光を抱く者
003 - 冷えた銃口の先に
シャンデリアの光が煌めく、絢爛の波。
華やかな音楽と人々の喧騒が交錯する杯戸シティホテル。各所の著名人さえ顔を出すそのパーティが、バーボンには、どこか外の世界と隔絶された舞台のように感じられた。
その一角のバーに、バーボンは腰を下ろしていた。
燕尾服を身に纏い、金髪を後ろに撫で付けた髪型。背筋は自然に伸ばし、浅く腰掛け、肘を軽くカウンターに置く。無防備にも見せながら、周囲を視界の端で計っていた。
カウンターに滑らせるように置かれた琥珀色の液体。
アルコールの強い匂いが立ち上ったが、唇を湿らせる真似をするだけで口には含まなかった。
「……君、とても退屈そうに見えるが」
声は背後から、滑るように近づいてきた。
バーボンが横目を上げると、標的の男が隣に腰を下ろしていた。整えられた燕尾服の襟、年齢よりも若く見える肌、だがその眼差しには妙な粘り気を帯びた光がある。
「折角のパーティだ。誰かと話さないと、勿体ない」
男の笑みは社交的に見えながら、どこか底知れない。バーボンは口角に僅かな笑みを刻み、視線を軽くグラスに落とした。
「そうですね……もし宜しければ、お相手願えますか?」
会話を交わすうちに、男は自然と距離を詰めてきた。手元のグラスを軽く揺らしながら、楽しげに話題を振ってくる――だがその内容はどれも表層的で、本題を覆い隠すための煙幕に思えた。
バーボンは冷ややかに観察を続ける。
グラスを持つ指の癖、目線の揺らぎ、会話の合間に走る僅かな緊張――笑みを交わす一方で、内心では男の仕草を一つ残らず記録していった。
やがて男は身を傾け、声を潜めた。
「君に良い話があるんだが……」
バーボンの手に汗が滲むことはなかった。
ただ穏やかにグラスを指先で回し、言葉の続きを待った。
男は口角を吊り上げ、周囲を一瞥した。シャンデリアの光が反射するその笑みには、社交辞令にしては過剰な含みがあった。
「君さえ良ければ……場所を変えないか」
バーボンは目元だけで笑みを返した。グラスを軽く揺らしながら感情の揺れは一切見せない。胸の奥に張り詰めた緊張を悟らせまいと、あえて柔らかい調子で返す。
「では、テラスはどうでしょう。欹てる耳もありませんよ」
何気ない誘いに見せかけながら、言葉の端々には探りが込められていた。男の反応を計り、その警戒心の深さを測る――それがバーボンにとって最初の一手だった。
その声に、標的は悩むような仕草を見せる。
わざとらしく目線を伏せ、グラスを傾ける。だが次の瞬間、何かを決断したように目を開き、再び微笑を浮かべて顔を近付けた。
「私の部屋はどうかな。人目もないし、上質な酒もある」
声色は柔らかいが、そこに漂うのは社交的な誘いではなかった。唇の端に刻まれた笑みが、裏に潜む本性を覗かせる。
《危険すぎる……一旦引いた方が……》
無線越しにスコッチの息が微かに乱れる。
ライも同意するように、吐息を洩らした。
バーボンはグラスを持つ指先に力を込めた。
まだ――決定的な裏切りの兆候は見えていない。ここで退けば、ただ腰が引けた新人として組織に見做される。だがこの誘いに乗れば、標的の本音を聞き出せるかもしれない。逆に今背を向ければ、収穫のない初任務として終わり――“無能”の烙印を押されるのは必至だった。
――裏切るより先に、無能が消えていく。
そう告げたアブサンの声音が、まだ耳に残っていた。
選択肢は一つしかない。
バーボンは静かに息を吐き、表情に笑みを浮かべた。
「上質なお酒、ですか……それは魅力的なお誘いですね」
男の顔に満足げな色が浮かぶ。立ち上がるその動作に、バーボンは追従した。足元から背筋にかけて冷たい緊張が這い上がる。だが外面はあくまで、場に馴染む青年のままだった。
男の背を追い、煌びやかな会場の喧騒を離れていく。
シャンデリアの光が遠ざかるにつれ、バーボンの耳には自らの呼吸と、制止する二人のノイズだけが響いていた。
ホテルの廊下は絨毯に足音を吸い込み、外の喧騒とは隔絶された静けさを纏っていた。標的の背中を追いながら歩くバーボンは、胸元に忍ばせた拳銃の重みを意識する。
鍵が回り、重い扉が音もなく開いた。標的は口元に笑みを残したまま、当然のようにバーボンへと先を促す。
足を踏み入れる寸前、胸元に忍ばせた拳銃の存在がやけに重く意識にのしかかった。視線を走らせ、照明の位置や家具の影、遮られた窓を映す。逃げ道はない――その認識が冷たく背筋を撫でた。
躊躇えば、不自然。退けば、臆病。
初陣で腰が引けたと見做されれば、その先はない。
バーボンは笑みを崩さず、静かに一歩を踏み込んだ。
背後で扉が閉じる乾いた音。
空気が僅かに張り詰める。
反射的に振り返った刹那――首筋に冷たい痛みが走った。
鋭い金属の感触。奇襲への理解が追いつく前に、血管を駆け上がる熱が思考を乱した。指先が痺れ、拳銃へ伸ばしたはずの腕が自分のものではないように重く垂れる。膝から力が抜け、壁に背を打ち付けた。呼吸が浅く、肺が思うように膨らまない。
「心配はいらない。ただの痺れ薬だ……半日もすれば動ける」
耳に落ちる声が遠い。
視線だけを必死に走らせ、反撃の一手を探すが、家具も窓も死角も、そのどれもが糸口にはならない。胸の奥で歯噛みする。
――動けない。
膝を折った身体を、標的が逃さず抱え込む。
そのままベッドに放り投げられ、軋む音と共に視界が揺れた。
腕に力を込めようとしても、筋肉は言うことを利かない。指先は震え、銃を抜くどころか布地を掴むことすら叶わない。
覆い被さった男の影が視界を塞ぐ。粘り気を帯びた瞳が間近に迫り、冷えた指が顎へ無遠慮に這った。
「君、あの組織から送られてきた刺客だろう?」
吐息混じりの声。バーボンは応じない。
僅かに逸らした視線が、ベッドに転がる無線を捉える。標的の指先がそれを弄び、次の瞬間、無造作に床へ投げ捨てた。
スコッチもライも、無線越しに息を呑んだまま言葉を失っているのが伝わる。バーボンは心臓を焼くような焦燥を噛み殺し、僅かに肩を動かして脱出の隙を探る――だが、痺れた肢体は鉛のように沈んだままだった。
「……私が裏切ったと、どこで嗅ぎ付けたのやら……」
男は愉悦を帯びた吐息を漏らしながら、頬を掴み上げた。
強引に顔を正面へ向けさせ、唇の端に笑みを刻む。
「良い顔だ。殺す前に……君と遊んでやる」
熱の籠もった吐息が頬を撫で、唇が迫る。
バーボンは視線を逸らし、奥歯を噛み締める。何か手立ては――そう思考を巡らせた刹那。
ベッド脇の影が、音もなく伸びてきた。
標的も、バーボンも、同時に気配を察し、横に顔を向けた。
目に飛び込んできたのは、すぐ目の前に迫る冷たい銃口。
サプレッサー付きの黒い拳銃が、寸分の迷いもなく標的の眉間に突き付けられていた。
「……いつからそこに……」
標的の震え混じりの呟きが落ちるよりも早く、その筒から乾いた破裂音が一度だけ響いた。低く抑えられた音とともに血が舞い、男の体は力を失って横に崩れ落ちる。
思わず息を呑む。バーボンは冷や汗を垂らしながら、動かぬ身体に鞭を打って顔を僅かに傾けさせた。
そこにいたのは、アブサンだった。
――何故ここに。そう考える間もなく、骸に向けられていた銃口が擦れた金属音とともに流れてくる。その先に浮かんでいたのは、背筋が凍り付くような、酷く冷ややかな目だった。
「……焦燥は時として人を駆り立てるものだが……」
アブサンは顔を傾け、僅かに口角を上げた。
「呑まれてしまっては、見えるものも見えなくなる。狭窄した視野では、立場が逆転することも少なくない」
喉が震えた。返そうとした言葉は、痺れた声帯に塞がれ、掠れた息に変わって零れるだけだった。答えようとする意思だけが虚しく胸を焦がし、身体はベッドに縫い付けられたように動かない。
沈黙が落ちた。
頬に伝った冷や汗を、拭うこともできない。鋭い灰緑の視線が突き刺さり、息を呑むほかに術はなかった。
一頻り眺めたあとで、アブサンは鼻を鳴らした。まだ熱の残る拳銃を胸元のホルスターに仕舞い込む。その仕草は淡々としていたが、僅かに力の抜けた指先が――殺意の縁から遠ざかったことを告げていた。
細められた目に、ほんの僅かだが確かな温度が戻る。冷たさの奥に覗くその微かな影が、かえって不気味な安堵を滲ませた。
「命を|擲《なげう》つのは今日限りにしろ。次はない」
低く落とされた声は、淡々としていながらも背筋を凍らせる響きを残した。アブサンは指先を無線に這わせる。
「標的の処理は完了した。バーボンを回収してから、お前らを拾いに行く。スコッチは……先に監視カメラを潰しておけ」
通信を切ると、アブサンは静かにベッドへと歩み寄った。
無言のまま腕を伸ばし、痺れで動けないバーボンの身体を抱き上げる。その動作は研ぎ澄まされた機械のように無駄がなく、容赦のない処刑人の冷たさをまとっていた。
――だが、腕に乗せられた感触は驚くほど安定していた。
割れ物を扱うように慎重な抱き方。意図したのか、ただの習慣なのか、それすら掴めない曖昧さがあった。
冷酷な腕に宿る温もりは、残酷な矛盾となって胸を締め付ける。突き放されているはずなのに、どこか救われている。二つの感覚が同時に流れ込み、バーボンの心を乱した。
後始末を終えて廊下に出ると、絨毯がアブサンの足音を吸い込んでいく。
誰にもすれ違うことはなく、華やかな喧騒から切り離されたその静けさが、かえって胸の内を騒がせる。
終始無言のままの横顔を盗み見ながら、バーボンは唇を噛んだ。
――冷酷なのか、救いを与えているのか。
その矛盾が答えを許さず、痺れに縛られた身体と同じように、問いもまた胸の奥に貼り付いたまま動かなかった。
***
車内に漂うのは、硝煙と酒精の残り香。
幾度もワイパーが雨粒を払うたびに、濡れた街灯の光がガラスに滲んでは消える。エンジンの低い唸りと、タイヤが濡れた舗道を踏み締める音だけが沈黙を埋めていた。
アブサンの操るハンドルは微動だにせず、助手席のバーボンは痺れた身体を抑えるように肩を沈めている。後部座席に座るライとスコッチもまた、口を開こうとはしなかった。それぞれの胸に張り付いた緊張と疑問が、湿った空気の中で重く溶け合っていた。
「……アブサン」
沈黙を裂いたのはスコッチだった。
堪えきれなかったのは怒りではなく、不安の色だった。低く落ちた声音には落ち込みと、その先に待つものへの恐れが滲んでいた。
「組織に不要な存在っていうのは……今日みたいな俺たちの出来を言うんじゃないのか」
バーボンは苦虫を噛み潰したように口元を歪めた。吐き返したい言葉はあったが、喉に絡んで出てこない。沈黙の中で、否応なく自分の胸に突き刺さる問いを、ただ噛み締めるしかなかった。
フロントミラー越しに、アブサンの灰緑の瞳が一瞬だけ後部座席を掠めた。すぐに視線を前に戻したが、その短い一瞥には、スコッチの言葉を咀嚼するような深さがあった。
非難でも慰めでもない。
ただ事実を確認するかのような冷ややかさと、それに重なる微かな思索が、アブサンの沈黙の中に漂っていた。
「言ったはずだがな……後始末くらいはしてやると」
呆れを含んだ声音。だがその響きは、軽い嘲りとも、不思議な安心とも取れる曖昧さを帯びていた。助手席に座るバーボンには、その揺らぎが却って掴みどころのない圧として胸に残った。
「最初から完璧を求めるつもりはない。任務なんざ崩れていい……その先で立つ気があるのなら、失敗の責任は俺が引き取る」
そう言い切ると、アブサンは胸ポケットから煙草を抜き出し火を点けた。
橙の火が一瞬、灰緑の瞳を照らし出す。
冷えた光の奥に、冷酷さが削ぎ落とされた別の何かがちらつき、バーボンの視線は思わずそこに釘付けになった。だが紫煙が流れた瞬間、その色は掻き消えるように溶け、残ったのは説明のつかないざわめきだけだった。
「……責任を背負うのは上司の役目かもしれないが……その烙印はお前に押されることになる。それでも構わないと言うのか」
ライが低く吐き捨てた。声に荒さはなく、そこに宿っていたのは苛立ちではなく、理解しかねる戸惑いだった。組織でそんな言葉を耳にするとは思ってもいなかった――その困惑が濃く滲んでいた。
助手席のバーボンも、無言のまま唇を噛んだ。自分が抱いた違和感を、ライも同じように感じている。組織の人間らしからぬ言葉が、車内の冷えた空気をかえってざわつかせていた。
アブサンは鼻を鳴らした。心配される筋合いはないとでも言うように、冷ややかな響きが車内に落ちる。煙草を咥え直す仕草は気怠げだったが、その灰緑の瞳には鋭い光が宿っていた。
「……任務なんざ、最後に帳尻を合わせれば成功に変わる。俺が手を伸ばせばそれで済む話だ。何も問題はない」
言い放つ声音は氷のように平坦だった。慰めではなく、脅しでもなく、ただ事実を口にしているに過ぎなかった。
吐き出された紫煙がゆらりと車内を漂い、街灯の淡い光に溶けていく。その奥で光る灰緑の瞳は冷ややかだったが、どこか、絶対に見放さないという色も微かに宿しているように見えた。
理屈では否定できるはずのない矛盾。
その曖昧な揺らぎに、バーボンは息を呑む。
「お前らは余計なことを考えず、ただ俺の下で技術を磨けばいい。それが結局、組織にとっての益となる」
低く、しかし揺るぎなく告げられた言葉。
後部座席に座るスコッチが、僅かに身じろぎした。普段は沈黙を貫く彼の横顔に、珍しく逡巡の色が差している。言葉を選ぶように視線を伏せ、それでも抑えきれない疑問が唇から零れた。
「……どうしてそこまで、俺らを気に掛けるんだ?」
その問いには全員の心中に渦巻く困惑が乗せられていた。
アブサンはわずかに口角を歪め、鼻を鳴らした。
嘲りに近い低い音が車内に落ち、紫煙の揺れを震わせる。まるでその問い自体が愚かだと言わんばかりだった。
「勘違いするな。俺が気に掛けているのは組織であって、お前ら個人ではない。その程度の区別はつけておけ」
その一言が落ちると同時に、車内に沈黙が満ちた。
雨を切るワイパーの往復音と、タイヤが濡れた舗道を擦る低音だけが、息苦しいほどの静けさを埋めていく。
誰も次の言葉を探そうとはしなかった。
助手席のバーボンは、横顔の輪郭だけを盗み見る。紫煙に揺れるその姿は冷酷で無機質――だが同時に、なぜか見放されていないという感覚を否応なく抱かせる。理屈では説明できない違和感が胸に沈み、拭いきれない。
外の街灯が滲み、雨音に溶けていった。
シャンデリアの光が煌めく、絢爛の波。
華やかな音楽と人々の喧騒が交錯する杯戸シティホテル。各所の著名人さえ顔を出すそのパーティが、バーボンには、どこか外の世界と隔絶された舞台のように感じられた。
その一角のバーに、バーボンは腰を下ろしていた。
燕尾服を身に纏い、金髪を後ろに撫で付けた髪型。背筋は自然に伸ばし、浅く腰掛け、肘を軽くカウンターに置く。無防備にも見せながら、周囲を視界の端で計っていた。
カウンターに滑らせるように置かれた琥珀色の液体。
アルコールの強い匂いが立ち上ったが、唇を湿らせる真似をするだけで口には含まなかった。
「……君、とても退屈そうに見えるが」
声は背後から、滑るように近づいてきた。
バーボンが横目を上げると、標的の男が隣に腰を下ろしていた。整えられた燕尾服の襟、年齢よりも若く見える肌、だがその眼差しには妙な粘り気を帯びた光がある。
「折角のパーティだ。誰かと話さないと、勿体ない」
男の笑みは社交的に見えながら、どこか底知れない。バーボンは口角に僅かな笑みを刻み、視線を軽くグラスに落とした。
「そうですね……もし宜しければ、お相手願えますか?」
会話を交わすうちに、男は自然と距離を詰めてきた。手元のグラスを軽く揺らしながら、楽しげに話題を振ってくる――だがその内容はどれも表層的で、本題を覆い隠すための煙幕に思えた。
バーボンは冷ややかに観察を続ける。
グラスを持つ指の癖、目線の揺らぎ、会話の合間に走る僅かな緊張――笑みを交わす一方で、内心では男の仕草を一つ残らず記録していった。
やがて男は身を傾け、声を潜めた。
「君に良い話があるんだが……」
バーボンの手に汗が滲むことはなかった。
ただ穏やかにグラスを指先で回し、言葉の続きを待った。
男は口角を吊り上げ、周囲を一瞥した。シャンデリアの光が反射するその笑みには、社交辞令にしては過剰な含みがあった。
「君さえ良ければ……場所を変えないか」
バーボンは目元だけで笑みを返した。グラスを軽く揺らしながら感情の揺れは一切見せない。胸の奥に張り詰めた緊張を悟らせまいと、あえて柔らかい調子で返す。
「では、テラスはどうでしょう。欹てる耳もありませんよ」
何気ない誘いに見せかけながら、言葉の端々には探りが込められていた。男の反応を計り、その警戒心の深さを測る――それがバーボンにとって最初の一手だった。
その声に、標的は悩むような仕草を見せる。
わざとらしく目線を伏せ、グラスを傾ける。だが次の瞬間、何かを決断したように目を開き、再び微笑を浮かべて顔を近付けた。
「私の部屋はどうかな。人目もないし、上質な酒もある」
声色は柔らかいが、そこに漂うのは社交的な誘いではなかった。唇の端に刻まれた笑みが、裏に潜む本性を覗かせる。
《危険すぎる……一旦引いた方が……》
無線越しにスコッチの息が微かに乱れる。
ライも同意するように、吐息を洩らした。
バーボンはグラスを持つ指先に力を込めた。
まだ――決定的な裏切りの兆候は見えていない。ここで退けば、ただ腰が引けた新人として組織に見做される。だがこの誘いに乗れば、標的の本音を聞き出せるかもしれない。逆に今背を向ければ、収穫のない初任務として終わり――“無能”の烙印を押されるのは必至だった。
――裏切るより先に、無能が消えていく。
そう告げたアブサンの声音が、まだ耳に残っていた。
選択肢は一つしかない。
バーボンは静かに息を吐き、表情に笑みを浮かべた。
「上質なお酒、ですか……それは魅力的なお誘いですね」
男の顔に満足げな色が浮かぶ。立ち上がるその動作に、バーボンは追従した。足元から背筋にかけて冷たい緊張が這い上がる。だが外面はあくまで、場に馴染む青年のままだった。
男の背を追い、煌びやかな会場の喧騒を離れていく。
シャンデリアの光が遠ざかるにつれ、バーボンの耳には自らの呼吸と、制止する二人のノイズだけが響いていた。
ホテルの廊下は絨毯に足音を吸い込み、外の喧騒とは隔絶された静けさを纏っていた。標的の背中を追いながら歩くバーボンは、胸元に忍ばせた拳銃の重みを意識する。
鍵が回り、重い扉が音もなく開いた。標的は口元に笑みを残したまま、当然のようにバーボンへと先を促す。
足を踏み入れる寸前、胸元に忍ばせた拳銃の存在がやけに重く意識にのしかかった。視線を走らせ、照明の位置や家具の影、遮られた窓を映す。逃げ道はない――その認識が冷たく背筋を撫でた。
躊躇えば、不自然。退けば、臆病。
初陣で腰が引けたと見做されれば、その先はない。
バーボンは笑みを崩さず、静かに一歩を踏み込んだ。
背後で扉が閉じる乾いた音。
空気が僅かに張り詰める。
反射的に振り返った刹那――首筋に冷たい痛みが走った。
鋭い金属の感触。奇襲への理解が追いつく前に、血管を駆け上がる熱が思考を乱した。指先が痺れ、拳銃へ伸ばしたはずの腕が自分のものではないように重く垂れる。膝から力が抜け、壁に背を打ち付けた。呼吸が浅く、肺が思うように膨らまない。
「心配はいらない。ただの痺れ薬だ……半日もすれば動ける」
耳に落ちる声が遠い。
視線だけを必死に走らせ、反撃の一手を探すが、家具も窓も死角も、そのどれもが糸口にはならない。胸の奥で歯噛みする。
――動けない。
膝を折った身体を、標的が逃さず抱え込む。
そのままベッドに放り投げられ、軋む音と共に視界が揺れた。
腕に力を込めようとしても、筋肉は言うことを利かない。指先は震え、銃を抜くどころか布地を掴むことすら叶わない。
覆い被さった男の影が視界を塞ぐ。粘り気を帯びた瞳が間近に迫り、冷えた指が顎へ無遠慮に這った。
「君、あの組織から送られてきた刺客だろう?」
吐息混じりの声。バーボンは応じない。
僅かに逸らした視線が、ベッドに転がる無線を捉える。標的の指先がそれを弄び、次の瞬間、無造作に床へ投げ捨てた。
スコッチもライも、無線越しに息を呑んだまま言葉を失っているのが伝わる。バーボンは心臓を焼くような焦燥を噛み殺し、僅かに肩を動かして脱出の隙を探る――だが、痺れた肢体は鉛のように沈んだままだった。
「……私が裏切ったと、どこで嗅ぎ付けたのやら……」
男は愉悦を帯びた吐息を漏らしながら、頬を掴み上げた。
強引に顔を正面へ向けさせ、唇の端に笑みを刻む。
「良い顔だ。殺す前に……君と遊んでやる」
熱の籠もった吐息が頬を撫で、唇が迫る。
バーボンは視線を逸らし、奥歯を噛み締める。何か手立ては――そう思考を巡らせた刹那。
ベッド脇の影が、音もなく伸びてきた。
標的も、バーボンも、同時に気配を察し、横に顔を向けた。
目に飛び込んできたのは、すぐ目の前に迫る冷たい銃口。
サプレッサー付きの黒い拳銃が、寸分の迷いもなく標的の眉間に突き付けられていた。
「……いつからそこに……」
標的の震え混じりの呟きが落ちるよりも早く、その筒から乾いた破裂音が一度だけ響いた。低く抑えられた音とともに血が舞い、男の体は力を失って横に崩れ落ちる。
思わず息を呑む。バーボンは冷や汗を垂らしながら、動かぬ身体に鞭を打って顔を僅かに傾けさせた。
そこにいたのは、アブサンだった。
――何故ここに。そう考える間もなく、骸に向けられていた銃口が擦れた金属音とともに流れてくる。その先に浮かんでいたのは、背筋が凍り付くような、酷く冷ややかな目だった。
「……焦燥は時として人を駆り立てるものだが……」
アブサンは顔を傾け、僅かに口角を上げた。
「呑まれてしまっては、見えるものも見えなくなる。狭窄した視野では、立場が逆転することも少なくない」
喉が震えた。返そうとした言葉は、痺れた声帯に塞がれ、掠れた息に変わって零れるだけだった。答えようとする意思だけが虚しく胸を焦がし、身体はベッドに縫い付けられたように動かない。
沈黙が落ちた。
頬に伝った冷や汗を、拭うこともできない。鋭い灰緑の視線が突き刺さり、息を呑むほかに術はなかった。
一頻り眺めたあとで、アブサンは鼻を鳴らした。まだ熱の残る拳銃を胸元のホルスターに仕舞い込む。その仕草は淡々としていたが、僅かに力の抜けた指先が――殺意の縁から遠ざかったことを告げていた。
細められた目に、ほんの僅かだが確かな温度が戻る。冷たさの奥に覗くその微かな影が、かえって不気味な安堵を滲ませた。
「命を|擲《なげう》つのは今日限りにしろ。次はない」
低く落とされた声は、淡々としていながらも背筋を凍らせる響きを残した。アブサンは指先を無線に這わせる。
「標的の処理は完了した。バーボンを回収してから、お前らを拾いに行く。スコッチは……先に監視カメラを潰しておけ」
通信を切ると、アブサンは静かにベッドへと歩み寄った。
無言のまま腕を伸ばし、痺れで動けないバーボンの身体を抱き上げる。その動作は研ぎ澄まされた機械のように無駄がなく、容赦のない処刑人の冷たさをまとっていた。
――だが、腕に乗せられた感触は驚くほど安定していた。
割れ物を扱うように慎重な抱き方。意図したのか、ただの習慣なのか、それすら掴めない曖昧さがあった。
冷酷な腕に宿る温もりは、残酷な矛盾となって胸を締め付ける。突き放されているはずなのに、どこか救われている。二つの感覚が同時に流れ込み、バーボンの心を乱した。
後始末を終えて廊下に出ると、絨毯がアブサンの足音を吸い込んでいく。
誰にもすれ違うことはなく、華やかな喧騒から切り離されたその静けさが、かえって胸の内を騒がせる。
終始無言のままの横顔を盗み見ながら、バーボンは唇を噛んだ。
――冷酷なのか、救いを与えているのか。
その矛盾が答えを許さず、痺れに縛られた身体と同じように、問いもまた胸の奥に貼り付いたまま動かなかった。
***
車内に漂うのは、硝煙と酒精の残り香。
幾度もワイパーが雨粒を払うたびに、濡れた街灯の光がガラスに滲んでは消える。エンジンの低い唸りと、タイヤが濡れた舗道を踏み締める音だけが沈黙を埋めていた。
アブサンの操るハンドルは微動だにせず、助手席のバーボンは痺れた身体を抑えるように肩を沈めている。後部座席に座るライとスコッチもまた、口を開こうとはしなかった。それぞれの胸に張り付いた緊張と疑問が、湿った空気の中で重く溶け合っていた。
「……アブサン」
沈黙を裂いたのはスコッチだった。
堪えきれなかったのは怒りではなく、不安の色だった。低く落ちた声音には落ち込みと、その先に待つものへの恐れが滲んでいた。
「組織に不要な存在っていうのは……今日みたいな俺たちの出来を言うんじゃないのか」
バーボンは苦虫を噛み潰したように口元を歪めた。吐き返したい言葉はあったが、喉に絡んで出てこない。沈黙の中で、否応なく自分の胸に突き刺さる問いを、ただ噛み締めるしかなかった。
フロントミラー越しに、アブサンの灰緑の瞳が一瞬だけ後部座席を掠めた。すぐに視線を前に戻したが、その短い一瞥には、スコッチの言葉を咀嚼するような深さがあった。
非難でも慰めでもない。
ただ事実を確認するかのような冷ややかさと、それに重なる微かな思索が、アブサンの沈黙の中に漂っていた。
「言ったはずだがな……後始末くらいはしてやると」
呆れを含んだ声音。だがその響きは、軽い嘲りとも、不思議な安心とも取れる曖昧さを帯びていた。助手席に座るバーボンには、その揺らぎが却って掴みどころのない圧として胸に残った。
「最初から完璧を求めるつもりはない。任務なんざ崩れていい……その先で立つ気があるのなら、失敗の責任は俺が引き取る」
そう言い切ると、アブサンは胸ポケットから煙草を抜き出し火を点けた。
橙の火が一瞬、灰緑の瞳を照らし出す。
冷えた光の奥に、冷酷さが削ぎ落とされた別の何かがちらつき、バーボンの視線は思わずそこに釘付けになった。だが紫煙が流れた瞬間、その色は掻き消えるように溶け、残ったのは説明のつかないざわめきだけだった。
「……責任を背負うのは上司の役目かもしれないが……その烙印はお前に押されることになる。それでも構わないと言うのか」
ライが低く吐き捨てた。声に荒さはなく、そこに宿っていたのは苛立ちではなく、理解しかねる戸惑いだった。組織でそんな言葉を耳にするとは思ってもいなかった――その困惑が濃く滲んでいた。
助手席のバーボンも、無言のまま唇を噛んだ。自分が抱いた違和感を、ライも同じように感じている。組織の人間らしからぬ言葉が、車内の冷えた空気をかえってざわつかせていた。
アブサンは鼻を鳴らした。心配される筋合いはないとでも言うように、冷ややかな響きが車内に落ちる。煙草を咥え直す仕草は気怠げだったが、その灰緑の瞳には鋭い光が宿っていた。
「……任務なんざ、最後に帳尻を合わせれば成功に変わる。俺が手を伸ばせばそれで済む話だ。何も問題はない」
言い放つ声音は氷のように平坦だった。慰めではなく、脅しでもなく、ただ事実を口にしているに過ぎなかった。
吐き出された紫煙がゆらりと車内を漂い、街灯の淡い光に溶けていく。その奥で光る灰緑の瞳は冷ややかだったが、どこか、絶対に見放さないという色も微かに宿しているように見えた。
理屈では否定できるはずのない矛盾。
その曖昧な揺らぎに、バーボンは息を呑む。
「お前らは余計なことを考えず、ただ俺の下で技術を磨けばいい。それが結局、組織にとっての益となる」
低く、しかし揺るぎなく告げられた言葉。
後部座席に座るスコッチが、僅かに身じろぎした。普段は沈黙を貫く彼の横顔に、珍しく逡巡の色が差している。言葉を選ぶように視線を伏せ、それでも抑えきれない疑問が唇から零れた。
「……どうしてそこまで、俺らを気に掛けるんだ?」
その問いには全員の心中に渦巻く困惑が乗せられていた。
アブサンはわずかに口角を歪め、鼻を鳴らした。
嘲りに近い低い音が車内に落ち、紫煙の揺れを震わせる。まるでその問い自体が愚かだと言わんばかりだった。
「勘違いするな。俺が気に掛けているのは組織であって、お前ら個人ではない。その程度の区別はつけておけ」
その一言が落ちると同時に、車内に沈黙が満ちた。
雨を切るワイパーの往復音と、タイヤが濡れた舗道を擦る低音だけが、息苦しいほどの静けさを埋めていく。
誰も次の言葉を探そうとはしなかった。
助手席のバーボンは、横顔の輪郭だけを盗み見る。紫煙に揺れるその姿は冷酷で無機質――だが同時に、なぜか見放されていないという感覚を否応なく抱かせる。理屈では説明できない違和感が胸に沈み、拭いきれない。
外の街灯が滲み、雨音に溶けていった。