光を抱く者

005 - その目に宿る何か


 薬品会社の正面に黒い車が滑り込む。
 外観は白いガラス張りの無機質な建物――どこにでもある企業の研究所。だが、その内部を知る者にとっては、ただの薬品会社などではない。ここは、組織が潤沢な資金と人員を注ぎ、薬物や試薬を裏のために量産させている非合法の研究所だった。

 エンジンが止まり、車内に沈黙が落ちる。
 黒いスーツにコートを羽織ったアブサンは、煙草を灰皿に押し潰すと、ゆっくりとドアを開けた。

 冷えた外気が肌を撫で、吐き出された息は白く曇る。視線を一度だけ正面の建物に投げ、表情を変えずに足を進めた。

 自動扉が無機質な音を立てて開く。
 受付を抜け、通用口からそのまま地下への階段に降りていく。表向きの薬品会社としての体裁を保つ上階とは異なり、下へ行くごとに空気が変わる。白い壁は冷たく、足音を吸わずに硬く反響する。蛍光灯の明滅が人工的な光を投げかけ、温度すら、意図的に下げられているように感じられた。

 アブサンは無言で電子ロックに指を走らせる。
 金属音と共に赤いランプが緑に変わり、扉が開く。ひとつ、またひとつ。複数のセキュリティを次々に解除し、進むごとに視界はより閉ざされていく。

 やがて辿り着いたのは、無機質な廊下だった。
 左右に広がる部屋の扉はすべて電子ロックで閉ざされ、透明な小窓から覗くのは白衣を纏った研究員たちの影。

 すれ違う者は、皆一様に立ち止まる。恐怖と畏敬が入り混じった目がこちらを捉え、やがて一礼のように小さく頭を下げる。

 アブサンは反応を返さない。
 視線すら向けず、一定の歩調で廊下を進み、奥の自動扉へと向かう。黒いコートの裾が揺れ、冷えた空気に僅かな波を刻んだ。

 自動扉が左右に開き、研究室の光景が広がった。化学薬品の匂い、機械の低い稼働音、幾重にも並ぶ試薬瓶と資料の山――部屋にいた数人の研究員が一斉に振り向き、凍り付いたようにその場で動きを止める。

 アブサンは淡々と視線を巡らせた。白衣たちの畏れを孕んだ目を素通りし、ただ必要な答えだけを求める。

「シェリーは此処にいると聞いたが……知っている者は?」

 低い声が研究室に落ち、空気がさらに冷え込んだ。
 答えを待つ沈黙の中、紫煙の代わりに薬品の匂いが漂い、重くのしかかっていた。

 沈黙を裂いたのは、研究員の一人だった。
 おずおずと視線を伏せながら、声を絞り出す。

「……彼女なら、自室にいるはずです」

 アブサンは僅かに手を上げ、短く頷いた。
 灰緑の瞳が一度だけその研究員を掠め、淡々と声を落とす。

「今日からこの研究所の管理をすることになった。名はアブサン――覚えておく必要はないが、顔は知っておけ」

 事務的でありながら、否応なく胸に圧を刻む声音。
 白衣たちは一斉に背筋を正し、声を出すことすら躊躇いながら、小さく会釈した。

 アブサンはそれ以上振り返ることもなく、踵を返した。
 無機質な廊下を進む。左右に並ぶ扉の表札には、それぞれ研究員たちの名が刻まれている。無造作に流し見ながらも、足取りは迷いなく一定だった。

 やがて、一つの扉の前で立ち止まる。
 そこに記されていたのは――“宮野志保”の名。

 アブサンは僅かに吐息を落とすと、扉へ指を伸ばす。
 中指の第二関節で、三度。静かに、しかし確かな重さをもって叩いた。無機質な廊下に、その音が硬質に響く。

 無言のまま扉が開くのを待っていると、微かな機械音とともに錠が外れる音が響いた。次いで、ほんの僅かに扉が開かれる。

 隙間から覗いたのは、赤みを帯びた茶髪。
 揺れる毛先の下から顔を覗かせたその子供は、恐怖を隠しきれない瞳でアブサンを見つめた。だが、目に映った顔が想像していたものと違ったのか、瞬きに戸惑いが浮かんだ。

 やがて、ゆっくりと扉が開かれる。
 控えめに佇むその姿を、アブサンは静かに観察した。

 柔らかく波打つ赤茶の短髪、澄んだ青い瞳。若さの残る顔立ち。線の細い身体を覆う白衣が、その子供らしい脆さを覆うように一人の研究員としての輪郭を形づくっていた。

 その子供――シェリーは瞬きを繰り返していた。
 やがて、小さく、掠れるような声を落とす。

「ジンじゃ、ないのね。でもあなた……組織の人間よね?」

 アブサンは目を細める。
 その問いを否定することなく、低く言葉を返す。

「ジンはもう此処には来ない。余程のことがない限りはな」

 その一言に、シェリーの目が大きく開かれた。
 張り詰めた緊張が和らいだのか、どこかホッとしたように肩が僅かに落ちる。だが、彼女は完全に警戒を解いたわけではない。その表情には、なおも慎重さが張り付いていた。

「それなら……あなたがここの、次の管理者ってわけね」

 アブサンは小さく頷く。
 視線をわずかに扉の奥へ移し、静かに告げた。

「少し、お前と話をしたいのだが……」

 その声音に、シェリーは一瞬だけ逡巡した。
 だが、やがて小さく息を吐き、躊躇う手を扉の内へ伸ばす。

 白衣の袖口が揺れる。
 やがて彼女は、招き入れる仕草でアブサンを迎え入れた。

 アブサンが足を踏み入れた瞬間、鼻を掠めたのは僅かな消毒液の匂いだった。女の自室にしては、あまりに無機質だった。

 机の上には研究資料と、使い込まれたノート、散らばるガラス製の試薬瓶。生活感を示すはずの小物はほとんど見当たらず、そこに置かれたものはすべて仕事の延長に過ぎなかった。

 机の横には小さな丸テーブルと椅子が一対。
 最低限の休息を想定したそれは、会話や団欒の場というより、ただ食事を済ませるための装置のように見えた。

 壁際にはベッドが一つ。白いシーツは整然と敷かれており、皺ひとつない。寝るためだけの場所として割り切られているのが見て取れた。

 柔らかさや彩りを示すものは何一つない。
 本来なら若い女の部屋にあるはずの痕跡――趣味や装飾、あるいは人となりを映すものは、ここには皆無だった。

 ただ、研究員であることを証明するためだけに存在する部屋。
 シェリーという一人の女を形づくる痕跡は、徹底的に削ぎ落とされていた。

「……座って。珈琲、飲む?」
「いや、結構。椅子にはお前が座れ」

 シェリーが躊躇いがちに椅子に腰を下ろすと、アブサンは部屋の中央には進まず、その横の白壁に背を預けた。腕を組み、静かな灰緑の瞳で彼女を捉える。短い沈黙が二人の間に落ち、やがてアブサンは僅かに視線を伏せて言葉を落とした。

「……研究を中止しているそうだが」

 問いかけに、シェリーの肩が僅かに揺れる。
 睫毛を伏せたまま、一拍置いてから掠れる声が返ってきた。

「ええ。当分は、再開しないつもりよ」

 アブサンは片目を開き、煙たげに吐息を洩らす。

「理由は。何か要求があるなら言え」

 促す言葉に、シェリーは表情を強張らせた。
 だが、視線を逸らさず、確かな芯のある声音で答えを告げる。

「……姉に、会わせて欲しいの。ジンに会うなと言われて……もう何年も会っていないから」

 その言葉に、アブサンの眉が僅かに動いた。
 懐に手を伸ばすと、シェリーが反射的に身を震わせ、勢い良く立ち上がる。だが取り出したのは拳銃ではなく、煙草だった。

 驚愕に目を見開いたシェリーを前に、アブサンは瞬きを数回。
 次いで、皮肉めいた苦笑を浮かべて手をかざした。

「子供に銃口を向ける趣味はない。落ち着け」

 その声音に、シェリーは呆気に取られたように動きを止め、ゆっくりと、そして静かに椅子へと腰を戻す。アブサンは煙草に火を灯し、紫煙を吐きながら無機質な白壁に視線を漂わせた。

 短い沈黙。
 僅かに思案の色を滲ませ、目を伏せる。

「その要求は呑んでやる。ただし、条件がある」

 アブサンは横目でシェリーを捉えた。
 息を呑んだ青い瞳が、遠くも近くもない距離で交差する。

「姉と会うのは月に一度……それも俺の監視付きだ。場所も、俺が決める――それでも構わないなら、会わせてやる」

 言葉を落とし、アブサンは口元を僅かに緩めた。
 シェリーは目を見開き、次いで安堵の吐息を洩らした。

「……本当に? 組織の人間にしては……随分、良心的ね?」

 小さな声とともに、白衣の裾から伸びた指が、躊躇いがちにアブサンのコートを掴んだ。その仕草に、アブサンは片眉を上げる。

「残念だが、良心的ではなく合理的だ。脅しても聞かぬなら、要求を呑んでやればいい。ジンとしては不服だろうが……このまま放置していても、組織のためにはならない」

 紫煙を燻らせる横顔。その硬質な輪郭には、言葉とは裏腹に良心の影が差していた。シェリーは微かに口元を緩める。

「それでも……あなたには、良心があるように見える」

 その言葉に、アブサンは灰緑の瞳を滑らせる。
 鋭い眼光に怯まず、シェリーは目を逸らさなかった。

「人を殺してきた目は知ってる……でも、それだけじゃない。少しだけ……誰かの痛みを見過ごせなかった目をしてる」

 アブサンは目を伏せ、ただ鼻を鳴らした。
 否定も肯定もせず、ただ紫煙を漂わせる。

 ――誰かの痛みを見過ごせなかった目。
 それは、過去に葬った罪なき人間へと向けた目だった。

 煙草を口端に咥え、吐息を洩らす。

「明日を初回とする。すぐ出られるように準備だけしておけ」

 短くそう言い残し、アブサンは扉を押し開けた。
 ふいに、背後から問いが投げ掛けられる。

「ねえ。あなた……名前は?」

 掠れた声。それに立ち止まり、僅かに顔を傾ける。
 滑らせた横目で、立ち尽くした子供の姿を捉えた。

「アブサン――それ以外に、名はない」

 アブサンはそのまま歩き出す。背中にシェリーの視線が突き刺さるのを感じながらも、振り返ることはなかった。無機質な廊下を歩む足音だけが、冷たい研究所の空気に響いていた。

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