NAMELESS
×××10
夜の街は、まだ生きていた。
信号の赤が濡れた路面に滲み、ネオンが緩く溶けている。車の列は途切れず何処か焦げたような排気の匂いが薄く空気に混ざっていた。
その流れから、一台だけが外れる。
ウィンカーが短く明滅し、車体がゆっくりと脇道へ滑り込んだ。雑居ビルの影に、口を開けたような下り坂がある。看板もない、ただの搬入口にしか見えない暗がり。減速。ヘッドライトが、コンクリートの壁面を舐めるように照らし出した。そのまま、車は躊躇なく潜り込む。
傾斜が始まる。外の光が、背後で細くなっていく。
ネオンの色も、街のざわめきも、ゆっくりと遠ざかる。タイヤが路面を噛む音だけが車内に残った。ひとつカーブを抜け、もうひとつ。下るごとに、空気が変わる。湿り気を帯びた冷たさが、窓越しに伝わってきた。
外の軽さは、もうない。
代わりに、重く閉じた気配が、静かに纏わり付く。
バックミラーの奥で、街の光が消える。完全に切り離された。
やがて、視界が開ける。地下駐車場。低い天井に並んだ蛍光灯が、白く鈍い光を落としている。コンクリートの床には、古いタイヤ痕が幾重にも重なり、油の染みが黒く沈んでいた。
音が吸われる。エンジンの低い振動だけが、この空間の中心にある。
速度を落とす。指定された位置に車を滑り込ませると、ジンはブレーキパットを踏んだ。停車。数拍遅れて、エンジン音が響く。それが止まると、今度は何も残らない。静かだ。いや、違う。静かすぎだ。
後部座席のドアが開くと同時に、車体が揺れる。
続いて運転席。冷えた空気が、僅かに流れ込んでくる。ジンもベルモットも何も言わない。ただ、靴底が床を打つ乾いた音だけが、やけに鮮明に響いた。
俺は数拍開けて、助手席のドアを押し開けた。
二人の背中を数瞬眺め、運転席に回る。運転席側のドアを押し開けると、コンクリートを踏む革靴の音が止まった。
「グレーン」
低い声が、前方から落ちた。
動きが止まる。視線を上げると、ジンは立ち止まっていた。振り返ってはいない。ただ、そこにいる。
「拠点に戻らねぇのか」
問いは短い。余計な感情も、意味も削ぎ落とされている。
俺は、一瞬だけ視線を落とした。それから、片手を軽く上げる。
「あぁ。今夜は外す」
短い沈黙が落ちる。
返答に対して、評価も、追及もない。ただ、その場に残る気配だけが、僅かに重さを持つ。視線は上げない。ジンが何を見ているのかも、どんな顔をしているのかも、確かめる気はなかった。確かめる必要もない。
数秒。やがて、乾いた靴音がひとつ、床を打つ。
それだけで十分だった。興味を失ったのか、あるいは最初からなかったのか――どちらにせよ、そこで終わりだ。
気配が遠ざかる。
ベルモットのヒールが、それに続いた。規則正しく、軽い音。だがこの空間では、その軽ささえどこか歪んで聞こえる。
再び、静寂。
俺はゆっくりと息を吐いた。運転席に滑り込む。ドアを引き寄せると、外の冷えた空気が一瞬だけ流れ込み、すぐに遮断された。閉じる音。それで、世界が区切られる。キーを捻る。エンジンが目を覚まし、低い振動が足元から立ち上がる。さっきまでの沈黙が、押し返されていく。
この空間には、音が少なすぎる。
だから、こうして自分で作るしかない。
ハンドルに手をかける。
僅かに残った余熱が、掌に伝わった。
――位置は、掴んだ。
それで十分だ。ギアを入れる。車体が僅かに震え、ゆっくりと前へ出る。白線に沿って、出口へと向かう。去り際、一度停車し、車窓を下げた。そして、ジンの背中に声を掛ける。今日の礼を伝え忘れていた。
「ジン。今日は助かった。ありがとな」
声は、思ったよりも軽く出た。
乾いた空間に落ちて、僅かに遅れて広がる。ジンの足が止まる。一拍。そのまま、ゆっくりと振り返った。視線が、合う。その瞬間――僅かに、目が見開かれる。ほんの僅かだ。注意していなければ見逃す程度の変化。だが、この男にとっては、それだけで十分すぎる異常だった。
空気が、止まる。言葉が続かない。
返すべき台詞を探しているのか、それとも探す必要すらないと切り捨てたのか。判断はつかない。ただ、沈黙だけが、数秒分だけ長くなる。
返答を待っていたら朝になりそうだ。
俺は手をひらつかせ、ブレーキを緩める。
「……じゃ、またな」
言葉は軽い。
だが、それがこの場に似合っていないことくらいは、流石に分かる。当然、返事はない。ジンはまだこちらを見ている。
さっきの僅かな変化は、もう消えていた。いつもの無機質な視線。
ただ、その奥に残った違和感だけが、完全には消えきっていない。
何だ、今のは。そんな問いが、形になる前に沈んでいく。
ベルモットが、僅かに視線を寄越す。口元は動かない。だが、目だけが笑っていた。面白がっている。あるいは、試している。どちらでもいい。
アクセルを踏む。車体が静かに動き出す。ジンの視線が、ミラーの中で遠ざかる。やがて柱に遮られ、完全に消えた。それで終わりだ。スロープへ向けてハンドルを切る。緩やかな上り。エンジンの回転数が、僅かに上がる。閉じた空間に押し込められていた振動が、少しずつ広がっていく。
コンクリートの壁が流れる。
一段。また一段。空気が、薄くなる。重さが剥がれていく。
前方に、光が滲んだ。出口だ。
アクセルを踏み込む。車体が坂を押し上げる。
暗がりが背後に落ち、次の瞬間、視界が開けた。
夜の街が、戻ってくる。
ネオン。信号。ヘッドライトの列。湿った路面が、それらを雑に反射している。音が一気に増えた。遠くのサイレン、通り過ぎる車の風切り、何処かで誰かが笑っている気配。さっきまでの静寂が、嘘みたいに崩れる。
窓を全開にすると、外の空気が流れ込んできた。
排気と、海に近い湿り気が混ざっている。
息を吐く。
さっきまで肺に残っていた冷たさが、ようやく抜けた気がした。
流れに乗る。速度を合わせる。前の車との距離を一定に保つ。考えることは少ない。だから、余計なものが浮いてくる。さっきの一言。前のグレーンには不釣り合いな言葉だったのかもしれない。言わない方が自然だった。それでも口に出た。理由は――考えない。考えたところで、ろくな答えは出ない。
信号が変わる。アクセルを踏み、交差点を抜ける。ビルのガラスに、車の影が滑っていく。見慣れた夜だ。だが、どこか薄い。手応えがない。指先に残るのは、さっきまでの地下の温度ばかりだ。
舌打ちするほどでもない。
ただ、このまま帰る気にはならなかった。
ハンドルを切る。
大通りから外れ、湾岸へ向かう流れに乗る。来た道を戻るのに、表立った理由はない。強いて言えば、少しだけ騒がしい場所の方が、今は都合がいい。
看板の灯りが増える。ビル群の影が途切れ、代わりに雑多なネオンが並び始めた。遅くまで開いている店が多い。音も、匂いも、少しだけ濃い。アクセルを緩める。流し見のつもりで、通りをなぞる。適当に飲める場所はいくらでもあった。どこでもいい。そう思っている時ほど、選ぶ基準は曖昧になる。
ふと、視界の端に引っ掛かるものがあった。
看板。黒地に彫った蜘蛛。脚を広げた意匠が、やけに生々しい。
――“Black Widows”。黒い未亡人。やけに直接的な名前だ。
車を少し先で止める。バックミラー越しに、もう一度だけ看板を確認した。暗がりの中で、蜘蛛の輪郭だけが浮いている。ネオンはない。その分、印象が残る。悪くない。少なくとも、退屈はしなさそうだ。
エンジンを切る。静寂が戻るが、さっきまでの地下とは違う。
人の声。グラスの触れ合う音。低く流れる音楽。
外の気配が、薄く壁越しに伝わってくる。
運転席のドアを押し開ける。
夜の空気が、緩く纏わり付いた。
店の入口は、看板の下に沈むようにあった。
照明は落とされている。扉の向こうも見えない。ただ、微かに人の声が聞こえるだけだ。蜘蛛の巣に足を踏み入れる、というほど大袈裟でもない。だが、わざわざ近寄る類の場所でもない。だからこそ、都合が良い。
サングラスを掛け、扉へ向かう。
理由はない。あるとすれば――今夜は、そういう気分だ。
***
エンジン音が、遠ざかっていく。
低い振動が、コンクリートの壁面を伝い、僅かに遅れて天井へ抜けた。反響は短い。この空間は音を抱え込まない。すぐに吸い込んで、何事もなかったかのように静けさを取り戻す。やがて、その気配も消えた。
地下駐車場に残るのは、蛍光灯の明かりと、僅かに残った排気の匂い。
ジンは動かない。出口へ続くスロープの奥を、じっと見つめている。既に車の影はない。ヘッドライトの残滓も消えている。ただ、暗がりが口を開けているだけだ。それでも、視線は外れない。
数秒。あるいは、それ以上。
やがて、僅かに顎が引かれる。視線が落ちる。コンクリートの床。幾重にも重なったタイヤ痕が、黒く擦り付けられている。新しいものと古いものが混ざり合い、判別はつかない。
靴先が、僅かに向きを変える。
その動きに合わせて、トレンチコートの裾が微かに揺れた。背後で、ヒールの音が一度だけ鳴る。乾いた、高い音。ベルモットは壁際に寄り、肩を預けるようにして立っていた。腕を組み、視線はジンではなく、同じ方向――スロープの奥へと向けられている。目元だけが、僅かに細められていた。
「――珍しいものを見たわね」
声は低い。空間に合わせた音量で、滑らかに落とされる。
ジンは振り返らない。応じる気配もない。コートの胸ポケットから、煙草を取り出した。唇に挟み、ライターを鳴らす。火が点く。小さな炎が一瞬だけ顔を照らし出し、すぐに消えた。煙が細く立ち上る。白い筋が蛍光灯の光に溶け輪郭を曖昧にしていく。ベルモットは、その様子を横目で見た。
「“ありがとう”なんて言葉、グレーンの口から聞ける日が来るなんてね」
そう言って、わざとらしく肩を竦める。
ヒールの先が、床を軽く打った。乾いた音が、すぐに消える。ジンの指先が煙草を僅かに傾けた。灰が落ちる。床に触れる前に、形を崩した。踏み消すこともせず、そのままにする。沈黙が落ちる。
「ベルモット。奴の居場所を探れ」
「なに、疑ってるの?」
「いや……だが、どうにも引っ掛かるんでな……」
ジンの言葉に、ベルモットは壁から体を離した。
ヒールがもう一度鳴る。今度は連続した音。一定のリズムで、ジンの横を掠めるようにして歩く。すれ違いざま、一瞬だけ視線を向ける。
「命令を受けて、そのまま“黒い未亡人”のところに向かったんじゃない?」
背中越しに落とされる声。
ジンは動かない。煙が、ゆっくりと薄れていく。スロープの奥は、もう完全な闇だった。何も残っていない。ただ、空間だけがそこにある。
「……フン。そう単純なら、話は楽だが」
ジンは、煙草を指先で弾いた。
火が揺れる。一瞬だけ、赤が強くなる。
それが落ち着くと、再び一定の光に戻った。
そのまま、視線を外す。
ようやく、スロープから目を切る。
次の瞬間には、もうそこには何もなかった。
夜の街は、まだ生きていた。
信号の赤が濡れた路面に滲み、ネオンが緩く溶けている。車の列は途切れず何処か焦げたような排気の匂いが薄く空気に混ざっていた。
その流れから、一台だけが外れる。
ウィンカーが短く明滅し、車体がゆっくりと脇道へ滑り込んだ。雑居ビルの影に、口を開けたような下り坂がある。看板もない、ただの搬入口にしか見えない暗がり。減速。ヘッドライトが、コンクリートの壁面を舐めるように照らし出した。そのまま、車は躊躇なく潜り込む。
傾斜が始まる。外の光が、背後で細くなっていく。
ネオンの色も、街のざわめきも、ゆっくりと遠ざかる。タイヤが路面を噛む音だけが車内に残った。ひとつカーブを抜け、もうひとつ。下るごとに、空気が変わる。湿り気を帯びた冷たさが、窓越しに伝わってきた。
外の軽さは、もうない。
代わりに、重く閉じた気配が、静かに纏わり付く。
バックミラーの奥で、街の光が消える。完全に切り離された。
やがて、視界が開ける。地下駐車場。低い天井に並んだ蛍光灯が、白く鈍い光を落としている。コンクリートの床には、古いタイヤ痕が幾重にも重なり、油の染みが黒く沈んでいた。
音が吸われる。エンジンの低い振動だけが、この空間の中心にある。
速度を落とす。指定された位置に車を滑り込ませると、ジンはブレーキパットを踏んだ。停車。数拍遅れて、エンジン音が響く。それが止まると、今度は何も残らない。静かだ。いや、違う。静かすぎだ。
後部座席のドアが開くと同時に、車体が揺れる。
続いて運転席。冷えた空気が、僅かに流れ込んでくる。ジンもベルモットも何も言わない。ただ、靴底が床を打つ乾いた音だけが、やけに鮮明に響いた。
俺は数拍開けて、助手席のドアを押し開けた。
二人の背中を数瞬眺め、運転席に回る。運転席側のドアを押し開けると、コンクリートを踏む革靴の音が止まった。
「グレーン」
低い声が、前方から落ちた。
動きが止まる。視線を上げると、ジンは立ち止まっていた。振り返ってはいない。ただ、そこにいる。
「拠点に戻らねぇのか」
問いは短い。余計な感情も、意味も削ぎ落とされている。
俺は、一瞬だけ視線を落とした。それから、片手を軽く上げる。
「あぁ。今夜は外す」
短い沈黙が落ちる。
返答に対して、評価も、追及もない。ただ、その場に残る気配だけが、僅かに重さを持つ。視線は上げない。ジンが何を見ているのかも、どんな顔をしているのかも、確かめる気はなかった。確かめる必要もない。
数秒。やがて、乾いた靴音がひとつ、床を打つ。
それだけで十分だった。興味を失ったのか、あるいは最初からなかったのか――どちらにせよ、そこで終わりだ。
気配が遠ざかる。
ベルモットのヒールが、それに続いた。規則正しく、軽い音。だがこの空間では、その軽ささえどこか歪んで聞こえる。
再び、静寂。
俺はゆっくりと息を吐いた。運転席に滑り込む。ドアを引き寄せると、外の冷えた空気が一瞬だけ流れ込み、すぐに遮断された。閉じる音。それで、世界が区切られる。キーを捻る。エンジンが目を覚まし、低い振動が足元から立ち上がる。さっきまでの沈黙が、押し返されていく。
この空間には、音が少なすぎる。
だから、こうして自分で作るしかない。
ハンドルに手をかける。
僅かに残った余熱が、掌に伝わった。
――位置は、掴んだ。
それで十分だ。ギアを入れる。車体が僅かに震え、ゆっくりと前へ出る。白線に沿って、出口へと向かう。去り際、一度停車し、車窓を下げた。そして、ジンの背中に声を掛ける。今日の礼を伝え忘れていた。
「ジン。今日は助かった。ありがとな」
声は、思ったよりも軽く出た。
乾いた空間に落ちて、僅かに遅れて広がる。ジンの足が止まる。一拍。そのまま、ゆっくりと振り返った。視線が、合う。その瞬間――僅かに、目が見開かれる。ほんの僅かだ。注意していなければ見逃す程度の変化。だが、この男にとっては、それだけで十分すぎる異常だった。
空気が、止まる。言葉が続かない。
返すべき台詞を探しているのか、それとも探す必要すらないと切り捨てたのか。判断はつかない。ただ、沈黙だけが、数秒分だけ長くなる。
返答を待っていたら朝になりそうだ。
俺は手をひらつかせ、ブレーキを緩める。
「……じゃ、またな」
言葉は軽い。
だが、それがこの場に似合っていないことくらいは、流石に分かる。当然、返事はない。ジンはまだこちらを見ている。
さっきの僅かな変化は、もう消えていた。いつもの無機質な視線。
ただ、その奥に残った違和感だけが、完全には消えきっていない。
何だ、今のは。そんな問いが、形になる前に沈んでいく。
ベルモットが、僅かに視線を寄越す。口元は動かない。だが、目だけが笑っていた。面白がっている。あるいは、試している。どちらでもいい。
アクセルを踏む。車体が静かに動き出す。ジンの視線が、ミラーの中で遠ざかる。やがて柱に遮られ、完全に消えた。それで終わりだ。スロープへ向けてハンドルを切る。緩やかな上り。エンジンの回転数が、僅かに上がる。閉じた空間に押し込められていた振動が、少しずつ広がっていく。
コンクリートの壁が流れる。
一段。また一段。空気が、薄くなる。重さが剥がれていく。
前方に、光が滲んだ。出口だ。
アクセルを踏み込む。車体が坂を押し上げる。
暗がりが背後に落ち、次の瞬間、視界が開けた。
夜の街が、戻ってくる。
ネオン。信号。ヘッドライトの列。湿った路面が、それらを雑に反射している。音が一気に増えた。遠くのサイレン、通り過ぎる車の風切り、何処かで誰かが笑っている気配。さっきまでの静寂が、嘘みたいに崩れる。
窓を全開にすると、外の空気が流れ込んできた。
排気と、海に近い湿り気が混ざっている。
息を吐く。
さっきまで肺に残っていた冷たさが、ようやく抜けた気がした。
流れに乗る。速度を合わせる。前の車との距離を一定に保つ。考えることは少ない。だから、余計なものが浮いてくる。さっきの一言。前のグレーンには不釣り合いな言葉だったのかもしれない。言わない方が自然だった。それでも口に出た。理由は――考えない。考えたところで、ろくな答えは出ない。
信号が変わる。アクセルを踏み、交差点を抜ける。ビルのガラスに、車の影が滑っていく。見慣れた夜だ。だが、どこか薄い。手応えがない。指先に残るのは、さっきまでの地下の温度ばかりだ。
舌打ちするほどでもない。
ただ、このまま帰る気にはならなかった。
ハンドルを切る。
大通りから外れ、湾岸へ向かう流れに乗る。来た道を戻るのに、表立った理由はない。強いて言えば、少しだけ騒がしい場所の方が、今は都合がいい。
看板の灯りが増える。ビル群の影が途切れ、代わりに雑多なネオンが並び始めた。遅くまで開いている店が多い。音も、匂いも、少しだけ濃い。アクセルを緩める。流し見のつもりで、通りをなぞる。適当に飲める場所はいくらでもあった。どこでもいい。そう思っている時ほど、選ぶ基準は曖昧になる。
ふと、視界の端に引っ掛かるものがあった。
看板。黒地に彫った蜘蛛。脚を広げた意匠が、やけに生々しい。
――“Black Widows”。黒い未亡人。やけに直接的な名前だ。
車を少し先で止める。バックミラー越しに、もう一度だけ看板を確認した。暗がりの中で、蜘蛛の輪郭だけが浮いている。ネオンはない。その分、印象が残る。悪くない。少なくとも、退屈はしなさそうだ。
エンジンを切る。静寂が戻るが、さっきまでの地下とは違う。
人の声。グラスの触れ合う音。低く流れる音楽。
外の気配が、薄く壁越しに伝わってくる。
運転席のドアを押し開ける。
夜の空気が、緩く纏わり付いた。
店の入口は、看板の下に沈むようにあった。
照明は落とされている。扉の向こうも見えない。ただ、微かに人の声が聞こえるだけだ。蜘蛛の巣に足を踏み入れる、というほど大袈裟でもない。だが、わざわざ近寄る類の場所でもない。だからこそ、都合が良い。
サングラスを掛け、扉へ向かう。
理由はない。あるとすれば――今夜は、そういう気分だ。
***
エンジン音が、遠ざかっていく。
低い振動が、コンクリートの壁面を伝い、僅かに遅れて天井へ抜けた。反響は短い。この空間は音を抱え込まない。すぐに吸い込んで、何事もなかったかのように静けさを取り戻す。やがて、その気配も消えた。
地下駐車場に残るのは、蛍光灯の明かりと、僅かに残った排気の匂い。
ジンは動かない。出口へ続くスロープの奥を、じっと見つめている。既に車の影はない。ヘッドライトの残滓も消えている。ただ、暗がりが口を開けているだけだ。それでも、視線は外れない。
数秒。あるいは、それ以上。
やがて、僅かに顎が引かれる。視線が落ちる。コンクリートの床。幾重にも重なったタイヤ痕が、黒く擦り付けられている。新しいものと古いものが混ざり合い、判別はつかない。
靴先が、僅かに向きを変える。
その動きに合わせて、トレンチコートの裾が微かに揺れた。背後で、ヒールの音が一度だけ鳴る。乾いた、高い音。ベルモットは壁際に寄り、肩を預けるようにして立っていた。腕を組み、視線はジンではなく、同じ方向――スロープの奥へと向けられている。目元だけが、僅かに細められていた。
「――珍しいものを見たわね」
声は低い。空間に合わせた音量で、滑らかに落とされる。
ジンは振り返らない。応じる気配もない。コートの胸ポケットから、煙草を取り出した。唇に挟み、ライターを鳴らす。火が点く。小さな炎が一瞬だけ顔を照らし出し、すぐに消えた。煙が細く立ち上る。白い筋が蛍光灯の光に溶け輪郭を曖昧にしていく。ベルモットは、その様子を横目で見た。
「“ありがとう”なんて言葉、グレーンの口から聞ける日が来るなんてね」
そう言って、わざとらしく肩を竦める。
ヒールの先が、床を軽く打った。乾いた音が、すぐに消える。ジンの指先が煙草を僅かに傾けた。灰が落ちる。床に触れる前に、形を崩した。踏み消すこともせず、そのままにする。沈黙が落ちる。
「ベルモット。奴の居場所を探れ」
「なに、疑ってるの?」
「いや……だが、どうにも引っ掛かるんでな……」
ジンの言葉に、ベルモットは壁から体を離した。
ヒールがもう一度鳴る。今度は連続した音。一定のリズムで、ジンの横を掠めるようにして歩く。すれ違いざま、一瞬だけ視線を向ける。
「命令を受けて、そのまま“黒い未亡人”のところに向かったんじゃない?」
背中越しに落とされる声。
ジンは動かない。煙が、ゆっくりと薄れていく。スロープの奥は、もう完全な闇だった。何も残っていない。ただ、空間だけがそこにある。
「……フン。そう単純なら、話は楽だが」
ジンは、煙草を指先で弾いた。
火が揺れる。一瞬だけ、赤が強くなる。
それが落ち着くと、再び一定の光に戻った。
そのまま、視線を外す。
ようやく、スロープから目を切る。
次の瞬間には、もうそこには何もなかった。