NAMELESS

×××15


 グラスの縁に、指が触れる。
 水滴が僅かにずれる。輪を描いていた跡が、崩れる。冷えは残っているが、氷はもう小さい。時間だけが、正確に経過している。

 バーボンは、それを見ていた。
 視線は落ちたまま、上げない。隣にある影も、そのままだ。動かない。カウンターに額を預けた姿勢のまま、呼吸の揺れすら外に出ない。グラスの中身は減っていない。氷だけが溶けて、形を変えている。

 周囲の音が、遠い。完全に消えているわけではない。
 だが、拾う必要がない。
 意識の外に押し出されたまま、輪郭だけが残っている。

 ライが、グラスを置いた。
 音は小さい。だが、間を切るには十分だった。

「薬でも盛ったか。バーボン」

 短い問い。視線は向けられていない。
 正面。カウンターの奥。バーテンダーの手元、そのさらに先。焦点は合っていない。だが、意識は外していない。

 バーボンは瞼を伏せ、わざとらしく肩を竦めてみせた。
 視線は落ちたまま、グラスの縁をなぞる水滴を追う。

「……残念ですが、僕には盛る理由がありませんので」

 スコッチが、苦笑を零した。
 空気を和らげるには、少しだけ遅いタイミング。

「とりあえず、起こすか」

 軽い調子。だが、動きは丁寧だった。
 グレーンの肩に、手が触れる。揺する。強くはない。反応を見る程度の力。姿勢は崩れない。重さだけが返る。

「……起きないな」

 もう一度。同じ位置。同じ強さ。変化はない。
 スコッチの手が、一瞬だけ止まる。次の動きに移るまでの、僅かな空白。

 ライが、視線を寄越す。
 短い。だが、外さない。何かを測るような、静かな圧。問いではない。確認でもない。ただ、既に拾ったものを、そのまま向けているだけの目。

 バーボンは、顔を上げない。
 指先が、グラスから離れる。水滴の輪が、そこで途切れる。

「僕が連れて帰ります。セーフハウスに」

 低い声。抑えた音に、余計な響きはない。
 間が落ちる。ライの指が、グラスの側面を叩いた。一度。規則性はない。だが、意図はある。リズムではなく、確認のための動きだった。

「……やめておけ」
 返答は短い。
 視線は、もう逸れていない。正面から、真っ直ぐに向けられている。

「お前に任せると、どうなるか分からない」

 淡々とした声音。感情は乗っていない。
 だが、切り捨てるには十分な温度。スコッチが、顔を上げる。二人の間を、一度だけ見る。何も言わない。だが、理解はしている。

「ライにしては、心配性ですね」
 バーボンは、僅かに笑った。口元だけ。形だけの変化。
 だが、目は笑っていない。

 ライの視線が、動かない。外さない。そのまま、僅かに細まる。
 知っている目だ。バーボンは、ようやく顔を上げた。
 視線が交わる。短い。だが、十分だった。言葉は、続かない。空気だけが、僅かに張り詰める。その隙間に、スコッチが、肩を竦めた。小さく息を吐く。二人の間に残った緊張を、崩しきらない程度に緩める仕草。

「どっちにしろ、このままには出来ないだろ」

 視線が、グレーンに落ちる。
 動かない影。呼吸の気配すら拾えない静けさ。置かれたままの形。手がもう一度伸びる。今度は額に触れる。体温を確かめるような、軽い接触。

「……熱はないな」

 独り言のように落ちる。
 確認というより、状況の整理。誰に向けたものでもない。
 ライが、グラスを持ち上げる。中身は減っていない。だが、口はつけない。そのまま、指先で回す。氷が、鈍くぶつかる。

「俺が連れて行く」
 短い断定。間を置かない。
 先ほどのやり取りをなぞるようでいて、完全に切り替えている。

「お前の|管理《・・》は信用できない」

 言葉は増えたが、温度は変わらない。ただ、線引きだけがはっきりする。
 バーボンの視線が、僅かに動く。真正面。ライを捉える位置まで、ゆっくりと持ち上がる。

「随分な言い様ですね」

 声は穏やかだ。だが、含まれているものは別だった。
 否定も肯定もない。ただ、そのまま返しているだけの音。

 ライは答えない。視線も逸らさない。
 揺れないまま、そこに置かれている。数秒。何も動かない。

 スコッチが、小さく笑った。
 乾いた音。場を和ませるには、少し足りない。

「……なあ、二人とも」
 言葉を選ぶような間。
 だが、深くは考えていない。考えすぎれば、踏み込めなくなる。

「とりあえず運ぶ場所を決めよう。ここに置いておくわけにもいかない」

 正論。だからこそ、誰もすぐには乗らない。
 ライの指が止まる。グラスの回転がそこで途切れる。バーボンはグレーンに視線を落とした。動かない影。変化はない。最初から、何も変わっていない。

「なら、第三の場所でどうです。ライでも、僕でもない場所」

 軽い提案。だが、逃げではない。
 スコッチが、目を瞬かせる。一拍遅れて、意味を拾う。

「……俺か?」
「消去法ですね」

 即答。迷いはない。
 ライの視線が、僅かに動く。スコッチへ。次いで、グレーンへ。最後に、バーボンへと戻る。測っている。条件を。距離を。リスクを。

 沈黙が落ちる。
 長くは続かない。結論に時間はかからない。

「……いいだろう」
 低い声。了承とも、保留とも取れる曖昧な位置。

「お前に預けるよりは、マシだろうからな……」

 余計な一言。だが、削る気はない。
 スコッチが、苦笑した。納得しているわけではない。だが、これ以上引き延ばす理由もない。

「決まりだな」

 軽く言う。重さを持たせないための、意図的な調子。
 手が、グレーンの肩に回る。今度は揺すらない。持ち上げるための動き。体重が、素直に預けられる。

「……ほんとに起きないな」
 ぼやきが落ちる。

 バーボンが立ち上がる。椅子が、僅かに音を立てる。
 視線は外さない。グレーンから。ライも、遅れて動く。立ち上がる動作に、無駄はない。視線だけが、最後までバーボンに残る。

 その一瞬。ほんの僅かに、細められる。
 咎める目だ。言葉にはならない。だが、十分だった。バーボンは、それを受け取らない。何もなかったように視線を外す。均衡は、保たれたまま。

 ――そのはずだった。
 入口のベルが鳴る。乾いた音。小さい。だが、馴染まない。浮いている。空気の層を、一枚だけ剥がしたような違和感。誰もすぐには動かない。

 音は一度きり。余韻だけが遅れて沈む。
 スコッチの手が、僅かに止まった。グレーンの肩に掛けたまま、その位置で固まる。持ち上げる動作の途中。重さを受けたまま、次に進まない。

 ライの指が、グラスから離れる。
 触れていたはずの縁。ほんの僅かな遅れ。視線は動かない。だが、意識だけが先に向く。バーボンは動かなかった。

 足音が一つ。
 規則的なリズム。迷いがない。測られているようでいて、最初から決まっている歩幅。距離を詰めるための音ではない。ただ、そこに至るための経過だ。二つ、三つ。一定の間隔。乱れない。近づく。視線が、遅れて動く。

 入口。逆光。輪郭が、先に浮かび上がる。
 黒。長いトレンチコートの裾が、僅かに揺れる。動きに遅れて、空気が追い付いてくる。光を吸う色。その中で一つだけ、反射するものがある。

 銀。腰まで伸びた髪が、光を弾く。
 直線的に落ちるその線が、暗がりの中で異質な輪郭を作る。

 顔は、はっきりとは見えない。だが、十分だった。
 ――ジン。ジンが、何故ここに。ここまで思考して、バーボンは止めた。

 ジンが立っている。それだけで、場が切り替わる。
 音が、落ちる。遠くにあったはずの雑踏が、一段沈む。代わりに、別の静けさが入り込む。重さのある、密度の高い沈黙。

 誰も、声を出さない。
 ジンは歩く。止まらない。迷わない。視線も、余計に動かない。一直線。最短距離。カウンターの手前で、足が止まる。視線が、落ちる。グレーンへ。

 それだけだ。確認はない。問いもない。既に、終わっているような動き。
 スコッチの腕が、僅かに強張る。支えている重さ。その感触が変わる気配。奪われる前の、ほんの僅かな予兆。

 ジンの手が、伸びる。
 速くはない。だが、躊躇もない。グレーンの脇へ、腕が差し込まれる。位置は正確。無駄がない。体重のかかる場所を、最初から知っている動き。

 触れる。その瞬間。
 スコッチの手の中にあった重さが、ずれる。移る。支点が変わる。預けられていたはずの体が、別の腕に引き取られる。抵抗はない。最初から、どこにも属していなかったように。

 ジンが、引く。
 力は見えない。だが、結果だけが出る。グレーンの体が、持ち上がる。沈んでいた上半身が、浮く。額がカウンターから離れる。接触していた面に、僅かな水滴が残る。遅れて、跡が乾いていく。

 腕が、回る。脇に差し込んだまま、引き寄せる。自分の側へ。体重を受け止める位置に、自然に収める。動作は、一つの流れ。切れ目がない。最初から、そうなることが決まっていたかのように。

 スコッチの手が、宙に残る。
 何も掴んでいない。だが、まだ力が入っている。
 掴んでいたはずの形だけが、そこに残っている。

 ライは、動かない。
 視線だけが、ジンに向けられている。鋭い。だが、踏み込まない。計算が、先に走る。ここで何をしても無意味だと、既に理解している目。

 バーボンは、微笑を崩さない。
 口元の形は、そのまま。だが、視線は動いていない。追っている。動きの全てを、一つも逃さないように。

 ジンは、グレーンを支えたまま、僅かに向きを変える。
 もう一度、誰かを見ることはない。

「|これは《・・・》、俺が回収する」

 低い声。短い。余計なものは何も含まれていない。
 宣言ではない。確認でもない。ただ、事実だけが落ちる。拒否の余地は、最初から存在しない。

 足が動く。来た時と同じ歩幅。同じリズム。
 背を向ける。銀が、揺れる。光を弾きながら、距離を取る。グレーンの体はその腕の中で揺れない。完全に支配されている。預けられているのではない。持たれている。

 入口へ。ベルが、もう一度鳴る。今度は、短い。音が消える。
 残るのは、空白。カウンターの前。
 さっきまで確かにあった重さが、消えている。

「……噂は本当のようですね。ジンとグレーンは……」

 ベルの余韻が、まだ残っている。
 短い音のはずなのに、やけに長い。耳にではない。
 空気に貼り付いているような残り方。

 スコッチの手が、ゆっくりと下りる。何も掴んでいない指先。僅かに力が抜けきらないまま、形だけが遅れてほどけていく。ライは、動かない。グラスに触れることもない。ただ、消えた方向を見ている。追う気はない。最初から、選択肢にない。バーボンは、視線を落とす。カウンター。さっきまで額が触れていた場所。薄く残った水滴が、形を崩している。

 輪は、もう保たれていない。
 氷が、ひとつ音を立てる。小さい。だが、やけに響く。

 誰も、何も言わない。均衡は、崩れたまま。
 元に戻ることはないと、最初から分かっていたかのように。
 ――音だけが、遅れて沈んでいく。

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