光を抱く者
025 - 振り返らない、そのために
夜の街を、黒いセダンが静かに流れていた。
窓の外では街灯が一定の間隔で後方へ流れ去っていく。信号は青のまま続き交差点を渡る人影もない。都心を離れた道路は驚くほど静かで、エンジンの低い振動だけが車内を満たしていた。
アブサンは無言でハンドルを握っていた。
腹部の傷はまだ完全には癒えていない。シートへ深く身体を預けるたび、縫合された傷口が内側から僅かに軋む。任務を重ねることで組織の疑念は逸らせても、傷だけは誤魔化せなかった。
それでも止まらなかった。止まれば考えてしまう。
ブランケットを抱きしめていた少女。震える声。
そして、自ら口にした最後の言葉。
喉の奥で、小さく息が漏れた。
アクセルを踏み込む。速度計の針が静かに上がる。流れる景色だけを見つめながら、アブサンは何も考えないよう努めた。
任務だけをこなす。命令だけを遂行する。
それでいい。それだけで十分なはずだった。
やがて道路が緩やかに右へ曲がる。
アブサンは無意識のままハンドルを切った。住宅街へ入り、細い坂道を上り人気のない脇道を抜ける。信号を一つ超え、さらにもう一つ。そこでようやく灰緑色の瞳が僅かに揺れた。ブレーキを踏もうとした足は動かない。車はそのまま坂道を上り切る。視界が開けた。小高い丘の上に設けられた、小さな駐車スペース。アブサンは、ゆっくりと車を停車させた。
エンジンが止まる。途端に、車内は不気味なほど静まり返った。
低く響いていた振動も消え、聞こえるのはアイドリングの余韻が冷めていく音と、自分の浅い呼吸だけだった。
アブサンはハンドルへ片手を置いたまま動かない。
数秒。いや、それよりも長かったのかもしれない。
灰緑色の瞳がゆっくりと持ち上がる。
フロントガラスの向こう、夜の闇を背負うように研究施設の建物が静かに佇んでいた。白く無機質な外壁。等間隔に並ぶ窓。夜間用の照明だけが冷たい光を落とし、その輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
「……何をしている」
誰へ向けた言葉でもない。
自嘲にも似た呟きは、密閉された車内へ虚しく沈んだ。
もう会わないと、自分で決めた。
あの部屋を出るとき、自分の口で告げたはずだった。それなのに、気付けばここへ来ている。理性は足を止められても、本能までは縛れないらしい。
アブサンはゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏へ浮かぶのは、研究所の灯りではない。
ブランケットを抱き締めながら、自分を見上げていた青緑色の瞳だった。
ジャケットの内ポケットへ手を入れ、煙草を一本取り出した。
唇へ咥え、ライターを鳴らす。乾いた金属音とともに、小さな炎が夜の闇を淡く照らした。先端へ火が移る。ゆっくりと煙を吸い込み、肺に溜め、細く吐き出す。白い煙は開け放った窓から夜風へ流され、研究所の方角へ溶けるように消えていった。煙草の先端だけが、闇の中で小さく赤く灯っている。
アブサンは研究所から目を逸らさなかった。
あの建物の何処かで、シェリーは今日も机へ向かっているのだろう。論文を広げ、試験管を並べ、珈琲を淹れ直すことも忘れたまま、眠気に負けるまで研究を続けている。その姿が、不思議なほど鮮明に思い浮かんだ。
煙をもう一度吐き出す。
胸の奥が僅かに軋んだ。
ライなら救えるかもしれない。あの夜までは、本気でそう思っていた。光の側に立つ人間なら、宮野明美を救い出し、保護し、いずれ妹のもとへ帰すことができる。だから自分は身を引けば良い。それが一番だと信じていた。
だが、その考えは長くは続かなかった。
ライと向き合い。病室で目を覚まし。そして、シェリーの瞳を見た。
誰が救うか、ではない。救える者が、救わなければならない。
たとえ、その先で恨まれることになったとしても。たとえ、一生真実を明かせないとしても。それだけは変えられない。だから距離を置いた。だから拒絶した。彼女には、自分を憎んでもらうしかない。その方がいい。そうでなければ前へ進めなくなる。すべては、宮野明美を生かして外へ送り出すため。その計画へ、シェリーだけは巻き込めない。
長く息を吐く。吐き出された白い煙は夜風へ攫われ、研究施設の灯りを掠めることもなく闇へ溶けていった。アブサンは煙草を口から離す。赤く燃える火種を、しばらく黙って見つめていた。
どちらを選んでも失う。
救えば憎まれる。救わなければ、二度と笑顔を見ることはできない。
選択肢など最初から存在しなかった。
灰緑色の瞳が静かに伏せられる。
「……それでいい」
誰に言い聞かせるでもない。その一言だけを夜へ落とす。
やがて煙草を最後まで吸い切ると、窓の外へ腕を伸ばした。火種を携帯灰皿へ押し当てる。小さく燻る音が鳴り、赤い光がゆっくりと消えていく。
それは、未練へ蓋をするような仕草だった。
アブサンはもう一度だけ研究施設へ視線を向ける。
この場所へ来ることも、今日で終わりだ。次にここを訪れるとき、自分は宮野明美を救い出すために動いている。それ以外の理由は、もう要らない。
静かな決意だけが胸の奥へ沈んでいく。
その時だった。
ポケットの中で、小さく振動が鳴る。一定の間隔で繰り返される電子音が、夜の静寂を裂いた。アブサンはゆっくりと携帯電話を取り出す。液晶へ浮かんでいた名前を見た瞬間、灰緑色の瞳が僅かに細められた。ベルモット。数秒だけ画面を見つめる。そして、静かに通話ボタンを押した。
《……ようやく出たわね。あなたが電話に出ないなんて珍しいじゃない》
甘く掠れた声だった。
軽口のように聞こえる。だが、その奥には僅かな緊張が滲んでいた。
アブサンは答えない。研究施設から視線を外し、フロントガラスの向こうへ広がる夜だけを見つめていた。
《その様子だと、何かあったようね》
アブサンは窓枠へ肘を預けたまま、夜風へ髪を揺らせていた。灰緑色の瞳は研究施設から離れている。だが、その横顔には何一つ感情が浮かばない。
「用件はなんだ」
数秒の沈黙。
ベルモットも、それ以上は踏み込まなかった。互いに必要以上の詮索をしない。それが長年組織で生き残ってきた者同士の距離感だった。
《あなたが取り逃がしたライだけど。居場所が分かったわ》
その名が告げられた瞬間、アブサンの瞳から最後に残っていた迷いが静かに消える。ベルモットの声色が変わった。
《ニューヨークにいるのは間違いない》
車内へ沈黙が落ちた。
研究施設の灯りがフロントガラスへ淡く映り込む。
だが、アブサンはもうそこを見てはいなかった。
「情報源は」
《信用できる筋からよ。私も今、向かってる》
ベルモットは一拍置いて続ける。
《ジンにも伝えたわ。今回は逃がさないつもりでしょうね》
アブサンは静かに瞼を閉じる。
胸の奥で何かが音もなく切り替わる。数秒前まで、この場所に残してきたものを考えていた。だが、その時間は終わった。
「……分かった。すぐに向かう」
《ええ。じゃあ、ニューヨークで待ってるわ》
短い電子音とともに通話が切れる。
静寂が戻る。アブサンは携帯電話をポケットへ戻すと、最後に一度だけ研究施設を見上げた。白い建物は何も知らないまま夜の中へ佇んでいる。
灰緑色の瞳が静かに伏せられた。
キーを捻る。セルモーターが唸り、エンジンへ火が入る。静かな振動が車体を満たし、ヘッドライトが夜道を白く照らした。
セダンはゆっくりと駐車スペースを離れる。研究施設はバックミラーの中で少しずつ小さくなり、やがて夜の闇へ溶けていった。
夜の街を、黒いセダンが静かに流れていた。
窓の外では街灯が一定の間隔で後方へ流れ去っていく。信号は青のまま続き交差点を渡る人影もない。都心を離れた道路は驚くほど静かで、エンジンの低い振動だけが車内を満たしていた。
アブサンは無言でハンドルを握っていた。
腹部の傷はまだ完全には癒えていない。シートへ深く身体を預けるたび、縫合された傷口が内側から僅かに軋む。任務を重ねることで組織の疑念は逸らせても、傷だけは誤魔化せなかった。
それでも止まらなかった。止まれば考えてしまう。
ブランケットを抱きしめていた少女。震える声。
そして、自ら口にした最後の言葉。
喉の奥で、小さく息が漏れた。
アクセルを踏み込む。速度計の針が静かに上がる。流れる景色だけを見つめながら、アブサンは何も考えないよう努めた。
任務だけをこなす。命令だけを遂行する。
それでいい。それだけで十分なはずだった。
やがて道路が緩やかに右へ曲がる。
アブサンは無意識のままハンドルを切った。住宅街へ入り、細い坂道を上り人気のない脇道を抜ける。信号を一つ超え、さらにもう一つ。そこでようやく灰緑色の瞳が僅かに揺れた。ブレーキを踏もうとした足は動かない。車はそのまま坂道を上り切る。視界が開けた。小高い丘の上に設けられた、小さな駐車スペース。アブサンは、ゆっくりと車を停車させた。
エンジンが止まる。途端に、車内は不気味なほど静まり返った。
低く響いていた振動も消え、聞こえるのはアイドリングの余韻が冷めていく音と、自分の浅い呼吸だけだった。
アブサンはハンドルへ片手を置いたまま動かない。
数秒。いや、それよりも長かったのかもしれない。
灰緑色の瞳がゆっくりと持ち上がる。
フロントガラスの向こう、夜の闇を背負うように研究施設の建物が静かに佇んでいた。白く無機質な外壁。等間隔に並ぶ窓。夜間用の照明だけが冷たい光を落とし、その輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
「……何をしている」
誰へ向けた言葉でもない。
自嘲にも似た呟きは、密閉された車内へ虚しく沈んだ。
もう会わないと、自分で決めた。
あの部屋を出るとき、自分の口で告げたはずだった。それなのに、気付けばここへ来ている。理性は足を止められても、本能までは縛れないらしい。
アブサンはゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏へ浮かぶのは、研究所の灯りではない。
ブランケットを抱き締めながら、自分を見上げていた青緑色の瞳だった。
ジャケットの内ポケットへ手を入れ、煙草を一本取り出した。
唇へ咥え、ライターを鳴らす。乾いた金属音とともに、小さな炎が夜の闇を淡く照らした。先端へ火が移る。ゆっくりと煙を吸い込み、肺に溜め、細く吐き出す。白い煙は開け放った窓から夜風へ流され、研究所の方角へ溶けるように消えていった。煙草の先端だけが、闇の中で小さく赤く灯っている。
アブサンは研究所から目を逸らさなかった。
あの建物の何処かで、シェリーは今日も机へ向かっているのだろう。論文を広げ、試験管を並べ、珈琲を淹れ直すことも忘れたまま、眠気に負けるまで研究を続けている。その姿が、不思議なほど鮮明に思い浮かんだ。
煙をもう一度吐き出す。
胸の奥が僅かに軋んだ。
ライなら救えるかもしれない。あの夜までは、本気でそう思っていた。光の側に立つ人間なら、宮野明美を救い出し、保護し、いずれ妹のもとへ帰すことができる。だから自分は身を引けば良い。それが一番だと信じていた。
だが、その考えは長くは続かなかった。
ライと向き合い。病室で目を覚まし。そして、シェリーの瞳を見た。
誰が救うか、ではない。救える者が、救わなければならない。
たとえ、その先で恨まれることになったとしても。たとえ、一生真実を明かせないとしても。それだけは変えられない。だから距離を置いた。だから拒絶した。彼女には、自分を憎んでもらうしかない。その方がいい。そうでなければ前へ進めなくなる。すべては、宮野明美を生かして外へ送り出すため。その計画へ、シェリーだけは巻き込めない。
長く息を吐く。吐き出された白い煙は夜風へ攫われ、研究施設の灯りを掠めることもなく闇へ溶けていった。アブサンは煙草を口から離す。赤く燃える火種を、しばらく黙って見つめていた。
どちらを選んでも失う。
救えば憎まれる。救わなければ、二度と笑顔を見ることはできない。
選択肢など最初から存在しなかった。
灰緑色の瞳が静かに伏せられる。
「……それでいい」
誰に言い聞かせるでもない。その一言だけを夜へ落とす。
やがて煙草を最後まで吸い切ると、窓の外へ腕を伸ばした。火種を携帯灰皿へ押し当てる。小さく燻る音が鳴り、赤い光がゆっくりと消えていく。
それは、未練へ蓋をするような仕草だった。
アブサンはもう一度だけ研究施設へ視線を向ける。
この場所へ来ることも、今日で終わりだ。次にここを訪れるとき、自分は宮野明美を救い出すために動いている。それ以外の理由は、もう要らない。
静かな決意だけが胸の奥へ沈んでいく。
その時だった。
ポケットの中で、小さく振動が鳴る。一定の間隔で繰り返される電子音が、夜の静寂を裂いた。アブサンはゆっくりと携帯電話を取り出す。液晶へ浮かんでいた名前を見た瞬間、灰緑色の瞳が僅かに細められた。ベルモット。数秒だけ画面を見つめる。そして、静かに通話ボタンを押した。
《……ようやく出たわね。あなたが電話に出ないなんて珍しいじゃない》
甘く掠れた声だった。
軽口のように聞こえる。だが、その奥には僅かな緊張が滲んでいた。
アブサンは答えない。研究施設から視線を外し、フロントガラスの向こうへ広がる夜だけを見つめていた。
《その様子だと、何かあったようね》
アブサンは窓枠へ肘を預けたまま、夜風へ髪を揺らせていた。灰緑色の瞳は研究施設から離れている。だが、その横顔には何一つ感情が浮かばない。
「用件はなんだ」
数秒の沈黙。
ベルモットも、それ以上は踏み込まなかった。互いに必要以上の詮索をしない。それが長年組織で生き残ってきた者同士の距離感だった。
《あなたが取り逃がしたライだけど。居場所が分かったわ》
その名が告げられた瞬間、アブサンの瞳から最後に残っていた迷いが静かに消える。ベルモットの声色が変わった。
《ニューヨークにいるのは間違いない》
車内へ沈黙が落ちた。
研究施設の灯りがフロントガラスへ淡く映り込む。
だが、アブサンはもうそこを見てはいなかった。
「情報源は」
《信用できる筋からよ。私も今、向かってる》
ベルモットは一拍置いて続ける。
《ジンにも伝えたわ。今回は逃がさないつもりでしょうね》
アブサンは静かに瞼を閉じる。
胸の奥で何かが音もなく切り替わる。数秒前まで、この場所に残してきたものを考えていた。だが、その時間は終わった。
「……分かった。すぐに向かう」
《ええ。じゃあ、ニューヨークで待ってるわ》
短い電子音とともに通話が切れる。
静寂が戻る。アブサンは携帯電話をポケットへ戻すと、最後に一度だけ研究施設を見上げた。白い建物は何も知らないまま夜の中へ佇んでいる。
灰緑色の瞳が静かに伏せられた。
キーを捻る。セルモーターが唸り、エンジンへ火が入る。静かな振動が車体を満たし、ヘッドライトが夜道を白く照らした。
セダンはゆっくりと駐車スペースを離れる。研究施設はバックミラーの中で少しずつ小さくなり、やがて夜の闇へ溶けていった。
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