遅れない。乱れない。一定の間隔で、アスファルトを叩く。
ジンは、歩いていた。片腕で、グレーンの身体を支えている。
預けられている重さ。抵抗はない。完全に脱力している。引き摺ることはしない。だが、持ち上げる必要もない。歩幅に合わせて、自然に揺れるだけだ。グレーンの頭が、僅かに傾ぐ。支えられている側へ。筋の通った頬が、ジンの肩に触れる。反応はない。呼吸だけが、一定のリズムで繰り返されている。
Black Widowsから僅かに離れた路肩に、車がある。
黒。光を弾かない塗装。街灯の下でも、輪郭だけが浮いている。グレーンの車種ほどではないが、古い型の車体。ポルシェ356A。
沈んだ足音が止まる。
鍵の音は小さい。解錠の感触だけが指に伝わる。助手席のドアが開く。軋みはない。整備されている。動作に無駄もない。ジンは体勢を変えた。支えていた位置をずらす。腕を回す。背と膝裏。重さを受ける場所を切り替える。軽々と浮かせる。動きは滑らかだ。持ち上げるというより、移すだけの感覚。
横抱き。グレーンの身体が、完全に預けられる。
首が落ちる。撫で付けられた前髪が落ち、僅かに揺れる。頬に影がかかる。そのまま助手席へ。シートに沈ませる。反発は弱い。体重を受けて、ゆっくりと形を変える。手を離す。だが、完全には離さない。襟元を整えるように指先が触れる。無意識の仕草に近い。だが、動きは正確だった。
ジンは軽く舌打ちを転がし、ドアを閉める。
音は鈍い。外の空気が遮断される。ジンは運転席に回った。迷いはない。最短の動線。ドアを押し開け、滑り込む。
車内は暗い。外の街灯が、ガラス越しに線を落とす。
影が分断される。二人分の空間が、曖昧に区切られる。沈黙が落ちる。
すぐにエンジンは掛けなかった。
ジンは僅かに体勢を変える。シートから背を離し、助手席に重心を寄せる。距離が詰まる。グレーンの呼吸が近い。一定の間隔。浅くも深くもない。眠りに落ちたままの、無防備なリズムだった。
そのまま、躊躇いもなく顎に触れる。
指先で角度を変える。抵抗はない。容易く、力も不要だった。晒された喉元を見て、ジンは僅かに目を細めた。影がそこに落ちる。指先を襟元に伸ばす。布の隙間に指を入れる。ゆっくりと、迷いなく。躊躇もない。体温に触れた。皮膚の上を滑るわけではない。ただ、確かめるように止まる。
「フン……いけ好かねぇ野郎だ」
襟元から小さな機械を摘み出す。
発振器付き盗聴器。バーボンが仕掛けたものだ。ジンはそれを見下ろし、指先で押し潰す。機械片とともに、車内に乾いた破裂音が落ちる。潰れた破片を指先で払う。興味はない。確認は済んでいる。
次に、ジンはグレーンの上着に手を掛けた。
躊躇はない。ボタンを外す動きも、布を退ける手付きも無駄がない。目的は一つ。盗聴器を探るための動作。それ以上でも、それ以下でもない。
腰回り。ベルトの上からでは分からない。
指が、内側に滑り込む。皮と布の隙間。体温が籠る場所。硬い感触を探る。なぞるわけではない。位置を割り出すための最短の動きだった。
指先が、何かに引っ掛かった。ジンの指がそれを摘む。
丸い機械。布と皮の間隙に、埋め込まれるように仕込まれている。取り出す動作も静かだった。抵抗は僅か。固定は甘い。急ごしらえの細工。
視線だけが、冷たく落ちる。
冷ややかな深緑色の瞳が盗聴器を見据え、絞られる。力を込める。鈍い音。指の中で、形が崩れる。機能を失った。破片が、シートの上に転がる。
沈黙が戻る。ジンは動かなかった。
視線だけが、グレーンに向けられる。いつもと変わらず、後ろに撫で付けられた黒髪。指摘されて付け足されたようなサングラス。酒に弱いところは前と変わらず、僅かに火照った頬。寝息も、さして変わらない。規則的で、揺らぎもない。外から何かを加えられても、反応する気配はない。
グレーンの顔をまじまじと見つめる。
観察するための距離。だが、近い。光が横から差し込んだ。輪郭が浮く。影が頬に落ちる。サングラスの奥に沈んだ瞼は、閉じられたままだ。表情も動く気配はない。ジンの目が、僅かに細まる。
違和感。言葉にするほどのものではない。だが、引っ掛かる。
回りくどい言い回し。余計な含み。そして――礼。あの口から、落ちるはずのないもの。考えてみれば、任務の動きも悪かった。今日以前のグレーンは、冷静に状況を把握し、先回りする癖がある。ジンが見抜いた公安の罠も、以前のグレーンならば周知していても良いはずだった。
視線が、更に近付く。ジンの手が伸びた。
頬。サングラスの脇から指の腹を滑らし、顎を引く。顔が上向く。軽く左右に振り、光の角度を変え、注意深く見つめる。指先に伝わる感触は柔らかく、弾力がある。皮膚の体温。人工の薄皮ではない。貼り付けられた異物の気配もない。顔を傾けさせ、首元に視線を落とした。薄皮の継ぎ目もない。正真正銘グレーンの顔だ。変装の類は、何も見当たらなかった。
ジンの手が止まる。数秒。沈黙。
視線だけが、そこに残る。
やがて、ジンは顎から手を離した。
グレーンの顔が、支えを失くして横に振れる。だが、起きない。呼吸は変わらない。起きる気配もない。
次の瞬間、身体を引く。
シートに深く背を預け、口元を歪ませた。短く鼻を鳴らす。エンジンキーを回し、ライトを付ける。振動が車内に広がった。低い音。安定している。機械の鼓動が、静けさを塗り替える。車体が滑り、街灯が後ろへ沈んでいく。
「……らしくねぇ、か……」
独り言。誰に向けたものでもない。
視線は前を捉えたまま、動かさなかった。
隣の寝息は変わらない。
それを乗せたまま、車は夜を滑る。
やがて、その気配ごと闇に沈んでいった。
夜は、静かだった。通りに人影はない。
街灯が、一定の間隔で並んでいる。光は弱い。地面に落ちた色も薄い。照らしているというより、そこにあることを示しているだけの灯りだ。
足音が、一つ。
遅れない。乱れない。一定の間隔で、アスファルトを叩く。
ジンは、歩いていた。片腕で、グレーンの身体を支えている。
預けられている重さ。抵抗はない。完全に脱力している。引き摺ることはしない。だが、持ち上げる必要もない。歩幅に合わせて、自然に揺れるだけだ。グレーンの頭が、僅かに傾ぐ。支えられている側へ。筋の通った頬が、ジンの肩に触れる。反応はない。呼吸だけが、一定のリズムで繰り返されている。
Black Widowsから僅かに離れた路肩に、車がある。
黒。光を弾かない塗装。街灯の下でも、輪郭だけが浮いている。グレーンの車種ほどではないが、古い型の車体。ポルシェ356A。
沈んだ足音が止まる。
鍵の音は小さい。解錠の感触だけが指に伝わる。助手席のドアが開く。軋みはない。整備されている。動作に無駄もない。ジンは体勢を変えた。支えていた位置をずらす。腕を回す。背と膝裏。重さを受ける場所を切り替える。軽々と浮かせる。動きは滑らかだ。持ち上げるというより、移すだけの感覚。
横抱き。グレーンの身体が、完全に預けられる。
首が落ちる。撫で付けられた前髪が落ち、僅かに揺れる。頬に影がかかる。そのまま助手席へ。シートに沈ませる。反発は弱い。体重を受けて、ゆっくりと形を変える。手を離す。だが、完全には離さない。襟元を整えるように指先が触れる。無意識の仕草に近い。だが、動きは正確だった。
ジンは軽く舌打ちを転がし、ドアを閉める。
音は鈍い。外の空気が遮断される。ジンは運転席に回った。迷いはない。最短の動線。ドアを押し開け、滑り込む。
車内は暗い。外の街灯が、ガラス越しに線を落とす。
影が分断される。二人分の空間が、曖昧に区切られる。沈黙が落ちる。
すぐにエンジンは掛けなかった。
ジンは僅かに体勢を変える。シートから背を離し、助手席に重心を寄せる。距離が詰まる。グレーンの呼吸が近い。一定の間隔。浅くも深くもない。眠りに落ちたままの、無防備なリズムだった。
そのまま、躊躇いもなく顎に触れる。
指先で角度を変える。抵抗はない。容易く、力も不要だった。晒された喉元を見て、ジンは僅かに目を細めた。影がそこに落ちる。指先を襟元に伸ばす。布の隙間に指を入れる。ゆっくりと、迷いなく。躊躇もない。体温に触れた。皮膚の上を滑るわけではない。ただ、確かめるように止まる。
「フン……いけ好かねぇ野郎だ」
襟元から小さな機械を摘み出す。
発振器付き盗聴器。バーボンが仕掛けたものだ。ジンはそれを見下ろし、指先で押し潰す。機械片とともに、車内に乾いた破裂音が落ちる。潰れた破片を指先で払う。興味はない。確認は済んでいる。
次に、ジンはグレーンの上着に手を掛けた。
躊躇はない。ボタンを外す動きも、布を退ける手付きも無駄がない。目的は一つ。盗聴器を探るための動作。それ以上でも、それ以下でもない。
腰回り。ベルトの上からでは分からない。
指が、内側に滑り込む。皮と布の隙間。体温が籠る場所。硬い感触を探る。なぞるわけではない。位置を割り出すための最短の動きだった。
指先が、何かに引っ掛かった。ジンの指がそれを摘む。
丸い機械。布と皮の間隙に、埋め込まれるように仕込まれている。取り出す動作も静かだった。抵抗は僅か。固定は甘い。急ごしらえの細工。
視線だけが、冷たく落ちる。
冷ややかな深緑色の瞳が盗聴器を見据え、絞られる。力を込める。鈍い音。指の中で、形が崩れる。機能を失った。破片が、シートの上に転がる。
沈黙が戻る。ジンは動かなかった。
視線だけが、グレーンに向けられる。いつもと変わらず、後ろに撫で付けられた黒髪。指摘されて付け足されたようなサングラス。酒に弱いところは前と変わらず、僅かに火照った頬。寝息も、さして変わらない。規則的で、揺らぎもない。外から何かを加えられても、反応する気配はない。
グレーンの顔をまじまじと見つめる。
観察するための距離。だが、近い。光が横から差し込んだ。輪郭が浮く。影が頬に落ちる。サングラスの奥に沈んだ瞼は、閉じられたままだ。表情も動く気配はない。ジンの目が、僅かに細まる。
違和感。言葉にするほどのものではない。だが、引っ掛かる。
回りくどい言い回し。余計な含み。そして――礼。あの口から、落ちるはずのないもの。考えてみれば、任務の動きも悪かった。今日以前のグレーンは、冷静に状況を把握し、先回りする癖がある。ジンが見抜いた公安の罠も、以前のグレーンならば周知していても良いはずだった。
視線が、更に近付く。ジンの手が伸びた。
頬。サングラスの脇から指の腹を滑らし、顎を引く。顔が上向く。軽く左右に振り、光の角度を変え、注意深く見つめる。指先に伝わる感触は柔らかく、弾力がある。皮膚の体温。人工の薄皮ではない。貼り付けられた異物の気配もない。顔を傾けさせ、首元に視線を落とした。薄皮の継ぎ目もない。正真正銘グレーンの顔だ。変装の類は、何も見当たらなかった。
ジンの手が止まる。数秒。沈黙。
視線だけが、そこに残る。
やがて、ジンは顎から手を離した。
グレーンの顔が、支えを失くして横に振れる。だが、起きない。呼吸は変わらない。起きる気配もない。
次の瞬間、身体を引く。
シートに深く背を預け、口元を歪ませた。短く鼻を鳴らす。エンジンキーを回し、ライトを付ける。振動が車内に広がった。低い音。安定している。機械の鼓動が、静けさを塗り替える。車体が滑り、街灯が後ろへ沈んでいく。
「……らしくねぇ、か……」
独り言。誰に向けたものでもない。
視線は前を捉えたまま、動かさなかった。
隣の寝息は変わらない。
それを乗せたまま、車は夜を滑る。
やがて、その気配ごと闇に沈んでいった。
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