光を抱く者

009 - 虚像の死


 荒い息が階段の踊り場に反響する。
 打ち付けるような鼓動が耳の奥で鳴り、足音と混じって頭の内側を叩き続けていた。

 鉄骨の階段は夜の冷気を吸い込み、踏みしめるたびに甲高い音を響かせる。壁の蛍光灯が弱々しい光を落としていたが、その明かりさえ、汗に滲む視界の中では霞んで揺らめいて見えた。

 スコッチは、この階段の先――屋上にいる。
 包囲網の隙を縫ってでも、そこに辿り着かなくてはならない。
 しかし、折り返すたびに同じ景色が繰り返されるようで、進んでいるはずの距離が永遠に縮まらない錯覚さえ覚えた。

 喉は砂を飲み込んだように乾き、肺は焼けるように熱い。
 冷たい鉄の手すりを掴んでも、火照った掌を冷やすには至らなかった。それでも脚は止まらず、ただ必死に段を踏みしめ続けた。

 やがて最後の踊り場を抜ける。
 目の前に立ちはだかったのは無骨な鉄扉だった。

 表面には錆が浮き、塗装が剥がれた箇所からは冷たい鉄の地肌が露出している。長い時を経てもなお、人を拒み続けるかのように、その扉は重苦しい威圧感を放っていた。バーボンは錆に縁取られた取手を掴み、力任せに捻った。

「……クソッ……!」

 ガチャ、ガチャと金属の擦れる音が響く。
 扉はびくともしなかった。内側から硬く施錠されているのが、掌の骨を軋ませる感触で分かった。

 拳で何度も叩き、肩で押しやる。だが、金属の扉は、夜の闇に溶け込むように冷たく沈黙を守り続けていた。

 バーボンは額を鉄板に押し当て、荒く息を吐いた。
 分厚い鉄越しに、夜風が唸る音だけが伝わってくる。
 だが――その風音の奥に、微かな気配が混ざった気がした。

 屋上に、誰かいる。
 スコッチの影か、それとも別の影か。

 焦燥が喉を焼き、手のひらが再びノブを掴む。回しても開かないと分かっていても、掴まずにはいられなかった。

 階段の下から靴音が近づいてきた。
 反射的に振り返ると、闇を縫うようにしてライの影が現れる。鋭い眼差しをこちらに向けながら、低く問い掛けた。

「閉まっているのか」

 荒い息のまま、バーボンは頷いた。

 その刹那――乾いた破裂音が夜を裂いた。
 鼓膜を震わせる衝撃に、空気が喉から漏れ、身体が硬直する。僅かな間、時間が止まったように感じられた。

 だが束の間の硬直を振り払い、互いに目を交わす。
 言葉は要らなかった。二人は同時に肩をぶつけ合うように鉄扉へ体重を乗せる。金属が悲鳴を上げ、錆びた蝶番の軋む音が階段に響いた。もう一度、全身の力を込めてぶつかる。

 ガン、と乾いた衝撃。
 そして――重い扉は外側へ弾かれるように開いた。

 開け放たれた先に広がるのは、夜風が荒々しく吹き荒ぶ屋上。
 視界の中心に、黒いコートをはためかせた影が立っていた。月光を背に受け、その輪郭は鋭い刃のように闇に浮かび上がる。

 僅かに振り返ったアブサンの頬は、血で濡れていた。
 その何も映していないような無感情の瞳に、思わず息が詰まる。視線をその奥に向けると、壁に凭れかかるようにして座り込む影があった。胸元を赤黒く濡らし、力なく首が垂れている。

 壁一面に飛び散った血が、彼の沈黙を雄弁に物語っていた。

「スコッチ……!」

 バーボンは叫びと同時に駆け寄った。
 崩れ落ちそうな身体を支え、頬に触れる。冷たい。だがまだ完全な冷え切りではない。焦燥に駆られ、震える指先で脈を探す。首筋へ指を当て、耳を胸元に押し当てる。

「……スコッチ、応えろ……頼む、まだ……」

 必死にすがるような声。
 しかし胸の奥で打つはずの鼓動は、動転した意識の中で微かすぎて掴めなかった。絶望が視界を黒く塗り潰していく。

 そのとき、背後から靴音が近付いた。
 アブサンが無言で歩み寄り、膝を折る。冷徹な眼差しをバーボンに落とし、低く吐き捨てるように言った。

「何をしている。既に息はない……無駄なことはするな」

 その言葉に、バーボンの中で何かが弾けた。
 顔を上げ、奥歯を噛み締める。次の瞬間、アブサンの胸倉を力任せに掴み上げていた。

「貴様……貴様だけは……!」

 アブサンという人間を、信じていた。
 心のどこかで、疑いながらも縋っていた。だからこそ、裏切られた痛みは耐え難かった。だが、“裏切られた”――その言葉を口には出せなかった。嗚咽に似た感情を押し殺し、布を力強く引き寄せる。信じた自分の愚かさを呪いながら、それでも矛先は、アブサンにしか向かなかった。

 アブサンは抵抗しない。
 ただ片眉を上げ、薄い皮肉を滲ませた声で呟いた。

「バーボン、何をそんなに怒っている……ああ、夢と現実の錯誤に苛まれているのか」

 その響きが神経を逆撫でする。
 反射的に拳を振り上げ、アブサンの顔面へ叩き込もうとした。

 だが、軽く受け止められた。
 次の瞬間、視界が反転する。何が起こったのか理解するより早く背中が地面に叩きつけられ、肺の中の空気が押し出される。

「っ……ぐ……!」

 呻き声が漏れる中、頭上から冷ややかな声が降ってきた。

「公安の犬に情を掛けてどうする……ほら、お前に仕事だ」

 顔の上に何かが落とされた。反射的に掴み、目を凝らす。
 それは、スコッチの携帯だった。
 中央には、銃弾が貫いた穴が空いている。

「胸ポケットに入っていてな。だがまあ、情報は抜けんだろうが――念のため、確認を取れ」

 無慈悲な言葉。そこに温度は一切なかった。
 バーボンの奥歯が強く噛み合わされ、苦虫を噛み潰したような表情が歪む。

 立ち上がり、憎悪を隠しきれない眼差しをアブサンに向ける。
 だがアブサンはそれを受け流すように、視線をライへと向けた。

「お前はここの掃除をしておけ。俺はスコッチの遺体を処理する――くれぐれも、証拠は残すなよ」

 淡々と指示を落とすアブサンに、ライは僅かに目を細めた。
 その瞳には怒りも焦りもなく、ただ研ぎ澄まされた冷徹な光が宿っている。彼は一瞬だけ血の海に沈む屋上を見渡し、煙草の火を指先で潰すと、静かに頷いた。命令に従うのは当然だという顔で、それ以上の感情を一切見せなかった。

 バーボンの荒い呼吸や、燃え盛る憎悪に染まった瞳さえ、冷ややかに観察する視線が掠めていった。同じ組織の仲間でありながら、その眼差しは徹底して距離を置いている。

 アブサンは踵を返すと、スコッチの身体を抱き上げた。
 血に濡れたロングコートが夜風にはためき、無言のまま歩を進めていく。背から滴る血が、アスファルトを点々と濡らしていく。足音と共に残されるその痕跡は、まるで逃れられぬ烙印のように赤黒く夜を染めていた。

 月光は冷たく、黒い影だけが長く伸びていく。
 バーボンの瞳に映るのは、遠ざかる背と、その影が闇に溶けていく光景だった。追うことも、止めることも出来ない。ただ、バーボンはその影を睨み続けることしか出来なかった。

「アブサン……貴様だけは、絶対に……」

 拳を固く握りしめる。血が滲んでもそれは止めなかった。
 その深い憎しみだけが、胸を満たしていた。

9/25ページ
スキ