光を抱く者

026 - THE GOLDEN APPLE


 午後十九時前。
 ニューヨークの夕暮れ時、アブサンはブルックリンブリッジを渡っていた。セダンの車体は長年の風雪に耐えてきたような重厚なフォルムだった。モンテヴェルディハイスピード375/4――スイスの伝説的なメーカーが、かつて少数のみ製造した幻の高級セダン。その存在を知る者すら稀なこの車は、アブサンが信頼を寄せる数少ない相棒のひとつだった。

 深緑の塗装は艷やかさを失わず、イタリア製カロッツェリアの手による直線型のボディは、時代の変遷を経ても尚優雅さを保っている。車内に漂うレザーの香り、指先に伝わるハンドルの重み、V8エンジンの低く唸るような鼓動――そのすべてが、現代の車にはない野性味と精緻さを併せ持っていた。そのステアリングを操りながら、アブサンは対岸に広がる街並みを見据える。

 自由の女神像。
 ニューヨーカーに“ミス・リバティ”と呼ばれ親しまれているその姿が、夕焼けに照らされてぼんやりと浮かんでいた。アブサンの目元が僅かに細まる。街の雑音も、ブリッジを吹き抜ける風も、今は遠く感じた。

 ブロードウェイ、ファントム・シアター。
 ベルモットが選んだのは、華やかな観光地のど真ん中だった。

 予定より少し早い。
 このまま向かえば、劇場前の規制を考えても二十分近く時間が余る。早く着いたところで意味はない。ベルモットが時間を違えることもないだろう。

 アブサンはアクセルを僅かに緩めた。
 夕暮れのマンハッタンを、車列が絶え間なく流れていく。タクシーのクラクション。歩道を埋める観光客。信号待ちをするバス。そのすべてが規則を持たない雑音となり、窓越しに流れ去っていった。

 時間を潰す場所など、この街にはない。
 そう思った、その時だった。

 ルームミラーへ一台の車が映り込んだ。
 銀色の車体、流れるような曲線を描くロングノーズ。ジャガーEタイプ。スポーツカーの金字塔とも称されるヴィンテージモデルが、クラシックカーとは思えない鋭い加速で車列を縫い、アブサンの脇を一気に駆け抜けていく。

 灰緑色の瞳が僅かに細められた。
 運転席には、長い茶髪の日系人らしい女。助手席には少年。さらに、小柄な少女の姿も見えた。ただ、それだけだった。何かを知っているわけでもない。見覚えがあったわけでもない。それでも、右足が僅かに沈む。

 モンテヴェルディのV8が低く唸り、深緑の車体が静かに速度を上げた。
 追跡ではない。一定の車間を保ったまま、銀色のジャガーを視界から外さないよう車列をすり抜けていく。理由は、自分でも分からなかった。

 夕暮れの街を二台の車が流れていく。
 ジャガーは軽快だった。低い車高を活かし、車列の僅かな隙間を迷いなく縫っていく。その度にテールランプが人波の向こうへ隠れ、また次の交差点で姿を現した。対するモンテヴェルディは正反対だった。車体は大きく、小回りも利かない。それでも無理に距離を詰めることはしない。速度だけを合わせ、一定の間隔を保ちながら流れへ溶け込んでいく。

 急ぐ理由はなかった。
 ジャガーを見失ったところで困ることもない。
 それでも、アクセルを戻す気にはなれなかった。

 やがてマンハッタン中心部へ入る。ネオンが街を照らし始め、劇場街特有の喧騒が窓越しにも伝わってきた。煌びやかな看板。客引きの声。タクシーのクラクション。夜を待ち切れない人々が歩道を埋め尽くしている。

 銀色のジャガーが速度を落とした。
 アブサンも自然とブレーキへ足を乗せる。

 前方には、一際大きな劇場が姿を現していた。
 巨大なネオンサインが夕闇を裂くように輝いている。

 “THE GOLDEN APPLE”――黄金の林檎。
 ――Where all desires take shape.

 その文字を見上げた瞬間、灰緑色の瞳が静かに細められた。
 ジャガーは劇場前へ滑り込むように停車する。モンテヴェルディも一台分の距離を空け、その後方へ車を寄せた。

 偶然だった。
 ベルモットとの待ち合わせ場所も、またこの劇場だった。

 エンジンを止める。
 低く唸っていたV8が静まり返ると、代わりに劇場前の喧騒が車内へ流れ込んできた。開演を待つ観客の話し声。歩道を行き交う靴音。遠くで鳴るサックスの音色。そのすべてが、ブロードウェイらしい賑わいを作り上げている。

 アブサンは視線を前方へ向けたまま動かなかった。
 銀色のジャガーの運転席が開く。降りてきたのは、先ほど見かけた長い茶髪の日系人の女だった。女はドアを閉めると、一直線にこちらへ向かってきた。歩みに迷いはない。苛立ちを隠そうともせず、足音だけが人混みの喧騒を切り裂くように近付いてくる。灰緑色の瞳は、その様子を黙って見つめていた。

 女はモンテヴェルディの運転席脇で足を止めた。
 車内を覗き込むように身を屈め、そのまま躊躇なく窓ガラスを指の第二関節で叩く。乾いた音が車内へ響いた。

 アブサンはすぐには反応しない。灰緑色の瞳だけをゆっくりと女へ向ける。その表情に動揺はなく、相手を観察するような静けさだけがあった。

「……ちょっと! 開けなさいよ!」

 女が眉を寄せ、先ほどより強く窓を叩いた。
 苛立っているからか、ニューヨークだと言うのに日本語を話している。遅れてやってきた少年の眉間には怪訝そうに皺が刻まれ、少女の方は、まるで舞台裏を覗くような表情で、口元を引き結んでいた。

 アブサンは目を細めると、静かに車から降りた。
 サングラスを取り、ジャケットの胸ポケットに仕舞い込む。

「乱暴に扱うな。用件があるなら、車ではなく俺に言え」

 女は言葉を返さなかった。
 夕暮れの光がサングラスを外したアブサンの輪郭を照らす。濡鴉色の長髪。彫りの深い端正な顔立ち。感情を映さない灰緑色の瞳。その静けさは、街の喧騒だけを不自然に遠ざけてしまうほどだった。

「あなた……」

 女は一度だけ瞬きを繰り返す。
 怒りに染まっていた表情が、呆気に取られたように緩んでいく。

「随分、いい男じゃない」

 思わず漏れた一言に、背後にいた少年の肩が落ちた。
 呆れ混じりの声で「母さん」と呼ぶ声は、やけに耳に残った。

「用件? それはこちらの台詞ですよ……誰だか知りませんが、尾行を隠そうともしないで、オレたちを追って来た。用があるのはあなたの方では?」

 アブサンは少年を見た。
 年の頃は十代半ば。さらりと流れる前髪から見えるのは鋭い眼差し。状況を整理しながら相手を観察する癖がある。言葉を選びながらも、一歩も引く気配はない。物怖じしない姿を見て、アブサンは親指をジャガーへ向けた。

「別に用はない。……ただ、あの英国のお嬢様のレースを上げて運転する女がどんな人間か、純粋に見てみたくなった。それだけだ」
「……あらやだ。気のせいじゃなくって?」

 女は引き攣った笑みを浮かべ、声が一段高くなった。
 視線が泳ぎ、誤魔化すように笑ってみせるものの、その動揺は隠しきれていない。少年は拍子抜けしたのか眉を寄せ、頭を掻く仕草をした。

「……そんな理由で、わざわざここまで?」

 声には呆れが滲んでいた。
 だが、警戒を完全に解いたわけではないらしい。青い瞳は依然としてアブサンを捉えたまま、僅かな表情の変化さえ見逃すまいとしている。

「結果として、ここまで来ただけだ」

 アブサンは淡々と返した。
 こんなことにはなったが、尾行するつもりはなかった。見失えばそれまでだと思っていたし、追いついた先がベルモットとの待ち合わせ場所でなければ、そのまま通り過ぎていただろう。

 少年はその言葉を吟味するように目を細める。
 嘘を見抜こうとしているのか。それとも、どこまでが事実かを量っているのか。年齢に似合わぬ慎重さだった。

「それにしては、ずいぶん長く後ろにいましたけど」
「珍しい運転だったからな」
「珍しいって……」

 少年の視線が、母親へ滑る。女は顔を背けた。
 口元には未だ引き攣った笑みが張り付いている。視線を劇場の看板へ向け、今しがたの話など聞こえなかったとでも言いたげに髪を掻き上げた。

「ほら、新ちゃん。ニューヨークではよくあることよ」
「左のタイヤを浮かせて急カーブを曲がるのが?」
「細かいことを気にしてたら、男の子は大きくなれないわよ」

 少年の眉間へ、さらに深い皺が刻まれた。
 少女は二人のやり取りを見比べ、困ったように小さく笑っている。

 アブサンはその様子を無言で眺めていた。
 張り詰めていた空気が、僅かに緩む。少なくとも、明確な敵意を持って近付いた相手ではないと判断したのだろう。

 だが、少年の目だけは違った。
 アブサンの車。服装。立ち姿。手の位置。視線の動き。会話を続けながら、それらを一つずつ拾っているように見えた。厄介な少年だ。灰緑色の瞳が僅かに細められる。アブサンがそう評価した、そのときだった。

「――有希子。あなた、彼と知り合い?」

 艶を含んだ女の声が、背後から落ちた。
 女の表情が一瞬で明るくなる。振り返った先、人波の向こうから一人の女が歩み寄ってきていた。緩く波打つ金色の髪。洗練されたドレス。唇に浮かぶ、隙のない微笑。シャロン・ヴィンヤード。世界的女優という仮面を被ったベルモットが、ブロードウェイの灯りを背に立っていた。

 アブサンは無意識に腕時計へ視線を落とす。
 待ち合わせまでは、まだ四十分近くある。

 灰緑色の瞳が僅かに険を帯びた。
 ベルモットもまた、ほんの一拍だけ足を止めた。それは周囲の誰にも気付かれないほど短い間だった。次の瞬間には完璧な微笑を取り戻し、有希子と呼ばれた女へ向かって、何事もなかったように歩みを進めている。

「シャロン!」

 有希子は先ほどまでの焦りを忘れたように声を弾ませた。

「劇場前で騒いでいる日本人がいると聞いて来てみたのだけど」
「騒いでなんかないわよ。ちょっとこの人と話してただけ。あなたこそ、彼と知り合いなの?」

 何気ない問いだった。
 ベルモットの青い瞳が、静かにアブサンへ向けられた。笑みは消えていない。声も、表情も変わらない。それでも、その眼差しだけが冷たかった。

 余計なことは言うな。
 言葉にせずとも、そう告げていた。ベルモットが本来、この場で自分と接触する予定ではなかったことは明らかだった。

 数秒にも満たない沈黙。
 やがてベルモットは、アブサンから視線を外した。

「いいえ。知らないわ」

 あまりにも自然な否定だった。声の揺れも、視線の迷いもない。
 初めて見た男を評するように、ベルモットはアブサンの姿を一度だけ眺め、それきり興味を失ったように有希子へ顔を戻した。

 アブサンも何も返さなかった。
 否定も、肯定もしない。
 ベルモットの張った糸へ触れぬよう、ただ静かに視線を外す。

「そうなの?」

 有希子は二人を交互に見比べた。僅かに首を傾げる。納得しきってはいないらしい。だが、深く追及するほどの違和感も持たなかったのだろう。すぐに表情を緩め、アブサンへ向けて小さく肩を竦めた。

「二人とも妙に雰囲気が似てるから、てっきり知り合いかと思ったわ」
「雰囲気?」

 少女が不思議そうに問い返す。
 有希子は顎へ指を当て、二人を見比べながら思案するように目を細めた。

「何ていうのかしら。近寄り難いというか、秘密が多そうというか……」
「褒め言葉には聞こえないわね」

 ベルモットは薄く笑った。
 完璧な微笑だった。
 だが、アブサンにはその口元へ滲んだ僅かな苛立ちが見えていた。

「そんなことないわよ。ミステリアスで素敵って意味」

 有希子は軽やかに答える。
 その隣で、少年が小さく息を吐いた。

「母さんの基準は当てにならねーよ」
「何ですって?」

 有希子が振り返る。
 少年は顔を逸らし、何でもないとでも言うように片手を上げた。だが、その青い瞳だけは一度だけアブサンとベルモットの間を往復した。

 僅かな沈黙。
 先ほどベルモットが否定するまでに生じた、ごく短い間。普通なら気にも留めない程度の空白だった。だが、少年はそれを拾っている。

 アブサンは少年へ視線を向けた。
 目が合う。少年は逸らさなかった。
 探るような眼差しが、アブサンの表情を静かになぞっていく。

 尾行の理由。偶然同じ劇場へ着いたこと。
 シャロン・ヴィンヤードが現れた瞬間に、アブサンが時計を確認したこと。
 その一つ一つを頭の中で並べ直しているようだった。

 厄介なだけではない。危険な少年だ。
 今はまだ、欠けた断片を持っているにすぎない。だが、与え続ければいずれ形へ辿り着く。

 灰緑色の瞳が僅かに冷える。
 その変化を察したのか、ベルモットが一歩前へ出た。

「いつまで劇場の前で立ち話をするつもり?」

 穏やかな声だった。
 だが、話を打ち切る意図は明白だった。

「こんな男放っておいて、早く劇場に行きましょ」
「あ、そうだったわ」

 有希子が手を打つ。
 すぐに少年と少女の肩へ手を添え、劇場へ促した。

「ほら、こんなところで知らない男の人を尋問してる場合じゃないわ」
「尋問って……先に絡みに行ったのは母さんだろ」
「細かいことはいいの! さあ、行くわよ!」

 有希子は少年の背を押す。
 少女は困ったように笑いながら、そのあとへ続いた。数歩進んだところで、少年だけが足を止める。肩越しに振り返り、もう一度アブサンを見た。

 警戒は消えていない。
 それどころか、先ほどよりも深くなっている。

 アブサンは何も言わなかった。
 互いの視線が、人波の向こうで短く交差する。やがて少年は有希子に腕を引かれ、ベルモットとともにネオンの光へ呑まれていった。

 アブサンは胸ポケットからサングラスを取り出し、再び掛けた。
 視界が薄暗く沈む。それでも、劇場へ入る直前にもう一度振り返った少年の青い瞳だけは、妙に鮮明に残っていた。

「……勘が良すぎる。長生きはできんな」

 低く落とした声は、ブロードウェイの喧騒へすぐに呑まれた。

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