光を抱く者
004 - 過去を映す双眸
半年後、地下拠点の訓練場。
硬質な白い蛍光照明に照らされた空間は、無駄を削ぎ落とした無機質さに満ちている。
アブサンは壁際に凭れ、煙草を咥えていた。
黒の半袖インナーに収まった胸板と腹は、鍛え上げられた筋肉の起伏をそのまま映し出している。腰から下を覆う黒革のズボンは余計な皺ひとつなく、身体の線を凛と際立たせていた。
吐き出された紫煙が天井へと昇り、冷えた空気の中で揺らめきながら消えていく。指先で灰を落とす仕草は気怠げで、まるでこの場の緊張とは無縁のように見えた。だが灰緑の瞳は、揺らめく煙の隙間から、真正面に歩み寄る二人を確かに映し取っていた。
訓練場の床を叩く足音が近付いてくる。
アブサンは肩を僅かに揺らし、煙草を咥え直す。
「アブサン、今少し時間ありますか?」
最初に口を開いたのはバーボンだった。普段と変わらぬ声色ながらも、そこには緊張の色が滲んでいた。足取りが一歩、二歩と進むたびに、訓練場の空気が張り詰めていくのを感じ取る。
その横に並び歩くライは、眉間に皺を寄せながらも、視線を逸らさない。探るような視線が瞳に乗っている。逡巡の色を隠しきれていない二人は、暗い影を落としながらも若さが残っていた。
その粗さを捉え、僅かに目を細める。
壁際に凭れた姿勢を崩さず、無言のまま次の言葉を待った。
「……僕らと組手、していただけませんか?」
バーボンの言葉に、アブサンは片眉を上げた。
己の力量を測ろうとしているのか、それとも上司の力量を確かめたいのか。どちらにせよ、教えを請う素振りを見せなかった二人がその言葉を口にする――その変化に、意外さが胸を掠めた。
吐息に煙を混ぜてから、静かに言葉を落とす。
「……構わないが、加減はあまり期待するなよ」
微かに柔らかさの乗った声音。その声に二人は目を見開く。断ると思っていた、とでも言うような反応だった。
アブサンは咥えていた煙草を壁際の灰皿に押し潰し、ゆっくりと中央へ歩み出る。黒灰色のマットが敷かれたそこは、本来なら投げ技や打撃の衝撃を和らげるための場のはずだった。だが今は、張り詰めた緊張をそのまま硬質に跳ね返してくるように思えた。
アブサンが足を止めると同時に、二人もまた間合いを取るように散開する。緊張が床に染み、静寂は殺気へと変わっていった。
二人の呼吸が同調する。
最初に踏み込んだのはライだった。ジークンドー特有の直線的な突きが、空気を裂いてアブサンの顔面を狙う。
その影に重なるように、バーボンが横から切り込んだ。
ボクシング仕込みのフットワークで角度を変え、鳩尾を狙った右ストレートを繰り出す。
二人の動きは打ち合わせたわけではない。だが互いの呼吸が絡み合い、自然と交互に仕掛ける形になっていた。連携のようでいて、重なれば即座に互いの動きを殺しかねない攻め――新人ゆえの粗さを孕みながらも、その一瞬の圧力は確かに迫力を帯びていた。
アブサンは灰緑色の瞳を滑らせながら、僅かに首を傾ける。頬を掠める拳が空を切り、その直後に迫ったバーボンのストレートを掌で軽く受け流す。身を預けるように後方へ滑って距離を取る。
拳と脚が何度も交錯する。
ライの鋭い突きと蹴り、バーボンの重い打撃。だがアブサンの身体は水のように揺れ、時には宙を滑るようにして躱す。床を蹴る音は確かに響いているのに、攻撃は一度も当たることはなかった。
考えるよりも先に身体が動く。
それが何故なのか、アブサンにも分からなかった。
次に動いたのはライだった。特有の素早い前蹴り。アブサンは半歩退くと同時に足首を掴み、そのまま捻る。バランスを奪われたライの身体が揺れた瞬間、逆足で脇腹を蹴り払った。空気が抜けるような呻き声とともに、ライは口元を歪め膝をつく。
その刹那、バーボンが横合いから拳を突き出した。顔面に向けられたその拳を一度受け止め、返すように腕を捻らせる。肩から走った痛みに顔を歪めた瞬間、アブサンは背後に回り込み、その首に腕を絡めていく。角度とほんの少しの力で、頸動脈を塞ぐ。
バーボンが必死に腕を振りほどこうとする。
だがその力強い抵抗も、呼吸を断たれていくうちに徐々に鈍っていく。僅かに足が揺らぎ、膝の力が抜けた。
「二人とも悪くはないが……所詮、それまでだな」
冷淡な声を耳に落とし、すぐに拘束を解いた。バーボンは喉に冷たい空気を詰め込み、咳き込みながら倒れ込む。
アブサンは手を差し伸べなかった。
崩れたままの二人をただ見下ろし、片手をポケットに入れたまま呼吸を整えていく姿を黙って見守る。
やがて、荒い息の合間にライが口を開いた。
汗を滴らせたまま、鋭い視線をこちらに向けてくる。
「……アブサン。一体どこでそんな技術を……」
その眼差しには疲労よりも、探る色が強く宿っていた。
アブサンは目を細める。露骨に問うその視線に、どう返答すべきか思案したのち、ゆっくりと天井を見上げた。
「さあな……覚えていない。最初から備わっていた」
アブサンの口から出た言葉は、事実だった。
だが、その淡々とした返答に、バーボンの眉間が深く寄る。
「……貴方の技術は、正確で容赦がない。何度も試行錯誤しながら身につけないと、その精度にはなりませんよ……」
吐き出す声は掠れていたが、そこには苛立ちが混じっていた。
痛みに歪んだ顔の奥で、なおも真相を引きずり出そうとする執念が揺れている。
アブサンは瞼を伏せ、吐息をひとつ漏らした。
訂正する気はなかった。否定すればするほど、余計な詮索を誘う――その煩わしさをよく知っていた。
訓練場に降りたのは、汗の滴る音と荒い呼吸だけだった。
その沈黙が逆に疑念を濃くしていくのを、アブサンは灰緑の瞳の端で感じ取っていた。
その静寂に堪えきれず、バーボンが声を投げる。
その眼差しは鋭く、探りの色を隠そうともしない。
「一つ気になっていたのですが……組織の力関係で言えば、アブサンはジンと同等かそれ以上――なのに何故、貴方はジンの部下をやっているんです? 従う理由もないのでは?」
バーボンの言葉に、アブサンの眉が僅かに動いた。
胸の奥でざらりとした感触が広がり、口元が歪む。詮索の色を隠そうともしない二人に、小さく吐息を洩らす。
「……訂正しておくが、俺はジンの部下をしていたつもりはない。だが借りがある以上、命令には従う。それだけのことだ」
吐き出された言葉は淡々としていたが、拒絶の棘を含んでいた。
ライは腕を組んだまま目を細め、バーボンは僅かに口角を上げた。その唇から、確信に迫る問いが零れた。
「借り、ですか」
アブサンはしばし無言で二人を見つめた。
訓練場の冷えた空気の中、その瞳は一瞬だけ柔らぐ。
脳裏によぎった記憶。湿った空気を裂く雨と、佇むアマガエル。胸倉を掴む濡れた銀髪の双眸――そのときから記憶は続いている。
誤魔化したところで、調べれば分かることだった。
だからこそ、煙に巻くことはしない。
「……数年ほど前に、ジンに拾われてな」
淡々とした声に誇張はなく、ただ事実を並べる調子。
説明を加えるでもなく、切り捨てるでもない。だがその一言に、誰にも踏み込ませぬ距離の深さが確かにあった。
「組織に入ったのが数年前……? でも記録では……」
バーボンが言葉を続けようとした刹那、鼻を掠めた特徴的な煙草の匂いに、アブサンは視線を鋭く扉の方に向けた。
そこに凭れていたのはジンだった。
薄暗い照明の下、黒いコートの裾が無造作に揺れている。広い肩幅と長身の輪郭は影の中でも鮮やかに浮かび上がり、口端には火の点いた煙草が挟まれていた。紫煙がゆるやかに昇り、硬質な横顔の彫りを淡く霞ませている。
濁りなく冷え切ったその双眸が、アブサンを鋭く射止めていた。
僅かに傾いた顎の角度すらも支配的で、見慣れたはずの姿が、訓練場という閉ざされた空間では、やけに重く映った。
アブサンは前髪を掻き揚げ、気怠げに視線を滑らせる。
「……また今度、空いた時間に見てやる」
そう言葉を落とすと、アブサンは片手をひらつかせて振り返り、壁際に置いていた黒シャツを手に取った。肩に無造作に掛け、灰緑の瞳を伏せ気味にしながら歩みを進める。その仕草は気怠く見えて、周囲を一切寄せ付けない冷ややかさを帯びていた。
扉の前に立つジンは、壁に凭れた姿勢からゆっくりと重心を戻した。煙草を咥えたまま、その鋭い双眸は一瞬だけアブサンを測るように見やる。黒いコートの裾が揺れ、無言のまま扉を押し開いた動作には、他者を従わせる支配的な色が滲んでいた。
後を追うように、無機質な廊下へ足を踏み出す。白々しい照明に照らされた静けさの中、アブサンは隣を歩くジンの横顔を盗み見た。紫煙に霞む硬質な輪郭は、どこか非情さと孤高さを同時に孕んでいる。かえってその影が、輪郭を鮮烈に際立たせていた。
「アブサン。監視は順調か」
ジンの鋭い横目が、真横から突き刺さる。アブサンは僅かに目を細め、吐息を混ぜるように視線を前へと戻した。
「ああ。公安のある筋から潜入捜査官のリストを貰う手筈になっているが……それがどう転ぶか」
彼らを仲間だと信じるには、その潔白を証明する他ない。
監視役としての義務を果たすためにも、潜入捜査官か否かを確認しておく必要がある。その後どう処理するかまで考えておくことが、今の自分に許された唯一の選択肢だった。
返答のあと、ジンは短い沈黙を置き、鼻を鳴らす。
紫煙が一筋、冷たい廊下に溶けていった。本題に入る気配のないジンに、アブサンは僅かに身体を傾け、その鋭い輪郭を覗き込む。
「おい、この話をするためだけに来たわけじゃないだろうな」
訝しむその問いかけに、ジンは目を細めた。
光を孕んだ双眸は濁りなく冷たく、そのまま低く言葉を吐き捨てる。
「……お前に、例の研究所の管理を任せる。特にあの喚く女――シェリーを監視して、必要なら黙らせろ」
その名を耳にして、アブサンの瞳が僅かに揺れた。
組織内で幾度となく噂に上がる女――シェリー。耳にしたことはあっても、実際に顔を合わせたことはまだ一度もない。
新たな厄介ごとを背負わされた実感に、アブサンは小さく吐息を洩らす。吐き出された息は、呆れにも似た重さを帯びていた。
目を細め、視線を前に戻す。
やがて、気怠げに、だが確かに言葉を落とした。
「お前、それ……厄介払いで俺に任せようとしていないか」
わざと気怠げに返した一言に、ジンは鼻を鳴らした。
口端がゆっくりと吊り上がり、不敵な笑みが紫煙の向こうに浮かぶ。光を孕んだ双眸が鋭く細められ、その視線は確かにアブサンを射抜いていた。
だがその奥に、刃の冷たさだけではないものが一瞬だけ覗いた。
それは曖昧な感情で、掴む前に紫煙に紛れて消えていく。
「俺には面倒事に構ってる暇がねぇ……抱え込むのは昔からお前の役回りだった。今回も、その延長だ」
その言葉に、アブサンの眉が僅かに寄った。
紫煙を吐き出す仕草は変わらぬ気怠さを装っていたが、胸の奥にざらつく感覚が広がる。ジンがわざわざ“昔”のことを口に出すたびに、苛立ちにも似た重苦しさが滲んでくる。
「昔の話なんざ、引き合いに出すな……反吐が出る」
言葉を切ると同時に、アブサンは紫煙を鬱陶しげに手で仰いだ。その仕草はただの煙払いに過ぎない――だが、ジンを拒絶する合図にも見えた。
対するジンは、咥えた煙草を揺らしたまま視線を向ける。冷えきった双眸の奥に、ほんの一瞬だけ影のような色が差した。悲しみと呼ぶには曖昧で、苛立ちと断じるには儚い――揺らぎの残像が灰緑の瞳に映った。
思わず、胸の奥がざらりと波立つ。
睨み返すでもなく、拒絶しきるでもなく、ただバツの悪さを覚えたように視線を逸らした。
「だがまあ、お前の命令なら従うさ……借りを返すまではな」
ジンは何も返さなかった。
ただ紫煙を吐き出し、視線を前へと戻す。
その口元が僅かに歪んだ。それが笑みか、苛立ちか、あるいは別の何かなのか――アブサンには判別できない。
照明に照らされた廊下を、二人の足音だけが進んでいく。
無機質な静けさの中、煙の匂いと曖昧な歪みだけが、重く余韻を残していた。
半年後、地下拠点の訓練場。
硬質な白い蛍光照明に照らされた空間は、無駄を削ぎ落とした無機質さに満ちている。
アブサンは壁際に凭れ、煙草を咥えていた。
黒の半袖インナーに収まった胸板と腹は、鍛え上げられた筋肉の起伏をそのまま映し出している。腰から下を覆う黒革のズボンは余計な皺ひとつなく、身体の線を凛と際立たせていた。
吐き出された紫煙が天井へと昇り、冷えた空気の中で揺らめきながら消えていく。指先で灰を落とす仕草は気怠げで、まるでこの場の緊張とは無縁のように見えた。だが灰緑の瞳は、揺らめく煙の隙間から、真正面に歩み寄る二人を確かに映し取っていた。
訓練場の床を叩く足音が近付いてくる。
アブサンは肩を僅かに揺らし、煙草を咥え直す。
「アブサン、今少し時間ありますか?」
最初に口を開いたのはバーボンだった。普段と変わらぬ声色ながらも、そこには緊張の色が滲んでいた。足取りが一歩、二歩と進むたびに、訓練場の空気が張り詰めていくのを感じ取る。
その横に並び歩くライは、眉間に皺を寄せながらも、視線を逸らさない。探るような視線が瞳に乗っている。逡巡の色を隠しきれていない二人は、暗い影を落としながらも若さが残っていた。
その粗さを捉え、僅かに目を細める。
壁際に凭れた姿勢を崩さず、無言のまま次の言葉を待った。
「……僕らと組手、していただけませんか?」
バーボンの言葉に、アブサンは片眉を上げた。
己の力量を測ろうとしているのか、それとも上司の力量を確かめたいのか。どちらにせよ、教えを請う素振りを見せなかった二人がその言葉を口にする――その変化に、意外さが胸を掠めた。
吐息に煙を混ぜてから、静かに言葉を落とす。
「……構わないが、加減はあまり期待するなよ」
微かに柔らかさの乗った声音。その声に二人は目を見開く。断ると思っていた、とでも言うような反応だった。
アブサンは咥えていた煙草を壁際の灰皿に押し潰し、ゆっくりと中央へ歩み出る。黒灰色のマットが敷かれたそこは、本来なら投げ技や打撃の衝撃を和らげるための場のはずだった。だが今は、張り詰めた緊張をそのまま硬質に跳ね返してくるように思えた。
アブサンが足を止めると同時に、二人もまた間合いを取るように散開する。緊張が床に染み、静寂は殺気へと変わっていった。
二人の呼吸が同調する。
最初に踏み込んだのはライだった。ジークンドー特有の直線的な突きが、空気を裂いてアブサンの顔面を狙う。
その影に重なるように、バーボンが横から切り込んだ。
ボクシング仕込みのフットワークで角度を変え、鳩尾を狙った右ストレートを繰り出す。
二人の動きは打ち合わせたわけではない。だが互いの呼吸が絡み合い、自然と交互に仕掛ける形になっていた。連携のようでいて、重なれば即座に互いの動きを殺しかねない攻め――新人ゆえの粗さを孕みながらも、その一瞬の圧力は確かに迫力を帯びていた。
アブサンは灰緑色の瞳を滑らせながら、僅かに首を傾ける。頬を掠める拳が空を切り、その直後に迫ったバーボンのストレートを掌で軽く受け流す。身を預けるように後方へ滑って距離を取る。
拳と脚が何度も交錯する。
ライの鋭い突きと蹴り、バーボンの重い打撃。だがアブサンの身体は水のように揺れ、時には宙を滑るようにして躱す。床を蹴る音は確かに響いているのに、攻撃は一度も当たることはなかった。
考えるよりも先に身体が動く。
それが何故なのか、アブサンにも分からなかった。
次に動いたのはライだった。特有の素早い前蹴り。アブサンは半歩退くと同時に足首を掴み、そのまま捻る。バランスを奪われたライの身体が揺れた瞬間、逆足で脇腹を蹴り払った。空気が抜けるような呻き声とともに、ライは口元を歪め膝をつく。
その刹那、バーボンが横合いから拳を突き出した。顔面に向けられたその拳を一度受け止め、返すように腕を捻らせる。肩から走った痛みに顔を歪めた瞬間、アブサンは背後に回り込み、その首に腕を絡めていく。角度とほんの少しの力で、頸動脈を塞ぐ。
バーボンが必死に腕を振りほどこうとする。
だがその力強い抵抗も、呼吸を断たれていくうちに徐々に鈍っていく。僅かに足が揺らぎ、膝の力が抜けた。
「二人とも悪くはないが……所詮、それまでだな」
冷淡な声を耳に落とし、すぐに拘束を解いた。バーボンは喉に冷たい空気を詰め込み、咳き込みながら倒れ込む。
アブサンは手を差し伸べなかった。
崩れたままの二人をただ見下ろし、片手をポケットに入れたまま呼吸を整えていく姿を黙って見守る。
やがて、荒い息の合間にライが口を開いた。
汗を滴らせたまま、鋭い視線をこちらに向けてくる。
「……アブサン。一体どこでそんな技術を……」
その眼差しには疲労よりも、探る色が強く宿っていた。
アブサンは目を細める。露骨に問うその視線に、どう返答すべきか思案したのち、ゆっくりと天井を見上げた。
「さあな……覚えていない。最初から備わっていた」
アブサンの口から出た言葉は、事実だった。
だが、その淡々とした返答に、バーボンの眉間が深く寄る。
「……貴方の技術は、正確で容赦がない。何度も試行錯誤しながら身につけないと、その精度にはなりませんよ……」
吐き出す声は掠れていたが、そこには苛立ちが混じっていた。
痛みに歪んだ顔の奥で、なおも真相を引きずり出そうとする執念が揺れている。
アブサンは瞼を伏せ、吐息をひとつ漏らした。
訂正する気はなかった。否定すればするほど、余計な詮索を誘う――その煩わしさをよく知っていた。
訓練場に降りたのは、汗の滴る音と荒い呼吸だけだった。
その沈黙が逆に疑念を濃くしていくのを、アブサンは灰緑の瞳の端で感じ取っていた。
その静寂に堪えきれず、バーボンが声を投げる。
その眼差しは鋭く、探りの色を隠そうともしない。
「一つ気になっていたのですが……組織の力関係で言えば、アブサンはジンと同等かそれ以上――なのに何故、貴方はジンの部下をやっているんです? 従う理由もないのでは?」
バーボンの言葉に、アブサンの眉が僅かに動いた。
胸の奥でざらりとした感触が広がり、口元が歪む。詮索の色を隠そうともしない二人に、小さく吐息を洩らす。
「……訂正しておくが、俺はジンの部下をしていたつもりはない。だが借りがある以上、命令には従う。それだけのことだ」
吐き出された言葉は淡々としていたが、拒絶の棘を含んでいた。
ライは腕を組んだまま目を細め、バーボンは僅かに口角を上げた。その唇から、確信に迫る問いが零れた。
「借り、ですか」
アブサンはしばし無言で二人を見つめた。
訓練場の冷えた空気の中、その瞳は一瞬だけ柔らぐ。
脳裏によぎった記憶。湿った空気を裂く雨と、佇むアマガエル。胸倉を掴む濡れた銀髪の双眸――そのときから記憶は続いている。
誤魔化したところで、調べれば分かることだった。
だからこそ、煙に巻くことはしない。
「……数年ほど前に、ジンに拾われてな」
淡々とした声に誇張はなく、ただ事実を並べる調子。
説明を加えるでもなく、切り捨てるでもない。だがその一言に、誰にも踏み込ませぬ距離の深さが確かにあった。
「組織に入ったのが数年前……? でも記録では……」
バーボンが言葉を続けようとした刹那、鼻を掠めた特徴的な煙草の匂いに、アブサンは視線を鋭く扉の方に向けた。
そこに凭れていたのはジンだった。
薄暗い照明の下、黒いコートの裾が無造作に揺れている。広い肩幅と長身の輪郭は影の中でも鮮やかに浮かび上がり、口端には火の点いた煙草が挟まれていた。紫煙がゆるやかに昇り、硬質な横顔の彫りを淡く霞ませている。
濁りなく冷え切ったその双眸が、アブサンを鋭く射止めていた。
僅かに傾いた顎の角度すらも支配的で、見慣れたはずの姿が、訓練場という閉ざされた空間では、やけに重く映った。
アブサンは前髪を掻き揚げ、気怠げに視線を滑らせる。
「……また今度、空いた時間に見てやる」
そう言葉を落とすと、アブサンは片手をひらつかせて振り返り、壁際に置いていた黒シャツを手に取った。肩に無造作に掛け、灰緑の瞳を伏せ気味にしながら歩みを進める。その仕草は気怠く見えて、周囲を一切寄せ付けない冷ややかさを帯びていた。
扉の前に立つジンは、壁に凭れた姿勢からゆっくりと重心を戻した。煙草を咥えたまま、その鋭い双眸は一瞬だけアブサンを測るように見やる。黒いコートの裾が揺れ、無言のまま扉を押し開いた動作には、他者を従わせる支配的な色が滲んでいた。
後を追うように、無機質な廊下へ足を踏み出す。白々しい照明に照らされた静けさの中、アブサンは隣を歩くジンの横顔を盗み見た。紫煙に霞む硬質な輪郭は、どこか非情さと孤高さを同時に孕んでいる。かえってその影が、輪郭を鮮烈に際立たせていた。
「アブサン。監視は順調か」
ジンの鋭い横目が、真横から突き刺さる。アブサンは僅かに目を細め、吐息を混ぜるように視線を前へと戻した。
「ああ。公安のある筋から潜入捜査官のリストを貰う手筈になっているが……それがどう転ぶか」
彼らを仲間だと信じるには、その潔白を証明する他ない。
監視役としての義務を果たすためにも、潜入捜査官か否かを確認しておく必要がある。その後どう処理するかまで考えておくことが、今の自分に許された唯一の選択肢だった。
返答のあと、ジンは短い沈黙を置き、鼻を鳴らす。
紫煙が一筋、冷たい廊下に溶けていった。本題に入る気配のないジンに、アブサンは僅かに身体を傾け、その鋭い輪郭を覗き込む。
「おい、この話をするためだけに来たわけじゃないだろうな」
訝しむその問いかけに、ジンは目を細めた。
光を孕んだ双眸は濁りなく冷たく、そのまま低く言葉を吐き捨てる。
「……お前に、例の研究所の管理を任せる。特にあの喚く女――シェリーを監視して、必要なら黙らせろ」
その名を耳にして、アブサンの瞳が僅かに揺れた。
組織内で幾度となく噂に上がる女――シェリー。耳にしたことはあっても、実際に顔を合わせたことはまだ一度もない。
新たな厄介ごとを背負わされた実感に、アブサンは小さく吐息を洩らす。吐き出された息は、呆れにも似た重さを帯びていた。
目を細め、視線を前に戻す。
やがて、気怠げに、だが確かに言葉を落とした。
「お前、それ……厄介払いで俺に任せようとしていないか」
わざと気怠げに返した一言に、ジンは鼻を鳴らした。
口端がゆっくりと吊り上がり、不敵な笑みが紫煙の向こうに浮かぶ。光を孕んだ双眸が鋭く細められ、その視線は確かにアブサンを射抜いていた。
だがその奥に、刃の冷たさだけではないものが一瞬だけ覗いた。
それは曖昧な感情で、掴む前に紫煙に紛れて消えていく。
「俺には面倒事に構ってる暇がねぇ……抱え込むのは昔からお前の役回りだった。今回も、その延長だ」
その言葉に、アブサンの眉が僅かに寄った。
紫煙を吐き出す仕草は変わらぬ気怠さを装っていたが、胸の奥にざらつく感覚が広がる。ジンがわざわざ“昔”のことを口に出すたびに、苛立ちにも似た重苦しさが滲んでくる。
「昔の話なんざ、引き合いに出すな……反吐が出る」
言葉を切ると同時に、アブサンは紫煙を鬱陶しげに手で仰いだ。その仕草はただの煙払いに過ぎない――だが、ジンを拒絶する合図にも見えた。
対するジンは、咥えた煙草を揺らしたまま視線を向ける。冷えきった双眸の奥に、ほんの一瞬だけ影のような色が差した。悲しみと呼ぶには曖昧で、苛立ちと断じるには儚い――揺らぎの残像が灰緑の瞳に映った。
思わず、胸の奥がざらりと波立つ。
睨み返すでもなく、拒絶しきるでもなく、ただバツの悪さを覚えたように視線を逸らした。
「だがまあ、お前の命令なら従うさ……借りを返すまではな」
ジンは何も返さなかった。
ただ紫煙を吐き出し、視線を前へと戻す。
その口元が僅かに歪んだ。それが笑みか、苛立ちか、あるいは別の何かなのか――アブサンには判別できない。
照明に照らされた廊下を、二人の足音だけが進んでいく。
無機質な静けさの中、煙の匂いと曖昧な歪みだけが、重く余韻を残していた。