光を抱く者
006 - 花のように笑う君
昼下がり、地下研究所の廊下。
人工的な冷気が張り付いたような空気は、時間の流れすら止めているかのように静かだった。白い壁は無機質に光を反射し、足音ひとつ立てれば鋭く跳ね返してくる。
その中央に立つアブサンは、黒いコートの裾を揺らしながら無言で扉を見据えていた。灰緑の瞳は僅かに細められ、冷たさと無感情だけを宿しているように見えた。
やがて、電子ロックの前に指を伸ばす。中指の第二関節で、三度。硬質な音が乾いた壁を叩き、廊下の静けさに沈んでいく。
反応はすぐに返ってきた。
機械音とともに錠が外れる音。刹那、扉は勢いよく開け放たれ、冷えた廊下に暖かい空気が流れ込む。
アブサンは思わず瞬いた。
目前に姿を現したのは、花が綻ぶような笑みを浮かべたシェリーだった。昨日とは打って変わった表情。恐怖や警戒の影は消え、光に透けるような笑みだけが顔に咲いている。
その無防備な明るさに、アブサンは一瞬だけ気圧される。
だが次の瞬間、シェリーは白衣の袖を揺らしながら彼の手を掴み取った。か細いながらも、しっかりとした力だった。
「本当に来てくれた……アブサン、早く行きましょう」
その声音は抑えているはずなのに、奥に隠しきれない弾みが乗っていた。その無邪気さに、アブサンは眉を僅かに寄せる。
気圧された感覚が胸を掠めると同時に、指先を引かれる感触が奇妙に熱を帯びて伝わってくる。拒むことなく歩を進めながらも、心の奥底では痛みに似た苛立ちが波打っていた。彼女の笑みは眩しすぎて、冷えた自分の輪郭を不意に浮かび上がらせる――そのことがアブサンを妙に落ち着かなくさせていた。
「……手を離せ、シェリー」
低く制する声も、上機嫌なシェリーには届かない。
弾む足取りに振り回されるような気がして、アブサンは内心で舌打ちを噛み殺した。
白衣の袖に引かれるまま、アブサンは歩を進める。
無機質な廊下を抜け、電子ロックを次々に越えていくと、背後で金属音が幾度も鳴り響いた。
そのたびに研究員たちの視線が突き刺さる。
恐怖と驚き、そしてホッとしたような、僅かな安堵。アブサンに向けられているはずのそれらが、少し前を歩くシェリーへと移っているのを感じ取り、胸に複雑なざらつきが残った。
その眼差しは、まるで鳥籠に閉じ込められていた鳥が羽ばたく瞬間を見送るかのように、どこか柔らかく揺らいでいた。彼女の存在ひとつで、この冷えきった地下に、束の間の解放の色が差している――そんな錯覚さえ覚えるほどだった。
アブサンはただ目を伏せ、吐息を洩らした。
やがて階段を上りきると、冷えた空気が僅かに柔らぐ。
地上へ近づくにつれ、外の光が差し込んでくる。白衣の背中を追う研究員たちの影が遠のき、二人きりになった空間で、シェリーの足取りはさらに軽さを増していた。
最後のセキュリティを抜けると、自動扉が開き、外気が一気に流れ込んだ。昼下がりの陽射しは冬の冷たさを孕んでいたが、地下の冷気に慣れた身体には十分に柔らかく感じられる。
駐車場に広がる灰色のコンクリートの匂い、遠くで鳴く鳥の声――閉ざされた地下にはなかった雑多な気配が一気に押し寄せ、シェリーの横顔に浮かぶ笑みはさらに鮮やかさを増した。
アブサンはその横顔を横目で捉えつつも、足を止めることはなかった。黒い車の前に立ち止まり、鍵を回し込む。解錠音が乾いた空気に響き、シェリーは迷いなく助手席へ滑り込んだ。
白衣の裾がシートに収まるのを確かめてから、アブサンは運転席に腰を下ろした。ドアを閉めると、外の雑多な音は途端に遠のき、密閉された静寂が車内を支配する。
隣に座るシェリーは終始口元を緩ませたまま、窓の外の光景を眺めていた。その弾みを断ち切るように、アブサンは鍵を回し、低いエンジン音を響かせ車を滑らせた。
懐から煙草を取り出し、火を点ける。
橙色の火が一瞬だけ灰緑の瞳を照らし、吐き出された紫煙が車内に緩やかに広がった。
その煙を追うように、シェリーの視線が揺れた。笑みを浮かべたままだったが、どこか迷いの影が差したように見えた。やがて、細い指先が伸び、アブサンの右手側のコートの裾をそっと掴む。
その仕草に、アブサンは横目で一瞥する。
眉を僅かに寄せ、吐き出した紫煙をフロントガラスの向こうへ流すと、意味を測ろうともせず視線を前に戻した。
「ねえ……どうしてあなたみたいな人が、この組織に?」
フロントガラス越しに、街路樹の影が陽射しに揺れながら後方へ流れていく。青空を切り取る窓越しの光が、シートに沈むシェリーの横顔を淡く照らした。裾を掴む指先の熱が右脇に伝わってくる。無視できるはずなのに、灰緑の瞳が無意識に細まった。
そして、アブサンは短く吐息を洩らした。それは呆れとも諦めともつかない響きを帯び、白く広がる紫煙に紛れて消える。
「曖昧だな……核心を突けない問いは相手を甘やかすだけだ。まともな回答が欲しいなら、ちゃんと言葉に落とし込め」
低いながらも、何処か子供を諭すような声音だった。
ハンドルを切る指先は揺らがず、タイヤが乾いた舗道を一定のリズムで踏み締めていく。その硬質な音と、陽射しを受けた舗道の白い照り返しだけが、車内の沈黙を支えていた。
「……あなたは、自分でも気付かないうちに“誰か”のために線を越える人。組織の人間なのに、少しだけ情を持ってる……そんな人がどうして冷酷な組織にいるのか……分からなくて」
抑えた声音のはずなのに、青い瞳は迷いなく射抜いてくる。
言葉の端に乗る熱は、背伸びした理屈よりも年相応の夢見がちな響きを帯びていた。
アブサンは僅かに口端を歪める。灰緑の瞳を前方に据えたまま、吐息に似た苦笑をひとつ漏らした。
「……俺に何を見出したのかは知らんが……」
吐き捨てたつもりの声に、自分でも僅かな鈍さを覚えた。
横目に映る青い瞳の強さは、子供の夢想に過ぎないと切り捨てられるはずなのに、どこかで無視しきれない影を落としてくる。アブサンは目を細め、紫煙をひとつ吐き出して誤魔化した。
「仮にそんな人間が組織にいるとすれば、正義を振り翳した鼠か、迷い込んで出られなくなった――愚か者くらいだろうな」
冷たく断ち切るような声音が落ちても、シェリーは怯むことなくアブサンを見つめていた。
掴んだコートの裾をさらに強く握り込み、青い瞳が細められる。拒絶を突きつけられたはずなのに、その眼差しには揺らぎがなく、むしろ確信めいた光が宿っているように見えた。唇が震え、小さく息を呑んだあと、彼女はほとんど囁くように言葉を落とした。
「じゃあ……あなたはその愚か者の一人ってことね」
アブサンは無言のまま、灰皿に煙草を押し付ける。その仕草は煩雑だったが、苛立ちよりも諦観に似た感情が乗せられていた。
「そう思いたいなら、好きにしろ。だがな――」
そこで言葉が途切れた。視線は前に据えたままなのに、灰緑の瞳の奥に微かな揺らぎが滲む。ふいに脳裏を掠めたのは、名も知らぬ骸の影、二度と戻らぬ声。指先に絡みつく血の感触と、吐き気を伴うほどの静寂。忘れたはずの光景が淡く立ち上がる。
アブサンは僅かに奥歯を噛み、吐息でそれを押し殺した。
「幻想は遅かれ早かれ剥がれ落ちる。信じた分だけ傷は抉られ――裏切りの痛みは骨に刻まれる。俺に“何か”を見出した奴は皆、その残滓に呑まれて沈んでいった。それは、理解しておけ」
その言葉に、シェリーの喉が小さく震えた。息を呑んだ気配が車内に沈み、青い瞳に一瞬影が走る。だがすぐに、彼女は目に力を込めた。怯むでも逸らすでもなく、むしろ何かを掴み取ろうとするかのように、灰緑の横顔を真っ直ぐに見据え続けた。
「……それでも、私は……」
言葉は最後まで結ばれなかった。
シェリーは伏し目になり、唇を固く結んだ。裾を掴んでいた指先もゆっくりと離れ、膝の上で握り込まれる。
アブサンもまた、返す言葉を持たなかった。
代わりに車内を満たしたのは、長い沈黙だった。
ハンドルを切る仕草が静かに続き、舗道を擦るタイヤの音だけが一定のリズムで沈黙を支えていた。陽射しがフロントガラス越しに揺れ、二人の間に言葉よりも長い時間を落としていく。
やがて、その沈黙が馴染み始めた頃――車は速度を落とした。
辿り着いたのは、古びた喫茶店。街の奥まった一角にひっそりと佇み、目立たぬ外観は周囲の死角に沈んでいる。曇った窓の向こうに人影はなく、扉の前で待つ女の姿だけがそこにあった。
シェリーの姉――宮野明美。
彼女は立ち尽くしたまま、遠くから近づいてくる車を真っ直ぐに見据えていた。
車は喫茶店の駐車場に静かに停車した。シートベルトを外す音も待ちきれぬように、シェリーは勢いよくドアを開ける。
「……お姉ちゃん!」
小さな声が震え、次の瞬間には白衣の裾が翻っていた。
駆け寄る影を前に、明美の瞳が大きく見開かれる。彼女は一拍だけ息を呑み、次いで腕を広げた。
勢いのままに抱きついたシェリーを、明美は細い体でしっかりと受け止める。胸に顔を埋め、堰を切ったように零れる嗚咽。震える肩を撫でながら、明美は何も言わずに妹を抱き締め続けた。
アブサンは車の傍らに立ち、二人を遠巻きに眺めていた。
灰緑の瞳は細められ、表情に色はない。だが、ほんの一瞬だけ、抱擁の輪郭が視界に霞を残した。
ゆっくりとその横を通り過ぎると、アブサンはポケットから鍵を取り出す。その鍵を喫茶店の扉に差し込むと、古びた木扉が小さく鳴り開け放たれる。
「お前ら。感傷に浸っているところ悪いが、早く中に入れ」
低く声を投げ、アブサンは喫茶店の中へと二人を促した。
店内は外観の印象とは異なり、埃一つなく整えられていた。テーブルや椅子には年季が刻まれているが、不自然なほどに清潔。飾り気のない照明が淡い橙を落とし、静謐だけが場を満たしている。
アブサンは、二人を窓のない壁際のテーブルへ導いた。そこは、外から視線も銃弾も届かぬ場所――室内で最も安全な席だった。
「座っていろ」
淡々と告げると、カウンターへ足を運び、古いコーヒーメーカーを動かす。湯気が立ち上るまでのわずかな時間、室内は妹を抱きしめたままの明美の微かな呼吸音だけに支配された。
やがて二つのカップに黒い液体を注ぎ、テーブルに置く。目を瞬いた二人を無視して、アブサンは離れた席に腰を下ろした。
視線を二人に向けることはせず、灰皿を取り出して煙草に火を付ける。吐き出した紫煙に視線を漂わせたあと、テーブルに組織専用端末を広げ、無機質な光を浴びながら指を動かし始めた。組織の仕事に沈む横顔は、喫茶店の柔らかな灯りとは無縁に見えた。
だが、アブサンの指は度々止まった。キーを打つ手を僅かに宙で留め、煙草の紫煙の隙間から壁際の二人を横目に捉える。
再開の安堵に笑みを浮かべるシェリーと、それに呼応するように花を咲かせる明美の横顔。その光景は、喫茶店の柔らかな灯りに溶け込み、酷く場違いな静けさを帯びていた。
灰緑の瞳に、一瞬だけ揺らぎが差す。
だがアブサンはすぐに煙草を咥え直し、端末に目を戻した。
――その刹那。
唐突に、携帯の着信音が鳴り響いた。
喫茶店の静寂を切り裂く電子音に、アブサンの眉が僅かに顰められる。視線を端末から外し、ポケットから携帯を取り出した。
《……アブサン? 今、大丈夫か?》
耳元に響くのは、どこか緊張を孕んだスコッチの声。
その奥から、別の話し声も微かに聞こえてくる。
「問題ない。何か用か」
アブサンは携帯を肩と頬の間に挟み込み、両手で端末のキーボードを叩き続ける。まるで通話の相手に意識を割く気配はなく、作業の合間に応対しているだけのようだった。
《あー、その。休みは満喫出来てるか?》
その声に、アブサンは僅かに手を止める。
短い沈黙ののち、ふっと鼻を鳴らすと言葉を落とした。
「ああ。なにせ数年ぶりの休暇だと言うのに、組織の人間から電話が掛かってきて苛立つくらいには、満喫している」
皮肉混じりの声が落ちた瞬間、離れた席のテーブルから視線を感じた。
シェリーの青い瞳が大きく見開かれ、まっすぐこちらに注がれている。だがアブサンは、あえて視線を合わせなかった。
端末の光に眼差しを落とし、指を動かし続ける。
耳元では、スコッチの声に苦笑が混じった。
《さすが、黒の組織。労働環境もブラックってか……じゃなくて、悪い! 数年ぶりの休暇だなんて、知らなかったんだ》
人間味と実直さが滲む返答に、アブサンは僅かに口元を緩める。
だが、その緩みを声に乗せることはなかった。
「真に受けるな。……で、用件は」
低い声が紫煙に混じって落ちる。
肩越しの受話口から、慌てたようにスコッチの声が弾んだ。
《今日の夜、空いてたら飲まないか?》
アブサンは手を止めることなく、淡々と答える。
「休暇中にお前と飲む酒はない。ではな」
冷たく切り捨てたあと、アブサンは通話を切る。
だが、すぐにまた着信音が鳴り、眉間に皺が寄った。
椅子に肘を預け、天井を見上げながら応答する。
「スコッチ……お前、何を企んでいる」
その声は呆れに似た響きを帯びていた。
テーブルを指先で叩き、窓の外に視線を向けた。
《別に企んでなんか……俺たち、知り合ってもう半年は経つけど、任務外で話したことないだろ? ある程度お前のことは知ってきたつもりだけど、より親睦を深めれば連携も取りやすいと思って》
アブサンは短く吐息を洩らす。
煙草の灰を落とし、肩に掛けた携帯を持ち直した。紫煙の揺れに隠れた横顔には、僅かな思案の影が差す。
「そんなことで連携が密になるなら、とうに試している。……だがまあ、いいだろう。拠点で飲むなら付き合ってやる」
その声に、スコッチは何処か弾んだ声を出した。
まさか応じてくれるとは――というような反応だった。
《本当か? よし、拠点だな……じゃあ、またあとで》
通話を切ったあと、アブサンは小さく溜め息をついた。
テーブルに肘をつき、頬杖をつくその姿は気怠げだったが、冷たさはなく、柔らかな気配が漂っていた。それは喫茶店の温度を微かに上げ、やがて溶け込むように消えていった。
その横顔を、壁際の席からシェリーが盗み見ていた。
青い瞳が小さく震える。だが、その揺らぎがアブサンの視線に映ることは、最後までなかった。
昼下がり、地下研究所の廊下。
人工的な冷気が張り付いたような空気は、時間の流れすら止めているかのように静かだった。白い壁は無機質に光を反射し、足音ひとつ立てれば鋭く跳ね返してくる。
その中央に立つアブサンは、黒いコートの裾を揺らしながら無言で扉を見据えていた。灰緑の瞳は僅かに細められ、冷たさと無感情だけを宿しているように見えた。
やがて、電子ロックの前に指を伸ばす。中指の第二関節で、三度。硬質な音が乾いた壁を叩き、廊下の静けさに沈んでいく。
反応はすぐに返ってきた。
機械音とともに錠が外れる音。刹那、扉は勢いよく開け放たれ、冷えた廊下に暖かい空気が流れ込む。
アブサンは思わず瞬いた。
目前に姿を現したのは、花が綻ぶような笑みを浮かべたシェリーだった。昨日とは打って変わった表情。恐怖や警戒の影は消え、光に透けるような笑みだけが顔に咲いている。
その無防備な明るさに、アブサンは一瞬だけ気圧される。
だが次の瞬間、シェリーは白衣の袖を揺らしながら彼の手を掴み取った。か細いながらも、しっかりとした力だった。
「本当に来てくれた……アブサン、早く行きましょう」
その声音は抑えているはずなのに、奥に隠しきれない弾みが乗っていた。その無邪気さに、アブサンは眉を僅かに寄せる。
気圧された感覚が胸を掠めると同時に、指先を引かれる感触が奇妙に熱を帯びて伝わってくる。拒むことなく歩を進めながらも、心の奥底では痛みに似た苛立ちが波打っていた。彼女の笑みは眩しすぎて、冷えた自分の輪郭を不意に浮かび上がらせる――そのことがアブサンを妙に落ち着かなくさせていた。
「……手を離せ、シェリー」
低く制する声も、上機嫌なシェリーには届かない。
弾む足取りに振り回されるような気がして、アブサンは内心で舌打ちを噛み殺した。
白衣の袖に引かれるまま、アブサンは歩を進める。
無機質な廊下を抜け、電子ロックを次々に越えていくと、背後で金属音が幾度も鳴り響いた。
そのたびに研究員たちの視線が突き刺さる。
恐怖と驚き、そしてホッとしたような、僅かな安堵。アブサンに向けられているはずのそれらが、少し前を歩くシェリーへと移っているのを感じ取り、胸に複雑なざらつきが残った。
その眼差しは、まるで鳥籠に閉じ込められていた鳥が羽ばたく瞬間を見送るかのように、どこか柔らかく揺らいでいた。彼女の存在ひとつで、この冷えきった地下に、束の間の解放の色が差している――そんな錯覚さえ覚えるほどだった。
アブサンはただ目を伏せ、吐息を洩らした。
やがて階段を上りきると、冷えた空気が僅かに柔らぐ。
地上へ近づくにつれ、外の光が差し込んでくる。白衣の背中を追う研究員たちの影が遠のき、二人きりになった空間で、シェリーの足取りはさらに軽さを増していた。
最後のセキュリティを抜けると、自動扉が開き、外気が一気に流れ込んだ。昼下がりの陽射しは冬の冷たさを孕んでいたが、地下の冷気に慣れた身体には十分に柔らかく感じられる。
駐車場に広がる灰色のコンクリートの匂い、遠くで鳴く鳥の声――閉ざされた地下にはなかった雑多な気配が一気に押し寄せ、シェリーの横顔に浮かぶ笑みはさらに鮮やかさを増した。
アブサンはその横顔を横目で捉えつつも、足を止めることはなかった。黒い車の前に立ち止まり、鍵を回し込む。解錠音が乾いた空気に響き、シェリーは迷いなく助手席へ滑り込んだ。
白衣の裾がシートに収まるのを確かめてから、アブサンは運転席に腰を下ろした。ドアを閉めると、外の雑多な音は途端に遠のき、密閉された静寂が車内を支配する。
隣に座るシェリーは終始口元を緩ませたまま、窓の外の光景を眺めていた。その弾みを断ち切るように、アブサンは鍵を回し、低いエンジン音を響かせ車を滑らせた。
懐から煙草を取り出し、火を点ける。
橙色の火が一瞬だけ灰緑の瞳を照らし、吐き出された紫煙が車内に緩やかに広がった。
その煙を追うように、シェリーの視線が揺れた。笑みを浮かべたままだったが、どこか迷いの影が差したように見えた。やがて、細い指先が伸び、アブサンの右手側のコートの裾をそっと掴む。
その仕草に、アブサンは横目で一瞥する。
眉を僅かに寄せ、吐き出した紫煙をフロントガラスの向こうへ流すと、意味を測ろうともせず視線を前に戻した。
「ねえ……どうしてあなたみたいな人が、この組織に?」
フロントガラス越しに、街路樹の影が陽射しに揺れながら後方へ流れていく。青空を切り取る窓越しの光が、シートに沈むシェリーの横顔を淡く照らした。裾を掴む指先の熱が右脇に伝わってくる。無視できるはずなのに、灰緑の瞳が無意識に細まった。
そして、アブサンは短く吐息を洩らした。それは呆れとも諦めともつかない響きを帯び、白く広がる紫煙に紛れて消える。
「曖昧だな……核心を突けない問いは相手を甘やかすだけだ。まともな回答が欲しいなら、ちゃんと言葉に落とし込め」
低いながらも、何処か子供を諭すような声音だった。
ハンドルを切る指先は揺らがず、タイヤが乾いた舗道を一定のリズムで踏み締めていく。その硬質な音と、陽射しを受けた舗道の白い照り返しだけが、車内の沈黙を支えていた。
「……あなたは、自分でも気付かないうちに“誰か”のために線を越える人。組織の人間なのに、少しだけ情を持ってる……そんな人がどうして冷酷な組織にいるのか……分からなくて」
抑えた声音のはずなのに、青い瞳は迷いなく射抜いてくる。
言葉の端に乗る熱は、背伸びした理屈よりも年相応の夢見がちな響きを帯びていた。
アブサンは僅かに口端を歪める。灰緑の瞳を前方に据えたまま、吐息に似た苦笑をひとつ漏らした。
「……俺に何を見出したのかは知らんが……」
吐き捨てたつもりの声に、自分でも僅かな鈍さを覚えた。
横目に映る青い瞳の強さは、子供の夢想に過ぎないと切り捨てられるはずなのに、どこかで無視しきれない影を落としてくる。アブサンは目を細め、紫煙をひとつ吐き出して誤魔化した。
「仮にそんな人間が組織にいるとすれば、正義を振り翳した鼠か、迷い込んで出られなくなった――愚か者くらいだろうな」
冷たく断ち切るような声音が落ちても、シェリーは怯むことなくアブサンを見つめていた。
掴んだコートの裾をさらに強く握り込み、青い瞳が細められる。拒絶を突きつけられたはずなのに、その眼差しには揺らぎがなく、むしろ確信めいた光が宿っているように見えた。唇が震え、小さく息を呑んだあと、彼女はほとんど囁くように言葉を落とした。
「じゃあ……あなたはその愚か者の一人ってことね」
アブサンは無言のまま、灰皿に煙草を押し付ける。その仕草は煩雑だったが、苛立ちよりも諦観に似た感情が乗せられていた。
「そう思いたいなら、好きにしろ。だがな――」
そこで言葉が途切れた。視線は前に据えたままなのに、灰緑の瞳の奥に微かな揺らぎが滲む。ふいに脳裏を掠めたのは、名も知らぬ骸の影、二度と戻らぬ声。指先に絡みつく血の感触と、吐き気を伴うほどの静寂。忘れたはずの光景が淡く立ち上がる。
アブサンは僅かに奥歯を噛み、吐息でそれを押し殺した。
「幻想は遅かれ早かれ剥がれ落ちる。信じた分だけ傷は抉られ――裏切りの痛みは骨に刻まれる。俺に“何か”を見出した奴は皆、その残滓に呑まれて沈んでいった。それは、理解しておけ」
その言葉に、シェリーの喉が小さく震えた。息を呑んだ気配が車内に沈み、青い瞳に一瞬影が走る。だがすぐに、彼女は目に力を込めた。怯むでも逸らすでもなく、むしろ何かを掴み取ろうとするかのように、灰緑の横顔を真っ直ぐに見据え続けた。
「……それでも、私は……」
言葉は最後まで結ばれなかった。
シェリーは伏し目になり、唇を固く結んだ。裾を掴んでいた指先もゆっくりと離れ、膝の上で握り込まれる。
アブサンもまた、返す言葉を持たなかった。
代わりに車内を満たしたのは、長い沈黙だった。
ハンドルを切る仕草が静かに続き、舗道を擦るタイヤの音だけが一定のリズムで沈黙を支えていた。陽射しがフロントガラス越しに揺れ、二人の間に言葉よりも長い時間を落としていく。
やがて、その沈黙が馴染み始めた頃――車は速度を落とした。
辿り着いたのは、古びた喫茶店。街の奥まった一角にひっそりと佇み、目立たぬ外観は周囲の死角に沈んでいる。曇った窓の向こうに人影はなく、扉の前で待つ女の姿だけがそこにあった。
シェリーの姉――宮野明美。
彼女は立ち尽くしたまま、遠くから近づいてくる車を真っ直ぐに見据えていた。
車は喫茶店の駐車場に静かに停車した。シートベルトを外す音も待ちきれぬように、シェリーは勢いよくドアを開ける。
「……お姉ちゃん!」
小さな声が震え、次の瞬間には白衣の裾が翻っていた。
駆け寄る影を前に、明美の瞳が大きく見開かれる。彼女は一拍だけ息を呑み、次いで腕を広げた。
勢いのままに抱きついたシェリーを、明美は細い体でしっかりと受け止める。胸に顔を埋め、堰を切ったように零れる嗚咽。震える肩を撫でながら、明美は何も言わずに妹を抱き締め続けた。
アブサンは車の傍らに立ち、二人を遠巻きに眺めていた。
灰緑の瞳は細められ、表情に色はない。だが、ほんの一瞬だけ、抱擁の輪郭が視界に霞を残した。
ゆっくりとその横を通り過ぎると、アブサンはポケットから鍵を取り出す。その鍵を喫茶店の扉に差し込むと、古びた木扉が小さく鳴り開け放たれる。
「お前ら。感傷に浸っているところ悪いが、早く中に入れ」
低く声を投げ、アブサンは喫茶店の中へと二人を促した。
店内は外観の印象とは異なり、埃一つなく整えられていた。テーブルや椅子には年季が刻まれているが、不自然なほどに清潔。飾り気のない照明が淡い橙を落とし、静謐だけが場を満たしている。
アブサンは、二人を窓のない壁際のテーブルへ導いた。そこは、外から視線も銃弾も届かぬ場所――室内で最も安全な席だった。
「座っていろ」
淡々と告げると、カウンターへ足を運び、古いコーヒーメーカーを動かす。湯気が立ち上るまでのわずかな時間、室内は妹を抱きしめたままの明美の微かな呼吸音だけに支配された。
やがて二つのカップに黒い液体を注ぎ、テーブルに置く。目を瞬いた二人を無視して、アブサンは離れた席に腰を下ろした。
視線を二人に向けることはせず、灰皿を取り出して煙草に火を付ける。吐き出した紫煙に視線を漂わせたあと、テーブルに組織専用端末を広げ、無機質な光を浴びながら指を動かし始めた。組織の仕事に沈む横顔は、喫茶店の柔らかな灯りとは無縁に見えた。
だが、アブサンの指は度々止まった。キーを打つ手を僅かに宙で留め、煙草の紫煙の隙間から壁際の二人を横目に捉える。
再開の安堵に笑みを浮かべるシェリーと、それに呼応するように花を咲かせる明美の横顔。その光景は、喫茶店の柔らかな灯りに溶け込み、酷く場違いな静けさを帯びていた。
灰緑の瞳に、一瞬だけ揺らぎが差す。
だがアブサンはすぐに煙草を咥え直し、端末に目を戻した。
――その刹那。
唐突に、携帯の着信音が鳴り響いた。
喫茶店の静寂を切り裂く電子音に、アブサンの眉が僅かに顰められる。視線を端末から外し、ポケットから携帯を取り出した。
《……アブサン? 今、大丈夫か?》
耳元に響くのは、どこか緊張を孕んだスコッチの声。
その奥から、別の話し声も微かに聞こえてくる。
「問題ない。何か用か」
アブサンは携帯を肩と頬の間に挟み込み、両手で端末のキーボードを叩き続ける。まるで通話の相手に意識を割く気配はなく、作業の合間に応対しているだけのようだった。
《あー、その。休みは満喫出来てるか?》
その声に、アブサンは僅かに手を止める。
短い沈黙ののち、ふっと鼻を鳴らすと言葉を落とした。
「ああ。なにせ数年ぶりの休暇だと言うのに、組織の人間から電話が掛かってきて苛立つくらいには、満喫している」
皮肉混じりの声が落ちた瞬間、離れた席のテーブルから視線を感じた。
シェリーの青い瞳が大きく見開かれ、まっすぐこちらに注がれている。だがアブサンは、あえて視線を合わせなかった。
端末の光に眼差しを落とし、指を動かし続ける。
耳元では、スコッチの声に苦笑が混じった。
《さすが、黒の組織。労働環境もブラックってか……じゃなくて、悪い! 数年ぶりの休暇だなんて、知らなかったんだ》
人間味と実直さが滲む返答に、アブサンは僅かに口元を緩める。
だが、その緩みを声に乗せることはなかった。
「真に受けるな。……で、用件は」
低い声が紫煙に混じって落ちる。
肩越しの受話口から、慌てたようにスコッチの声が弾んだ。
《今日の夜、空いてたら飲まないか?》
アブサンは手を止めることなく、淡々と答える。
「休暇中にお前と飲む酒はない。ではな」
冷たく切り捨てたあと、アブサンは通話を切る。
だが、すぐにまた着信音が鳴り、眉間に皺が寄った。
椅子に肘を預け、天井を見上げながら応答する。
「スコッチ……お前、何を企んでいる」
その声は呆れに似た響きを帯びていた。
テーブルを指先で叩き、窓の外に視線を向けた。
《別に企んでなんか……俺たち、知り合ってもう半年は経つけど、任務外で話したことないだろ? ある程度お前のことは知ってきたつもりだけど、より親睦を深めれば連携も取りやすいと思って》
アブサンは短く吐息を洩らす。
煙草の灰を落とし、肩に掛けた携帯を持ち直した。紫煙の揺れに隠れた横顔には、僅かな思案の影が差す。
「そんなことで連携が密になるなら、とうに試している。……だがまあ、いいだろう。拠点で飲むなら付き合ってやる」
その声に、スコッチは何処か弾んだ声を出した。
まさか応じてくれるとは――というような反応だった。
《本当か? よし、拠点だな……じゃあ、またあとで》
通話を切ったあと、アブサンは小さく溜め息をついた。
テーブルに肘をつき、頬杖をつくその姿は気怠げだったが、冷たさはなく、柔らかな気配が漂っていた。それは喫茶店の温度を微かに上げ、やがて溶け込むように消えていった。
その横顔を、壁際の席からシェリーが盗み見ていた。
青い瞳が小さく震える。だが、その揺らぎがアブサンの視線に映ることは、最後までなかった。