NAMELESS

×××1


 目が覚めた、という感覚があった。
 沈んでいた身体に重みが伸し掛かる。背中から腰へ掛けて、柔らかいものが押し返してくる。布の感触。身じろぎと同時に、スプリング音が響いた。

 息が、ゆっくりと胸を押し上げた。
 空気は乾いている。少しだけ冷たい。肺の奥に入ったそれが、内側から肋骨を撫でる。瞼の裏は、暗いというより、何かが張り付いているような圧迫感があった。まるで、世界の裏側に押し込まれているようだった。

 俺は上体を起こした。こめかみの奥が鈍く軋む。
 その痛みに、遅れて手が頭へ伸びた。

 ふらつく身体を壁で支え、暗がりをひたひたと歩く。廊下を過ぎると、洗面所に辿り着いた。探る手を壁に這わせ、電気のスイッチを押す。その刹那――蛍光灯の白が視界を裂き、目を瞑る。瞬いた目が、徐々に視界を取り戻す。

 洗面所は、殺風景な白だった。
 見覚えのない天井。見知らぬマグ。使った形跡のある歯ブラシ。何処にでもある風景だが、俺には見覚えがない。コキュ、と唾を嚥下した音が妙に響く。洗面台の前に立つ。そこで飛び込んできた光景に、俺は目を見開いた。

 後ろに撫で付けた黒髪。鋭く射抜くような灰色の瞳。僅かに歪んだ口元へ、手が伸びる。その指先は、酷く傷だらけだった。刃物で切ったような裂傷が、幾つも指先を走り、筋肉で盛り上がった二の腕まで伸びている。黒いインナーを纏った身体は、筋肉の浮き沈みが分かるほどに、出来上がっていた。

 口端を歪めると、鏡に映る男もまた、口端を歪めた。
「誰だコイツ……俺、なのか?」

 疑問混じりの声は、低く、くぐもっていた。
 眠る前の記憶まで遡ってみる。記憶がない。目の前の顔も見覚えがないが、自分の名前や過去、その他すべて、何も思い出せなかった。

「……記憶喪失って奴か? 何でまた」
 俺は、独りごちる。

 洗面所を抜け、のそりと廊下を通り、元いた部屋に戻る。
 暗がりの中で、窓の隙間から細い光が床に落ちていた。朝なのか夜なのか、それさえ判然としない。空気は静まり返っている。誰かの気配はない。

 ベッドの縁に腰を落とした瞬間、視線が横へ滑った。
 ローテーブル。そこに置かれていたものを見て、俺は眉を動かした。

 それは分解された拳銃だった。
 スライド。フレーム。バレル。リコイルスプリング。
 部品は整然と並べられている。傍らには油が染みた布が一枚。乾き切っていない黒い光が、部品の表面に薄く残っていた。

 手が、無意識に伸びる。
 指先がスライドを拾い上げた。冷たい鉄の重みが、掌に馴染む。その瞬間、俺の指は迷いなく動いた。バレルを差し込み、スプリングを収め、フレームに滑り込ませる。部品が収まるたび、小さな金属音が鳴った。

 最後にスライドを引く。
 乾いた音。俺はそこで、ようやく動きを止めた。
 今、自分が何をしたのかを、ゆっくりと理解する。

 考えたわけではない。思い出したわけでもない。
 ただ、身体が勝手に動いた。銃を組み立てた。無意識に。

 俺はしばらく拳銃を見つめた。
 だが、やかて小さく息を吐き、テーブルへ戻した。銃がある。しかも、分解整備していた形跡がある。それだけで、十分だった。まともな仕事じゃない。

 テーブルの端には、ウィスキーの瓶が転がっている。
 琥珀色の液体は半分ほど減っていた。横にはグラス。氷はほとんど溶け、水に薄まった酒が底に残っている。俺はグラスを持ち上げ、匂いを嗅いだ。鼻腔に広がる、甘く焦げたような香り。喉が覚えていた。一口だけ口に含む。冷たい。薄い。それでも、舌の奥に馴染む味だった。俺はグラスを置く。

「……俺は、ろくでもない奴らしいな」

 呟きは、どこか乾いていた。
 銃。酒。傷だらけの手。それだけの材料で、十分に察しはつく。
 だが、名前がない。過去もない。俺は部屋を見渡した。

 机。椅子。ベッド。クローゼット。
 生活の痕跡はあるが、人格の痕跡がない。

 俺は立ち上がった。まずは身元を確認する。それが自然な判断だった。
 クローゼットを開ける。中には仕事用と思われる黒スーツや、私服の白色のタートルネックが整然と並んでいる。その脇には、ケブラー繊維の防弾チョッキが数枚。だが、どれも癖がない。サイズはすべて俺に合っていた。

 ポケットを探る。何もない。
 財布も、鍵も、身分証もない。

「用心深い男なのか、何なのか……」

 溜め息混じりに、俺は低く呟いた。
 机へ移る。引き出しを引く。中には封筒が一つだけ入っていた。
 薄い茶色の封筒。俺はそれを取り出し、口を開く。中から滑り出たのは、運転免許証だった。写真がある。そこに写っていたのは、自分だった。黒髪ではない。灰髪だ。だが、目の奥の光は同じだった。

 名前を見る。知らない名前。俺はカードを裏返す。
 もう一枚落ちた。別の身分証。今度はパスポートだった。写真がある。そこに写っている男は、やはり自分だった。だが今度は、髪が茶色だった。

 俺は黙って次のカードを拾う。三枚目。四枚目。五枚目。
 すべて身分証だった。運転免許証。社員証。パスポート。外国のIDカード。名前はすべて違う。国籍も違う。髪の色も違う。顔の輪郭も微妙に違う。

 だが――俺は一枚ずつ机の上に並べた。
 そこに並んだ顔を見つめる。

 違う顔。違う名前。違う人生。それでも、共通点があった。
 目。骨格。雰囲気。どれも、今鏡に映った男に似ていた。
 他人ではない。だが、同一人物とも言い切れない。

 俺は腕を組み、しばらくカードの列を見下ろしていた。
 やがて、鼻で笑う。

「……なるほどな。そういう仕事か」

 低い声だった。理解は、ゆっくりと形を取っていく。名前がない理由。財布がない理由。身分証が何枚もある理由。俺はカードの一枚を手に取った。写真の中の男が、こちらを見返している。黒髪、灰目。一番似ている。

「日系イギリス人のリチャード・ロウ、か……分かり易い偽名だな」

 俺はカードを机へ戻した。
 そして、組み上げた拳銃へ視線を落とす。銀色のスライドが、窓の光を鈍く反射していた。口元が、僅かに歪む。

「まったく……ろくでもない人生だ」

 呟きが、喉の奥で消える。
 その刹那――音が、鼓膜に突き刺さった。短く、鋭い電子音。静まり返った部屋の空気を、小石のように弾く。思考より先に身体が反応する。

 俺は視線を音の方向に動かした。
 音は、ベッドの上からだった。枕の脇。乱雑に放り出された黒塗りの携帯電話が、震えるように鳴っている。

 俺はしばらくそれを見つめた。
 鳴っている。それだけの事実が、妙に現実味を帯びている。

 誰かがこの番号を知っている。
 そして、この部屋の住人に連絡を寄越している。
 つまり――この男には、社会の中での役割がある。

 俺はゆっくりと立ち上がり、ベッドへ歩く。携帯を拾う。掌に収まる重さ。見慣れているはずなのに、記憶の中には存在しない感触。画面を見た。番号表示。名前は登録されていない。俺は親指で画面をなぞり、通話を取った。

「はいはい。どちらさん?」
 耳へ押し当て、軽い調子で応答する。
 数秒の沈黙。そして、声が流れた。

『――オレだ。出るのが遅ぇ。何をしていた』
 低い男の声だった。
 冷たい。感情の温度が殆どない。それでも、奇妙な圧がある。

 何となく、記憶喪失のことは隠しておくべきだと悟った。
 言葉を探すように、ローテーブルの拳銃をちらりと見る。

「名乗りもしないで急かすのか。礼儀は随分と合理化されたらしいな」
『フン……お前に割く礼儀はねぇよ……』
「そうかい。それで、俺に一体何の用だ?」

 数秒の沈黙が落ちた。
 電話の向こうで、微かな呼吸音がする。一定。乱れがない。俺はそれを聞きながら、無意識に自分の呼吸を合わせていた。

『……随分と機嫌がいいな』
 低い声が返る。
 感情は乗っていない。ただ、僅かに“引っ掛かり”があった。

「この時間に不機嫌になるほど、暇じゃないんでな」

 俺は口端を歪め、軽く言う。
 自分でも、言葉が滑らかに出ることに違和感があった。考えていない。選んでもいない。ただ、こう返すのが自然だと、身体が知っている。

『……妙だな』
 電話の向こうが、短く息を吐いた。
 ぽつりと落ちる。指先が、僅かに止まった。

「何がだ」
『お前はそんな軽口を叩くタチじゃねぇ』

 沈黙。僅かに身体を強張らせ、黙り込む。
 視線だけが、机の上の身分証をなぞる。並んだ顔。並んだ名前。
 どれも本物で、どれも偽物だ。

「本当は軽口を叩きたい性分なのさ。悪くないだろ?」

 俺は低く返した。言葉は自然に出た。
 言い訳として、あまりにも整いすぎている。
 電話の向こうで、僅かな間がある。

『……まぁいい。時間はさっき連絡した通り……今から三十分後だ』
「了解だ。お前も来るのか?」
『あぁ……少々、気になることがあるんでな』

 その言葉は、音としては軽かった。
 だが、空気の奥に沈むと、鉛のように重さを持った。気になること。もしかすると、それは俺のことかもしれない。

 俺は僅かに喉を鳴らした。
 手の中の携帯が、ほんの少しだけ重くなる。視線は自然と机へ落ちた。分解して、組み上げたばかりの拳銃。金属の冷えた光が、窓から差し込む薄い光を鈍く弾いている。さっきまで指に残っていた感触が、まだ消えていない。

 握り。重さ。引き金の遊び。
 知らないはずのものが、妙に身体に馴染んでいる。

「すぐに向かう。また後でな」
『遅れるなよ……グレーン』

 通話が途切れる。
 音が消えたあとも、“グレーン”という呼び名だけが残った。耳ではなく、もっと奥に。骨の内側に刻まれたように。

 俺は無言で携帯を見下ろす。
 黒い画面に、自分の顔が映っていた。灰色の瞳。その奥にあるものは、まだ見えない。だが――その名前だけは、確かに自分のものだった。

 窓の外で、風がひとつ、細く鳴いた。
 部屋の中には、何も動かない。ただ、静けさだけが残っていた。

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