光を抱く者

023 - 伏せられた真意


 夜は深かった。
 病棟の照明は落とされ、長い廊下には足元を照らす間接灯だけが淡く灯っている。白い壁へ細長い影が伸び、静まり返った空間には空調の低い唸りだけが流れていた。

 規則的に鳴る機械音。遠くのナースステーションから聞こえる紙を捲る音。
 そのどれもが、眠る者のために音量を落とした世界だった。

 病室の扉が、僅かに開く。
 細い隙間から黒い影が滑り出た。

 アブサンは壁へ手を添え、一歩ずつ慎重に体重を移す。腹部へ巻かれた包帯の内側が鈍く疼いた。縫合された傷は歩くだけで内側から引き攣り、熱を持った痛みが腹腔をゆっくりと這い上がる。それでも足は止まらない。

 白い病衣の裾が、僅かに揺れた。
 廊下の角へ視線を送る。見回りの気配はない。
 短く息を吐き、再び歩き出す。

 病棟の最奥。
 非常用の扉を押し開けると、冷えた空気が肌を撫でた。コンクリート打ち放しの階段が地下へ続いている。

 薬品会社。地上から見れば、それだけの施設だ。
 だが地下では違う。何重もの隔壁。幾つもの認証扉。研究設備。
 そして、組織が秘匿する研究区画。

 アブサンは手摺へ手を掛けた。
 一段。また一段。階段を降りるたび、腹部へ鈍い痛みが積み重なる。それでも戻ろうとは思わなかった。

 やがて最後の踊り場へ辿り着く。
 無機質な金属扉の向こうから、電子錠が解除される乾いた音が響いた。

 研究区画。
 消毒液の匂いは病棟と変わらない。だが空気は違う。試薬。薬品。金属。冷えた機械。生命を救うためではなく、解析するための匂いだった。

 深夜ということもあり、人影は少ない。
 白衣姿の研究員が数名、足早に廊下を横切るだけだ。

 誰もアブサンへ声を掛けない。
 掛けられない。組織では、それが当然だった。

 静かな廊下を歩く。歩幅は自然と遅くなる。
 目的地など最初から決まっている。研究区画の一番奥。他の研究員より少しだけ広い個室。宮野志保――そのネームプレートが取り付けられた扉の前で、アブサンの足は止まった。

 静寂だけが流れていた。
 部屋の内側から物音は聞こえない。キーボードを叩く音も、ガラス器具の触れ合う音もない。研究区画では珍しいほどの静けさだった。

 アブサンは扉を見つめたまま動かなかった。
 ここまで来ることは決められた。
 だが、この扉を開く理由だけは最後まで見つからなかった。

 傷の具合を確かめるためか。手術を終えたことを伝えるためか。
 それとも、ただ顔を見たかっただけなのか。考えるほど答えは曖昧になり、胸の奥だけが鈍く重く沈んでいく。

 乾いた息を一つ吐く。右手がゆっくりと持ち上がった。指先が扉へ伸びる。
 ノックをする寸前で、その動きが止まった。この扉を叩けば、シェリーはきっと笑うだろう。安堵したように。何事もなかったように。そして、その笑顔をいずれ、アブサン自身の手で壊さなければならない。

 右手が静かに下りる。
 長く息を吐いた。

 帰るべきか。そう思った、その時だった。
 扉の向こうから、小さく何かが床へ転がるような音がした。金属でもガラスでもない。軽い何かが机から落ちたような、乾いた音。

 アブサンは僅かに眉を寄せる。
 反射的にドアノブへ手を掛けた。金属の冷たさが掌へ伝わる。ゆっくりと横にスライドさせる。鍵は掛かっていなかった。扉は軋み一つ立てず、静かに数センチだけ開く。細い隙間から漏れた明かりが、暗い廊下へ一筋伸びた。

 アブサンは僅かに視線だけを中へ滑らせる。
 部屋の照明は点いたままだった。机いっぱいに広げられた論文。試験管を立てたラック。積み上げられた資料。顕微鏡の傍らではコーヒーカップだけが半分ほど残され、既に冷え切っている。

 その中央。少女は机へ突っ伏したまま眠っていた。
 ウェーブがかった赤茶色の髪が肩からさらりと零れ落ち、小さな肩は規則正しく上下している。片手にはペンが握られたまま。開かれたノートには途中まで数式が並び、その文字は最後だけ乱れて途切れていた。

 眠ろうとして眠ったのではない。
 限界まで机へ向かい、そのまま意識が落ちた。一目で分かる寝姿だった。
 アブサンは言葉もなく、その小さな背中を見つめ続けていた。

 やがて、灰緑の瞳が静かに部屋の中を滑った。
 机の脇。簡素なシングルベッドの上へ、丁寧に畳まれた一枚のブランケットが置かれている。使うつもりだったのだろう。だが、研究を中断する気はなかったらしい。手を伸ばす前に、眠気の方が勝った。

 アブサンは小さく息を吐いた。
 扉を開く。蝶番は音ひとつ立てなかった。
 足音を殺しながら部屋へ踏み入れる。

 床へ落ちていたのは一本のペンだった。
 先ほど聞こえた音は、眠りへ落ちた拍子に机の上から零れたものだったのだろう。屈もうとして、腹部へ鈍い痛みが走る。眉間へ僅かに皺が寄る。それでも動きは止めなかった。ペンを拾い上げ、机の端へ静かに戻す。

 それからベッドへ歩み寄り、畳まれたブランケットを両手で持ち上げた。
 柔らかな布地が、静かな音を立てて広がる。アブサンは志保の背後へ回るとその小さな肩へゆっくりと掛けた。眠りは浅いはずだ。少しでも乱暴に動けば目を覚ます。それでも起こさぬよう、布地の端を肩へ沿わせる。

 赤茶色の髪が僅かに揺れ、小さな身体が微かに身じろぎした。
 だが、それだけだった。規則正しい寝息は途切れない。

 アブサンは暫く、その寝顔を見つめていた。
 無防備だった。研究所で見せる冷静な表情も、年齢以上に大人びた眼差しもない。そこにいるのは、疲れ果てて机で眠ってしまった、一人の少女だった。

 踵を返してドアノブに手を掛ける。
 そのときだった。

「……女の寝顔を盗み見るなんて、良い趣味してるじゃない」

 背中越しに落ちた声は、まだ眠気を引き摺っていた。
 掠れている。だが、その皮肉だけは妙にはっきりしていた。

 アブサンの肩が、ほんの僅かに止まる。
 振り返る。シェリーは机へ頬を預けたまま、半分だけ瞼を開いていた。寝癖のついた前髪が青緑色の瞳へ掛かり、まだ焦点も定まり切っていない。それでも口元だけが、意地悪そうに僅かに持ち上がっている。

「……起きていたのか」
「ええ、残念ながら。貴方、思ったより音立てるのね」

 シェリーは小さく肩を竦めた。
 その拍子に掛けられたブランケットが僅かに滑り落ちる。彼女は苦笑するように息を漏らすと、ブランケットへ鼻先を埋めるように抱き寄せた。

「もっと器用に忍び込める人だと思ってたんだけど」

 眠気の残る声には棘よりも可笑しさが混じっていた。
 ゆっくりと椅子から身体を起こす。長時間同じ姿勢で眠っていたせいか、小さく肩を回し、首を傾ける。赤茶色の髪がさらりと肩を滑り落ちた。

 そのまま立ち上がると、ブランケットを身体へ巻き付けるように抱え、数歩だけ歩く。簡素なシングルベッドの端へ腰を下ろした。スプリングが小さく軋み、身体が僅かに沈む。ブランケットの端を指先で整えながら、シェリーは膝を軽く抱えるように座り直した。

 眠気はまだ完全には抜け切っていない。
 それでも青緑色の瞳だけは、真っ直ぐアブサンを捉えていた。

「……撃たれたんでしょ。傷、平気なの?」

 部屋に静寂が落ちる。
 アブサンはすぐには答えなかった。白い病衣の裾へ視線を落とす。腹部へ巻かれた包帯は服の下に隠れている。それでも歩くたびに傷は熱を持って疼き、呼吸の浅い乱れだけは隠し切れていなかった。

「問題ない」
「……そう」

 納得したような返事だった。
 だが、その青緑色の瞳だけは納得していなかった。

 数秒の沈黙。
 やがて彼女は静かに口を開く。

「ねぇ、アブサン」
「……何だ」
「数日前。お姉ちゃんに会った日から、貴方おかしいわよ」

 部屋の空気が、僅かに止まった。
 アブサンは答えない。
 シェリーは視線を逸らさないまま続ける。

「前はもっと簡単だった。何を考えてるか分からない人ではあったけど……迷ってはいなかった。でも今は違う」

 静かな声だった。
 青緑色の瞳が真っ直ぐ灰緑の瞳を射抜く。

「諸星大の名前を出してからよ。貴方、別のことを考えてた。私は貴方が何を隠してるのか知らない。……でも、隠してることだけは分かる」

 部屋から音が消えた。
 空調だけが低く唸り、蛍光灯の白い光が二人の間へ冷たく落ちている。

 アブサンは答えなかった。
 灰緑の瞳が僅かに伏せられる。視線はシェリーではなく、床へ細く伸びる影を捉えていた。否定する言葉はいくらでも思い浮かぶ。偶然だ。考えすぎだ。気のせいだ。だが、そのどれもが酷く薄っぺらく思えた。

 シェリーは黙って待っていた。
 急かさない。問い詰めもしない。ただ、返事だけを待っている。その静けさが、銃口を向けられるよりも息苦しかった。

「何があったかは聞かない。でも、一人で抱え込む必要ないんじゃない?」

 その一言は、責めるためのものではなかった。
 問い詰める響きも、真実を暴こうとする鋭さもない。ただ心配だった。それだけが、静かな声の奥に滲んでいた。

 アブサンはゆっくりと瞼を閉じる。
 腹部の傷が鈍く脈を打つ。その痛みよりも、胸の奥へ落ちたシェリーの言葉の方が重かった。一人で抱え込む必要はない。簡単な言葉だった。

 だが、言えるはずもなかった。
 近い未来、宮野明美は死ぬ。それが誰の手であろうと、その結末だけはもう変わらない。シェリーに伝えたところで、絶望を早めるだけだ。

 何も知らないまま差し伸べられた言葉が、酷く温かい。
 受け取ってはいけない温もり。受け取れば、もっと深く傷付ける。

 灰緑の瞳がゆっくりと開く。
 視線の先では、シェリーが膝を抱えたまま静かにこちらを見つめていた。
 答えを急かすことも、疑うこともない。ただ、手を差し伸べるような眼差しだけが、そこにあった。

 喉が、小さく鳴る。
 何かを返そうとして、言葉は最後まで形にならなかった。

 ありがとう。心配するな。
 そんな何気ない一言さえ、今の自分には口にする資格がないように思えた。

「……お前には関係のないことだ」

 掠れた声だった。
 冷たく突き放したつもりだった。だが、その声音には棘よりも疲労の方が濃く滲んでいた。シェリーは僅かに眉を寄せる。

「それを決めるのは私よ。違う?」
「違う」

 今度は遮るように繰り返した。
 それ以上話を続けさせまいとするような、短く硬い声音だった。

 部屋の空気が冷える。
 アブサンは視線を合わせない。合わせれば、揺らぐ。そのことだけは、自分でも嫌というほど分かっていた。

 白い病衣の袖口を握る指先へ、知らず力が入る。
 腹部の傷が軋む。それでも、その痛みの方がまだ耐えられた。

 シェリーは俯かなかった。
 青緑色の瞳は揺れていた。だが、その揺らぎは迷いではない。言葉を選ぼうとする静かな逡巡だった。

「……私、貴方に何かを話せなんて言ってない」

 小さな声だった。
 ブランケットの端を握る指先へ、僅かに力が入る。

「言えないなら、それでいい。でも、苦しそうにしてる人を見て、何も聞かずに放っておけるほど……私は器用じゃないのよ」

 その言葉に、アブサンの指先が微かに震えた。
 胸の奥へ、静かに何かが沈んでいく。何も知らない。それでも心配してくれる。だからこそ、これ以上近付けてはいけなかった。

 灰緑の瞳がゆっくりと閉じられる。
 長い吐息が、静かな病室へ落ちた。

「……面倒な女だ」
「何よ、それ」

 シェリーの問いに、アブサンは答えなかった。
 僅かに伏せていた瞼を開き、灰緑の瞳が静かに彼女から離れる。

 部屋の隅に積まれた論文。試薬棚。机へ置かれた顕微鏡。
 どれも見ているようで、何一つ視界へ入ってはいなかった。

 やがて踵を返す。病衣の裾が小さく揺れ、靴底が床を擦る乾いた音だけが静かな研究室へ落ちた。一歩。また一歩。歩みは遅い。腹部の傷が歩くたび鈍く疼き、その度に呼吸が浅く乱れる。それでも振り返ることはなかった。

 背中へ注がれる視線だけを感じながら、扉の前まで辿り着く。
 右手がゆっくりと持ち上がる。細長い指先が、冷え切った金属製のドアノブへ触れた。その冷たさが掌へ伝わる。

 僅かに首を傾け、シェリーを見る。
 その目には、貼り付けたような冷めた色を乗せた。

「ここへはもう来ない。姉と会わせるのも終いだ」

 その言葉は、あまりにも唐突だった。
 シェリーは瞬きを一つ返す。青緑色の瞳が僅かに揺れ、意味を理解しようとするようにアブサンを見つめる。

「……え」

 掠れた声が零れた。
 ブランケットを抱く腕が、小さく強張る。

「どういう、意味?」

 問い掛けは静かだった。責める響きはない。ただ、聞き間違いであってほしいという願いだけが滲んでいる。

 アブサンは振り返らなかった。
 ドアノブへ掛けた手へ僅かに力を込める。冷えた金属の感触だけが、妙にはっきりと掌へ伝わっていた。

「言葉通りだ」

 その一言だけで十分だった。
 部屋の空気が音もなく凍り付く。
 シェリーは唇を開きかける。何かを言おうとして、言葉にならない。

 数秒の沈黙。
 やがて、震えるような小さな声が落ちた。

「……私、何かした?」

 その問いに、アブサンの指先が微かに止まる。
 違う。そう答えるだけなら簡単だった。
 だが、その一言さえ許されない。否定すれば希望を残す。希望は期待になる。期待はいずれ、もっと大きな絶望へ変わる。だから肯定する。

「……そう思うのなら、そのままでいい」

 吐き捨てるような声音だった。
 自分でも分かる。こんな言葉は本心ではない。
 それでも、本心を口にする方が残酷だった。

 ドアノブが静かに横へスライドさせる。
 金属が擦れる乾いた音だけが、静まり返った部屋へ小さく響いた。

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