光を抱く者
007 - 破滅の甘味
夜の帳が下りた頃、アブサンは無言で拠点の一角にある重厚な扉の前に立っていた。金属と木材が組み合わされた無骨な扉は、外界との隔絶を象徴しているかのように沈黙を守っている。
灰緑の瞳を細め、躊躇なく取手を押し下げる。
軋む音とともに隙間から淡い橙色の光が漏れ、乾いた煙草と酒精の匂いが鼻腔を掠めた。
扉を押し開けた瞬間、重苦しい拠点の空気とは別種の静寂が広がった。無機質な世界に似つかわしくない木製のカウンターと、棚一面の酒瓶が、仄暗い照明の下で鈍く光を返している。
足を踏み入れると、床板が低く軋んだ。
薄く流れるジャズの旋律と、氷がグラスに触れる乾いた音が交じり合う。その音に迎えられるようにして、アブサンは何処か気怠げにゆっくりと歩を進めた。
アブサンの目に映ったのは、カウンターに腰を下ろしていたスコッチと、奥のテーブルを陣取るバーボンとライの姿だった。
スコッチは気まずそうにグラスを指先で弄びながら、ちらりと視線をこちらに向けてくる。対照的に、バーボンは背凭れに深く身を預け、薄い笑みを浮かべたまま動じる気配を見せない。ライは無言でグラスを傾け、煙草を燻らせていた。
三つの視線が揃ってアブサンを射抜く。
その場に漂う温度は、酒場の灯りよりも冷ややかだった。
想定通りの光景に、アブサンは小さく吐息を洩らす。
カウンターに足を進めると、棚に並ぶ瓶の中から深緑の液体が収められた一本を迷いなく選び取る。
その仕草を合図に、奥のテーブルにいた二人が腰を上げた。ライは無言のまま椅子を引き、バーボンはグラスを手にしたまま歩を進める。どちらも当然の権利のように、スコッチの隣に座した。
アブサンは何も言わずにグラスを取り出す。
氷を落とす音が乾いた響きを立て、冷気が一瞬だけ立ち昇る。その氷に翡翠色の液体を静かに注ぎ込んだ。その甘苦い香草の香りが立ち込めると、酒精と煙草の交じる空気に溶ける。
出来上がったグラスを揺らし、ゆっくりと視線を上げた。
「……で、親睦を深めたいとスコッチは言っていたが……」
淡々と落とされた声に、スコッチの肩が僅かに跳ねる。誤魔化すようにグラスを揺らしたあと、気まずげに笑みを浮かべた。
「あー、最初はアブサンについて知りたいんだけど……実際、アブサンは何歳なんだ?」
場を和ませる冗談めいた響き。だが、横に座るバーボンとライの視線は笑ってはいなかった。軽口を装った問いの奥に、別の意図が潜んでいることを隠そうともしない。
しかし、その問いが予想外でアブサンは片眉を上げた。
「……さあ、三十代半ばくらい……だろうか」
思わず口に出してから、アブサンは僅かに眉を動かした。
もっともらしく答えるつもりはなかったが、予想外の問いに反射的に返してしまっていた。
その曖昧な言葉に、バーボンの笑みが僅かに深まった。
グラスを指で弾きながら、鋭い視線を投げる。
「へえ……三十代半ば“くらい”ですか。自分の歳を曖昧に答える人なんて、いるんですね」
アブサンは僅かに笑みを称えながら受け流した。
グラスに視線を落とし、その液体を喉に軽く流し込む。その沈黙に耐えかねて、スコッチが口を挟んだ。
「いやほら、急に訊かれたら誰だって……」
「まあそうですね。ただ、経歴にしろ年齢にしろ、アブサンは妙に輪郭がぼやけている気がするんですよね……」
バーボンの言葉に、横で黙っていたライが小さく煙を吐いた。
無表情のまま、鋭くアブサンを射抜いている。その視線には言葉以上の圧が籠もっていた。
スコッチは居心地悪そうにグラスを揺らし、笑みを誤魔化すように俯いた。だが、バーボンとライの視線は揃って揺るがず、まるで答えを強要するかのように沈黙が場を支配する。
アブサンは薄い笑みを浮かべると、低く言葉を落とした。
「……なら、推理を披露してもらおうか。シェリングフォード・ホームズのような、出来損ないでないと良いがな」
揶揄の響きに、スコッチが思わず口元を引き攣らせる。
だがバーボンは笑みを深めただけだった。揺らがぬ瞳は挑発を真正面から受け止め、むしろ愉しんでいるかのように見えた。
ライは無言で煙を吐き、グラスを指先で回す。その沈黙は肯定にも同意にも取れる圧力となり、場をさらに重くした。
「では――お望み通り、推理を披露しましょう」
グラスの縁をなぞりながら、バーボンは探偵のように、わざと説明するような口調で言葉を紡いだ。
「……まず、あなたが数年ほど前にジンに拾われたと口にした件です。普通ならありふれた経歴に聞こえますが、調べれば調べるほど齟齬が出るんですよね」
バーボンはグラスを軽く揺らし、縁に口をつけるでもなく視線だけをアブサンに投げる。
「記録上、あなたは数年どころか、数十年も前から組織に在籍していました。なのに“数年ほど前にジンに拾われた”という自己申告――この差異は、ただの記憶違いにしては不自然すぎます」
淡い笑みを浮かべながらも、その声は核心をついていた。
アブサンは楽しげに目を細め、徐ろに煙草を取り出すと火を付けた。揺らめいた紫煙が無機質な天井に溶けて消える。
「加えて、数年前のあなたの経歴には半年ほどの空白期間がある。その間の動向は記録上まったくの空白で、その後の任務からはジンの下に付いて行動しています」
バーボンはグラスを指で軽く叩き、リズムを刻むように続ける。横目でスコッチが真面目な顔をして頷いていた。
「また、あなたが節々に混ぜる曖昧な言葉の数々。それを発するときの、あなたの目は嘘を言っているようには見えなかった」
バーボンの声が更に低くなる。
カウンター越しに、アブサンの灰緑の瞳とバーボンの鋭い眼差しが交わった。一瞬の間合いに、ジャズの旋律が流れ込む。
「これらの材料から得られることは、ただ一つ。数十年前から組織に在籍しているという記録も、アブサンの自己申告も、両方正しい情報であるということです」
静まり返る空気。
ライの目も、スコッチの目も、アブサンに突き刺さっていた。
「――となれば、あなたの曖昧な輪郭は、|記憶の喪失《・・・・・》以外に説明できないんですよ……どうです、当たっていますか?」
鋭い眼光ながら、バーボンのその瞳には、僅かに自信の無さが見え隠れしていた。それにアブサンは煙草を口端に咥え直すと、ふっと笑みを浮かべ、煙を避けるように片目を瞑った。
「憶測で判断している部分もあるが……まあ当たりだ。調査も板に付いてきたな、バーボン」
淡々とした声と同時に、アブサンの手が伸びた。乱暴でも皮肉でもない、素直な仕草でバーボンの頭に触れる。無骨な指先が軽く金髪を撫でると、灰緑の瞳が一瞬だけ淡く細められた。
「……えっ、ちょっと……何するんですか」
不意の接触にバーボンの身体が強張る。だが、視線を逸らすことも出来ず、頬に赤みが差していく。その反応を深追いせず、アブサンは静かに手を引き、再びグラスを口へ運んだ。
ライとスコッチは目を瞬いてアブサンとバーボンを交互に見る。そして二人は苦笑混じりに笑みを浮かべた。
束の間、笑いが落ちる。
やがて静寂が酒場に降りたとき、ライが口を開けた。
「……まさか、こうも簡単に認めるとはな……」
カウンターに肘をつき、頬杖をつく。その瞳には、未だ冷めない熱を帯びていた。それにアブサンは煙草を灰皿に押し付けると、煙を吐いてグラスをゆっくりと持ち上げる。
「特段、隠す謂れもない」
抑揚のない声を落としたあと、アブサンは緑色の液体を喉に軽く流し込む。空になったグラスに再び酒を注いでいく。
「数年前、一体何があったんだ……?」
眉を下げたスコッチが、躊躇いがちに切り込んだ。
バーボンとライの視線がアブサンを射抜き、これから落ちるであろう言葉を逃すまいと僅かに前のめりになる。
アブサンは眉に皺を寄せ、グラスに視線を落とした。
「さあな。ジンは事の顛末を知っている筈だが、奴も話す気はないようだし……俺も過去について、あまり興味がない」
アブサンはふと、ジンの横顔を思い出した。
匂わせているところを見るに、ジンは話す気がないのではなく、どうすべきか悩んでいるようにも見える。だが、この数年間でジンから直接的な言葉で説明を受けたことはなかった。
「何故……?」
バーボンが即座に反応する。
微かに戸惑いの色が滲んでいた。
「興味がないというのは些か語弊があるか……ただ、何となく記憶に蓋をすべきだと……無意識に、忌避している」
アブサンの瞳に、僅かに痛みが走った。
片目を瞑り、焦燥感を押し留める。その一瞬、グラスの表面に影が差した気がして、三人の誰もが次の言葉を失った。
一呼吸の間、ジャズの音が四人の間に流れ落ちる。
やがて、バーボンが話題を変えるように言葉を落とした。
「……ですが、妙なのは経歴だけじゃない。任務の跡もです」
アブサンは横目でバーボンを捉える。
バーボンは自身のグラスに視線を落としたまま、淡々と、それでいて微かに熱を伴った声で、空気の温度を上げていく。
「記録を遡れば分かります。過去のあなたの“処理”は、どれも異様なまでに完璧だった。そして今も、それは変わっていない」
言い切った言葉尻には、確信が乗っていた。
「普通なら、どう見繕っても痕跡は残る。血の飛び散り方や足跡、処理の仕方に事実が乗せられるのが普通だ。だがお前の痕跡は、違う……拭い去られたように綺麗で、整理されすぎている」
それに呼応するように、ライが煙草を灰皿に押し付ける。銀の灰皿に投げ入れられた煙草は、先が折れ曲がっていた。
スコッチが頬杖をつき、ライに同意するように頷く。
「“処理”っていうより、何かを救おうとしてたみたいに見えるんだよな」
アブサンは僅かに息を呑んだ。
いつの間にか、この三人に気を許し過ぎていた。また同じ過ちを繰り返そうとしていることに、ようやく気付く。
「そう。完璧すぎて、冷徹さよりもむしろ救済の影を帯びている。不審すぎるんですよ……あなたの仕事は」
バーボンは目敏くアブサンの変化を捉え、深く切り込んだ。
アブサンを目を伏せ、煙草を取り出すと沈黙の空気に紫煙を巻いていく。その煙が帳のようにアブサンの表情を掠めた。
「完璧すぎる、か――なら、次は痕跡も混ぜることにしよう」
淡々と、それでいて突き放すように声を発する。
バーボンは目を見開いて、困惑したように眉を寄せた。
「……認めるんですか?」
その問いに、三人の視線がアブサンを射抜く。感情を排した表情でアブサンは鼻を鳴らし、煙に巻く。
「何をだ? お前らが無駄な憶測に翻弄されぬよう、配慮しようと言っているだけにすぎん」
その声は酒場に冷たく響いた。
息を呑む音と、ジャズの淡い音色だけが微かに漂う。
アブサンは三人を見据え、煙草の煙を吐いた。
「穿った思い込みは事実を捻じ曲げる。更地に立って、馳せてみるといい。それが心の揺らぎで見えた幻想だと、自覚できる」
その言葉に、バーボンとライは奥歯を噛んだ。
ただ目を伏せ、ライが呟くように言葉を落とす。
「……だが、幻想にしては整いすぎている……」
アブサンは小さく吐息を洩らし、溺れそうになっている三人を引き上げるように、諭すような言葉を選んでいく。
「そう思うのは勝手だが――手を伸ばせば伸ばすほど、闇に引き摺り込まれていくものだ。この“アブサン”が、芸術家を破滅に導いたように……魅入られたら最後、沈んでいくのがオチだ」
その声には残滓に似た痛みが混じっていた。
だが、その痛みもすぐに消え失せ、張り付けたような笑みを浮かべる。アブサンはグラスを煽り、空気を変えるようにして、カウンターに据え置く。タン、という乾いた音が空気を裂いた。
「――さて、俺の話は終わりだ。次は、お前らの話を訊こうか」
その探りの声に、三人は口元を引き攣らせ、喉を鳴らす。
一方通行で終わると思うな――そんな調子が声に表れていた。
動揺した三人の椅子の軋みがよく響く。
酒場に満ちるジャズの旋律は、変わらず淡々と続いている。
夜はまだ、明ける気配を見せなかった。
夜の帳が下りた頃、アブサンは無言で拠点の一角にある重厚な扉の前に立っていた。金属と木材が組み合わされた無骨な扉は、外界との隔絶を象徴しているかのように沈黙を守っている。
灰緑の瞳を細め、躊躇なく取手を押し下げる。
軋む音とともに隙間から淡い橙色の光が漏れ、乾いた煙草と酒精の匂いが鼻腔を掠めた。
扉を押し開けた瞬間、重苦しい拠点の空気とは別種の静寂が広がった。無機質な世界に似つかわしくない木製のカウンターと、棚一面の酒瓶が、仄暗い照明の下で鈍く光を返している。
足を踏み入れると、床板が低く軋んだ。
薄く流れるジャズの旋律と、氷がグラスに触れる乾いた音が交じり合う。その音に迎えられるようにして、アブサンは何処か気怠げにゆっくりと歩を進めた。
アブサンの目に映ったのは、カウンターに腰を下ろしていたスコッチと、奥のテーブルを陣取るバーボンとライの姿だった。
スコッチは気まずそうにグラスを指先で弄びながら、ちらりと視線をこちらに向けてくる。対照的に、バーボンは背凭れに深く身を預け、薄い笑みを浮かべたまま動じる気配を見せない。ライは無言でグラスを傾け、煙草を燻らせていた。
三つの視線が揃ってアブサンを射抜く。
その場に漂う温度は、酒場の灯りよりも冷ややかだった。
想定通りの光景に、アブサンは小さく吐息を洩らす。
カウンターに足を進めると、棚に並ぶ瓶の中から深緑の液体が収められた一本を迷いなく選び取る。
その仕草を合図に、奥のテーブルにいた二人が腰を上げた。ライは無言のまま椅子を引き、バーボンはグラスを手にしたまま歩を進める。どちらも当然の権利のように、スコッチの隣に座した。
アブサンは何も言わずにグラスを取り出す。
氷を落とす音が乾いた響きを立て、冷気が一瞬だけ立ち昇る。その氷に翡翠色の液体を静かに注ぎ込んだ。その甘苦い香草の香りが立ち込めると、酒精と煙草の交じる空気に溶ける。
出来上がったグラスを揺らし、ゆっくりと視線を上げた。
「……で、親睦を深めたいとスコッチは言っていたが……」
淡々と落とされた声に、スコッチの肩が僅かに跳ねる。誤魔化すようにグラスを揺らしたあと、気まずげに笑みを浮かべた。
「あー、最初はアブサンについて知りたいんだけど……実際、アブサンは何歳なんだ?」
場を和ませる冗談めいた響き。だが、横に座るバーボンとライの視線は笑ってはいなかった。軽口を装った問いの奥に、別の意図が潜んでいることを隠そうともしない。
しかし、その問いが予想外でアブサンは片眉を上げた。
「……さあ、三十代半ばくらい……だろうか」
思わず口に出してから、アブサンは僅かに眉を動かした。
もっともらしく答えるつもりはなかったが、予想外の問いに反射的に返してしまっていた。
その曖昧な言葉に、バーボンの笑みが僅かに深まった。
グラスを指で弾きながら、鋭い視線を投げる。
「へえ……三十代半ば“くらい”ですか。自分の歳を曖昧に答える人なんて、いるんですね」
アブサンは僅かに笑みを称えながら受け流した。
グラスに視線を落とし、その液体を喉に軽く流し込む。その沈黙に耐えかねて、スコッチが口を挟んだ。
「いやほら、急に訊かれたら誰だって……」
「まあそうですね。ただ、経歴にしろ年齢にしろ、アブサンは妙に輪郭がぼやけている気がするんですよね……」
バーボンの言葉に、横で黙っていたライが小さく煙を吐いた。
無表情のまま、鋭くアブサンを射抜いている。その視線には言葉以上の圧が籠もっていた。
スコッチは居心地悪そうにグラスを揺らし、笑みを誤魔化すように俯いた。だが、バーボンとライの視線は揃って揺るがず、まるで答えを強要するかのように沈黙が場を支配する。
アブサンは薄い笑みを浮かべると、低く言葉を落とした。
「……なら、推理を披露してもらおうか。シェリングフォード・ホームズのような、出来損ないでないと良いがな」
揶揄の響きに、スコッチが思わず口元を引き攣らせる。
だがバーボンは笑みを深めただけだった。揺らがぬ瞳は挑発を真正面から受け止め、むしろ愉しんでいるかのように見えた。
ライは無言で煙を吐き、グラスを指先で回す。その沈黙は肯定にも同意にも取れる圧力となり、場をさらに重くした。
「では――お望み通り、推理を披露しましょう」
グラスの縁をなぞりながら、バーボンは探偵のように、わざと説明するような口調で言葉を紡いだ。
「……まず、あなたが数年ほど前にジンに拾われたと口にした件です。普通ならありふれた経歴に聞こえますが、調べれば調べるほど齟齬が出るんですよね」
バーボンはグラスを軽く揺らし、縁に口をつけるでもなく視線だけをアブサンに投げる。
「記録上、あなたは数年どころか、数十年も前から組織に在籍していました。なのに“数年ほど前にジンに拾われた”という自己申告――この差異は、ただの記憶違いにしては不自然すぎます」
淡い笑みを浮かべながらも、その声は核心をついていた。
アブサンは楽しげに目を細め、徐ろに煙草を取り出すと火を付けた。揺らめいた紫煙が無機質な天井に溶けて消える。
「加えて、数年前のあなたの経歴には半年ほどの空白期間がある。その間の動向は記録上まったくの空白で、その後の任務からはジンの下に付いて行動しています」
バーボンはグラスを指で軽く叩き、リズムを刻むように続ける。横目でスコッチが真面目な顔をして頷いていた。
「また、あなたが節々に混ぜる曖昧な言葉の数々。それを発するときの、あなたの目は嘘を言っているようには見えなかった」
バーボンの声が更に低くなる。
カウンター越しに、アブサンの灰緑の瞳とバーボンの鋭い眼差しが交わった。一瞬の間合いに、ジャズの旋律が流れ込む。
「これらの材料から得られることは、ただ一つ。数十年前から組織に在籍しているという記録も、アブサンの自己申告も、両方正しい情報であるということです」
静まり返る空気。
ライの目も、スコッチの目も、アブサンに突き刺さっていた。
「――となれば、あなたの曖昧な輪郭は、|記憶の喪失《・・・・・》以外に説明できないんですよ……どうです、当たっていますか?」
鋭い眼光ながら、バーボンのその瞳には、僅かに自信の無さが見え隠れしていた。それにアブサンは煙草を口端に咥え直すと、ふっと笑みを浮かべ、煙を避けるように片目を瞑った。
「憶測で判断している部分もあるが……まあ当たりだ。調査も板に付いてきたな、バーボン」
淡々とした声と同時に、アブサンの手が伸びた。乱暴でも皮肉でもない、素直な仕草でバーボンの頭に触れる。無骨な指先が軽く金髪を撫でると、灰緑の瞳が一瞬だけ淡く細められた。
「……えっ、ちょっと……何するんですか」
不意の接触にバーボンの身体が強張る。だが、視線を逸らすことも出来ず、頬に赤みが差していく。その反応を深追いせず、アブサンは静かに手を引き、再びグラスを口へ運んだ。
ライとスコッチは目を瞬いてアブサンとバーボンを交互に見る。そして二人は苦笑混じりに笑みを浮かべた。
束の間、笑いが落ちる。
やがて静寂が酒場に降りたとき、ライが口を開けた。
「……まさか、こうも簡単に認めるとはな……」
カウンターに肘をつき、頬杖をつく。その瞳には、未だ冷めない熱を帯びていた。それにアブサンは煙草を灰皿に押し付けると、煙を吐いてグラスをゆっくりと持ち上げる。
「特段、隠す謂れもない」
抑揚のない声を落としたあと、アブサンは緑色の液体を喉に軽く流し込む。空になったグラスに再び酒を注いでいく。
「数年前、一体何があったんだ……?」
眉を下げたスコッチが、躊躇いがちに切り込んだ。
バーボンとライの視線がアブサンを射抜き、これから落ちるであろう言葉を逃すまいと僅かに前のめりになる。
アブサンは眉に皺を寄せ、グラスに視線を落とした。
「さあな。ジンは事の顛末を知っている筈だが、奴も話す気はないようだし……俺も過去について、あまり興味がない」
アブサンはふと、ジンの横顔を思い出した。
匂わせているところを見るに、ジンは話す気がないのではなく、どうすべきか悩んでいるようにも見える。だが、この数年間でジンから直接的な言葉で説明を受けたことはなかった。
「何故……?」
バーボンが即座に反応する。
微かに戸惑いの色が滲んでいた。
「興味がないというのは些か語弊があるか……ただ、何となく記憶に蓋をすべきだと……無意識に、忌避している」
アブサンの瞳に、僅かに痛みが走った。
片目を瞑り、焦燥感を押し留める。その一瞬、グラスの表面に影が差した気がして、三人の誰もが次の言葉を失った。
一呼吸の間、ジャズの音が四人の間に流れ落ちる。
やがて、バーボンが話題を変えるように言葉を落とした。
「……ですが、妙なのは経歴だけじゃない。任務の跡もです」
アブサンは横目でバーボンを捉える。
バーボンは自身のグラスに視線を落としたまま、淡々と、それでいて微かに熱を伴った声で、空気の温度を上げていく。
「記録を遡れば分かります。過去のあなたの“処理”は、どれも異様なまでに完璧だった。そして今も、それは変わっていない」
言い切った言葉尻には、確信が乗っていた。
「普通なら、どう見繕っても痕跡は残る。血の飛び散り方や足跡、処理の仕方に事実が乗せられるのが普通だ。だがお前の痕跡は、違う……拭い去られたように綺麗で、整理されすぎている」
それに呼応するように、ライが煙草を灰皿に押し付ける。銀の灰皿に投げ入れられた煙草は、先が折れ曲がっていた。
スコッチが頬杖をつき、ライに同意するように頷く。
「“処理”っていうより、何かを救おうとしてたみたいに見えるんだよな」
アブサンは僅かに息を呑んだ。
いつの間にか、この三人に気を許し過ぎていた。また同じ過ちを繰り返そうとしていることに、ようやく気付く。
「そう。完璧すぎて、冷徹さよりもむしろ救済の影を帯びている。不審すぎるんですよ……あなたの仕事は」
バーボンは目敏くアブサンの変化を捉え、深く切り込んだ。
アブサンを目を伏せ、煙草を取り出すと沈黙の空気に紫煙を巻いていく。その煙が帳のようにアブサンの表情を掠めた。
「完璧すぎる、か――なら、次は痕跡も混ぜることにしよう」
淡々と、それでいて突き放すように声を発する。
バーボンは目を見開いて、困惑したように眉を寄せた。
「……認めるんですか?」
その問いに、三人の視線がアブサンを射抜く。感情を排した表情でアブサンは鼻を鳴らし、煙に巻く。
「何をだ? お前らが無駄な憶測に翻弄されぬよう、配慮しようと言っているだけにすぎん」
その声は酒場に冷たく響いた。
息を呑む音と、ジャズの淡い音色だけが微かに漂う。
アブサンは三人を見据え、煙草の煙を吐いた。
「穿った思い込みは事実を捻じ曲げる。更地に立って、馳せてみるといい。それが心の揺らぎで見えた幻想だと、自覚できる」
その言葉に、バーボンとライは奥歯を噛んだ。
ただ目を伏せ、ライが呟くように言葉を落とす。
「……だが、幻想にしては整いすぎている……」
アブサンは小さく吐息を洩らし、溺れそうになっている三人を引き上げるように、諭すような言葉を選んでいく。
「そう思うのは勝手だが――手を伸ばせば伸ばすほど、闇に引き摺り込まれていくものだ。この“アブサン”が、芸術家を破滅に導いたように……魅入られたら最後、沈んでいくのがオチだ」
その声には残滓に似た痛みが混じっていた。
だが、その痛みもすぐに消え失せ、張り付けたような笑みを浮かべる。アブサンはグラスを煽り、空気を変えるようにして、カウンターに据え置く。タン、という乾いた音が空気を裂いた。
「――さて、俺の話は終わりだ。次は、お前らの話を訊こうか」
その探りの声に、三人は口元を引き攣らせ、喉を鳴らす。
一方通行で終わると思うな――そんな調子が声に表れていた。
動揺した三人の椅子の軋みがよく響く。
酒場に満ちるジャズの旋律は、変わらず淡々と続いている。
夜はまだ、明ける気配を見せなかった。