光を抱く者
008 - 仲間を裏切るような奴
酒場の探り合いから、一ヶ月後。
夜風が波止場を撫でていた。潮と鉄錆の匂いが入り混じり、荒んだ風に乗せて匂いを漂わせる。遠くで波が船腹を叩く音だけが、闇に沈む倉庫街の静けさを支配していた。
アブサンは黒いコートの襟を立て、無言で歩みを進めた。
足音は抑えているはずなのに、コンクリートに響くその音が不自然に大きく感じられる。灰緑の瞳が射抜くのは、事前に指定された待ち合わせ場所。街灯すら届かぬ桟橋の突端だった。
そこには既に人影があった。
黒いジャケットに身を包んだ男がひとり、ポケットに片手を突っ込み、もう一方の手には薄いフロッピーを握っている。
「……来たか、アブサン……」
掠れた声が吐き出されると同時に、暗がりから複数の気配が立ち上がった。桟橋の陰やコンテナの隙間から現れたのは、二人、三人――それ以上。拳銃の銃口が一斉に、アブサンへと向けられる。
「一対一の取引だとでも思ったか?」
銃口の狭間で、アブサンはゆっくりと立ち止まる。
先頭の男が嘲るように嗤ったとき、ふっと視線を落とした。夜風が黒いコートの裾を揺らす。灰緑の瞳が薄闇に光り、先頭の男が大事そうに握っているフロッピーを一瞥した。
「データは、持ってきているようだな」
抑揚のない声音。だがその一言は、銃口を向ける側の緊張を逆に強めていた。まるで次の瞬間、自分たちが何をされるかを予感させるような、異様な静けさが場に落ちる。
「ああ。勿論――だが、渡してやるつもりはない」
嘲るような口調の声が落ちる。
アブサンは小さく吐息を洩らすと、肩を竦めた。
「ならば、仕方ない。強引に奪うまでだ」
言葉と同時に、夜気が裂けた。
銃声より速く、アブサンの影が弾ける。最も近い男の懐へ滑り込むと、腕を捻り上げて撃鉄を外し、そのまま銃口を隣の影へと向ける。乾いた破裂音が響き、火花と共に背後の男が崩れ落ちた。
残りの銃口が慌てて火を噴く。
アブサンは身を沈め、桟橋の欄干を蹴って跳ね上がる。着地の瞬間、足先が一人の喉元を正確に蹴り砕き、呻き声が途切れた。倒れる体を盾にし、銃弾を受け止めながら腰のホルスターから短銃を抜く。
二発。三発。反動に揺れることもなく、至近の額と胸を正確に撃ち抜いた。血飛沫が夜風に散り、波止場の鉄錆に混じる。
「くそッ! 囲め――!」
怒号が飛ぶが遅い。アブサンは崩れた死体を踏み台に、振り抜いたコートの裾で銃口を逸らすと、逆手にした短銃を腹部へ突き込むように撃ち込んだ。呻きと共に倒れる影。その銃を抜き取り、滑らかな動作で二丁を構える。
静寂を裂く連続の銃声。
乱れ撃ちではない。呼吸に合わせて引き金を絞るたび、銃口は迷いなく標的を撃ち抜いていく。肩を撃たれた男がよろめき、頭を撃ち抜かれた瞬間に沈黙するまでの間は、僅か一秒にも満たない。
殺意を持った最後の一人が、震える手で銃を構え直す。
その瞬間、アブサンは半歩で間合いを詰め、手首を掴んで骨を捻じ切るように捻った。悲鳴が上がる前に銃口を自分の腹へ向けさせ男自身の指で、その引き金を引かせる。
銃声と共に力なく崩れ落ちる。
波止場に再び静寂が戻った。
散乱する硝煙と血の匂いの中、アブサンは息ひとつ乱さず、ただ淡々と先頭にいた男へと歩みを進めた。腰を抜かして地面に尻餅をついた男は、ケースを握ったその手を恐怖に震わせていた。
「何をそんなに驚いている」
低く吐かれた声に、男は喉を鳴らした。
アブサンの灰緑の瞳が、氷のように冷ややかに細められる。血と硝煙の中、息一つ乱れぬその眼差しは、まるで虫の震えを眺める捕食者のそれだった。
コートの裾を揺らし、アブサンは一歩、また一歩と歩を進める。
靴底がアスファルトを踏む乾いた音が、やけに鮮明に響いた。
距離を詰められるごとに、男の顔色は蒼白さを増していく。掴んでいるケースが震え、歯の根が合わぬほどに顎が震えていた。
そして、目の前に影が覆い被さった刹那。
男は咄嗟に懐へ手を突っ込み、拳銃を抜き放った。
火花と閃光が闇を裂き、轟音が夜気を震わせる。
だが、アブサンは眉一つ動かさなかった。
僅かに首を傾けただけで、弾丸は頬を掠め、背後へと消えた。硝煙が鼻を刺す中、冷ややかな灰緑の瞳が真上から射抜いていた。
「先に銃口を向けたのはお前らだろうに。こうも驚かれると、俺がさも悪いことをしているようじゃないか……」
アブサンは向けられた拳銃を足先で蹴り飛ばした。鉄が地面に転がる甲高い音が夜気を裂き、銃は遠く闇に消える。そのまま男の両手を頭上に捻り上げ、地面へと押さえ込む。覆い被さるような体勢は逃げ場を与えず、灰緑の瞳が真上から射抜いていた。
「なっ、なにを……!」
声が震え、唇が開いた刹那。
アブサンの無骨な手が銃を構え、躊躇いなくその口内へ突き込んだ。金属が歯に当たり、甲高い音が響く。男の声はモゴモゴとした呻きに変わり、喉奥で潰れていった。
抵抗の気配を見せる顔を覗き込みながら、アブサンは緩やかに口端を歪めた。それは冷ややかだったが、それでいて、何処か乾いた苦味を帯びた笑みだった。
「馬鹿が……データを持ってこなければ、人死にだけで終わった。無関係な“仲間”を巻き込まずに済んだものを……」
声は氷のように冷え切っていたが、そこに含まれる仲間という言葉だけが異様に重く響いた。
男は涙を溜め、必死に首を横に振る。
「仲間を売るような奴がいるせいで、俺は何度も、信じようとした――死なせたくない奴まで、手に掛ける羽目になる」
銃口を噛まされたまま、男は呻き声を漏らした。顎が震え、必死に否定を示そうとする。だがアブサンは顎を僅かに上げ、その顔を冷徹に見下ろしながら、更に言葉を落とす。
「この世は腐ってる……どうしてこうも、俺らのような悪の権化が生き残って、眩しい奴らが、死に絶えるんだろうな……」
そう言って、アブサンは拳銃を更に奥へと捻り込む。
涙に濡れた瞳が恐怖に見開かれる。命乞いの声すら奪われ、ただ絶望だけがその表情を支配していた。
次の瞬間、乾いた銃声が波止場に響く。
力を失った身体が崩れ落ち、骸だけがそこに残った。
飛び散った血痕が頬を濡らす。だがアブサンはそれを拭うこともなく、握られたままのフロッピーを抜き取った。
そして淡々と立ち上がり、夜風がコートの裾を揺らす。
血と硝煙の匂いを纏ったまま、アブサンは振り返ることなく暗がりへと歩を進めていった。
足音を引きずるように、波止場の倉庫の壁へと背を預けた。
冷えた鉄板が背中に伝わり、緊張の余韻を強調するように体温を奪っていく。
組織端末を取り出すと、フロッピーを無造作に差し込んだ。電子音が静寂を破り、淡い光が暗闇を照らす。波の音と風の唸りが遠くに響く中、液晶に浮かび上がる文字列を無言で追った。
映し出される顔写真と本名、そして所属。
何人もの顔が上に流れていく中、アブサンは息を呑んだ。
画面に映し出されたのは、見慣れた顔。
警視庁公安部所属、諸伏景光。
「……スコッチ……」
僅かに俯いたアブサンの瞳が、長い前髪で覆われる。その横顔には怒りも安堵もなく、ただ深い影だけが落ちていた。
アブサンはしばし無言で画面を見つめていた。
次の瞬間、端末を閉じ携帯を取り出す。冷たい夜気の中、呼び出し音が幾度か繰り返され――やがて、無機質な声が応じた。
《……俺だ。何の用だ》
その声に、アブサンは奥歯を噛み締める。
「予定通り、公安の潜入捜査官のリストを手に入れた。これより裏切り者を狩る……包囲網を敷いてくれ」
アブサンの声は震えてはいなかった。
ただ、淡々と状況を説明するような声音だった。電話口でジンが微かに鼻を鳴らした。笑みを浮かべたのが分かる。
《その哀れな裏切り者の名は》
アブサンは夜空を見上げ、目に力を込める。
悲嘆に似た感情が揺れ動いたが、すぐに消え去った。
「スコッチだ――ああ、くれぐれも手は出すなよ。これは俺の獲物だからな……他の幹部にもそう伝えろ」
低く、くぐもった声を発する。
その声は潮の風に煽られて、遠くに流れていく。
《手は出さねぇさ……お前がヘマをしねぇ限りはな。スコッチを処理し終えたら、俺に報告を入れろ……ぬかるなよ》
その声とともに、ジンは満足げに電話を切った。
耳から離れた携帯が、夜気の中で酷く重たく感じられる。アブサンは無言のままポケットへ仕舞い込み、海鳴りに視線を落とした。黒い水面は月光を拒み、ただ底知れぬ闇を湛えている。
風がコートを揺らし、髪を掠める。その刹那、彼の輪郭ごと夜に溶け、波止場から姿が掻き消えていった。
残されたのは潮の匂いと、寄せては返す波音だけだった。
酒場の探り合いから、一ヶ月後。
夜風が波止場を撫でていた。潮と鉄錆の匂いが入り混じり、荒んだ風に乗せて匂いを漂わせる。遠くで波が船腹を叩く音だけが、闇に沈む倉庫街の静けさを支配していた。
アブサンは黒いコートの襟を立て、無言で歩みを進めた。
足音は抑えているはずなのに、コンクリートに響くその音が不自然に大きく感じられる。灰緑の瞳が射抜くのは、事前に指定された待ち合わせ場所。街灯すら届かぬ桟橋の突端だった。
そこには既に人影があった。
黒いジャケットに身を包んだ男がひとり、ポケットに片手を突っ込み、もう一方の手には薄いフロッピーを握っている。
「……来たか、アブサン……」
掠れた声が吐き出されると同時に、暗がりから複数の気配が立ち上がった。桟橋の陰やコンテナの隙間から現れたのは、二人、三人――それ以上。拳銃の銃口が一斉に、アブサンへと向けられる。
「一対一の取引だとでも思ったか?」
銃口の狭間で、アブサンはゆっくりと立ち止まる。
先頭の男が嘲るように嗤ったとき、ふっと視線を落とした。夜風が黒いコートの裾を揺らす。灰緑の瞳が薄闇に光り、先頭の男が大事そうに握っているフロッピーを一瞥した。
「データは、持ってきているようだな」
抑揚のない声音。だがその一言は、銃口を向ける側の緊張を逆に強めていた。まるで次の瞬間、自分たちが何をされるかを予感させるような、異様な静けさが場に落ちる。
「ああ。勿論――だが、渡してやるつもりはない」
嘲るような口調の声が落ちる。
アブサンは小さく吐息を洩らすと、肩を竦めた。
「ならば、仕方ない。強引に奪うまでだ」
言葉と同時に、夜気が裂けた。
銃声より速く、アブサンの影が弾ける。最も近い男の懐へ滑り込むと、腕を捻り上げて撃鉄を外し、そのまま銃口を隣の影へと向ける。乾いた破裂音が響き、火花と共に背後の男が崩れ落ちた。
残りの銃口が慌てて火を噴く。
アブサンは身を沈め、桟橋の欄干を蹴って跳ね上がる。着地の瞬間、足先が一人の喉元を正確に蹴り砕き、呻き声が途切れた。倒れる体を盾にし、銃弾を受け止めながら腰のホルスターから短銃を抜く。
二発。三発。反動に揺れることもなく、至近の額と胸を正確に撃ち抜いた。血飛沫が夜風に散り、波止場の鉄錆に混じる。
「くそッ! 囲め――!」
怒号が飛ぶが遅い。アブサンは崩れた死体を踏み台に、振り抜いたコートの裾で銃口を逸らすと、逆手にした短銃を腹部へ突き込むように撃ち込んだ。呻きと共に倒れる影。その銃を抜き取り、滑らかな動作で二丁を構える。
静寂を裂く連続の銃声。
乱れ撃ちではない。呼吸に合わせて引き金を絞るたび、銃口は迷いなく標的を撃ち抜いていく。肩を撃たれた男がよろめき、頭を撃ち抜かれた瞬間に沈黙するまでの間は、僅か一秒にも満たない。
殺意を持った最後の一人が、震える手で銃を構え直す。
その瞬間、アブサンは半歩で間合いを詰め、手首を掴んで骨を捻じ切るように捻った。悲鳴が上がる前に銃口を自分の腹へ向けさせ男自身の指で、その引き金を引かせる。
銃声と共に力なく崩れ落ちる。
波止場に再び静寂が戻った。
散乱する硝煙と血の匂いの中、アブサンは息ひとつ乱さず、ただ淡々と先頭にいた男へと歩みを進めた。腰を抜かして地面に尻餅をついた男は、ケースを握ったその手を恐怖に震わせていた。
「何をそんなに驚いている」
低く吐かれた声に、男は喉を鳴らした。
アブサンの灰緑の瞳が、氷のように冷ややかに細められる。血と硝煙の中、息一つ乱れぬその眼差しは、まるで虫の震えを眺める捕食者のそれだった。
コートの裾を揺らし、アブサンは一歩、また一歩と歩を進める。
靴底がアスファルトを踏む乾いた音が、やけに鮮明に響いた。
距離を詰められるごとに、男の顔色は蒼白さを増していく。掴んでいるケースが震え、歯の根が合わぬほどに顎が震えていた。
そして、目の前に影が覆い被さった刹那。
男は咄嗟に懐へ手を突っ込み、拳銃を抜き放った。
火花と閃光が闇を裂き、轟音が夜気を震わせる。
だが、アブサンは眉一つ動かさなかった。
僅かに首を傾けただけで、弾丸は頬を掠め、背後へと消えた。硝煙が鼻を刺す中、冷ややかな灰緑の瞳が真上から射抜いていた。
「先に銃口を向けたのはお前らだろうに。こうも驚かれると、俺がさも悪いことをしているようじゃないか……」
アブサンは向けられた拳銃を足先で蹴り飛ばした。鉄が地面に転がる甲高い音が夜気を裂き、銃は遠く闇に消える。そのまま男の両手を頭上に捻り上げ、地面へと押さえ込む。覆い被さるような体勢は逃げ場を与えず、灰緑の瞳が真上から射抜いていた。
「なっ、なにを……!」
声が震え、唇が開いた刹那。
アブサンの無骨な手が銃を構え、躊躇いなくその口内へ突き込んだ。金属が歯に当たり、甲高い音が響く。男の声はモゴモゴとした呻きに変わり、喉奥で潰れていった。
抵抗の気配を見せる顔を覗き込みながら、アブサンは緩やかに口端を歪めた。それは冷ややかだったが、それでいて、何処か乾いた苦味を帯びた笑みだった。
「馬鹿が……データを持ってこなければ、人死にだけで終わった。無関係な“仲間”を巻き込まずに済んだものを……」
声は氷のように冷え切っていたが、そこに含まれる仲間という言葉だけが異様に重く響いた。
男は涙を溜め、必死に首を横に振る。
「仲間を売るような奴がいるせいで、俺は何度も、信じようとした――死なせたくない奴まで、手に掛ける羽目になる」
銃口を噛まされたまま、男は呻き声を漏らした。顎が震え、必死に否定を示そうとする。だがアブサンは顎を僅かに上げ、その顔を冷徹に見下ろしながら、更に言葉を落とす。
「この世は腐ってる……どうしてこうも、俺らのような悪の権化が生き残って、眩しい奴らが、死に絶えるんだろうな……」
そう言って、アブサンは拳銃を更に奥へと捻り込む。
涙に濡れた瞳が恐怖に見開かれる。命乞いの声すら奪われ、ただ絶望だけがその表情を支配していた。
次の瞬間、乾いた銃声が波止場に響く。
力を失った身体が崩れ落ち、骸だけがそこに残った。
飛び散った血痕が頬を濡らす。だがアブサンはそれを拭うこともなく、握られたままのフロッピーを抜き取った。
そして淡々と立ち上がり、夜風がコートの裾を揺らす。
血と硝煙の匂いを纏ったまま、アブサンは振り返ることなく暗がりへと歩を進めていった。
足音を引きずるように、波止場の倉庫の壁へと背を預けた。
冷えた鉄板が背中に伝わり、緊張の余韻を強調するように体温を奪っていく。
組織端末を取り出すと、フロッピーを無造作に差し込んだ。電子音が静寂を破り、淡い光が暗闇を照らす。波の音と風の唸りが遠くに響く中、液晶に浮かび上がる文字列を無言で追った。
映し出される顔写真と本名、そして所属。
何人もの顔が上に流れていく中、アブサンは息を呑んだ。
画面に映し出されたのは、見慣れた顔。
警視庁公安部所属、諸伏景光。
「……スコッチ……」
僅かに俯いたアブサンの瞳が、長い前髪で覆われる。その横顔には怒りも安堵もなく、ただ深い影だけが落ちていた。
アブサンはしばし無言で画面を見つめていた。
次の瞬間、端末を閉じ携帯を取り出す。冷たい夜気の中、呼び出し音が幾度か繰り返され――やがて、無機質な声が応じた。
《……俺だ。何の用だ》
その声に、アブサンは奥歯を噛み締める。
「予定通り、公安の潜入捜査官のリストを手に入れた。これより裏切り者を狩る……包囲網を敷いてくれ」
アブサンの声は震えてはいなかった。
ただ、淡々と状況を説明するような声音だった。電話口でジンが微かに鼻を鳴らした。笑みを浮かべたのが分かる。
《その哀れな裏切り者の名は》
アブサンは夜空を見上げ、目に力を込める。
悲嘆に似た感情が揺れ動いたが、すぐに消え去った。
「スコッチだ――ああ、くれぐれも手は出すなよ。これは俺の獲物だからな……他の幹部にもそう伝えろ」
低く、くぐもった声を発する。
その声は潮の風に煽られて、遠くに流れていく。
《手は出さねぇさ……お前がヘマをしねぇ限りはな。スコッチを処理し終えたら、俺に報告を入れろ……ぬかるなよ》
その声とともに、ジンは満足げに電話を切った。
耳から離れた携帯が、夜気の中で酷く重たく感じられる。アブサンは無言のままポケットへ仕舞い込み、海鳴りに視線を落とした。黒い水面は月光を拒み、ただ底知れぬ闇を湛えている。
風がコートを揺らし、髪を掠める。その刹那、彼の輪郭ごと夜に溶け、波止場から姿が掻き消えていった。
残されたのは潮の匂いと、寄せては返す波音だけだった。