光を抱く者

022 - 涙の証明


 白い天井が、視界のすべてを占めていた。継ぎ目のない無機質な板材。中央には細長い蛍光灯が埋め込まれ、淡く冷たい光を絶え間なく落としている。光は眩しいはずなのに、目を細めようという気にはならなかった。

 アブサンは瞬きもせず、ただそれを見つめていた。
 鼻腔に残る消毒液の臭い。耳元では、一定の間隔で機械音が鳴っている。規則正しく、感情を欠いた電子音。それだけが、まだ己の心臓が動いていることを執拗に知らせ続けていた。

 腹部には鈍い熱が沈んでいる。鋭い痛みではない。麻酔と鎮痛剤に押し潰され、重い異物感だけが身体の奥に残っていた。呼吸を深くすれば、そのたびに縫合された傷が内側から引き攣る。だが、それすら酷く遠い。手術を受けたことも。銃弾が腹を貫いたことも。ジンに回収され、この病室へ運び込まれたことも。すべてが、自分以外の誰かに起きた出来事のようだった。

 湿度のない空調が、絶え間なく微風を送り込む音が響く。
 そこに混じるのは僅かな消毒薬と金属、そして血の匂いだけだった。

 時間だけが流れている。
 アブサンは何も考えようとしなかった。考えれば、また同じ問いへ戻る。

 なぜ、あそこまでしたのか。
 ライが鼠だと確かめるため。組織へ報告するため。任務を潰すため。宮野明美を処理対象へ移すため。理由ならいくらでも並べられる。だが、そのどれもが腹に開いた穴の代価としては釣り合わない。

 ライを生かす必要が、己にあったのか。
 宮野明美を救う義務が、己にあったのか。

 その先でシェリーが壊れるとしても、それは本来、アブサンが背負うべき痛みではない。組織の人間である以上、命令に従えばいい。疑わしき者を排し、痕跡を消し、次の任務へ進む。それだけで済む。

 それなのに手を伸ばした。
 伸ばした先で撃たれた。
 挙句、ジンに拾われ、再び闇の底へ引き戻された。

 ――此処がテメェの居場所だからだ。
 低い声音が、耳の奥に蘇る。アブサンはゆっくりと瞼を閉じた。長い睫毛の下へ、白い天井の光が沈んでいく。

 居場所。その言葉に安堵を覚えなかったわけではない。
 だが同時に、それは逃れようのない現実でもあった。己の居場所はここだ。血と硝煙と、裏切りに満ちた闇の中。光の側へ立つことはできない。そこにいる者へ手を伸ばしても、同じ場所へ並ぶことは許されない。

 なら、何のために。
 何のために、自分は他人の命へ執着している。

 喉の奥で乾いた息が鳴った。
 理由を探すことさえ、酷く億劫だった。
 このまま目を閉じていればいい。傷が癒えれば、また任務へ戻る。組織の命令に従い、痕跡を消し、必要な人間を殺す。

 それだけだ。それ以上のものを抱えようとするから、苦しくなる。
 誰かの痛みなど、知らなければいい。誰かの涙など、見なければいい。

 静かな病室に、扉の開く音が響いた。
 アブサンは目を開かなかった。白衣の擦れる微かな音。金属製のトレーが置かれる乾いた響き。紙を捲る音が耳に入り、やがて足音がベッド脇で止まる。

「……起きてますよね」

 若い男の声だった。聞き覚えはない。ジンでも、ベルモットでもない。組織の幹部が使う抑制された声音とも違う。

 アブサンは返事をしなかった。
 だが、医者は気にした様子もなく、ベッド脇の端末へ視線を落としたようだった。機械を操作する小さな音が続く。

「血圧はまだ低めですけど、昨日よりは安定しています。傷も今のところ問題ありません」

 淡々とした説明。
 それでも声には、医者特有の無機質さが薄かった。まだ若いのだろう。言葉を整え切れない、僅かな人間味が残っていた。

「ただ、しばらく安静にしてください。無理に動けば傷が開きます」
「……退院は」

 掠れた声が、自然と喉から落ちた。
 医者は僅かに息を詰めた。患者が話すとは思っていなかったらしい。

「早くても一週間後です」
「長いな」
「腹を撃たれた人が翌日に帰れるほど、人体は便利にできてません」

 思いのほか刺のある返答だった。
 アブサンはゆっくりと瞼を持ち上げる。視界の端に映ったのは、二十代半ばほどの若い男だった。黒髪を短く整え、鼻梁には細い銀縁の眼鏡。白衣の胸元には、組織の息が掛かった病院の名札が下がっている。

 だが、その顔に怯えはなかった。緊張はしている。指先がカルテの端を必要以上に強く押さえているのが見える。アブサンが何者なのか、詳しくは知らずとも、普通の患者ではないと察しているのだろう。

「随分と口が利ける医者だな」
「患者が言うことを聞かないので」

 若い医者は視線を逸らさなかった。
 その返答に、アブサンは僅かに片眉を上げる。

 ほんの数秒、沈黙が落ちた。
 医者はアブサンの顔を見たあと、何かを迷うように口を閉じた。カルテへ視線を落とし、指先で紙の角を整える。

「……何だ」
 アブサンが促すと、若い医者の肩が僅かに強張った。

「いえ」
「言いたいことがある顔をしている」

 冷えた声が病室へ落ちる。
 脅したつもりはなかったが、医者の喉が小さく鳴った。それでも逃げなかった。数秒の逡巡ののち、白衣のポケットへ片手を入れ、短く息を吐く。

「僕みたいな末端には、あなたがどんな仕事をしているのか分かりません。誰を相手にして、何を背負ってるのかも知りません。知りたいとも思わない」

 真っ直ぐな言葉だった。
 正義を振り翳す色はない。理解したふりも、善人ぶった憐れみもなかった。
 ただ、知らないという事実を、そのまま差し出している。

「なら、黙っていろ」
「そうしたいんですけど」

 若い医者は困ったように眉を下げた。
 それでも、視線だけは外さなかった。

「志保ちゃんが、泣いていたので」

 病室の空気が止まった。
 アブサンの指先が、シーツの上で僅かに動く。
 医者の声は静かだった。

「あなたが運ばれてきた夜、ずっと病室の前にいました。何度帰るように言っても聞かなくて。手術が終わるまで、廊下の椅子に座ってました」

 アブサンは何も返さなかった。
 脳裏に浮かんだのは、花のように笑う少女の顔だった。

 冷たい地下研究所。無機質な白衣。その胸元で揺れた金色のイチョウ。
 誕生日くらい、年相応でいても誰も何も言わん。そう告げたとき、青い瞳に灯った光。その光が、泣いていた。

「……あいつは、もう帰ったのか」
 問いは、思った以上に掠れていた。

 若い医者は一度だけ瞬きを返した。
 答えを選ぶように僅かに視線を伏せ、カルテを抱える指先へ力を込める。

「帰ったというより……帰されたという方が正しいですね。銀髪の男が来て、連れていかれました。あの子は随分と抵抗していましたけど……」

 医者はそこで口を閉ざした。脳裏に浮かんだ光景を言葉へ落とすことを躊躇うように、唇を一度引き結ぶ。

「最後は、ほとんど追い出されるような形でした」
「……ジンか」

 低く落とされた名に、医者の肩が僅かに強張った。
 だが、肯定も否定もしない。それが組織に属する者として許された限界なのだろう。アブサンは瞼を伏せた。

 ジンなら、そうする。
 手術室の前にシェリーを残しておく理由はない。研究を滞らせることも、周囲に余計な感情を悟らせることも許さない。ましてや、幹部一人の生死に少女が取り乱している姿など、長く晒しておくはずもなかった。

 合理的な判断だった。
 それでも、胸の奥に鈍いざらつきが残る。

「それでも、帰る直前まで此処にいました」
 若い医者の声が、静かな病室へ落ちた。

「何度も病室の扉を見ていました。中に入れる状態じゃないと説明しても、少しだけでいいから顔を見せてほしいと」

 アブサンは何も返さなかった。
 白いシーツの上で、指先だけが僅かに曲がる。縫合された腹部が呼吸に合わせて鈍く軋み、その痛みとは異なる何かが胸の奥へ沈んでいく。

「一度だけ中へ入れました。眠っているあなたの手を握っていました。声を掛けるでもなく、泣き止もうとするでもなく……ただ、ずっと」

 灰緑の瞳が、ゆっくりと細められた。
 脳裏に浮かんだのは、買い物の帰りに胸元のネックレスを押さえていた細い指。コートの裾を掴み、離そうとしなかった手。姉と会えると知った瞬間、無邪気にこちらを引いた白い指先。その手が、意識のない己へ縋っていた。

 アブサンの喉が、小さく鳴った。

「僕には、あなたが何者なのか分かりません。この病棟が普通の病棟じゃないことも、あなたが普通の患者じゃないことも分かっています。でも、その先は知りません。知らない方がいいこともあるでしょうし」

 言葉は慎重だった。
 踏み込みすぎぬよう距離を測りながら、それでも目を逸らさない。

「ただ……あの子が、あなたのことを大事に思っているのは分かります。そして、あなたもあの子を気に掛けている」
「……何を根拠に」

 低い声には、僅かな棘が混じった。
 医者は困ったように眉を下げる。それでも後退はしなかった。

「目を覚まして最初に、あの子が帰ったか訊いたからです」

 病室に沈黙が落ちた。機械音が一定の間隔で鳴り続ける。
 あまりに規則正しく、逃げ道を塞ぐような音だった。アブサンは視線を天井へ戻した。白く、何も映さない面が視界を埋める。

 言い返す言葉は幾つもあった。
 監視対象の所在を確認しただけだ。研究の進捗に支障がないか知る必要があった。組織の管理者として当然の確認に過ぎない。どれも嘘ではない。

 だが、口に出す気にはなれなかった。

「僕みたいな末端には、あなたのしていることは分かりません。それでも、見ている人はいます。説明されなくても、何かを受け取っている人はいる」

 アブサンの灰緑の瞳が僅かに揺れた。

 詳細を明かす必要はない。
 何を考え、何を恐れ、何を背負っているのか。そのすべてを共有する必要などない。行動だけを示す。結果だけを残す。信じるかどうかは、相手に委ねる。それが最も誠実な方法だと、そう思っていた。

 だが、その結果としてシェリーは己を信じた。
 信じて、泣いた。

 アブサンはゆっくりと息を吐く。
 腹部の傷が内側から引き攣り、眉間に一瞬だけ皺が寄った。

「……余計なことを言いました」

 医者は視線を端末へ戻した。
 逃げるような仕草ではなかった。ただ、これ以上踏み込む資格はないと、自ら線を引いたように見えた。

「傷はまだ塞がり切っていません。今日は安静にしてください」
「待て」

 扉へ向かいかけた足が止まる。
 医者は振り返った。銀縁眼鏡の奥で、若い瞳が僅かに見開かれている。

 アブサンは暫く口を開かなかった。何を告げるべきか迷うように、天井から視線を外さないまま、乾いた唇を僅かに動かす。

「……礼を言う」

 掠れた声音だった。
 医者は一瞬、言葉を失ったように瞬きを繰り返した。
 やがて、ほんの僅かに口元を緩める。

「……礼は要りません。それよりも、言うことを聞いてください。次に傷が開いたら、僕が上に怒られます」
「善処する」
「信用できませんね」

 刺のある返答を残し、医者は扉へ向かった。
 白衣の裾が小さく揺れ、金属製の取手が乾いた音を立てる。

 扉が閉じられると、病室には再び静寂が戻った。
 機械音。空調の低い唸り。僅かに残る消毒液の匂い。

 アブサンは白い天井を見つめたまま、暫く動かなかった。

 己が生きていることを喜ぶ者がいる。
 己を失うことを恐れる者がいる。

 それは本来なら、救いと呼べるものなのだろう。だが今のアブサンには、首へ掛けられた細い鎖のようにも思えた。無理に引けば相手を傷つけ、緩めればさらに深く絡みつく。断ち切ることさえ、既に容易ではない。

 宮野明美を処理する未来は、ほとんど確定している。
 組織へ鼠を引き入れた女。
 ライがFBIであると露見した以上、彼女が見逃される可能性はない。

 自分が手を下すか。ジンが手を下すか。別の誰かが命令を受けるか。
 違いは、その程度だった。

 そして、姉を失えばシェリーは確実に壊れるだろう。
 アブサンがその死に関わったと知れば、今向けられている信頼は憎悪へと変わる。いや、変わらなければならない。シェリーが己に縋ったままではその先に待つのはさらなる喪失だけだ。ならば、今のうちに遠ざけるべきだった。信頼が深く根を張る前に。手を伸ばされても、届かぬ距離へ退くべきだった。

 それが彼女のためだと、理屈では分かる。
 だが、先ほどの医者の言葉が耳の奥に残っている。

 ――見ている人はいます。
 アブサンは瞼を僅かに伏せた。

 離れることが、向き合うことになるのか。喪失を植え付けず、憎ませることが守ることになるのか。何も告げず、勝手に結末を決めることが、本当に相手の自由を守る行為なのか。答えは出なかった。ただ一つ分かるのは、シェリーの涙を知らなかった頃には、もう戻れないということだけだった。

 誰かの涙など、見なければいい。
 そう考えたばかりだった。

 だが、見てしまったのと同じだった。
 声を聞き、事実を知り、その痛みを想像してしまった。
 ならば、もう無関係ではいられない。

 アブサンは片手を持ち上げ、目元を覆った。
 掌の暗がりの奥に、シェリーの青い瞳が浮かぶ。花のように笑った顔。胸元で揺れた金のイチョウ。そして、泣きながら己の手を握っていたという少女。

 喉の奥から、長い吐息が零れた。

「……最後まで、随分と残酷な役回りだな」
 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。

 宮野明美を救う。シェリーを壊さない。ライを逃がす。組織を欺く。
 すべてを成立させる道など、まだ見えてはいない。
 それでも、何もしないまま命令に従って生きていくという選択肢だけは、先ほどまでのように甘くは見えなくなっていた。

 アブサンはゆっくりと掌を下ろす。
 灰緑の瞳には、未だ疲労の影が濃く残っている。決意と呼ぶには弱く、希望と呼ぶには冷え切っていた。ただ、先ほどまで空虚だったその奥に、消えかけた火種のような光が僅かに戻っている。

 シェリーと向き合わなければならない。
 真実を打ち明けるという意味ではない。傍に居続けるという意味でもない。

 彼女がこの先を生きるために、何を残し、何を奪い、何を背負わせるのか――その選択から、目を逸らすことだけはできなかった。たとえ最後に選ぶものが、冷たい拒絶であったとしても。

 アブサンは白い天井を見据えた。
 一定の間隔で鳴る機械音が、再び時間を刻み始める。

 先ほどまで遠く感じていた腹部の痛みが、少しずつ輪郭を取り戻していた。
 生きている。その事実は未だ重く、厄介で、救いとは呼べなかった。それでも今は、終わるわけにはいかなかった。

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